198話「それぞれの視線」
重なったグラスの音が、Roseに響く。
陽菜が自分のグラスを一口飲むと、隣に立っていた中井へ身体を寄せた。
『どう? ナース姿の彼女は』
「とても似合っています」
『それだけ?』
「可愛いです」
『うん。それでよし』
満足そうに頷き、陽菜は中井の腕へ自分の腕を絡めた。
中井は平静を装っている。
しかし、先ほどから陽菜の顔より下へ視線を落とさないようにしていることを、陽菜はとっくに見抜いていた。
『中井くん』
「はい」
『さっきから、あたしの顔しか見てないね』
「見てはいけませんか?」
『胸元、気になるでしょ?』
「陽菜さん」
中井の顔が赤くなる。
その反応に、陽菜は声を立てて笑った。
『見ていいよ。中井くんの彼女なんだから』
「みんなの前で言わないでください」
『何で? みんな知ってるじゃん』
「知っていることと、言葉にすることは別です」
『相変わらず恥ずかしがりだね』
陽菜はからかいながらも、絡めた腕を離さなかった。
凛がその様子を見て、僅かに苦笑する。
「陽菜さん、本当に楽しそうですね」
『楽しいよ。凛ちゃんも楽しみなよ』
「楽しんでいます」
『さっきからスカートの裾ばっかり気にしてるじゃん』
「これは仕方ないです」
凛は椅子に座ったまま、短いスカートの裾を押さえている。
立っていても落ち着かない。
座れば、さらに落ち着かない。
視線を上げると、佐藤と目が合った。
佐藤は慌てて顔を逸らす。
「今、見ましたよね?」
「見てないよ」
「目が合いました」
「凛ちゃんがこっちを見たからだよ」
「先に見ていたのは佐藤さんです」
「衣装を見ただけで、変なところは見てないって」
『凛ちゃん、佐藤くんを許してあげて』
美園がカウンターの内側から助け船を出す。
『さっきから私のことも、まともに見られてないみたいだから』
「美園さん、それは……」
『何?』
「その格好で近くに来られると、緊張するんです」
『ご主人様。お酒のおかわりはいかがですか?』
「普通に聞いてください」
『さっきから、そればかりだね』
美園は楽しそうに笑い、佐藤のグラスへ酒を注ぐ。
前屈みになると、白いエプロンの下で黒い布地が僅かに張った。
佐藤はすぐに視線を逸らす。
美園は、それも見逃さなかった。
『顔が赤いよ』
「飲んでいるからです」
『まだ一杯目でしょ?』
「店が暑いんです」
『そういうことにしておいてあげる』
美園は満足そうに離れていく。
佐藤はその背中を見送り、深く息を吐いた。
向かいに座っていた神谷が、小さく笑う。
「大変そうだな」
「他人事だと思わないでください」
「俺は何もされてない」
「日高さんを見て、しばらく固まっていたじゃないですか」
神谷の手が止まる。
「固まってない」
「では、見すぎて謝ったのは何だったんですか」
「聞いてたのか」
「店中に聞こえていました」
佐藤の声は、神谷に対する敬意を保ちながらも、どこか楽しそうだった。
神谷はグラスを持ち上げる。
その視線が、カウンターの奥にいる樹里へ向いた。
樹里は料理を小皿へ取り分けている。
チャイナドレスのスリットから覗く脚を気にしているのか、先ほどから必要以上に大きく動こうとしない。
視線に気づき、樹里が顔を上げる。
神谷は今度こそ、すぐに目を逸らした。
その不自然さを、陽菜が見逃すはずがなかった。
『神谷さん』
「はい」
『日高先輩のチャイナ服、どうですか?』
樹里の手が止まる。
『櫻井さん』
『本人に聞かれたときは、綺麗ですしか言ってなかったでしょ? もっと感想ないんですか?』
「十分だと思いますが」
『どこが綺麗でした?』
「答える必要がありますか?」
『あります』
「ありません」
『顔? 脚? 身体の線?』
『櫻井さん』
樹里の声が一段低くなる。
『それ以上はやめてください』
『日高先輩、耳赤いよ』
『赤くありません』
『神谷さんは、どこ見てたんですか?』
「櫻井さん」
今度は中井が陽菜を止めた。
「それ以上は、日高さんが困っています」
『中井くん、日高先輩の味方するの?』
「困っている人の味方をしただけです」
『彼女より?』
「そういう比べ方はしません」
『真面目だなあ』
「陽菜さんが楽しみすぎなんです」
中井に窘められ、陽菜はようやく追及をやめた。
樹里は中井へ小さく頭を下げる。
『ありがとうございます』
「いえ」
『中井くん』
「はい」
『あとで覚えててね』
「なぜ僕まで怒られるんですか?」
『あたし以外の女の人を助けたから』
「理不尽です」
『冗談だよ』
陽菜は笑いながら、中井の肩へ頭を預けた。
その表情に怒っている様子など、少しもなかった。
◇
柚希は、カウンターの端で零と並んで座っていた。
零は先ほどから、何度も柚希を見ている。
「零ちゃん」
「はい」
「また見てる」
「すみません」
「嫌とは言ってないけど」
「では、見てもいいんすか?」
「そんな真剣に聞かれると困る」
「自分にとっては大事なことっす」
柚希は照れながら、胸元のリボンへ触れる。
「昔は毎日着てたんだけどね」
「その頃の柚希さんも見たかったです」
「今より子供だったよ」
「可愛かったと思います」
「零ちゃんは、昔どんな感じだったの?」
零の表情が僅かに止まる。
過去の話をしたばかりだった。
柚希は、避けるように黙るのではなく、かといって無理に踏み込むこともなく、何気ない調子で尋ねている。
「格好つけてました」
「今より?」
「今より、だいぶ」
「見たいな」
「今度、写真を探してみます」
「本当?」
「はい。柚希さんが笑わないなら」
「少しくらいは笑うかも」
「では、見せないです」
「ごめん。笑わないから見せて」
「今、少しくらいはって言いました」
「零ちゃん、意外と意地悪だね」
「柚希さんにだけっす」
零の口から自然に出た言葉に、柚希は黙った。
零も、自分が何を言ったのか数秒遅れて気づく。
二人の顔が、ほぼ同時に赤くなった。
近くで聞いていた陽菜が、すぐに身を乗り出す。
『零、成長したね』
「陽菜さん、聞いてたんすか」
『聞こえたんだよ。柚希ちゃんにだけ意地悪するんだ?』
「そういう意味では……」
「陽菜さん、零ちゃんを困らせないで」
『彼女を守るんだ』
「だって、すぐにからかうから」
『仲良いねえ』
柚希は零の腕を取り、陽菜から遠ざけるように身体を寄せた。
守るためにしたはずだった。
しかし零にとっては、陽菜のからかいよりも、その距離の方がよほど心臓に悪かった。
◇
『せっかくだから、誰が一番似合ってるか決めようよ』
宴の途中、陽菜が突然言い出した。
樹里が嫌な予感を覚えたように、グラスを置く。
『何を始めるつもりですか』
『男性陣と零に聞くだけ。誰の仮装が一番似合ってるか』
『必要ありません』
『日高先輩は黙ってて』
『私も対象に入っているなら、黙っている理由はありません』
『じゃあ、最初は中井くん』
樹里の言葉を無視し、陽菜は中井へ向き直った。
『誰が一番?』
「陽菜さんです」
中井は迷わなかった。
陽菜が満足そうに笑う。
『理由は?』
「好きな人だからです」
今度は陽菜が黙る番だった。
中井は恥ずかしそうにしている。
それでも、言葉を取り消さなかった。
『……そういう真っ直ぐなの、急に出すのずるい』
「陽菜さんが聞いたんでしょう」
『そうだけど』
陽菜は頬を赤くしたまま、次に佐藤を見る。
『佐藤くんは?』
「美園さんです」
『即答だね』
「ほかの答えを言ったら、あとで怒られそうなので」
『怒らないよ』
美園が微笑む。
『ただ、しばらく口は利かないかもしれないけど』
「それを怒っていると言うんです」
『冗談。正直に答えて』
「正直に答えても、美園さんです」
美園の笑みに、僅かな照れが混じる。
『ありがとう』
『次は零』
「柚希さんっす」
『理由は?』
「自分が見たかったからです」
「零ちゃん」
「似合ってますし、可愛いです」
柚希は俯きながらも、口元の笑みを隠せていなかった。
残ったのは神谷だった。
陽菜が、ゆっくりとそちらを見る。
神谷は状況を理解し、僅かに息を吐いた。
『神谷さんは?』
「答えなければ駄目ですか」
『駢目です』
『櫻井さん。神谷さんを困らせないでください』
『まだ何も言ってないよ』
『言わせようとしています』
『日高先輩は、自信ないんですか?』
樹里の視線が、陽菜へ向く。
『そういう話ではありません』
「日高さんです」
神谷の声が、二人の間へ入った。
樹里が動きを止める。
陽菜は嬉しそうに神谷を見る。
『理由は?』
「一番、目を引きました」
『どこが?』
「それ以上は答えません」
『でも一番なんですね?』
「はい」
樹里はグラスへ手を伸ばした。
何も言わず、残っていた酒を一口飲む。
伏せた瞳の奥にあるものを、誰にも見せようとしない。
しかし、耳に残る赤みまでは隠せなかった。
『日高先輩』
『何ですか』
『嬉しい?』
『黙ってください』
短い返事だった。
それでも、否定はしなかった。
◇
凛は少し離れた場所で、陽菜に写真を撮ってもらっていた。
『もう少しこっち向いて』
「これ以上は無理です」
『耳、触ってみて』
「どうしてですか?」
『バニーっぽいから』
「これ以上、バニーらしくしなくていいです」
『青柳くんに送るんでしょ?』
「送りますけど……」
『だったら、一番可愛い写真にしようよ』
凛は恥ずかしそうにしながら、片手でカチューシャの耳へ触れた。
陽菜が数枚撮影する。
その中から、凛は自分で一枚を選んだ。
正面からではない。
僅かに身体を斜めへ向け、こちらを見ている写真だった。
緊張した表情の中に、ほんの少しだけ笑みがある。
「これにします」
『可愛いじゃん』
「本当ですか?」
『うん。青柳くん、眠れなくなるかも』
「そこまでではありません」
凛は陽菜からスマートフォンを受け取り、青柳とのLINEを開いた。
少し迷ったあと、写真を送る。
「約束の写真です。ほかの人には見せないでください」
既読は、すぐについた。
しかし返信が来ない。
凛は画面を見つめたまま、不安そうに眉を寄せる。
「変だったでしょうか」
『見惚れてるんじゃない?』
「写真ですよ」
『写真でも見惚れるよ』
しばらくして、青柳から返信が届いた。
「とても似合っています。直接見られなかったことを、本気で後悔しています」
凛の表情が緩む。
続けて、もう一通。
「写真は誰にも見せません。僕だけが見てもいい写真を送ってくれて、ありがとうございます」
その文章を読んだ凛は、スマートフォンを胸元へ抱えた。
『よかったね』
「……はい」
『帰ったら電話するんでしょ?』
「時間が遅くなりすぎなければ」
『青柳くん、待ってると思うよ』
「そうでしょうか」
『待ってるよ。彼氏なんだから』
凛は小さく頷く。
この場所に青柳はいない。
それでも、もう寂しいだけではなかった。
◇
時計の針が進むにつれ、テーブルの上に並んでいた料理は減り、空いたグラスが増えていった。
美園は店の奥から、新しい皿を運んでくる。
『これで最後。あとは好きに飲んで』
「美園さん、片づけは僕も手伝います」
佐藤が言う。
『今日はお客さんでいいよ』
「でも、これだけの人数ですから」
『それなら、最後に少しだけお願いしようかな』
「はい。残ります」
佐藤が当然のように答える。
美園は一瞬だけ目を細めたあと、嬉しそうに微笑んだ。
『ありがとう』
そのやり取りを聞いた陽菜は、何も言わずに口元だけで笑う。
美園と佐藤が、二人で店に残る。
そこから先まで想像した顔だった。
『陽菜』
美園に呼ばれ、陽菜は何も言っていないという顔を作る。
『何?』
『今、余計なことを考えたでしょ』
『全然』
『顔に出てるよ』
『美園さんほどじゃないよ』
『どういう意味?』
『さあ』
陽菜は中井の腕へ、さらに強く抱きついた。
中井が時計を見る。
「そろそろ帰りますか?」
『うん』
「衣装は着替えていきますよね?」
『どうしようかな』
「その格好で外を歩くつもりですか?」
『コート着れば見えないよ』
「少し見えます」
『じゃあ、中井くんが隠して』
「どうやってですか」
『こうやって』
陽菜は中井の胸へ身体を寄せる。
中井は一瞬固まったあと、周囲の視線に気づいて顔を赤くした。
『可愛い』
「みんなが見ています」
『見せてるの』
「陽菜さん」
陽菜は笑いながら、中井の手を取った。
その一方で、樹里も帰る準備を始めている。
チャイナドレスの上にコートを羽織ったものの、裾までは隠れない。
更衣室へ戻ろうとしたところで、陽菜が声を上げた。
『日高先輩、そのまま帰るの?』
『着替えます』
『せっかく神谷さんがいるのに』
『関係ありません』
神谷も席を立った。
「日高さん。よろしければ、ご自宅まで送ります」
『神谷さんが?』
「はい。遅い時間ですし、その格好では一人で帰りにくいでしょう」
樹里は、自分のコートから覗く赤い裾を見る。
僅かに迷ったあと、神谷へ向き直った。
『……お願いします』
「分かりました」
陽菜の目が、楽しそうに細くなる。
樹里は、その視線だけで何を考えているのか察した。
『櫻井さん』
『何も言ってないよ』
『顔に出ています』
『日高先輩も、気をつけて帰ってね』
『あなたもです』
短いやり取りのあと、樹里は神谷と並んで店を出た。
それを合図にするように、零と柚希も帰り支度を始める。
凛もコートを羽織り、兎の耳だけは鞄の中へしまった。
Roseで過ごした賑やかな時間が、少しずつそれぞれの夜へ分かれていく。
中井と陽菜。
神谷と樹里。
零と柚希。
離れた場所で凛からの電話を待つ青柳。
そして、閉店後のRoseに残る美園と佐藤。
同じ宴から始まった夜は、それぞれ違う温度を帯びながら、まだ終わろうとはしていなかった。




