196話「それぞれの準備」
仕事を終えた凛は、一人で駅前の衣料品店を訪れていた。
店内の一角には、ハロウィン用の衣装が並んでいる。
魔女、警察官、猫、悪魔。
華やかな商品を横目に、凛は何度も引き返しかけた。
目的の衣装は、奥の壁際にあった。
「……本当に、これを着るんですか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
黒いレオタードに、襟と蝶ネクタイ。
網タイツ。
そして、長い耳のついたカチューシャ。
店頭の見本を見ただけで、頬が熱くなる。
陽菜から渡された条件は、一つだった。
『バニーガールなら、どんなデザインでもいいよ。凛ちゃんが無理じゃないものを自分で選んで』
無理ではない。
決して着られないわけではない。
しかし、それを人前で着るとなると話は別だった。
凛は別の商品へ手を伸ばす。
露出が控えめな、ジャケット付きのバニーガール衣装だった。
これなら、まだ耐えられる。
そう思って値札を確認したところで、陽菜の声が頭の中に蘇った。
『青柳くんに送るんでしょ?』
「……送るとは言いましたけど」
本人のいないところで反論しても意味はない。
凛はもう一度、最初に見ていた衣装へ視線を戻す。
青柳は、どちらを見たいのだろう。
そう考えてしまった自分が恥ずかしくなり、凛は顔を伏せた。
最終的に選んだのは、胸元と腰回りの露出を抑えた黒い衣装だった。
短いスカートがつき、網タイツではなく、薄手の黒いストッキングを合わせられる。
十分にバニーガールと分かる。
それでも、必要以上に肌を晒さなくていい。
自分で選べと言われた意味を、少しだけ理解した。
陽菜は、凛を恥ずかしがらせたい。
けれど、本当に嫌なものを着せたいわけではない。
会計を済ませて店を出たところで、凛は青柳へLINEを送った。
「衣装、買いました」
返事はすぐに届いた。
「バニーガールですか?」
「それ以外を買ったら、陽菜さんに返品させられそうなので」
「そうですか」
「嬉しそうですね」
「文章だけで分かりますか?」
「分かります」
「楽しみにしています」
「当日は来られないのに、楽しみにしないでください」
「写真を送っていただけるのでしょう?」
「まともに撮れたらです」
「約束は覚えています」
凛は少し迷ってから、買い物袋だけを撮影した。
中身が見えないように口を閉じ、その写真を送る。
「今日は、これだけです」
「厳重ですね」
「当日までのお楽しみです」
「分かりました。凛さんの写真を楽しみに、仕事を頑張ります」
その返信を読んだ凛は、買い物袋を胸元へ抱き寄せた。
人前で着る勇気は、まだない。
それでも、青柳に見てほしいという気持ちは、少しずつ大きくなっていた。
◇
柚希が実家のクローゼットを開けると、奥から懐かしい箱が出てきた。
教科書。
寄せ書き。
学校行事で使った鉢巻き。
高校時代のものが、まとめて詰め込まれている。
その底に、畳まれた制服があった。
「本当に残ってた……」
紺色のブレザーに、スカート。
胸元につけるリボンまで、きちんと保管されていた。
手に取っただけで、当時の記憶が蘇る。
楽しいことばかりではなかった。
好きな人の言葉一つに振り回されていた頃も、この制服を着ていた。
けれど、その記憶だけが高校生活のすべてではない。
友人と笑った日もある。
将来のことなど何も分からないまま、それでも毎日を過ごしていた自分がいる。
柚希は制服を抱え、自分の部屋へ戻った。
鏡の前で袖を通してみる。
「……着られる」
少しだけ窮屈になっている気はする。
それでも、見苦しいほどではなかった。
鏡には、今よりも幼い頃の自分と、今の自分が重なって映っている。
柚希はスマートフォンを手に取った。
一度は零へ写真を送ろうとする。
しかし直前で思い直し、代わりに文章だけを送った。
「制服、見つかったよ。まだ着られた」
すぐに既読がつく。
「写真はないんすか?」
「当日まで見せない」
「少しくらい見たいです」
「ダメ」
「後ろ姿だけでも」
「ダメ」
「袖だけでもいいっす」
「当日まで待って」
「長いっす」
「あと数日でしょ?」
「柚希さんの制服姿を待つ数日は長いです」
「そんなに期待しないで。普通の制服だから」
「柚希さんが着るなら、普通じゃないっす」
柚希は鏡に映る自分を見る。
制服ではなく、その向こう側にいる零へ見つめられているような気がした。
「当日、あんまりじっと見ないでね」
「それは約束できないです」
「零ちゃん、最近ちょっと強くなったよね」
「柚希さんが逃げないって分かったからっす」
柚希の指が止まる。
過去を明かした夜から、零の言葉には少しずつ迷いがなくなっていた。
自分が離れないと、ようやく信じ始めてくれている。
「じゃあ、好きなだけ見ていいよ」
送信した直後、柚希は慌てて文章を読み返した。
取り消そうとしたときには、すでに既読がついていた。
「楽しみにしてるっす」
それ以上の言葉は返ってこなかった。
しかし、画面の向こうで零がどんな顔をしているのか、何となく想像できた。
◇
閉店後のRose。
着替えを済ませた美園は、カウンターの内側から姿を現した。
店内には、陽菜しかいない。
黒を基調とした、落ち着いたメイド服。
白いエプロンと襟元の飾りには上品な刺繍が入り、スカートの裾は美園の膝より少し下まで伸びている。
過剰に肌を見せる衣装ではない。
しかし身体の線は美しく際立ち、普段のドレスとは違う魅力があった。
『どう?』
美園は、その場でゆっくりと一回転する。
スカートの裾が、僅かに広がった。
『美園さん、何でそんなにノリノリなの?』
『やるなら、ちゃんとやった方が楽しいでしょ?』
『似合いすぎ。普通にこのまま営業できそう』
『それは嫌。毎日これを着たら疲れるよ』
『佐藤くん、固まるだろうな』
『そう?』
『絶対、まともに顔を見られなくなるよ』
美園は店内の鏡へ視線を向け、自分の姿を確かめる。
『じゃあ、最初に注文を聞いてみようかな』
『何て?』
『ご主人様、ご注文は?』
美園は両手を身体の前で重ね、僅かに首を傾げた。
普段の落ち着いた声に、わざとらしい甘さが加わる。
陽菜は数秒黙ったあと、額へ手を当てた。
『ダメだ。佐藤くん死んじゃう』
『そのくらいで死なないよ』
『じゃあ、何回言うつもり?』
『反応が面白かったら、何回でも』
『美園さんも大概だよね』
『陽菜にだけは言われたくない』
美園は笑いながらエプロンを整えた。
鏡に映るその顔は、悪戯を思いついた少女のようだった。
昔なら、自分が誰かを喜ばせるために仮装することなど考えなかった。
今も、佐藤のためだけではない。
けれど当日、彼がどんな顔をするのか。
それを楽しみにしている自分がいることを、美園は否定しなかった。
◇
陽菜のナース服が届いたのは、その翌日だった。
白ではなく、淡い桃色のワンピース。
膝上までの丈に、胸元は少し広く開いている。
頭には小さなナースキャップ。
陽菜は自宅の鏡の前で着替えを済ませると、満足そうに腰へ手を当てた。
『うん。可愛い』
自分で言い切り、スマートフォンを手に取る。
全身は見せない。
ナースキャップと襟元だけが映るように写真を撮り、中井へ送った。
『特別に予告』
しばらくして、返事が届く。
「これは、ナース服ですか?」
『そうだよ』
「本番まで秘密ではなかったんですか?」
『全部は見せてないもん』
「十分、気になってしまいます」
『仕事中に想像しちゃダメだよ』
「送ってきたのは陽菜さんです」
『中井くんが勝手に気にしてるんでしょ?』
「そうですが」
『認めるんだ』
「もう、陽菜さんに誤魔化しても意味がないので」
陽菜は声を立てて笑った。
『当日、ちゃんと診てあげるね』
「僕は病気ではありません」
『あたしを見たら、心臓が速くなるかもよ』
「すでに少し速くなっています」
予想していなかった返事に、今度は陽菜の指が止まる。
中井は、以前よりも素直になった。
恥ずかしがりながらも、自分の気持ちを言葉にするようになっている。
『中井くん』
「はい」
『当日、楽しみにしてて』
「はい。楽しみにしています」
陽菜はスマートフォンを胸元へ抱えた。
からかったはずなのに、最後に照れたのは自分の方だった。
◇
ハロウィン前日。
陽菜の机の下には、大きな紙袋が置かれていた。
通りかかった樹里が、その袋へ視線を向ける。
『何ですか、それは』
『明日の荷物』
『中身は』
『秘密』
『まさか、私の衣装ではないでしょうね』
『違うよ』
陽菜は即答した。
嘘ではない。
紙袋に入っているのは、飲み物の飾りや店内で使う小物だった。
チャイナドレスは、すでにRoseへ運び込んである。
樹里は疑うように陽菜を見つめた。
『私は着ませんからね』
『分かってるって』
『その言葉を、明日まで覚えておいてください』
『うん』
陽菜は、笑顔で頷いた。
樹里が自分の席へ戻ったあと、中井が小声で尋ねる。
「本当に、日高さんへ無理強いはしないんですよね?」
『しないよ』
「では、どうするんですか?」
『一度、着てもらうだけ』
「それを無理強いと言うのでは?」
『着替える部屋に入ったら、チャイナ服しか置いてない状態にする』
「陽菜さん」
『大丈夫。本気で嫌がったら、ちゃんと普段着を返すから』
「最初から渡してあげてください」
『それじゃ着てくれないじゃん』
「日高さんが怒っても、僕は助けられませんよ」
『助けてよ。彼氏でしょ?』
「日高さんに怒られている陽菜さんを助けられる人は、この会社にいないと思います」
『美園さんなら止められるよ』
「止めると思いますか?」
陽菜は少し考える。
『思わない』
「僕もです」
中井の予想は正しかった。
その頃、美園はRoseの奥にある部屋で、届いたチャイナドレスをハンガーへ掛けていた。
深い色の生地に、控えめな刺繍。
身体の線を美しく見せる細身の作り。
美園は少し離れたところから、それを眺める。
『絶対、似合うよね』
止める気など、最初からなかった。
チャイナドレスの隣には、美園のメイド服が掛かっている。
さらに、陽菜のナース服を掛けるための場所も空けてあった。
明日の夜。
この店には、いつもとは違う姿をした5人の女性が集まる。
その中で一人だけ、自分が仮装することをまだ認めていない人間がいる。
美園はスマートフォンを手に取り、陽菜へLINEを送った。
『衣装、準備できたよ』
すぐに返信が届く。
『ありがとう。明日、日高先輩だけ少し早めに連れていくね』
『どうやって?』
『美園さんが店の準備を手伝ってほしいって言ってることにする』
『私の名前を勝手に使わないでよ』
『じゃあ、美園さんから頼んで』
『それなら、嘘じゃなくなる?』
『なる』
少し間が空く。
『分かった。私から連絡する』
『やっぱり共犯者じゃん』
『何のことか分からない』
文章の最後には、笑っている顔のスタンプが添えられていた。
美園は改めて、チャイナドレスを見る。
明日、これを見た樹里がどんな顔をするのか。
怒ることは、間違いない。
それでも美園は、陽菜と同じくらいその瞬間を楽しみにしていた。




