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191話「業務の範囲」

森山から樹里の社用携帯へ連絡が届いたのは、その日の夜だった。


 営業部には、まだ数人の社員が残っている。


 神谷はすでに帰っていた。


 黒澤も外出先から直帰している。


 陽菜は中井とともに別の案件へ出ており、戻る予定はない。


 樹里は自分の机で、高槻興産へ提出する工程表を確認していた。


 机の端に置いた社用携帯が振動する。


 画面には、森山の名前が表示されていた。


 昨日、現場の変更を直接やり取りするために交換した連絡先だった。


 樹里は作業を止め、届いた内容を開く。


 最初に表示されたのは、北側区画の写真だった。


 東側搬入口。


 大型車両を一時的に停車させる位置。


 資材を仮置きする予定の空間。


 写真には番号が振られ、それぞれに短い説明が添えられている。


 仕事の連絡として、無駄がない。


 森山が現場をよく見ていることも分かる。


【本日確認した場所です。工事業者から、東側を使用する場合の仮設通路について提案がありました。詳細は明日の午前中に共有します】


 ここまでは、業務上必要な連絡だった。


 その下に、もう一通届く。


【それとは別に、日高さんへお聞きしたいことがあります】


 樹里の指が止まる。


 すぐには返信しなかった。


 数秒後、さらに文章が届いた。


【もしご迷惑でなければ、今度、仕事のあとに食事へ行きませんか。現場の話ではなく、日高さん個人と話をしてみたいと思っています】


 意図を読み違える余地はなかった。


 仕事を理由に呼び出そうとしているわけではない。


 業務とは別だと、森山自身が明記している。


 樹里は画面を見つめた。


 森山を、不誠実な人間だとは思わない。


 現場の問題を隠さず、必要な情報を早く共有する。


 高槻の機嫌を窺うのではなく、現場にとって必要だと思えば意見も述べる。


 これまでの仕事で、何度も助けられてきた。


 だからこそ、曖昧な返事で期待を残すべきではない。


 断る。


 その判断に迷いはなかった。


 それでも、言葉は選ぶ必要がある。


 樹里は一度文章を入力し、送信する前に読み返した。


【写真を確認しました。仮設通路については、明日のご連絡をお待ちしております】


 最初に、仕事の内容へ返答する。


 続けて、もう一通を入力した。


【お誘いいただき、ありがとうございます。ただ、個人的なお食事には伺えません。今後も、連絡は高槻興産の案件に関するもののみでお願いいたします】


 冷たく切り捨てる必要はない。


 だが、受け入れる可能性があるようにも見せない。


 樹里は文章をもう一度確認し、送信した。


 しばらくして既読がつく。


【承知しました。業務用の連絡先へ、私的な内容を送ってしまい申し訳ありません】


 森山からの返信は、それだけだった。


 言い訳も、もう一度考えてほしいという言葉もない。


 樹里も、それ以上は返さなかった。


 社用携帯を机へ伏せる。


 断ったことに後悔はない。


 それでも、胸の中に小さな息苦しさが残った。


 森山に誘われたからではない。


 断る理由を、最後まで言葉にしなかったからだ。


 個人的な食事へ行くつもりがない。


 それだけでも、断る理由としては十分だった。


 だが、本当はもうひとつある。


 ほかの誰かと向き合うことを、考えられない。


 高槻の前では、神谷に惚れているのかと聞かれ、迷わず認めた。


 それなのに、本人を前にすると何ひとつ言えない。


(私に、何を言う資格がある)


 神谷から好きだと言われたのは、酒に酔っていた夜だった。


 醒めてから言えと返した。


 それから神谷は、その言葉を口にしていない。


 忘れている可能性もある。


 覚えていたとしても、改めて伝える意思があるとは限らない。


 樹里は、再び工程表を開いた。


 今考えるべきなのは、高槻興産の仕事だ。


 感情を閉じるように、資料へ視線を戻した。


 それでもしばらく、数字が頭へ入ってこなかった。


 ◇


 翌日。


 高槻興産の北側区画では、東側搬入口を使用するための確認が行われていた。


 森山はすでに工事業者と話を終え、図面へ修正を書き込んでいる。


 神谷と樹里が近づくと、森山は顔を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます」


『おはようございます』


 挨拶に不自然なところはない。


 森山は神谷へ図面を渡した。


「工事業者から、仮設通路の幅について回答がありました。搬入する資材の大きさを考えると、最低でもここまで必要です」


「既存テナントの通路は確保できますか」


「営業時間中は難しいです。搬入を開店前へ限定する必要があります」


『必要な時間は、どの程度ですか』


「1回につき、40分ほどです」


『準備と撤去を含めて40分ですか』


「いえ。搬入だけです」


『それでは、実際には1時間以上必要になると思います』


「そうですね。仮設通路を組んだままにはできないので、毎回設置と撤去が必要です」


 森山は図面へ時間を書き込む。


 樹里へ向ける言葉も、視線も、仕事の範囲を越えない。


 昨日の誘いをなかったことにしているわけではない。


 断られたことを受け入れ、仕事へ持ち込まないよう距離を整えている。


 樹里も、余計な態度は取らなかった。


『既存テナントの開店時刻が最も早いのは、何時ですか』


「8時半です」


『逆算すると、作業開始は7時頃になります』


「工事業者へ確認します」


『お願いします』


 短いやり取りだけで、確認が進んでいく。


 神谷は2人の間にある僅かな硬さに気づいていた。


 昨日までと比べれば、森山は樹里へ向ける視線を明らかに減らしている。


 必要な説明はする。


 しかし、それ以外では距離を取っている。


 何かあった。


 そう思っても、仕事中に尋ねることではない。


「日高さん」


『はい』


「搬入回数が増えた場合の工程表を、見せていただけますか」


『こちらです』


 樹里がファイルを開き、神谷へ差し出す。


 神谷は仕事へ意識を戻した。


 ◇


 現地確認が終わる。


 工事業者が先に帰り、森山が神谷と樹里を出口まで見送った。


「日高さん」


 森山が呼び止める。


 樹里が振り返った。


『はい』


「昨日は、失礼しました」


 何についての謝罪なのか、神谷には分からない。


 樹里には分かっている。


『お返事したとおりです』


「はい。今後は、仕事の連絡だけにします」


『よろしくお願いいたします』


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 それだけだった。


 森山は神谷にも頭を下げ、現場へ戻っていく。


 樹里は何も説明せず、社用車へ向かった。


 神谷も、その後ろを歩く。


 ◇


 帰りの社用車は、神谷が運転した。


 樹里は助手席で、現地確認の内容をノートへ書き込んでいる。


「日高さん」


『はい』


「森山さんから、仕事以外の連絡があったのですか」


 樹里のペンが止まる。


『聞いていたのですか』


「内容は聞こえていません。ただ、昨日のことを謝っていたので」


『そうですか』


 樹里はノートを閉じた。


 隠す必要はない。


 だが、どこまで話すべきか迷いがあった。


「答えにくいことなら、聞きません」


『いいえ』


 樹里は前を向いた。


『食事に誘われました』


 神谷の手が、ハンドルの上で僅かに強張る。


「森山さんからですか」


『はい』


「2人で?」


『仕事のあとに、個人的に話したいと』


「……そうですか」


 神谷は前を向いたまま答える。


 それ以上を、すぐには聞かなかった。


 樹里が誰と食事へ行くかは、樹里が決めることだ。


 神谷に止める権利はない。


 昨日、自分が緒方へ言ったことと同じだった。


 相手がどう思うかを、ほかの誰かが決めることはできない。


 それでも、胸の奥が落ち着かない。


『断りました』


 樹里が、短く続けた。


 神谷が僅かに顔を向ける。


「断ったのですか」


『はい』


「どうして」


 聞いてから、神谷は後悔した。


 断った理由まで尋ねる立場ではない。


「すみません。今の質問は忘れてください」


『構いません』


 樹里は、膝の上に置いたノートを見る。


『仕事の関係を、私的なものへ変えるつもりがなかったからです』


「そうですか」


『それ以外に、理由が必要ですか』


「いいえ」


 神谷の声は、先ほどより僅かに柔らかくなっていた。


 樹里はその変化に気づいたが、何も言わない。


 代わりに尋ねる。


『神谷さん』


「はい」


『昨日、緒方さんと仕事以外の話をしましたか』


 今度は、神谷が黙る番だった。


 樹里は窓の外を見ている。


 何でもない質問のように聞こえる。


 だが、昨日から気にしていたことは明らかだった。


「食事に誘われました」


 樹里の指が、閉じたノートの上で止まる。


『緒方さんからですか』


「はい」


『2人で?』


 昨日の神谷と同じ問いだった。


「受付と担当者としてではなく、と言われました」


『……そうですか』


 車内が静かになる。


 神谷は樹里の横顔を見ることができない。


 信号は青のまま。


 車を止める理由もなかった。


『行かれるのですか』


 樹里の声は、平静だった。


 それでも、その問いが出たこと自体に、神谷は僅かに驚いた。


「断りました」


 樹里が神谷を見る。


『断ったのですか』


「はい」


『なぜですか』


 神谷は、先ほど自分がした質問を思い出した。


 同じ言葉。


 同じように、聞いたあとで取り消すこともできる。


 だが、樹里は取り消さなかった。


 神谷は前を向いたまま答える。


「気持ちを向けている人がいると伝えました」


 樹里の呼吸が、ほんの僅かに止まった。


 誰のことなのか。


 尋ねれば、神谷は答えるかもしれない。


 しかし、それを聞けば、あの夜に止めた時間が再び動き始める。


 醒めてから言え。


 自分でそう言った。


 今、神谷は醒めている。


 だが、神谷が直接その名を口にしたわけではない。


『……そうですか』


 樹里は、それ以上聞けなかった。


 神谷も、名前までは言わなかった。


 言えば、それは緒方を断った理由の説明ではなくなる。


 樹里へ向けた、改めての告白になる。


 今はまだ、高槻の仕事の途中だ。


 自分の失敗を、樹里とともに立て直している最中でもある。


 感情だけを先へ進めることが、正しいとは思えなかった。


 それでも、神谷はひとつだけ尋ねた。


「日高さん」


『はい』


「森山さんを断ったことを、なぜ僕に話してくださったのですか」


 樹里は答えられなかった。


 隠す必要がないから。


 仕事へ影響する可能性があるから。


 いくつかの理由を並べることはできる。


 だが、そのどれも本当の答えではなかった。


 神谷に知ってほしかった。


 自分が森山の誘いを受けなかったことを。


 ほかの男と、仕事以外の関係を持つつもりがないことを。


 それを言葉にすれば、神谷へ何かを期待していると認めることになる。


『同じ案件を担当しているからです』


 樹里は、仕事の中へ答えを戻した。


「そうですか」


『はい』


 神谷は、それ以上追及しなかった。


 完全に納得したわけでもない。


 それでも、樹里が自分から話してくれた。


 今は、そのことだけで十分だった。


『神谷さんは、なぜ緒方さんのことを話したのですか』


 今度は樹里が尋ねる。


 神谷は、僅かに笑った。


「同じ案件を担当しているからです」


 樹里が神谷を見る。


『私の言葉を使わないでください』


「同じ理由でしたので」


『そうでしょうか』


「違うと思いますか」


『運転に集中してください』


「はい」


 樹里は窓の外へ顔を向ける。


 耳が僅かに赤くなっている。


 神谷は前を向いていたため、それを見なかった。


 だが、樹里が怒っているわけではないことは分かった。


 社用車は、島川不動産へ向かって走り続ける。


 森山は樹里へ私的な誘いを断られた。


 緒方も、神谷から答えを受け取った。


 誰かの気持ちが悪かったわけではない。


 ただ、向いている先が違っていた。


 樹里と神谷は、まだ互いの名前を口にしていない。


 それでも、ほかの誰かへ進まなかったことを、互いに伝えた。


 仕事の範囲という線を守りながら。


 その線の内側にだけ、相手を残すように。

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