↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
196/329

196話「それぞれの準備」

仕事を終えた凛は、一人で駅前の衣料品店を訪れていた。


 店内の一角には、ハロウィン用の衣装が並んでいる。


 魔女、警察官、猫、悪魔。


 華やかな商品を横目に、凛は何度も引き返しかけた。


 目的の衣装は、奥の壁際にあった。


「……本当に、これを着るんですか」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 黒いレオタードに、襟と蝶ネクタイ。


 網タイツ。


 そして、長い耳のついたカチューシャ。


 店頭の見本を見ただけで、頬が熱くなる。


 陽菜から渡された条件は、一つだった。


『バニーガールなら、どんなデザインでもいいよ。凛ちゃんが無理じゃないものを自分で選んで』


 無理ではない。


 決して着られないわけではない。


 しかし、それを人前で着るとなると話は別だった。


 凛は別の商品へ手を伸ばす。


 露出が控えめな、ジャケット付きのバニーガール衣装だった。


 これなら、まだ耐えられる。


 そう思って値札を確認したところで、陽菜の声が頭の中に蘇った。


『青柳くんに送るんでしょ?』


「……送るとは言いましたけど」


 本人のいないところで反論しても意味はない。


 凛はもう一度、最初に見ていた衣装へ視線を戻す。


 青柳は、どちらを見たいのだろう。


 そう考えてしまった自分が恥ずかしくなり、凛は顔を伏せた。


 最終的に選んだのは、胸元と腰回りの露出を抑えた黒い衣装だった。


 短いスカートがつき、網タイツではなく、薄手の黒いストッキングを合わせられる。


 十分にバニーガールと分かる。


 それでも、必要以上に肌を晒さなくていい。


 自分で選べと言われた意味を、少しだけ理解した。


 陽菜は、凛を恥ずかしがらせたい。


 けれど、本当に嫌なものを着せたいわけではない。


 会計を済ませて店を出たところで、凛は青柳へLINEを送った。


「衣装、買いました」


 返事はすぐに届いた。


「バニーガールですか?」


「それ以外を買ったら、陽菜さんに返品させられそうなので」


「そうですか」


「嬉しそうですね」


「文章だけで分かりますか?」


「分かります」


「楽しみにしています」


「当日は来られないのに、楽しみにしないでください」


「写真を送っていただけるのでしょう?」


「まともに撮れたらです」


「約束は覚えています」


 凛は少し迷ってから、買い物袋だけを撮影した。


 中身が見えないように口を閉じ、その写真を送る。


「今日は、これだけです」


「厳重ですね」


「当日までのお楽しみです」


「分かりました。凛さんの写真を楽しみに、仕事を頑張ります」


 その返信を読んだ凛は、買い物袋を胸元へ抱き寄せた。


 人前で着る勇気は、まだない。


 それでも、青柳に見てほしいという気持ちは、少しずつ大きくなっていた。


     ◇


 柚希が実家のクローゼットを開けると、奥から懐かしい箱が出てきた。


 教科書。


 寄せ書き。


 学校行事で使った鉢巻き。


 高校時代のものが、まとめて詰め込まれている。


 その底に、畳まれた制服があった。


「本当に残ってた……」


 紺色のブレザーに、スカート。


 胸元につけるリボンまで、きちんと保管されていた。


 手に取っただけで、当時の記憶が蘇る。


 楽しいことばかりではなかった。


 好きな人の言葉一つに振り回されていた頃も、この制服を着ていた。


 けれど、その記憶だけが高校生活のすべてではない。


 友人と笑った日もある。


 将来のことなど何も分からないまま、それでも毎日を過ごしていた自分がいる。


 柚希は制服を抱え、自分の部屋へ戻った。


 鏡の前で袖を通してみる。


「……着られる」


 少しだけ窮屈になっている気はする。


 それでも、見苦しいほどではなかった。


 鏡には、今よりも幼い頃の自分と、今の自分が重なって映っている。


 柚希はスマートフォンを手に取った。


 一度は零へ写真を送ろうとする。


 しかし直前で思い直し、代わりに文章だけを送った。


「制服、見つかったよ。まだ着られた」


 すぐに既読がつく。


「写真はないんすか?」


「当日まで見せない」


「少しくらい見たいです」


「ダメ」


「後ろ姿だけでも」


「ダメ」


「袖だけでもいいっす」


「当日まで待って」


「長いっす」


「あと数日でしょ?」


「柚希さんの制服姿を待つ数日は長いです」


「そんなに期待しないで。普通の制服だから」


「柚希さんが着るなら、普通じゃないっす」


 柚希は鏡に映る自分を見る。


 制服ではなく、その向こう側にいる零へ見つめられているような気がした。


「当日、あんまりじっと見ないでね」


「それは約束できないです」


「零ちゃん、最近ちょっと強くなったよね」


「柚希さんが逃げないって分かったからっす」


 柚希の指が止まる。


 過去を明かした夜から、零の言葉には少しずつ迷いがなくなっていた。


 自分が離れないと、ようやく信じ始めてくれている。


「じゃあ、好きなだけ見ていいよ」


 送信した直後、柚希は慌てて文章を読み返した。


 取り消そうとしたときには、すでに既読がついていた。


「楽しみにしてるっす」


 それ以上の言葉は返ってこなかった。


 しかし、画面の向こうで零がどんな顔をしているのか、何となく想像できた。


     ◇


 閉店後のRose。


 着替えを済ませた美園は、カウンターの内側から姿を現した。


 店内には、陽菜しかいない。


 黒を基調とした、落ち着いたメイド服。


 白いエプロンと襟元の飾りには上品な刺繍が入り、スカートの裾は美園の膝より少し下まで伸びている。


 過剰に肌を見せる衣装ではない。


 しかし身体の線は美しく際立ち、普段のドレスとは違う魅力があった。


『どう?』


 美園は、その場でゆっくりと一回転する。


 スカートの裾が、僅かに広がった。


『美園さん、何でそんなにノリノリなの?』


『やるなら、ちゃんとやった方が楽しいでしょ?』


『似合いすぎ。普通にこのまま営業できそう』


『それは嫌。毎日これを着たら疲れるよ』


『佐藤くん、固まるだろうな』


『そう?』


『絶対、まともに顔を見られなくなるよ』


 美園は店内の鏡へ視線を向け、自分の姿を確かめる。


『じゃあ、最初に注文を聞いてみようかな』


『何て?』


『ご主人様、ご注文は?』


 美園は両手を身体の前で重ね、僅かに首を傾げた。


 普段の落ち着いた声に、わざとらしい甘さが加わる。


 陽菜は数秒黙ったあと、額へ手を当てた。


『ダメだ。佐藤くん死んじゃう』


『そのくらいで死なないよ』


『じゃあ、何回言うつもり?』


『反応が面白かったら、何回でも』


『美園さんも大概だよね』


『陽菜にだけは言われたくない』


 美園は笑いながらエプロンを整えた。


 鏡に映るその顔は、悪戯を思いついた少女のようだった。


 昔なら、自分が誰かを喜ばせるために仮装することなど考えなかった。


 今も、佐藤のためだけではない。


 けれど当日、彼がどんな顔をするのか。


 それを楽しみにしている自分がいることを、美園は否定しなかった。


     ◇


 陽菜のナース服が届いたのは、その翌日だった。


 白ではなく、淡い桃色のワンピース。


 膝上までの丈に、胸元は少し広く開いている。


 頭には小さなナースキャップ。


 陽菜は自宅の鏡の前で着替えを済ませると、満足そうに腰へ手を当てた。


『うん。可愛い』


 自分で言い切り、スマートフォンを手に取る。


 全身は見せない。


 ナースキャップと襟元だけが映るように写真を撮り、中井へ送った。


『特別に予告』


 しばらくして、返事が届く。


「これは、ナース服ですか?」


『そうだよ』


「本番まで秘密ではなかったんですか?」


『全部は見せてないもん』


「十分、気になってしまいます」


『仕事中に想像しちゃダメだよ』


「送ってきたのは陽菜さんです」


『中井くんが勝手に気にしてるんでしょ?』


「そうですが」


『認めるんだ』


「もう、陽菜さんに誤魔化しても意味がないので」


 陽菜は声を立てて笑った。


『当日、ちゃんと診てあげるね』


「僕は病気ではありません」


『あたしを見たら、心臓が速くなるかもよ』


「すでに少し速くなっています」


 予想していなかった返事に、今度は陽菜の指が止まる。


 中井は、以前よりも素直になった。


 恥ずかしがりながらも、自分の気持ちを言葉にするようになっている。


『中井くん』


「はい」


『当日、楽しみにしてて』


「はい。楽しみにしています」


 陽菜はスマートフォンを胸元へ抱えた。


 からかったはずなのに、最後に照れたのは自分の方だった。


     ◇


 ハロウィン前日。


 陽菜の机の下には、大きな紙袋が置かれていた。


 通りかかった樹里が、その袋へ視線を向ける。


『何ですか、それは』


『明日の荷物』


『中身は』


『秘密』


『まさか、私の衣装ではないでしょうね』


『違うよ』


 陽菜は即答した。


 嘘ではない。


 紙袋に入っているのは、飲み物の飾りや店内で使う小物だった。


 チャイナドレスは、すでにRoseへ運び込んである。


 樹里は疑うように陽菜を見つめた。


『私は着ませんからね』


『分かってるって』


『その言葉を、明日まで覚えておいてください』


『うん』


 陽菜は、笑顔で頷いた。


 樹里が自分の席へ戻ったあと、中井が小声で尋ねる。


「本当に、日高さんへ無理強いはしないんですよね?」


『しないよ』


「では、どうするんですか?」


『一度、着てもらうだけ』


「それを無理強いと言うのでは?」


『着替える部屋に入ったら、チャイナ服しか置いてない状態にする』


「陽菜さん」


『大丈夫。本気で嫌がったら、ちゃんと普段着を返すから』


「最初から渡してあげてください」


『それじゃ着てくれないじゃん』


「日高さんが怒っても、僕は助けられませんよ」


『助けてよ。彼氏でしょ?』


「日高さんに怒られている陽菜さんを助けられる人は、この会社にいないと思います」


『美園さんなら止められるよ』


「止めると思いますか?」


 陽菜は少し考える。


『思わない』


「僕もです」


 中井の予想は正しかった。


 その頃、美園はRoseの奥にある部屋で、届いたチャイナドレスをハンガーへ掛けていた。


 深い色の生地に、控えめな刺繍。


 身体の線を美しく見せる細身の作り。


 美園は少し離れたところから、それを眺める。


『絶対、似合うよね』


 止める気など、最初からなかった。


 チャイナドレスの隣には、美園のメイド服が掛かっている。


 さらに、陽菜のナース服を掛けるための場所も空けてあった。


 明日の夜。


 この店には、いつもとは違う姿をした5人の女性が集まる。


 その中で一人だけ、自分が仮装することをまだ認めていない人間がいる。


 美園はスマートフォンを手に取り、陽菜へLINEを送った。


『衣装、準備できたよ』


 すぐに返信が届く。


『ありがとう。明日、日高先輩だけ少し早めに連れていくね』


『どうやって?』


『美園さんが店の準備を手伝ってほしいって言ってることにする』


『私の名前を勝手に使わないでよ』


『じゃあ、美園さんから頼んで』


『それなら、嘘じゃなくなる?』


『なる』


 少し間が空く。


『分かった。私から連絡する』


『やっぱり共犯者じゃん』


『何のことか分からない』


 文章の最後には、笑っている顔のスタンプが添えられていた。


 美園は改めて、チャイナドレスを見る。


 明日、これを見た樹里がどんな顔をするのか。


 怒ることは、間違いない。


 それでも美園は、陽菜と同じくらいその瞬間を楽しみにしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。