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192話「保護猫」

神谷と樹里が島川不動産へ戻ると、陽菜がエントランスで待っていた。


 壁際に立ち、何度も自動ドアの外を覗いている。


 2人の姿を見つけた瞬間、顔に浮かんだのは安堵だった。


 高槻興産の案件が再び動き始めたとはいえ、神谷が倒れてから、まだそれほど日は経っていない。


 予定どおりの時間に戻ってくるか。


 また無理をしていないか。


 陽菜なりに、気にしていたのだろう。


 だが、2人が並んで入ってくる姿を見た途端、その表情はいつものものへ変わった。


『おかえり。ドライブデート、どうだった?』


『仕事です』


 樹里は足を止めずに答える。


「現場確認です」


 神谷も真面目に訂正した。


『2人とも同じ答えじゃん』


『同じ仕事をしてきたので、当然です』


『で、楽しかった?』


『櫻井さん』


『だって、神谷さんの顔がちょっと緩いよ』


 神谷が反射的に自分の頬へ触れる。


「緩んでいません」


『今、自分で確認したじゃん』


「念のためです」


『何の念?』


 神谷は答えに詰まった。


 緒方から食事へ誘われたこと。


 樹里が森山の誘いを断ったこと。


 互いにそれを伝え合ったこと。


 帰りの車内で交わした会話を思い出し、神谷の耳が僅かに赤くなる。


 陽菜は、その変化を見逃さなかった。


『やっぱり何かあったんだ』


『何もありません』


 樹里が即座に否定する。


『日高先輩まで答えるの早くない?』


『高槻興産で確認した内容を整理します。そこを退いてください』


『はーい』


 陽菜は素直に道を空けた。


 樹里が前を通り過ぎる。


 その横顔は、いつもと変わらない。


 だが、神谷が続こうとしたところで、陽菜が小さく袖を引いた。


『神谷さん』


「何でしょうか」


『何があったの?』


「何もありません」


『日高先輩と全く同じこと言ってる』


「同じ場所にいましたから」


『それ、理由になってないよ』


 神谷は困ったように息を吐いた。


「本当に、現場確認をしただけです」


『帰りの車では?』


「仕事の話をしました」


『仕事以外は?』


「櫻井さん」


 神谷が僅かに声を低くする。


 怒ってはいない。


 だが、これ以上は話さないという意思は伝わった。


 陽菜も、それを感じたらしい。


『分かった。今日はこのくらいにしておく』


「今日は、ですか」


『続きがある顔してるから』


「ありません」


『じゃあ、日高先輩に聞こう』


「やめてください」


 今度は返事が早かった。


 陽菜が楽しそうに笑う。


『ほら、あるじゃん』


「……失礼します」


 神谷はそれ以上相手をせず、樹里の後を追った。


 陽菜は2人の背中を見送る。


 以前の樹里なら、からかわれた時点で会話を終わらせていた。


 神谷も、自分の感情が見えるような顔をしなかった。


 今も2人が何かを認めたわけではない。


 けれど、完全に隠すこともできなくなっている。


 樹里と神谷の間には、以前とは違うものが確かに生まれていた。


『まあ、急がなくていっか』


 陽菜は小さく呟く。


 無理に聞き出せば、樹里はまた心を閉じる。


 神谷も、自分から言葉にするまでは話さないだろう。


 だから今は、からかうだけで終わらせる。


 陽菜は満足そうに頷き、営業部へ戻っていった。


 ◇


 その夜。


 凛は自宅で夕食を終え、洗った食器を棚へ戻していた。


 スマートフォンが短く振動する。


 画面に表示された名前を見た瞬間、凛の手が止まった。


 青柳からのLINEだった。


【お疲れさまです。今、少しよろしいですか】


 それだけの文章なのに、凛の表情が僅かに緩む。


【お疲れさまです。大丈夫です】


 送信すると、すぐに既読がついた。


 青柳が文章を入力している表示が現れ、消える。


 もう一度現れ、また消えた。


 凛は画面を見つめたまま、椅子へ座る。


 仕事の連絡なら、青柳がここまで言葉を迷うとは思えない。


 名古屋へ異動してからも、2人は毎日のようにLINEを交わしていた。


 朝の短い挨拶。


 その日にあったこと。


 帰宅したという連絡。


 通話できる日は、互いの声を聞いた。


 けれど、次に会う約束は簡単ではない。


 東京と名古屋。


 会いたいと思った日に、すぐ会える距離ではなかった。


 ようやく届いた文章を、凛はゆっくりと読む。


【来週の日曜日、東京へ戻ります】


 凛の胸が大きく動いた。


 続けて、もう一通届く。


【もし予定が空いていたら、お会いできませんか】


 凛は自分の予定を確かめるより先に、返信を入力しかけた。


 日曜日は空いている。


 そう覚えている。


 それでも一度カレンダーを開き、本当に何も入っていないことを確認した。


【空いています。私もお会いしたいです】


 送ったあと、言葉が直接的すぎた気がして、凛の頬が熱くなる。


 だが、送り直すことはできない。


 既読はすぐについた。


【よかったです】


 短い返事だった。


 続けて、青柳から店の情報が送られてくる。


 保護猫カフェ。


 都内にある、小さな店だった。


 行き場を失った猫を保護し、新しい飼い主との出会いを探している。


 店で過ごすだけでなく、気に入った猫がいれば譲渡について相談することもできる。


 凛は店の紹介画面を開いた。


 何匹もの猫が、それぞれの紹介文とともに掲載されている。


 人懐っこい茶トラ。


 警戒心の強い黒猫。


 高い場所から人を見ている、青い瞳のロシアンブルー。


 見ているだけで、凛の目が明るくなった。


【保護猫カフェですか】


【はい。以前、猫が好きだとおっしゃっていたので】


 凛の指が止まる。


 いつ話したのか、自分でもすぐには思い出せない。


 何気ない会話の中で、一度口にしただけだったのかもしれない。


 それを青柳は覚えていた。


【青柳さんも、猫がお好きなんですか】


 少し間があってから、返信が届く。


【嫌いではありません。ただ、詳しくはありません】


【では、どうして保護猫カフェを?】


【凛さんが、楽しめる場所を考えました】


 凛は画面を見たまま動けなくなった。


 青柳が行きたい場所へ誘われたのではない。


 凛が喜ぶ場所を考え、探し、予定に入れてくれた。


 遠距離になってから、会える時間には限りがある。


 その大切な時間を、凛の好きなものへ使おうとしてくれている。


【ありがとうございます。行きたいです】


 一度送信したあと、凛はもう一通続けた。


【私が猫のことを話したのを、覚えていてくれたことも嬉しいです】


 既読がつく。


 今度は、少し長く入力中の表示が続いた。


【凛さんが話してくださったことは、できる限り覚えていたいと思っています】


 凛はスマートフォンを胸元へ引き寄せた。


 誰にも見られていない。


 それでも、自分の顔を隠したくなるほど頬が熱い。


 仕事をしていた頃の青柳は、人をよく見ていた。


 困っている相手へ、求められる前に声をかける。


 表情や手元の動きから、言葉になっていないものまで読み取る。


 だから最初は、それも青柳の仕事上の性質だと思っていた。


 今は違う。


 青柳が覚えているのは、凛だからだ。


 自分が好きだと言ったものを、大切に扱ってくれている。


【11時に駅で待ち合わせはいかがでしょうか。予約は僕が入れます】


【はい。お願いします】


【そのあと、時間があれば食事もご一緒したいです】


【私も、ご一緒したいです】


 送信する。


 短いやり取りで、次の日曜日の予定が決まった。


 会う場所。


 時間。


 保護猫カフェ。


 そのあとの食事。


 凛はもう一度、送られてきた店の紹介を見る。


 掲載された猫を1匹ずつ開き、名前と性格を読んでいく。


 どの猫に会えるのか。


 青柳は、猫を前にどんな顔をするのか。


 並んで座るとき、どのくらい近くにいてくれるのか。


 考えるたびに、日曜日が少しずつ楽しみになった。


【凛さん】


 新しいメッセージが届く。


【何でしょうか】


【会えることを、楽しみにしています】


 凛はすぐに返事を打った。


 だが、送信する直前に止まる。


【私もです】


 それだけでは、足りない気がした。


 一度消す。


 もう一度、入力する。


【私も、青柳さんに会えることを楽しみにしています】


 今度は消さずに送った。


【ありがとうございます】


 青柳から返ってきたのは、いつもと変わらない丁寧な文章だった。


 それでも凛には、向こうで青柳が僅かに笑ったような気がした。


 ◇


 名古屋の部屋で、青柳は凛から届いたLINEを見つめていた。


 会えることを楽しみにしている。


 その一文を、何度も読み返す。


 凛を誘うまでに、いくつかの場所を調べた。


 映画館。


 美術館。


 落ち着いた飲食店。


 どこも悪くはない。


 だが、それでは青柳自身が失敗しにくい場所を選んでいるだけだと気づいた。


 凛が好きなものは何か。


 以前の会話を思い返し、猫の話をしていたときの表情を思い出した。


 普段より声が明るくなり、知っていることを次々に話していた。


 その顔を、もう一度見たいと思った。


 だから、保護猫カフェを選んだ。


 自分が上手く案内できる場所ではない。


 むしろ、教えてもらうことの方が多いだろう。


 それでいい。


 凛が好きなものを、自分も知りたい。


 青柳は店の予約画面を開き、2人分の予約を入れた。


 予約完了の表示を確認する。


 来週の日曜日。


 今度は、凛の部屋でも、Roseでもない。


 猫のいる場所で、凛と会う。


 青柳はスマートフォンを机へ置く。


 それでも数秒後にはもう一度手に取り、凛から届いた最後の文章を開いていた。


 ◇


 翌朝。


 凛はいつもより少し早く出社した。


 自分の席へ鞄を置き、仕事の準備を始める。


 まだ営業部にいる社員は少ない。


 誰にも見られていないと思い、机の端に置いたスマートフォンを開いた。


 昨夜送られてきた保護猫カフェの紹介を、もう一度見る。


 茶トラの写真を開いたところで、背後から声がした。


『何見てるの?』


「……っ!」


 凛は慌てて画面を伏せた。


 振り返ると、陽菜が立っている。


 手には自分の鞄を持ったまま。


 出社して、まっすぐ凛のところへ来たらしい。


「陽菜さん。驚かせないでください」


『凛ちゃんが、すごく嬉しそうな顔してたから』


「見ないでください」


『青柳くん?』


「まだ何も言っていません」


『じゃあ、青柳くんなんだ』


 凛は口を閉じる。


 否定できなかった時点で、答えたのと同じだった。


『何? LINE? 電話? 次に会う約束?』


「朝から質問が多いです」


『どれ?』


「……次に会う約束です」


 陽菜の目が輝く。


『いつ?』


「来週の日曜日です」


『どこ行くの?』


「保護猫カフェです」


『猫?』


「私が猫を好きだと話したことを、覚えていてくれたみたいで」


 言葉にした途端、凛の顔が自然に緩んだ。


 陽菜はその表情を見て、一瞬だけ黙った。


 いつものように、もっとからかうこともできた。


 服は何を着るのか。


 そのあとどこへ行くのか。


 今度はどこまで進むつもりなのか。


 聞きたいことはいくらでもある。


 だが、今の凛は心から嬉しそうだった。


『よかったね』


 陽菜は、それだけを言った。


 凛が少し驚いたように顔を上げる。


「今日は、からかわないんですか」


『からかってほしいの?』


「違います」


『じゃあ、日曜日が終わってからにする』


「結局、からかうんですね」


『もちろん』


 陽菜は笑い、自分の席へ向かった。


 凛は伏せていたスマートフォンをもう一度開く。


 画面の中では、茶トラが無邪気な顔でこちらを見ている。


 日曜日になれば、この猫にも会えるかもしれない。


 その隣には、青柳がいる。


 会える日まで、あと少し。


 離れている時間の中に、次の約束がひとつ増えた。

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