199話「おやすみなさい」
Roseを出ると、夜の空気が火照った頬を冷ました。
樹里はコートの前を合わせる。
丈の長いコートではあるが、チャイナドレスの裾までは隠れない。
歩くたび、深い赤色が足元から覗いた。
「寒くありませんか」
隣を歩く神谷が尋ねる。
『大丈夫です』
「タクシーを呼びます」
『駅まで歩けば十分です』
「その格好で電車に乗るんですか」
樹里が足を止める。
言われて初めて、自分の姿を改めて見下ろした。
上半身はコートで隠れている。
しかし裾から覗く赤い生地と、歩いたときに開くスリットまでは隠せない。
『……タクシーでお願いします』
「はい」
神谷は僅かに笑い、スマートフォンを取り出した。
『何ですか』
「いえ」
『今、笑いましたね』
「笑っていません」
『見えました』
「日高さんが、素直に意見を変えたので」
『状況を考えただけです』
「そういうことにしておきます」
『神谷さん』
「すみません」
謝りながらも、神谷の口元にはまだ僅かな笑みが残っていた。
樹里はそれ以上追及せず、通りへ視線を向ける。
まもなく一台のタクシーが、二人の前へ止まった。
◇
後部座席へ並んで座る。
行き先を伝えたあとは、しばらくどちらも話さなかった。
Roseでは、陽菜の声が絶えず聞こえていた。
美園と佐藤のやり取りがあり、柚希と零が笑い、凛が恥ずかしそうにスカートの裾を押さえていた。
そこから離れた車内は、別の場所のように静かだった。
窓の外を、街の明かりが流れていく。
「楽しかったですね」
先に口を開いたのは、神谷だった。
『そうですね』
「意外です」
『何がですか』
「日高さんが、素直に楽しかったと認めたので」
『楽しくなかったとは、一度も言っていません』
「衣装は、最後まで嫌そうでしたが」
『今でも納得はしていません』
「似合っていました」
神谷が改めて言う。
樹里は窓の外を見たまま、返事をしなかった。
「先ほどは、皆さんの前だったので言えませんでしたが」
『まだ何かあるんですか』
「ありました」
樹里が神谷を見る。
「とても綺麗でした」
『それは、店でも聞きました』
「衣装だけではありません」
樹里の視線が止まる。
神谷は、まっすぐ前を見ていた。
「楽しそうにしている日高さんが、綺麗だと思いました」
すぐには答えられなかった。
樹里は窓へ視線を戻す。
ガラスには、自分の顔が薄く映っていた。
表情はいつもと変わらない。
しかし、耳に残る熱までは誤魔化せなかった。
『……ありがとうございます』
それだけを返す。
神谷も、それ以上は続けなかった。
車内に、再び静かな時間が流れる。
気まずくはなかった。
言葉がなくても、隣にいることを意識してしまう。
そんな沈黙だった。
◇
タクシーは、樹里の住むマンションから少し離れた通りで止まった。
二人は車を降り、残りの道を並んで歩く。
『ここまでで大丈夫です』
「入口まで送ります」
『すぐそこですよ』
「分かっています」
神谷は歩みを止めなかった。
樹里も、それ以上断らなかった。
夜道には、二人分の足音だけが響いている。
やがて、マンションの入口へ着いた。
樹里は神谷へ向き直る。
『今日は、ありがとうございました』
「こちらこそ」
『誘っていただかなければ、行かなかったと思います』
「櫻井さんに頼まれただけではありますが」
『それでも、神谷さんが来てほしいと言ってくれました』
「本心です」
『分かっています』
樹里は短く答えた。
神谷が、僅かに目を見開く。
樹里はその視線を受け止めたまま、動かなかった。
「日高さん」
『はい』
「私は、以前お伝えしたことを忘れていません」
酔い潰れた夜。
神谷は樹里を抱き締め、好きだと告げた。
樹里は拒まなかった。
ただ、醒めてから言えと返した。
あの言葉を、なかったことにはしていない。
『覚えています』
「いずれ、改めてお伝えします」
『はい』
それ以上、樹里は何も言わなかった。
高槻興産との案件は、まだ途中にある。
仕事と感情を混同したくない。
今ここで、二人の関係に名前をつけることには迷いがある。
神谷も、その答えを急がせようとはしなかった。
「では、今日はこれで」
『はい』
「おやすみなさい」
『おやすみなさい』
別れの言葉を交わした。
それでも、どちらもすぐには動かなかった。
神谷は樹里を見つめている。
樹里も、その視線から目を逸らさない。
先に動いたのは、神谷だった。
一歩だけ、樹里との距離を詰める。
樹里は動かなかった。
神谷が何をしようとしているのか。
分からないはずはない。
避ける時間も、拒む時間もあった。
それでも樹里は、後ろへ下がらなかった。
神谷の手が、樹里の頬へ近づく。
触れる直前で、一度止まった。
樹里は何も言わない。
神谷の指先が、そっと頬へ触れた。
その温度を確かめるように、親指が僅かに動く。
二人の距離が、ゆっくりと狭まっていく。
樹里は、まだ動かなかった。
唇が重なる。
触れるだけの、静かなキスだった。
樹里の瞼が、僅かに閉じる。
自分から神谷へ近づくことはしない。
神谷の服を掴むこともない。
ただ、拒まなかった。
ほんの数秒。
やがて神谷が、ゆっくりと顔を離す。
樹里は何も言わず、神谷を見ていた。
「……すみません」
神谷が先に視線を落とす。
樹里は責めなかった。
頬へ触れていた神谷の手が離れても、その場から動かない。
「日高さん」
『おやすみなさい』
それだけを告げ、樹里はマンションの入口へ向き直った。
拒絶の言葉はなかった。
なぜキスをしたのかと、問い詰めることもなかった。
自動扉の前で、一度だけ足を止める。
振り返ることはせず、小さく言った。
『また明日』
「はい。また明日」
樹里はマンションの中へ入っていった。
神谷は閉じた自動扉の前で、しばらく動けなかった。
怒らせたかもしれない。
早すぎたかもしれない。
それでも、樹里は避けなかった。
その事実だけを胸に、神谷は静かな夜道を引き返した。
◇
エレベーターの扉が閉まる。
一人になった瞬間、樹里は深く息を吐いた。
壁へ背を預ける。
指先が、ゆっくりと自分の唇へ触れた。
まだ、神谷の温度が残っている。
拒めなかったのではない。
拒まなかった。
その違いを、樹里自身が一番よく分かっていた。
鏡に映る自分は、チャイナドレスの上にコートを羽織ったままだ。
頬には僅かな赤みが残っている。
樹里は視線を伏せた。
今夜のことを、神谷へ説明する言葉はまだ持っていない。
自分の気持ちに、名前を与える覚悟もない。
それでも、なかったことにしたいとは思わなかった。
到着を知らせる音が鳴る。
扉が開く直前、樹里は唇から指を離した。
いつもの表情へ戻り、何事もなかったように歩き出す。
しかし胸の奥に残った熱だけは、部屋へ戻っても消えなかった。




