195話「着ない」
昼休み前の給湯室で、陽菜は壁に掛けられたカレンダーを見つめていた。
10月31日。
その日付を指先で叩きながら、唐突に口を開く。
『ねえ。ハロウィンやろうよ』
隣でコーヒーを淹れていた凛の手が止まった。
「ハロウィンですか?」
『そう。仮装して、お酒飲んで、みんなで騒ぐの』
「会社でやるんですか?」
『会社でやったら、黒澤部長に怒られるじゃん』
「怒られるだけで済めばいいですけど」
給湯室の入口から、柚希が顔を覗かせる。
「何の話?」
『ハロウィンパーティー。10月31日にRoseを貸し切ってやろうかなって』
「もう美園さんには聞いたの?」
『まだ』
「それ、企画じゃなくて陽菜さんの願望じゃん」
『美園さんなら、いいよって言うもん』
「すごい信頼だね」
『長い付き合いだからね』
陽菜は得意そうに胸を張った。
その背後を、資料を抱えた樹里が通りかかる。
陽菜は逃がすまいと、すぐにその腕を掴んだ。
『日高先輩』
『何ですか』
『10月31日の夜、予定あります?』
『今のところはありません』
『じゃあ決まり。Roseでハロウィンパーティーやるんで、来てください』
樹里は、陽菜に掴まれた腕を見下ろした。
『美園には許可を取りましたか』
『これから取る』
『許可を取る前に人を誘わないでください』
『美園さんは断らないから大丈夫』
『そういう問題ではありません』
樹里は腕を引き抜こうとする。
しかし陽菜は離さなかった。
『仮装ね。日高先輩も』
『着ない』
答えは一瞬だった。
『まだ何を着るか言ってないじゃん』
『何であっても着ない』
『せっかく綺麗な顔してるのに』
『関係ありません』
『絶対似合うよ』
『着ない』
『あたしが選んであげる』
『いらない』
『サイズも大体分かるし』
『櫻井さん』
樹里の声が低くなる。
『私は、着ないと言っています』
『聞こえてるよ』
『では、理解してください』
『理解はしてる』
理解したうえで諦めていない。
陽菜の顔には、そう書いてあった。
樹里は数秒、その目を見つめる。
『……勝手なことをしないでください』
『しないしない』
『信用できません』
『ひどい』
『日頃の行いです』
樹里はそれだけ言い残し、給湯室を出ていった。
足音が遠ざかるまで待ってから、柚希が陽菜を見る。
「絶対、何か用意するつもりでしょ」
『もちろん』
「日高先輩、本気で嫌がったら怒るよ」
『そこは間違えないって。本当に嫌がったら、ちゃんとやめるよ』
「その前に、一回は着せるつもりなんですね」
『着てから決めてもらう』
「それ、着せられることは確定してませんか?」
『大丈夫。絶対似合うから』
陽菜は、自信満々だった。
柚希は呆れながらも、少しだけ興味を惹かれている。
「ちなみに、何を着せるの?」
『当日まで秘密』
「私たちも?」
『もちろん決めるよ』
「今からですか?」
凛が僅かに身構える。
陽菜はゆっくりと、その全身へ視線を走らせた。
『凛ちゃんは、バニーガール』
「嫌です」
凛も即答だった。
『絶対似合う』
「似合うかどうかではなく、嫌です」
『脚綺麗だし、スタイルいいし』
「人の話を聞いてください」
『青柳くんにも見せてあげようよ』
「青柳さんは関係ありません」
『本当に?』
「関係ありません」
『じゃあ、青柳くんには写真送らないんだ』
「それは……」
凛の声が止まる。
陽菜の口元が、ゆっくりと上がった。
『送らないんだ?』
「まだ、着るとは言っていません」
『衣装は自分で選んでいいよ。露出も、凛ちゃんが無理じゃない範囲で』
「そういう問題では……」
『無理やり変なのは買わないから。自分で選べるなら、いいでしょ?』
「良くはありません」
『でも、嫌とも言い切れなくなってる』
凛はコーヒーカップを持ち上げ、陽菜から顔を背けた。
耳が僅かに赤くなっている。
陽菜は、すでに了承を得たものとして柚希へ向き直った。
『柚希ちゃんは制服』
「制服?」
『高校のときの、まだ持ってる?』
「実家にあると思うけど……」
『じゃあ、それ持ってきて』
「今の私が着たら、さすがに無理がない?」
『大丈夫。柚希ちゃん童顔だし』
「褒められてる気がしない」
『零、絶対喜ぶよ』
「どうして零ちゃんが出てくるの」
『恋人に見せないで誰に見せるの?』
「みんなにも見られるじゃん」
『零だけ見方が違うでしょ』
柚希の頬が赤くなる。
「……一度、実家で探してみる」
『決まり』
「見つからなかったら、普通の服で行くからね」
『見つかるよ』
「何で陽菜さんが分かるの?」
『こういうときの制服は、絶対捨ててないから』
「どういうときの制服?」
柚希の問いに答えないまま、陽菜は自分の衣装を考え始めた。
『あたしはナースにしようかな』
「自分だけ普通に似合いそうなものを選ぶんですね」
凛が不満そうに言う。
『何で? 凛ちゃんのバニーも似合うよ』
「そこではありません」
『ナースの陽菜さん、治療されると悪化しそう』
柚希が笑う。
『失礼だなあ。ちゃんと診てあげるよ』
「何をされるか分からないから嫌なんです」
『大丈夫。“手遅れですね”って言ってあげるだけ』
「何も診てないじゃん」
給湯室に、柚希の笑い声が響いた。
◇
その日の夜。
Roseのカウンターで話を聞いた美園は、予想どおり断らなかった。
『いいよ』
『ほらね』
『ただし、片づけまでちゃんとやってよ。騒ぐだけ騒いで帰ったら、次から貸さないからね』
『もちろん。料理は?』
『簡単なものなら作るよ。飲み物もこっちで用意する』
『さすが美園さん。大好き』
『こういうときだけ調子がいいんだから』
美園は呆れながらも、どこか楽しそうだった。
陽菜はカウンターへ身を乗り出す。
『美園さんも仮装してね』
『私も?』
『店の人が普通の格好じゃ、雰囲気出ないじゃん』
『私は裏方でいいよ』
『ダメ。もう決めたから』
『今決めたでしょ』
『美園さんはメイドね』
美園が瞬きをする。
『メイド?』
『うん。絶対似合う』
美園は少しだけ考える。
嫌がるどころか、どこか楽しそうに目を細めた。
『いいね』
『乗り気じゃん』
『やるなら中途半端は嫌だから。店にも合いそうだし』
『佐藤くんも喜ぶよ』
『佐藤くんのために着るわけじゃないよ』
『まだ何も言ってないのに、佐藤くんが見るところまで想像したんだ』
『陽菜』
『はい』
『店、貸さないよ』
『ごめんなさい』
陽菜は即座に謝った。
美園はため息をつきながら、カウンターに置いていたスマートフォンを手に取る。
『佐藤くんも誘えばいいんでしょ?』
『さすが。話が早い』
『衣装のことは言わなくていいよね』
『当日まで秘密にした方が、佐藤くんも喜ぶかも』
『じゃあ、黙っておく』
美園は佐藤とのLINEを開き、短い文章を送った。
『10月31日の夜、Roseでハロウィンパーティーをすることになったんだけど、来られる?』
返事は、驚くほど早かった。
「行きます。何時に伺えばいいですか?」
美園の口元が僅かに緩む。
その変化を、陽菜は見逃さなかった。
『まだ数秒しか経ってないよ』
『偶然スマートフォンを見てたんでしょ』
『へえ』
『何?』
『別に』
陽菜は笑いを堪えながら、自分も中井へLINEを送った。
『10月31日、仕事終わったらRoseに集合ね』
間もなく返事が届く。
「何かあるんですか?」
『ハロウィンパーティー』
「分かりました。参加します」
『あたし、仮装するから』
少しだけ間が空く。
「陽菜さんがですか?」
『ナース』
今度は、先ほどよりも長く返事が来なかった。
『想像した?』
「していません」
『返信遅かったよ』
「仕事をしていました」
『今、家じゃん』
「明日の準備です」
『中井くん、分かりやすいね』
「……楽しみにしています」
画面を見つめた陽菜の口元が、大きく緩む。
美園がその顔に気づいた。
『何て?』
『楽しみにしてるって』
『よかったね』
『当日、見た瞬間に固まったら面白いな』
『普通に見せてあげられないの?』
『それじゃ、あたしらしくないじゃん』
『自分で言うんだ』
美園は笑いながら、棚から新しいグラスを取り出した。
◇
翌日の休憩時間。
柚希は零へLINEを送った。
「10月31日、Roseでハロウィンパーティーをするんだって。零ちゃんも一緒に行かない?」
返事はすぐに届いた。
「行きたいっす」
「よかった。私は仮装することになりそう」
「何を着るんすか?」
「昔の制服。まだ実家に残ってたらだけど」
既読がついたまま、しばらく返事がない。
「零ちゃん?」
「すみません。想像してたっす」
「正直に言わなくていいから」
「絶対見たいです」
「見つからなかったら諦めてね」
「一緒に探しに行きたいくらいっす」
「実家だよ?」
「玄関で待ってます」
「そこまでしなくても探してくるよ」
柚希は呆れながらも、嬉しそうに笑った。
「零ちゃんは仮装しないの?」
「自分は普通の服で行くっす」
「何か着ても似合いそうだけど」
「今回は、柚希さんを見る側がいいです」
「当日、あんまり見ないでね」
「無理っす」
「そこは努力してよ」
「努力はします。でも、約束はできないです」
零の返信を読み、柚希は熱くなった頬を片手で覆った。
◇
凛は青柳とのLINEを開いたまま、文章を何度も書き直していた。
誘いたい。
けれど青柳は先日、保護猫カフェへ行くために東京へ来たばかりだった。
名古屋から東京までは、気軽に往復できる距離ではない。
仕事もある。
分かっているからこそ、送信する指が止まっていた。
迷った末、凛は短い文章を送る。
「10月31日に、陽菜さんたちとRoseでハロウィンパーティーをすることになりました。青柳さんも、もし都合が合えば来ませんか?」
既読がついたのは、数分後だった。
しかし、返事はすぐには届かなかった。
代わりに、着信画面へ青柳の名前が表示される。
凛は姿勢を正してから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「凛さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです」
「ハロウィンの件ですが」
「はい」
「誘っていただけて、嬉しいです」
その言葉のあとに続くものを、凛は何となく察した。
「ただ、翌朝からこちらで外せない予定があります。今回は東京へ行くのが難しそうです」
「そうですよね」
凛は、努めて明るく答えた。
「この前も来ていただいたばかりですから。気にしないでください」
「すみません」
「謝らないでください。無理かもしれないと思いながら誘ったので」
「それでも、誘ってもらえて嬉しかったです」
「……はい」
「凛さんも、仮装するんですか?」
「まだ決めていません」
衣装は自分で選べと言われた。
しかし、バニーガールを着ることまで承諾したつもりはない。
「何を勧められたんですか?」
「言いたくありません」
「余計に気になります」
「気にしないでください」
「そう言われると、もっと気になります」
電話の向こうで、青柳が僅かに笑った。
凛はしばらく黙ったあと、観念して答える。
「……バニーガールです」
青柳からの返事が途絶えた。
「青柳さん?」
「はい」
「聞こえていますか?」
「聞こえています」
「何か言ってください」
「今、想像しないようにしています」
「しなくていいです」
「難しいです」
凛の頬が熱くなる。
「まだ着るとは決めていません」
「そうですか」
「残念そうにしないでください」
「すみません」
「もし着たら……」
凛はそこで言葉を止めた。
「もし着たら?」
「写真くらいは、送ります」
「本当ですか?」
「まともに撮れたものがあればです」
「楽しみにしています」
「私が個人的に送った写真は、他の人に見せないでください」
「もちろんです」
「佐藤さんにもです」
「見せません」
「絶対ですよ」
「約束します」
会場では、佐藤や神谷にも仮装姿を見られる。
それは避けられない。
けれど自分が青柳のために選び、青柳だけに送る一枚は、二人だけのものにしたかった。
「青柳さん」
「はい」
「本当は、少し会いたかったです」
声にしたあとで、凛は唇を結んだ。
「私も会いたかったです」
青柳はすぐに答えた。
「次に会える日は、早めに連絡します」
「無理はしないでください」
「はい。でも、会う努力はさせてください」
「……分かりました」
会えないことが、寂しくないわけではない。
それでも、寂しさを理由に相手の仕事を曲げさせたくはなかった。
離れていることを責めるのではなく、離れたまま共有できるものを一つずつ増やしていく。
それが今の二人にできる、恋人としての歩き方だった。
◇
午後の業務が一段落した頃、陽菜は営業部へ戻ってきた神谷を呼び止めた。
『神谷さん』
「はい」
『10月31日の夜、空いてます?』
「今のところ、予定はありません」
『Roseでハロウィンパーティーするんです。来てください』
「分かりました」
『即答ですね』
「皆さんが参加するのであれば、私だけ断る理由もありませんから」
『じゃあ、もう一つお願い』
「何でしょうか」
『日高先輩を誘ってください』
「……日高さんを?」
『あたしが誘うと、仮装させられると思って警戒するから』
「実際、させるつもりなのでは?」
『それはそれ。これはこれ』
「櫻井さん」
『神谷さんから、来てほしいって言って』
「なぜ私が」
『日高先輩、神谷さんにそう言われたら断れないから』
神谷が黙る。
陽菜は、その沈黙を拒否とは受け取らなかった。
『伝言みたいに言ったらダメですよ。“櫻井さんが来いと言っています”じゃなくて、神谷さんが来てほしいって言うの』
「私は、そのような言い方は――」
『お願いします』
陽菜は両手を合わせた。
神谷は、少し離れた席で資料を確認している樹里を見る。
しばらく迷ったあと、静かに息を吐いた。
「……分かりました」
『やった』
「ただし、仮装を無理強いすることには協力しません」
『大丈夫。仮装するのは女性だけだから、神谷さんは普通の服で来てください』
「そういう意味ではありません」
『分かってます』
陽菜は笑顔だけを残し、自分の席へ戻っていった。
◇
神谷は樹里の席へ向かった。
「日高さん」
『はい』
「10月31日の夜ですが、予定はありますか?」
樹里は書類から顔を上げる。
『櫻井さんにも、同じことを聞かれました』
「そうですか」
『ハロウィンの件ですね』
「はい」
『神谷さんも行かれるんですか』
「参加しようと思っています」
『そうですか』
樹里は再び書類へ視線を戻しかける。
神谷は、そこで会話を終わらせなかった。
「日高さんも、来ていただけませんか」
樹里の手が止まる。
『陽菜に頼まれましたか』
図星だった。
神谷は一瞬だけ迷い、それでも誤魔化さなかった。
「きっかけは、櫻井さんです」
『やはり』
「ですが、私が来てほしいと思っているのも本当です」
樹里が顔を上げる。
神谷は、逃げずにその目を見ていた。
「日高さんがいる方が、私は楽しいと思います」
樹里は何も答えなかった。
けれど、その指先が書類の端を僅かに撫でる。
『……分かりました』
「来ていただけますか」
『予定は空いていますから』
「ありがとうございます」
『ただし』
樹里の声が低くなる。
『仮装はしません』
「そこは櫻井さんと話してください」
『神谷さんからも止めてください』
「私に止められるでしょうか」
『止めてください』
「努力します」
断言しなかった神谷を、樹里は少しだけ睨んだ。
離れた席から様子を窺っていた陽菜が、机の下で小さく拳を握る。
参加は決まった。
それで十分だった。
◇
その夜。
陽菜は自宅のベッドに寝転び、スマートフォンの画面を眺めていた。
表示されているのは、仮装用衣装を扱う通販サイトだった。
自分のナース服は、すでに注文してある。
美園は自分でメイド服を探すと言っていた。
柚希は実家から制服を持ってくる。
凛も文句を言いながら、きっと自分で納得できるバニーガールを探すだろう。
残っているのは、一人だけだった。
陽菜の画面には、深い色合いのチャイナドレスが映っている。
派手すぎない。
けれど、樹里が着れば間違いなく目を引く。
長い裾にはスリットが入り、身体の線を美しく見せる作りになっていた。
陽菜は美園へLINEを送る。
『ねえ、美園さん。総長の今のサイズって、昔とそんなに変わってないよね?』
すぐに既読がついた。
『何を着せるつもり?』
『秘密』
『本人は着ないって言ってるんでしょ』
『言ってた』
『怒られるよ』
『本気で嫌がったら、最後はちゃんとやめるよ』
少し間を置いて、美園から返信が届く。
『昔と、ほとんど変わってないと思う』
陽菜は笑った。
『ありがとう。共犯者』
『私は何もしてないからね』
『サイズ教えてくれたじゃん』
『聞かれたことに答えただけ』
『そういうことにしておく』
陽菜は商品ページへ戻る。
頭の中で、チャイナドレスを着た樹里の姿を想像した。
きっと似合う。
そして、間違いなく怒る。
それでも最後には、呆れながら自分たちの輪の中へ座る。
そこまで想像して、陽菜は迷うことなく画面を押した。
注文が確定する。
その頃、何も知らない樹里は自宅で小さなくしゃみをした。
『……風邪か』
違う。
原因は、もっと近くにいる。
そして確実に、風邪よりも厄介だった。




