197話「断れず」
10月31日。
定時を過ぎた島川不動産では、一日の業務を終えた社員たちが、次々と帰り支度を始めていた。
樹里が机の上を整えていると、スマートフォンが震える。
美園からのLINEだった。
『少し早めにRoseへ来られる? 準備を手伝ってほしいんだけど』
樹里は時刻を確認する。
約束の時間までは、まだ1時間以上ある。
『分かった。今から向かう』
短く返事を送り、鞄を手に取った。
近くの席では、陽菜がまだパソコンに向かっている。
『櫻井さん。私は先にRoseへ向かいます』
『はーい。あたしも終わったら行きます』
返事をしながらも、陽菜は樹里を見なかった。
不自然だった。
樹里は僅かに目を細める。
『何か隠していませんか』
『何も』
『こちらを見てください』
『今、忙しいから』
『先ほどから同じ画面を見ていますが』
『細かいなあ』
陽菜はようやく顔を上げた。
笑顔だった。
それが余計に怪しい。
『……妙なことを考えていないでしょうね』
『考えてないよ』
『そうですか』
樹里は完全には信用していなかった。
それでも、美園から頼まれた以上、行かないわけにはいかない。
背後から向けられる陽菜の視線を感じながら、営業部を出た。
エレベーターの扉が閉まった直後。
陽菜は素早くスマートフォンを取り出した。
『今、出たよ』
美園から、笑顔のスタンプが返ってきた。
◇
Roseの扉を開けると、店内には料理の香りが広がっていた。
カウンターには大皿が並び、壁や棚には小さなカボチャや蝙蝠の飾りが取りつけられている。
店の照明も、普段より少し落とされていた。
『来た』
『早かったね』
奥から現れた美園を見て、樹里の動きが止まった。
黒を基調とした、落ち着いたメイド服。
白いエプロンと襟元の飾りには、上品な刺繍が施されている。
露出は控えめだが、細い腰と身体の線が美しく際立っていた。
普段のドレス姿とは違う。
それでも、店の雰囲気には不思議なほど馴染んでいる。
『似合っている』
樹里が素直に言った。
美園はスカートの両端を軽く摘み、僅かに持ち上げる。
『ありがとうございます、ご主人様』
『やめてくれ』
『反応が薄いな。佐藤くんなら、もう少し喜んでくれそうなのに』
『私に何を期待してる』
『もう少し照れるかと思った』
『何故お前に照れる必要がある』
樹里は鞄をカウンター席へ置き、腕まくりをする。
『何を手伝えばいい』
『その前に、奥へ来て』
『準備の話ではなかったのか』
『準備だよ』
美園に促され、樹里は店の奥にある更衣室へ向かった。
扉を開ける。
室内の中央に、深い赤色のチャイナドレスが掛かっていた。
艶を抑えた上品な生地。
胸元から裾にかけて、黒と金の花が刺繍されている。
細身の作りで、片側には長いスリットが入っていた。
樹里は無言で扉を閉めた。
『総長』
『帰る』
『待って』
美園が樹里の腕を掴む。
『準備を手伝ってほしいと言ったのは、これか』
『半分は本当だよ。料理も手伝ってほしい』
『なら、この衣装は必要ない』
『その格好で料理を手伝って』
『断る』
樹里が鞄を持ち直したところで、店の扉が勢いよく開いた。
『待った!』
淡い桃色のナース服を着た陽菜が、両手を広げて立っていた。
頭には小さなナースキャップ。
膝上までのワンピースは身体の線に沿い、胸元は普段より大きく開いている。
樹里は、その姿を見て眉間へ皺を寄せた。
『会社から、その格好で来たのか』
『まさか。駅のトイレで着替えた』
『その格好で外を歩いたのか』
『上にコート着てきたよ』
『そういう問題ではない』
『それより総長、奥に可愛い衣装あったでしょ?』
『着ない』
『一回だけ』
『着ない』
『絶対似合うから』
『似合うかどうかは関係ない』
陽菜は樹里の背後へ回り、両肩へ手を置いた。
『ほら、着替えてきて』
『押すな』
『みんな来ちゃうよ』
『私はこのままでいい』
『ダメ』
『なぜ』
『5人で写真を撮るから』
樹里の足が止まる。
『5人?』
『あたしと、美園さんと、凛ちゃんと、柚希ちゃんと、総長』
『私は仮装しない』
『みんな、ちゃんと用意してるよ』
『本人が着たくて用意したんだろ』
『凛ちゃんは、だいぶ嫌がってた』
『なら、着せるな』
『でも最後は、自分で選んで買ったよ』
樹里は呆れたように息を吐いた。
陽菜は肩に置いた手から力を抜く。
無理に更衣室へ押し込むことはしなかった。
『総長』
声から、ふざけた調子が消える。
『今日だけ。5人で一緒に撮りたい』
『……理由は』
『今、一緒にいてくれる人たちだから』
樹里は陽菜を見る。
『零はどうした』
『零は、柚希ちゃんを見る側がいいんだって。仮装しないって』
『それで私が着る理由にはならない』
『ならないね』
陽菜は、あっさり認めた。
『でも、あたしが一緒に撮りたい』
それだけだった。
過去を記録に残すことを、樹里たちは避けてきた。
残った写真が、誰かを傷つけることもある。
知られたくない時間へ、他人を導くこともある。
けれど今日撮る一枚は、過去を残すためのものではない。
今ここにいる5人を残すためのものだった。
美園が、樹里の顔を覗き込む。
『本当に嫌なら、やめていいよ』
『美園』
『衣装は私たちで片づける。陽菜には、私から言っておく』
『美園さん』
『陽菜は黙ってて』
『はい』
樹里は更衣室の扉を見る。
その向こうには、陽菜が勝手に用意したチャイナドレスがある。
着たいとは思わない。
人前へ出たいとも思わない。
だが、陽菜が一緒に撮りたいと言った。
美園も、この衣装を止めずに用意していた。
二人が自分を笑いものにしたいわけではないことくらい、樹里にも分かっている。
『……写真は一枚だけだ』
陽菜の顔が明るくなる。
『うん』
『勝手に他人へ送るな』
『送らない』
『会社でも話題にするな』
『分かった』
『着たあと、無理だと判断したらすぐに着替える』
『約束する』
樹里は陽菜へ指を向ける。
『あとで話がある』
『何の?』
『終わってから決める』
『何されるか分からない方が怖いんだけど』
『今さらだろ』
美園が笑う。
樹里は鞄から化粧ポーチを取り出すと、更衣室へ入った。
扉が閉まる。
陽菜と美園は顔を見合わせた。
『着るって』
『断れなかったんでしょ』
『そこが総長の可愛いところなんだよね』
更衣室の中から、低い声が飛んでくる。
『聞こえている』
『ごめんなさい』
二人の返事が重なった。
◇
しばらくして、柚希と凛がRoseへ到着した。
零とは店の前で待ち合わせているため、まだ来ていない。
柚希はコートの下に、高校時代の制服を着ていた。
店へ入るなり、陽菜が駆け寄る。
『柚希ちゃん、見せて』
「ちょっと待って。自分で脱ぐから」
コートを脱ぐ。
紺色のブレザーに、膝上までのスカート。
胸元にはリボンが結ばれている。
年月は経っているものの、童顔の柚希には不自然なほど馴染んでいた。
『似合う! まだ普通に高校生で通るよ』
「それはさすがに無理だよ」
『零、喜ぶだろうな』
「もう外で待ってるから、あんまり大きな声で言わないで」
『どうして入ってこないの?』
「着替えが終わるまで待つって」
『紳士じゃん』
「女の子だけどね」
柚希は照れながら、スカートの裾を整えた。
その隣では、凛が大きな鞄を抱えたまま立っている。
『凛ちゃんは?』
「今から着替えます」
『ちゃんと買ってきた?』
「買いました」
『バニー?』
「……バニーです」
陽菜は満面の笑みで、凛の肩を叩いた。
『分かってるね』
「陽菜さんに言われたからです」
『青柳くんに写真送るんでしょ?』
「それは、それです」
『可愛く撮ってあげる』
「写真は自分で選びます」
『はいはい』
「絶対、勝手に送らないでくださいね」
『分かってるって』
何度念を押しても不安は消えなかったが、凛は諦めて更衣室へ向かった。
入れ替わるように、中の扉が開く。
最初に見えたのは、深い赤色だった。
樹里が、ゆっくりと姿を現す。
身体に沿う細身のチャイナドレス。
黒と金の花の刺繍が、胸元から腰、裾へと流れている。
長い髪は片側へ寄せられ、普段は隠れている首筋が露わになっていた。
片側のスリットから、歩くたびに長い脚が覗く。
派手に肌を晒しているわけではない。
それでも、普段のスーツ姿とはまるで違って見えた。
柚希が、思わず息を呑む。
「日高先輩……すごく綺麗です」
樹里は腰の辺りを手で押さえ、僅かに眉を寄せた。
『ありがとうございます』
礼を返したあと、鏡へ一度視線を向ける。
すぐに更衣室を振り返った。
『やはり着替えます』
『ダメ』
『話が違います』
『まだ無理かどうか判断する時間が短すぎるよ』
『十分です』
美園が樹里の前へ立ち、襟元を僅かに整える。
『似合ってるよ、日高さん』
樹里は美園の目を見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
僅かな沈黙のあと、樹里は視線を鏡へ戻す。
『……そう』
『うん』
陽菜も樹里の隣へ並んだ。
『ほら。ナースとチャイナ』
『並ぶ意味が分かりません』
『ハロウィンだから何でもいいの』
樹里は鏡に映る自分を見る。
似合っていないとは思わない。
ただ、この格好で神谷の前へ出ることだけは、最初から分かっていれば断っていた。
『神谷さんが来る前に着替えます』
『ダメだって』
『見せる必要はありません』
『神谷さん、絶対喜ぶよ』
『そのために着たわけではありません』
『でも、綺麗って言われたいでしょ?』
『櫻井さん』
樹里が睨む。
しかし、チャイナドレス姿では、いつもの威圧が僅かに弱い。
少なくとも陽菜には、まったく効いていなかった。
◇
凛が着替えを終え、恐る恐る更衣室から出てきた。
黒を基調としたバニーガール衣装。
胸元と腰回りの露出は抑えられているが、短いスカートから伸びる脚を、薄手の黒いストッキングが包んでいる。
頭には、長い兎の耳。
首元には小さな蝶ネクタイがついていた。
凛は両手でスカートの裾を押さえ、俯いている。
「……やっぱり、無理です」
『可愛い!』
「声が大きいです」
『凛ちゃん、すごく似合ってるよ』
陽菜が周りを一周しながら眺める。
「そんなに見ないでください」
「凛ちゃん、脚が綺麗だから似合うよ」
柚希も素直に褒める。
「柚希ちゃんまで……」
『青柳くん、来られなくて悔しがるだろうね』
「写真は送ります」
『もう撮る?』
「あとでいいです。まだ心の準備ができていません」
『その格好で心の準備って言われても、説得力ないなあ』
「陽菜さんが着せたんでしょう」
『選んだのは凛ちゃんだよ』
反論できず、凛はさらに顔を赤くした。
これで、5人が揃った。
メイド姿の美園。
ナース姿の陽菜。
チャイナドレス姿の樹里。
制服姿の柚希。
そして、バニーガール姿の凛。
美園がカウンターの上にスマートフォンを立て、タイマーを設定する。
『先に写真を撮ろうか』
「もうですか?」
凛が不安そうに尋ねる。
『みんなが来たら、落ち着いて撮れなくなるよ』
『私は一枚だけです』
樹里が念を押す。
『分かってるって。ほら、日高先輩が真ん中』
『私が真ん中である必要はありません』
『一番嫌がった罰』
『着た上に、罰まで受けるんですか』
『じゃあ、ご褒美』
『いりません』
文句を言いながらも、樹里は中央へ立った。
片側に陽菜。
反対側に美園。
その隣へ、柚希と凛が並ぶ。
タイマーの数字が減っていく。
『日高先輩、笑って』
『無理です』
『じゃあ、あたしが笑わせる』
『余計なことをしないでください』
撮影の瞬間、陽菜が樹里の腰へ抱きついた。
『櫻井さん』
驚いた樹里が陽菜を見る。
美園がその反対側から、樹里の腕へ自分の腕を絡めた。
柚希が笑い、凛も堪えきれずに僅かに頬を緩める。
そこでシャッターが切れた。
撮れた写真の中で、樹里だけは正面を向いていなかった。
笑ってもいない。
陽菜を叱ろうと、横を向いている。
それでも、そこにいる誰よりも穏やかな顔をしていた。
『撮り直します』
『一枚だけって言ったじゃん』
『今のは、櫻井さんのせいで正面を向いていません』
『じゃあ、もう一枚撮っていいの?』
『……早くしてください』
今度は、誰も樹里へ抱きつかなかった。
5人が並び、正面を見る。
シャッターが切れる直前。
『日高先輩』
陽菜が小さく呼んだ。
樹里が、ほんの僅かに笑う。
その表情まで、今度はきちんと写真に残った。
◇
最初に到着したのは、佐藤だった。
扉を開け、美園の姿を見たまま固まる。
「……美園さん」
『いらっしゃいませ、ご主人様』
美園が両手を身体の前で重ね、僅かに首を傾げた。
佐藤の顔が、一瞬で赤くなる。
陽菜はカウンターへ伏せ、声を殺して笑った。
『美園さん、もう一回言ってあげて』
『ご主人様、ご注文は?』
「普通にお願いします」
『気に入らなかった?』
「そうではなくて……まともに見られなくなるので」
『じゃあ、気に入ったんだ』
「……はい」
佐藤の正直な返事に、今度は美園が僅かに照れた。
続いて、中井が店へ入る。
桃色のナース服を着た陽菜が、すぐに駆け寄った。
『中井くん。どこか悪いところはありませんか?』
「今までは大丈夫でした」
『今は?』
「少し、心臓が速いです」
『重症だね』
「原因は陽菜さんだと思います」
『じゃあ、あたしには治せないね』
陽菜は楽しそうに笑い、中井の腕を取った。
そのあとに、零と神谷がほぼ同時に到着する。
零は扉を開けた直後、制服姿の柚希を見つけた。
その場で動かなくなる。
「零ちゃん?」
「……似合ってます」
「本当に?」
「はい。想像してたより、ずっと似合ってるっす」
零は柚希から目を逸らせない。
柚希は恥ずかしそうにしながらも、その視線を嫌がらなかった。
「そんなに見られると、ちょっと恥ずかしい」
「見るなって言われても無理です」
「それは聞いてたけど」
「写真より先に本物を見られてよかったっす」
「まだ写真は撮ってないよ」
「あとで一緒に撮りたいです」
「うん。撮ろう」
二人の会話を横で聞きながら、神谷は店内へ足を踏み入れた。
最初に陽菜のナース服が目に入る。
次に、バニーガール姿の凛。
制服姿の柚希。
メイド服を着た美園。
そして最後に、カウンターの奥でグラスを並べていた樹里へ視線が止まった。
深い赤色のチャイナドレス。
普段はスーツに隠れている身体の線が、はっきりと浮かび上がっている。
片側へ流した髪の下から、白い首筋が覗いていた。
樹里も神谷の視線に気づく。
手が止まる。
『……何か言ってください』
「すみません」
『なぜ謝るんですか』
「見すぎました」
『そうではなくて』
樹里は、僅かに視線を逸らした。
『変ではありませんか』
「いいえ」
神谷は迷わず答える。
「とても綺麗です」
樹里は答えなかった。
手元のグラスへ視線を落とす。
髪の間から覗く耳だけが、ゆっくりと赤くなっていった。
少し離れたところで、陽菜が満足そうに頷く。
『ほら。着てよかったでしょ?』
『櫻井さん』
『はい』
『あとで話があります』
『まだ怒ってる』
『忘れていません』
樹里の声は低かった。
しかし、もう着替えようとはしなかった。
美園が人数分のグラスを並べる。
料理も、酒も、衣装も揃った。
青柳だけは、この場所にいない。
それでも凛は、寂しさを抱えたまま俯いてはいなかった。
今夜の姿を、あとで自分の言葉と写真で伝えればいい。
『それじゃ、始めようか』
美園がグラスを持つ。
いつものRoseに、いつもとは違う姿をした仲間たちが集まっている。
陽菜が高くグラスを掲げた。
『ハッピーハロウィン!』
重なったグラスの音とともに、賑やかな夜が始まった。




