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193話「ロシアンブルー」

日曜日の午前11時。


 凛が待ち合わせ場所へ着くと、青柳はすでに改札の前に立っていた。


 約束の時間までは、まだ15分ほどある。


 青柳は柱の近くでスマートフォンを見ていたが、近づいてくる凛に気づき、すぐに顔を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます。お待たせしました」


「いえ。僕も、今来たところです」


 青柳はそう答えたあと、凛の姿を静かに見た。


 淡い色のニットに、膝下まであるスカート。


 小さなバッグを肩へ掛けている。


 会社の制服でも、Roseで働くときの服でもない。


 柔らかい雰囲気の私服だった。


「……どうしました?」


 見られていることに気づき、凛が自分の服へ視線を落とす。


「何か、おかしいですか」


「いいえ」


 青柳は一度、言葉を選ぶように口を閉じた。


「綺麗だと思って、見惚れていました」


 凛の顔が、一気に赤くなる。


「ただの私服です」


「僕にとっては、ただの私服ではありません」


「そういうことを、急に言わないでください」


「すみません」


「謝ってほしいわけではありません」


 凛は困ったように俯き、青柳の横を通り過ぎる。


「行きましょう。予約の時間に遅れます」


「まだ余裕はあります」


「それでもです」


 凛の歩く速度が、いつもより僅かに速い。


 青柳はその隣へ並び、口元を小さく緩めた。


 ◇


 保護猫カフェは、駅から歩いて10分ほどの場所にあった。


 大通りから一本入った、静かな通り。


 木製の扉には、猫の形をした小さな看板が掛けられている。


 店内へ入ると、スタッフから注意事項の説明を受けた。


 猫を追いかけない。


 嫌がっているときには触らない。


 抱き上げる場合は、必ずスタッフへ確認する。


 眠っている猫を無理に起こさない。


 凛は真剣な表情で頷いている。


 青柳も同じように説明を聞き、消毒を済ませた。


 二重扉の先へ入った瞬間、1匹の茶トラが凛の足元へ近づいてきた。


「わ……」


 凛の声が明るくなる。


 茶トラは警戒する様子もなく、凛の足へ頭を擦りつけた。


 尻尾が真っ直ぐに立っている。


「人懐っこい子ですね」


 青柳が腰を屈める。


「はい。尻尾を立てて近づいてくれるのは、好意を持ってくれていることが多いです」


「触っても大丈夫でしょうか」


「いきなり上から触らずに、先に手の匂いを嗅いでもらうといいですよ」


 凛は人差し指を、茶トラの鼻先へゆっくり近づける。


 猫は指の匂いを嗅ぎ、自分から頬を寄せた。


「こんな感じです」


「分かりました」


 青柳も同じように手を差し出す。


 茶トラは一度匂いを確かめたあと、その手にも頭を擦りつけた。


「受け入れてもらえました」


「よかったですね」


 凛が笑う。


 会社にいるときよりも、Roseにいるときよりも、表情が柔らかい。


 猫へ向ける目には、子供のような輝きがあった。


 青柳は茶トラへ触れながら、何度も凛の横顔を見ていた。


「この子、ずいぶん甘え上手ですね」


「茶トラは、比較的人懐っこい子が多いと言われています。もちろん、性格はそれぞれですけど」


「人懐っこくて、甘え上手ですか」


「はい」


 青柳は茶トラを見る。


 誰に対しても臆することなく近づき、相手が構える前から懐へ入る。


 撫でられれば、当然のように受け入れる。


「櫻井さんみたいですね」


 凛が一瞬黙り、それから吹き出した。


「陽菜さんですか」


「はい」


「確かに。似ています」


 茶トラは2人が笑っている間も気にせず、凛の膝へ前足を掛けた。


「自分が可愛いことも、分かっていそうです」


「ますます陽菜さんですね」


「陽菜さんに話したら、喜ぶと思います」


「どうでしょう。“私は猫より可愛い”と言いそうです」


「言いそうですね」


 2人は顔を見合わせ、もう一度笑った。


 ◇


 茶トラが別の客のところへ移ると、凛と青柳は店の奥へ進んだ。


 窓際には、長い毛を持つ猫が寝そべっている。


 近づいても逃げない。


 だが、こちらから距離を詰めると、僅かに顔を背けた。


 凛はそれ以上近づかず、少し離れた場所へ座る。


「触らないんですか」


「今は、1人でいたそうなので」


「逃げてはいません」


「逃げないことと、触ってほしいことは別です」


 凛が手を膝へ置く。


「ここで待って、自分から来てくれたら触ります」


「なるほど」


 2人が距離を置いて待っていると、長毛の猫はゆっくりと身体を起こした。


 欠伸をひとつする。


 それから凛の近くまで歩いてきたが、触れられる直前の場所で止まった。


「近くには来るんですね」


「気にはなっているんだと思います」


「でも、自分からは甘えない」


「そういう子もいます」


 青柳が猫を見る。


「森下さんですね」


「彩花さんですか?」


「気にはしているのに、興味がない顔をします」


「似ています」


「こちらから近づきすぎると、離れるところも」


「でも、本当に困っているときには、近くにいてくれます」


「では、やはり森下さんです」


 長毛の猫が、凛のスカートの端へ前足を載せた。


 凛はすぐには触らない。


 猫がもう一歩近づいてから、顎の下へそっと指を伸ばした。


「彩花さんも、これくらい待てば甘えてくれるでしょうか」


「本人の前では言わないでください」


「言いません」


「陽菜さんにも内緒です」


「櫻井さんに知られたら、会社中へ広がりそうですね」


「間違いなく広がります」


 ◇


 店内を見て回っていると、奥から丸々とした雄猫が現れた。


 足は短く、歩く速度も遅い。


 客には目もくれず、スタッフが餌を用意している場所へ真っ直ぐ向かっていく。


 凛と青柳は、その姿を目で追った。


「……黒澤部長ですね」


 今度は、凛から言った。


 青柳が口元を押さえる。


「僕も、同じことを考えました」


「迷いがありませんでした」


「食べ物がある場所へ向かうときだけ、動きが早いところが似ています」


「聞こえたら怒られますよ」


「凛さんが先に言いました」


「青柳さんも同意したじゃないですか」


「では、共犯ですね」


 雄猫は餌の前へ座り、スタッフを見上げて鳴いている。


「武勇伝も始まりそうです」


「猫の集会を仕切っていそうですね」


「若い頃は、もっと細かったと言うんでしょうか」


「絶対に言います」


 凛は耐えきれず、声を抑えて笑った。


 青柳は、そんな凛を見ていた。


 猫のことを話す凛は、言葉が止まらない。


 いつもなら口にする前に考えることも、今日は次々と声になる。


 誰かへ説明することを遠慮しない。


 自分が楽しいことを隠さない。


 青柳が見たかったのは、この姿だった。


「青柳さん」


「はい」


「さっきから、猫より私を見ていませんか」


 指摘され、青柳は僅かに目を逸らした。


「見ています」


「否定しないんですね」


「猫を見に来ましたが、凛さんに会いに来たので」


 凛の頬が赤くなる。


「私は、猫の説明ばかりしています」


「聞きたいです」


「つまらなくないですか」


「楽しそうに話す凛さんを見ているのが、楽しいです」


 凛は返す言葉を失った。


 青柳は、気を遣って褒めているのではない。


 分からないから教えてほしいと、凛の言葉を待っている。


 仕事では、青柳が人を支える側にいた。


 凛も、何度も助けられた。


 だが、今日は違う。


 青柳が知らないことを、凛が教える。


 凛が歩く方へ、青柳がついてくる。


 どちらか一方だけが、相手を導く関係ではない。


「では、次の子も説明しますね」


「お願いします」


 凛は嬉しそうに歩き出した。


 ◇


 店の奥。


 天井近くまであるキャットタワーの最上段に、1匹の猫が座っていた。


 青灰色の短い毛。


 すらりとした身体。


 淡い緑色の瞳が、店内を静かに見下ろしている。


 人が近づいても騒がない。


 逃げもしない。


 誰にも媚びず、高い場所から全体を見ている。


 凛と青柳は、揃って足を止めた。


「ロシアンブルーですね」


 凛が声を落とす。


「綺麗な猫ですね」


「はい。警戒心が強い子もいますけど、信頼した相手にはとても愛情深いと言われています」


「静かですね」


「今も、全部見ているんだと思います」


 ロシアンブルーは、鋭い目で2人を見下ろしている。


 鳴かない。


 近づいても来ない。


 だが、こちらから目を逸らすこともない。


 青柳と凛の声が重なった。


「日高先輩だ」


 互いの顔を見る。


 凛が先に笑った。


「同じことを考えましたね」


「似すぎています」


「本人が聞いたら、どんな顔をするでしょう」


「猫と一緒にするなと言うと思います」


「でも、綺麗な猫ですよ」


「そこを強調しても、喜んではくれないでしょうね」


「そうですね」


 2人はキャットタワーを見上げる。


 ロシアンブルーは、まだ同じ場所にいる。


 凛がゆっくりと手を差し出しても、降りてはこなかった。


「やはり、簡単には近づいてくれませんね」


「日高先輩ですから」


「待てば来てくれますか?」


「どうでしょう」


 凛は少し考える。


「でも、本当に困ったときには、自分から降りてくると思います」


「日高先輩も?」


「はい。以前は、何も言わずに1人で動いていたと思います」


 青柳は、凛の横顔を見る。


「今は違いますか」


「少しずつですけど」


 凛はロシアンブルーを見上げたまま答える。


「自分から助けてほしいとは、まだ言えないかもしれません。でも、誰かが隣に立つことを、前ほど拒まなくなったと思います」


「神谷さんがいるからでしょうか」


「神谷さんだけではありません」


 凛の声は穏やかだった。


「陽菜さんや美園さん。それから、会社のみんながいるからだと思います」


「その中に、凛さんもいますね」


「私は……」


「日高先輩のことを、よく見ています」


 青柳が静かに続ける。


「それに、凛さんが見ていることを、日高先輩も知っていると思います」


 凛はすぐには答えなかった。


 樹里から何かを頼られた記憶は、多くない。


 それでも、仕事を教えてもらった。


 間違えたときには叱られた。


 傷ついたときには、誰にも見えないところで手を差し伸べてもらった。


 自分が思っているよりも、すでに近くへ置いてもらえているのかもしれない。


「そうだと、嬉しいです」


 凛が小さく笑った。


 そのとき、最上段にいたロシアンブルーが動いた。


 一段下へ降りる。


 それから、もう一段。


 すぐ近くまでは来ない。


 だが、先ほどより確実に距離が縮まった。


「降りてきましたね」


「はい」


 凛は手を伸ばさず、そこで待った。


 ◇


 店を出たあと、2人は近くの飲食店へ入った。


 食事の間も、話題のほとんどは猫だった。


「あの茶トラちゃん、可愛かったですね」


「櫻井さんに似ていた猫ですか」


「その言い方をすると、陽菜さんが可愛いと言っているみたいです」


「実際、見た目は綺麗な方だと思います」


「青柳さんから言わないでください。絶対に本人へ伝えます」


「なぜですか」


「陽菜さんを調子に乗らせないためです」


「では、秘密にします」


「お願いします」


 青柳が真面目に頷く。


 凛はまた笑った。


 食事を終えて店を出る頃には、外は夕方になっていた。


 駅へ向かう道を、2人でゆっくり歩く。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。誘ってくださって、ありがとうございました」


「楽しめましたか」


「はい。すごく」


 凛は迷わず答えた。


「青柳さんが猫に詳しくないのは、少し意外でしたけど」


「勉強してから行くことも考えました」


「そうなんですか?」


「何も知らなければ、凛さんに教えてもらえると思って、やめました」


 凛が足を止める。


「最初から、そのつもりだったんですか」


「はい」


「ずるいです」


「すみません」


「謝らないでください」


 凛の口元は笑っている。


「私も、青柳さんに聞いてもらえて嬉しかったので」


 駅へ着く。


 青柳が乗る電車の時刻まで、まだ数分あった。


 改札の前で向かい合う。


 次に会える日が、すぐに決まるとは限らない。


 青柳は名古屋へ戻る。


 凛は東京に残る。


 会えた1日は、終わってしまえば短かった。


「凛さん」


「はい」


「また、来たいです」


「保護猫カフェに?」


「それもあります」


 青柳は凛を見つめる。


「また、凛さんと出かけたいです」


 凛も、その視線を受け止めた。


「私もです」


 以前なら、恥ずかしさから曖昧にしていたかもしれない。


 だが、今日は自分の気持ちを隠さなかった。


「また、誘ってください」


「はい。必ず」


 青柳が周囲へ僅かに目を向ける。


 人の流れが途切れた瞬間、凛へ一歩近づいた。


「キスをしてもいいですか」


「……ここでですか」


「嫌なら、しません」


 凛は青柳の顔を見る。


 離れている間、何度も思い出した顔。


 今日、ずっと隣にいてくれた人。


「短くなら」


「はい」


 青柳が顔を寄せる。


 触れるだけの短い口づけ。


 すぐに離れたのに、凛の頬には熱が残った。


「本当に短いですね」


 凛が思わず口にする。


 青柳が僅かに目を見開く。


「長い方がよかったですか」


「そういう意味ではありません」


「では、次に会ったときに確認します」


「確認しなくていいです」


「分かりました」


 そう答えながら、青柳は少しだけ笑っていた。


 電車の時間が近づく。


 青柳は改札を通り、向こう側から振り返った。


「着いたら、LINEします」


「はい。待っています」


「今日は、ありがとうございました」


「私も。楽しかったです」


 青柳が人の流れの中へ消えるまで、凛はその場に残った。


 掌には、茶トラの柔らかな毛の感触。


 唇には、短い口づけの温度。


 どちらも、今日が終わったあとまで残っていた。


 ◇


 翌日。


 給湯室で、樹里が湯を注いでいた。


 凛は隣で、自分のカップを持っている。


 ふと、樹里の横顔を見る。


 整った顔。


 鋭い目。


 余計な動きのない手つき。


 人を寄せつけるような笑顔は見せない。


 それでも、給湯室へ入ってきた凛の分まで、何も言わずに湯を沸かしていた。


(……ロシアンブルー)


 昨日、キャットタワーの最上段にいた猫が頭へ浮かぶ。


 高い場所から全体を見ていた。


 近づいても来ない。


 だが、最後には自分から少しだけ降りてきた。


『遠藤さん』


「はい」


『熱いので、気をつけてください』


 樹里がカップを差し出す。


「ありがとうございます」


 凛は受け取りながら、もう一度その顔を見る。


 樹里が僅かに首を傾げた。


『どうしました』


「いえ」


『先ほどから、こちらを見ていますが』


「猫を思い出しました」


『……猫ですか』


「はい。昨日、保護猫カフェへ行ったんです」


『青柳さんと?』


「はい」


 凛は少し照れながら頷く。


「そこで、日高先輩に似ている猫がいて」


 樹里の眉が僅かに動く。


『私に似た猫』


「青灰色の毛が綺麗な、ロシアンブルーです」


『性格は』


「静かで、警戒心が強くて、高いところから全体を見ていました」


『褒めていますか』


「もちろんです」


『そうは聞こえません』


「でも、信頼した相手には、とても愛情深いそうです」


 樹里が黙る。


 凛は自分が言ったことを思い返し、恥ずかしくなった。


「すみません。勝手に例えて」


『構いません』


 樹里は自分のカップを持つ。


『猫は、嫌いではないので』


「そうなんですか?」


『はい』


 樹里はそれだけ言い、給湯室を出ていった。


 凛は残された湯気の中で、その背中を見送る。


(やっぱり、似てる)


 触れようとすれば、少しだけ距離を取る。


 それでも、本当に嫌なら近くにはいない。


 時間をかければ、自分から一段だけ降りてきてくれる。


 凛はカップへ口をつけ、小さく笑った。


 ただし、この話だけは陽菜に知られてはいけない。


 茶トラが自分に似ていたと知れば、きっと会社中へ言いふらす。


 そう思った直後、給湯室の扉が開いた。


『凛ちゃん、何笑ってるの?』


 陽菜が顔を覗かせる。


「何でもありません」


『絶対、何かある顔じゃん』


「ありません」


『昨日のデート?』


「仕事へ戻ります」


 凛はカップを持ち、陽菜の横を通り抜けた。


『待って。猫どうだったの? 青柳くんとはどこまで――』


「教えません」


『なんで?』


「陽菜さんだからです」


『理由になってないじゃん』


 凛は答えず、営業部へ戻っていく。


 陽菜は給湯室に残り、不満そうに唇を尖らせた。


 茶トラの話も。


 ロシアンブルーの話も。


 まだ、陽菜だけが知らなかった。

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