194話「背負っていた名前」
閉店後のRoseには、グラスを拭く音だけが残っていた。
カウンターには樹里と陽菜が並んで座っている。
その向かいに美園が立ち、少し離れた席には零がいた。
客はもういない。
4人だけになった店内で、零は膝の上に置いた両手を何度も組み直していた。
『それで、話って何?』
美園がグラスを棚へ戻しながら尋ねる。
零は顔を上げた。
「柚希さんに、自分の過去を話したいっす」
樹里の視線が、静かに零へ向く。
陽菜は驚かなかった。
いつか零がそう言い出すのではないかと、どこかで思っていた。
『Rose girlsのこと?』
「はい」
零は頷いた。
「自分があのチームにいたことも、何をしていたのかも……全部は無理でも、隠したまま付き合いたくないっす」
『柚希ちゃんに聞かれたの?』
「聞かれてないです」
『だったら、急ぐ必要はないんじゃない?』
陽菜の言葉は、零を止めるためのものではなかった。
誰かに促されたのではなく、零自身が決めたことなのか。
それを確かめている。
「この前、柚希さんの家に行ったとき、昔のことを話してくれたっす」
かつて、一人の男を本気で好きだったこと。
その気持ちを都合よく扱われ、傷ついたこと。
それでも、好きだった自分まで簡単には捨てられなかったこと。
「柚希さんは、自分には話したくなかったことまで話してくれたっす」
零の指先に力が入る。
「それなのに自分だけ、何も知らない顔をして隣にいるのは嫌です」
美園が手を止めた。
『零』
「はい」
『話したら、柚希ちゃんとの関係が変わるかもしれないよ』
零の顔が僅かに強張る。
「……怖いっす」
『うん』
「せっかく付き合えたのに、怖がられるかもしれない。今までと同じようには見てもらえなくなるかもしれないっす」
零は一度俯き、それから顔を上げた。
「でも、黙ったまま隣にいる方が、もっと怖いです」
陽菜が、僅かに笑った。
からかうときの笑顔ではなかった。
『そっか』
それだけ言うと、陽菜は樹里を見る。
零の過去を話すということは、零一人の話では終わらない。
当時の総長と副総長。
そして、その始まりから終わりまでを共にした美園。
3人の過去にも触れることになる。
零が今夜ここへ来たのは、その許可を得るためだった。
「総長」
『私に許可を取る必要はない』
樹里は迷わず答えた。
『お前が生きてきた時間は、お前のものだ。誰に何を話すかまで、私が決めることではない』
「でも、総長たちのことも話すことになるっす」
『構わない』
零は次に、美園を見る。
『私もいいよ』
美園が答える。
『ただし、格好よく話す必要はないからね』
「格好よく?」
『私たちは、綺麗なことばかりしてきたわけじゃない。都合の悪いところだけ隠したら、結局また隠し事になる』
「……はい」
『だからって、一晩で全部を背負わせる必要もないよ。零が話せるところから、自分の言葉で話せばいい』
最後に、陽菜が口を開いた。
『あたしのことも話していいよ』
「陽菜さん」
『中井くんにも話したから。零にだけ黙ってろなんて言わない』
陽菜はカウンターへ頬杖をつく。
『ただ、柚希ちゃんの反応を勝手に決めないこと』
「……反応を?」
『嫌われるとか、怖がられるとか。まだ何も言われてないのに、零が先に答えを作っちゃダメでしょ』
零は黙って陽菜を見る。
『柚希ちゃんがどう受け取るかは、柚希ちゃんが決めることだから』
「はい」
樹里が席を立った。
零の前まで来ると、その肩へ片手を置く。
『逃げずに話せ』
「はい」
『それから、自分を必要以上に悪く言うな。相手に嫌われるための告白なら、する意味はない』
零の目が僅かに見開かれた。
『お前が何をしてきたかも、今どう生きているかも、どちらも隠さず話せばいい』
「……はい」
返事とともに、零は深く頭を下げた。
その姿を見ながら、美園が小さく息を吐く。
『本当に、変わったね』
誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。
零かもしれない。
樹里かもしれない。
あるいは、この場にいる全員のことだったのかもしれない。
◇
翌日の夜。
零は柚希を、小さな公園へ呼び出した。
夕食へ行く約束はしていない。
楽しい時間の最後に話そうとすれば、きっと言い出せなくなる。
そう思ったから、最初から話をするためだけに呼んだ。
ベンチに並んで座っても、零はなかなか口を開けなかった。
柚希も急かさない。
ただ、落ち着かない様子の零を横から見ていた。
「零ちゃん」
「はい」
「話したいことがあるんだよね?」
「……はい」
「ゆっくりでいいよ」
零は膝の上で拳を握った。
「柚希さんに、話してないことがあるっす」
「昔のこと?」
零が顔を上げる。
「どうして、そう思ったんすか」
「何となく」
柚希は前を向いたまま答えた。
「零ちゃん、ときどき遠くを見るような顔をするから。樹里先輩や陽菜さん、美園さんと一緒にいるときも、私たちとは少し違う感じがしてた」
「違う感じ……」
「仲が良いだけじゃないっていうか……同じものを知ってる人たちの空気みたいなもの」
柚希は言葉を探しながら続ける。
「4人だけで目が合って、何も話してないのに分かり合ってるときがあるでしょ?」
零は答えられなかった。
隠していたつもりだった。
けれど柚希は、名前も事情も知らないまま、その輪郭だけを感じ取っていた。
「だから、いつか話してくれるのかなとは思ってた」
「……気づいてたんすか」
「何となくだよ。何があったのかまでは、全然分からないけど」
零は一度息を吐いた。
震えていた拳を開き、膝の上へ置き直す。
「自分、昔はバイクのチームにいたっす」
「うん」
「Rose girlsという名前です」
その名前を口にした瞬間、零の背筋が伸びた。
懐かしさだけではない。
誇りも、痛みも、後悔もある。
零にとってその名は、今も簡単には扱えないものだった。
「ただ集まって走ってただけじゃないです。喧嘩もしたし、他のチームとぶつかったこともあるっす。人を怖がらせたことも、傷つけたこともあります」
「うん」
「陽菜さんも、美園さんも、そこにいたっす」
「やっぱり、そうなんだ」
柚希の声に、驚きはなかった。
零は戸惑いながら、その横顔を見る。
「驚かないんすか」
「少しは驚いてるよ。でも、全然考えたことがなかったわけじゃないから」
「樹里さんが、総長でした」
「……それも、何となく分かるかも」
「それまで分かるんすか」
「だって、零ちゃんたちが日高先輩を見るとき、普通の先輩を見る目じゃないもん」
柚希は僅かに笑った。
「陽菜さんなんて、普段はあんなに日高先輩をからかってるのに、本当に大事なときだけ目が変わるし」
「よく見てるんすね」
「近くにいたら、何となく気づくよ」
笑みを消し、柚希は零へ身体を向けた。
「零ちゃんは、その話をするのが怖かったの?」
「怖かったっす」
「私に嫌われると思った?」
「……はい」
「どうして?」
「どうしてって……」
「私は、零ちゃんが昔どんなことをしてたか知らない。今聞いたことだって、まだほんの一部だと思う」
「はい」
「でも、それを聞いたからって、今の零ちゃんまで急に別の人になるわけじゃないでしょ?」
零は何も言えなかった。
柚希は、自分の膝へ視線を落とす。
「誰にだって、できれば話したくない過去はあるよ」
その声が、少しだけ小さくなる。
「私だって、昔好きだった人に都合よく扱われてたことなんて、できれば話したくないもん」
「柚希さん……」
「今思い出しても、恥ずかしいよ。どうしてあんな人を好きだったんだろうって思うし、周りから見たら馬鹿だったと思う」
柚希は自嘲するように笑った。
「でも零ちゃんは、私を馬鹿にしなかったでしょ?」
「するわけないです」
「うん。だから私も、零ちゃんが話したくなかったことを、話してくれたことの方を大事にしたい」
「でも、自分がしてきたことは、柚希さんの話とは違うっす」
「同じだとは言ってないよ」
柚希は穏やかに否定した。
「重さも、内容も違うと思う。私はまだ、全部を知ったわけでもないし」
零の表情が僅かに強張る。
けれど、柚希は目を逸らさなかった。
「だから、これから教えて」
「……え」
「話せるときでいいから。楽しかったことも、後悔してることも、樹里先輩たちとのことも」
「怖くないんすか」
「零ちゃんが?」
「はい」
「怖くないよ」
答えは、あまりにも自然だった。
「だって私は、もう零ちゃんを知ってるもん」
「柚希さんが知ってる自分は、今の自分だけです」
「今の零ちゃんを作ったのは、その昔の零ちゃんなんでしょ?」
零の目が揺れる。
「だったら、別々にはできないよ」
柚希はベンチの上に置かれた零の手へ、自分の手を重ねた。
「昔のことを全部なかったことにする必要もないし、それだけで今の零ちゃんまで悪い人にする必要もないと思う」
「……そんな簡単に、受け入れていいんすか」
「簡単じゃないよ」
柚希は少しだけ頬を膨らませた。
「私、前からずっと考えてたんだから」
「前から?」
「零ちゃんと3人の間には、何があるんだろうって」
重ねた手に、僅かに力が入る。
「それでも、零ちゃんが話すまで待とうって決めてた」
「どうして聞かなかったんすか」
「零ちゃんが話したくないことを、私が知りたいからって無理に聞くのは違うでしょ?」
零は俯いた。
自分はずっと、柚希に知られることを怖がっていた。
けれど柚希は、すでに何かがあると気づきながら、それでも傍にいた。
聞き出そうともせず、離れようともせず。
零が自分から話せる日を、静かに待っていた。
「……すみません」
「どうして謝るの?」
「柚希さんのこと、信じてなかったわけじゃないんす」
「分かってるよ」
「でも、嫌われるのが怖くて」
「それも分かってる」
「ずっと、言えなかったっす」
「今日、言ってくれたじゃん」
柚希は零の手を握る。
「それで十分だよ」
零の目に、薄く涙が浮かんだ。
「柚希さん」
「なに?」
「手、握り返してもいいっすか」
「もう握ってるよ」
「今は柚希さんが、自分の手を握ってるだけです」
「同じじゃない?」
「違うっす。自分から握りたいです」
柚希は少しだけ笑った。
「じゃあ、握って」
零の指が、恐る恐る柚希の指へ絡む。
拒まれなかった。
それだけで、零の頬を一粒の涙が伝った。
「零ちゃん」
「はい」
「いつか、昔の写真も見せてね」
「……写真?」
「バイクに乗ってたんでしょ?」
「乗ってましたけど」
「格好よかったんだろうな」
「今も乗ってますよ」
「その頃とはまた違うでしょ?」
「だいぶ格好つけてたので、今見ると恥ずかしいです」
「ますます見たくなった」
「絶対笑うじゃないですか」
「笑わないよ」
「今、もう笑ってるっす」
「これは、零ちゃんが可愛いから」
零の顔が一気に赤くなる。
重かった空気が、少しずつほどけていった。
過去を話しても、起きたことが消えるわけではない。
何もかもが許されるわけでもない。
それでも、隠していた名前を明かしたあとにも、柚希の手は零の手の中にあった。
「柚希さん」
「なに?」
「自分、柚希さんのことが好きっす」
「知ってる」
「もう一回、言っておきたかったです」
「じゃあ、私ももう一度言うね」
柚希が、零の肩へそっと寄り添う。
「私も、零ちゃんが好き」
柚希は、過去を知らなかったのではない。
名前も形も分からないまま、零の背後に何かがあることを感じていた。
それでも、零自身が差し出すまで待っていた。
そして今夜。
零がようやく差し出した過去を、柚希は驚くことなく受け取った。
手放すためではない。
これからも、その手を握っているために。




