190話「遠回し」
高槻興産へ提出する資料が完成したのは、翌日の午後だった。
工事業者から届いた回答を反映し、搬入経路を2つの案に分ける。
西側を使用し、既存テナントの納品時間を調整する案。
東側から工程ごとに資材を運び、搬入回数を増やす案。
工期だけを見れば、西側を使用した方が早い。
だが、既存テナントの営業へ与える影響は大きくなる。
反対に、東側を使用すれば費用は増えるが、現在の営業を止めずに済む。
どちらが正しいかではない。
高槻興産が何を優先するかによって、選ぶべき答えが変わる。
神谷は完成した資料を閉じ、樹里の机へ向かった。
「日高さん。確認をお願いします」
『分かりました』
樹里は資料を受け取る。
最初のページから順番に目を通し、費用の比較表で指を止めた。
『東側を使用した場合の警備費用は、この金額で確定ですか』
「工事業者から提示された数字です。ただし、作業時間が延びた場合は追加費用が発生します」
『その条件も記載した方がいいと思います』
「別紙には入れています」
『別紙ではなく、比較表にも必要です。高槻社長が最初に見るのは、こちらだと思います』
「分かりました。追記します」
神谷は自分の席へ戻り、その場で資料を修正する。
以前なら、指摘を受ける前にすべてを揃えようとしていた。
不足のないものを渡そうとして、誰にも見せられないまま抱え込んだ。
今は、完成する前に樹里へ見せる。
指摘された箇所を直し、もう一度確認してもらう。
その方が早く、間違いも少ない。
頭では分かっていた方法を、ようやく自分の仕事として受け入れ始めていた。
「修正しました」
再び差し出された資料へ、樹里が目を通す。
『問題ありません』
「では、今日中にお送りします」
『持参するのですか』
「はい。高槻興産から預かった原本も返却する必要がありますので、直接伺います」
『私も同行します』
「日高さんは、このあと川原さんとの確認がありますよね」
樹里の手が止まる。
机の端には、萌へ渡した課題が置かれていた。
今日の夕方、その回答について話す約束をしている。
『時間を変更してもらいます』
「資料を届けるだけです。打ち合わせはありません」
『ですが』
「緒方さんにお渡しして、受領印をいただいたら戻ります」
神谷は穏やかに続けた。
「日高さんにしかできない仕事を、僕の付き添いで遅らせる必要はありません」
樹里は、しばらく神谷を見つめた。
倒れる前の神谷なら、この言葉のあとに、別の仕事まで引き受けていたかもしれない。
しかし今日は、本当に資料を届けるだけだ。
その後の予定にも、無理はない。
『分かりました』
樹里は資料を神谷へ返す。
『お気をつけて』
「はい。行ってきます」
◇
高槻興産へ到着すると、受付には緒方がいた。
神谷の姿を見つけ、すぐに立ち上がる。
「神谷さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。昨日お話しした搬入経路について、比較資料をお持ちしました」
「ありがとうございます。お預かりします」
緒方は資料を受け取り、表紙を確認した。
それから神谷の後ろへ視線を向ける。
「今日は、お1人ですか」
「はい。日高さんは別の仕事がありますので」
「そうなんですね」
ほんの僅かに、緒方の表情が緩んだ。
神谷は気づいたが、何も言わなかった。
「受領印を押しますので、少々お待ちください」
「お願いします」
緒方が受付の内側へ戻る。
神谷は来客用の椅子へ座った。
高槻興産を訪れ始めた頃は、受付で待つ時間さえ落ち着かなかった。
高槻に何を聞かれるのか。
資料に不足はないか。
自分の判断が間違っていないか。
隣にいる樹里の足を引っ張らないか。
常に、頭の中で何かを確認していた。
今も緊張がなくなったわけではない。
だが、以前とは違う。
分からないことは持ち帰る。
間違えたら認める。
自分で判断できないことは、樹里や黒澤に相談する。
それを弱さだとは、もう思わなくなっていた。
「お待たせしました」
緒方が戻ってくる。
受領印の押された控えとともに、小さな湯呑みを盆へ載せていた。
「お茶です。よろしければ」
「ありがとうございます」
「すぐに戻られますか」
「はい。その予定です」
「では、少しだけでも」
緒方は神谷の前へ湯呑みを置いた。
受領印を押すためにしては、少し長い時間が過ぎている。
神谷は湯呑みへ手を伸ばした。
口をつける前に、緒方を見る。
「昨日も、体調を気にかけてくださってありがとうございました」
「いえ。あれだけの仕事を、9日でと言われたら……誰でも無理をすると思います」
「それでも、倒れたのは僕の責任です」
「そうですね」
緒方は、すぐに否定しなかった。
「高槻社長が厳しかったから仕方がない、と言ってしまえば、神谷さんが変わろうとしていることまで否定する気がします」
神谷が僅かに目を見開く。
慰めるのではなく、失敗を失敗として受け止めたうえで、その先を見ている。
緒方は、神谷が思っていた以上に、自分たちの仕事を見ていた。
「でも、戻ってきてくださって、安心しました」
「ありがとうございます」
「北側区画の案件は、まだ始まったばかりですから」
「はい」
「今度は、最後までいてくださいね」
「必ず」
神谷は、はっきりと答えた。
緒方が小さく笑う。
「そういうところ、神谷さんらしいですね」
「僕らしい、ですか」
「聞かれたことに、真面目に答えるところです」
「ほかの答え方が思いつかないだけです」
「それも含めてです」
緒方の声は穏やかだった。
受付として客へ向けるものより、少しだけ柔らかい。
神谷は湯呑みを置いた。
このまま気づかないふりをすることもできる。
仕事の話だと受け取って、何も尋ねずに帰ることもできる。
だが、それは誠実ではないように思えた。
「緒方さん」
「はい」
「僕に、何かお話がありますか」
緒方の表情が止まる。
すぐに笑って誤魔化すことはしなかった。
「……そんなに分かりやすかったですか」
「はっきりとは分かりません。ただ、仕事以外にも何かあるのかと思いました」
「本当に、真面目ですね」
緒方は困ったように笑った。
「普通は、もう少し遠回しに聞くものだと思います」
「すみません」
「謝らないでください。私が遠回しにしていたので」
緒方は一度、受付の周囲を見る。
ほかの社員は、それぞれ自分の仕事をしている。
それでも、声を少しだけ落とした。
「神谷さんは、日高さんとお付き合いされているんですか」
「いいえ」
神谷は嘘をつかなかった。
緒方の指が、盆の端へ触れる。
「では、恋人はいらっしゃいますか」
「いません」
「そうですか」
緒方はそこで言葉を止めた。
恋人はいない。
日高樹里とも、まだ付き合ってはいない。
ならば、自分にも可能性がある。
そう考えることは、間違いではない。
「それなら、仕事が少し落ち着いたときに、お食事でもどうですか」
緒方は神谷を見る。
「高槻興産の受付と、島川不動産の担当者としてではなく」
遠回しだった言葉が、ようやく形になる。
神谷は、すぐには答えなかった。
断る理由を、樹里へ預けたくはなかった。
日高さんがいるから。
日高さんに知られたら困るから。
そう言えば、緒方から向けられた気持ちを、自分ではない誰かに断らせることになる。
「申し訳ありません」
神谷は、緒方の目を見て答えた。
「2人でのお食事には行けません」
緒方の目が僅かに揺れる。
「恋人は、いないんですよね」
「はい」
「日高さんとも、お付き合いされていない」
「はい」
「それでも?」
「僕には、気持ちを向けている人がいます」
緒方は何も言わなかった。
誰のことなのか。
聞くまでもなかった。
神谷が倒れた日、たった1人で高槻の前に立った女性。
高槻から神谷に惚れているのかと聞かれ、迷わず認めた女性。
そして今、神谷が誰かへ気持ちを向けていると言う。
「日高さん、ですね」
「はい」
神谷は、ここでも誤魔化さなかった。
「まだ、僕の気持ちを受け入れていただいたわけではありません」
「それなら、私が諦める理由にはならないと思いませんか」
「そうかもしれません」
「否定しないんですね」
「緒方さんがどう思うかを、僕が決めることはできませんので」
緒方が僅かに目を伏せる。
「でも、僕が期待に応えることはできません」
穏やかだが、曖昧ではなかった。
「今後も仕事ではお世話になります。だからこそ、中途半端な返事はしたくありません」
緒方は、しばらく神谷を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かりました」
「申し訳ありません」
「謝られると、私がものすごく傷ついているみたいじゃないですか」
「違うのですか」
「少しは傷つきました」
緒方は正直に答えた。
「でも、自分から聞いたことです。神谷さんが悪いわけではありません」
盆を持ち直し、仕事の表情へ戻る。
「それに、納得しました」
「何をですか」
「日高さんの話をするときだけ、神谷さんの声が少し変わります」
「変わっていますか」
「ご自分では分からないんですね」
「はい」
「なら、教えません」
緒方は少しだけ笑った。
先ほどまでの近い熱は、もう声に残っていない。
「今後は、高槻興産の受付と、島川不動産の担当者としてお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
「ただし」
緒方が人差し指を立てる。
「また倒れそうになっていたら、仕事の範囲でも止めますからね」
「気をつけます」
「そこは、必ず、と言わないんですね」
「無理をしないと約束して、また守れなければ意味がありません。自分だけで判断せず、周囲へ相談します」
「そちらの方が信用できます」
緒方は頷いた。
「お茶、冷めてしまいましたね」
「いただきます」
「無理に飲まなくても大丈夫ですよ」
「せっかく淹れていただいたので」
「そういうところです」
「何がですか」
「いえ。もう教えません」
神谷には分からなかった。
それ以上尋ねることもせず、冷めかけた茶を飲む。
緒方は、その様子を見ながら小さく笑った。
向けた気持ちは、届かなかった。
だが、雑に扱われたわけではない。
神谷は気づかないふりをせず、自分の言葉で断った。
だから緒方も、仕事へ戻ることができた。
◇
島川不動産へ戻ると、樹里は萌と話していた。
机の上には、萌がまとめた資料が広げられている。
『川原さんが見ていたのは、契約期間ですね』
「はい。期間が長いものから先に確認した方がいいと思いました」
『理由は』
「長く契約している相手ほど、こちらの都合だけで条件を変えると反発が大きくなると思ったからです」
『その考え方は間違っていません。ただ、契約期間だけでは判断できない部分もあります』
樹里は資料の別の欄を指す。
『更新までの残り期間も見てください。長く契約していても、次の更新まで余裕があれば、先に説明する時間を取れます』
「逆に、更新が近いところは、早く動かないといけない」
『はい』
神谷は少し離れた場所で足を止めた。
樹里は、萌を見ている。
言葉は多くない。
褒めることもほとんどしない。
それでも、萌が出した答えを否定するのではなく、そこへ別の視点を加えている。
神谷が倒れていた間、高槻へ提出した資料にも萌の考えを残した。
見ていないようで、誰より細かく見ている。
それが萌本人へ伝わるまでには、まだ時間が必要なのかもしれない。
「神谷さん」
萌が先に気づいた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
樹里も顔を上げる。
『お疲れさまです。資料は』
「緒方さんへお渡ししました。受領印もいただいています」
神谷が控えを差し出す。
樹里は受け取り、日付と印を確認した。
『何か言われましたか』
「資料については、高槻社長と森山さんへ共有するそうです」
『それだけですか』
昨日と同じ問いだった。
神谷は一瞬、言葉を止める。
緒方から食事へ誘われた。
樹里に気持ちを向けていると伝え、断った。
それは高槻案件の報告に含めることではない。
「はい。仕事については、それだけです」
『……そうですか』
樹里は控えをファイルへ綴じる。
表情は変わらない。
だが、神谷が僅かに間を置いたことには気づいていた。
「日高さん」
『何でしょうか』
「森山さんから、連絡はありましたか」
『現場の写真が届きました』
「それだけですか」
今度は神谷が同じ問いを返した。
樹里の手が止まる。
『仕事については、それだけです』
神谷は、その言い方に僅かな違和感を覚えた。
樹里もまた、自分と同じ言葉を使った。
仕事については。
それ以外があったとは言っていない。
何もなかったとも言っていない。
「そうですか」
『はい』
萌が、2人を交互に見る。
「何かあったんですか」
『ありません』
「ありません」
声が重なった。
萌は僅かに眉を寄せる。
「それならいいですけど」
『川原さん。話を戻します』
「はい」
樹里が資料へ視線を落とす。
神谷も自分の席へ戻った。
緒方との会話を、樹里に隠したいわけではない。
だが、今それを告げれば、何を期待して話すのか自分でも分からなかった。
断ったことを知ってほしいのか。
樹里を好きだと、取引先の相手にも伝えたことを知ってほしいのか。
それを聞いた樹里が、どんな顔をするのか確かめたいのか。
どれも、仕事の報告ではない。
樹里も、森山から届いたという連絡について、それ以上は話さなかった。
2人の間にあるものは、まだ名前を与えられていない。
それでも、誰かから向けられた好意を知ったとき、互いのことを考える。
その程度には、もう相手が自分の中へ入り込んでいた。
◇
その夜。
高槻興産では、緒方が受付の片づけを終えていた。
最後の照明を消そうとしたところで、森山が現場から戻ってくる。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。神谷さん、来たんだって?」
「はい。資料を届けてくださいました」
「日高さんも?」
「今日は、神谷さんお1人でした」
「そうか」
森山の返事が、僅かに柔らかくなる。
緒方はその変化を聞き逃さなかった。
「森山さん」
「何?」
「日高さんのこと、気になっていますか」
森山の足が止まる。
「急だな」
「私も、今日終わったところなので」
「何が?」
「少しだけ期待して、きちんと断られました」
緒方は無理に笑わなかった。
悲しそうな顔もしない。
ただ、起きたことをそのまま口にした。
「神谷さんが好きなのは、日高さんです」
「……そうか」
「驚かないんですね」
「見てれば分かる」
「本人は、分かっていないみたいでしたけど」
「それも分かる」
森山は手に持っていたファイルを見る。
今日、樹里へ現場写真を送った。
そこに添えたのは、業務上必要な説明だけだった。
昨日、自分から約束したとおりに。
「だからといって、森山さんまで諦める必要はないと思います」
「勧めるのか」
「勧めません。ただ、神谷さんに断られたからといって、私が日高さんを嫌う理由もありませんから」
緒方は受付の照明へ手を伸ばす。
「仕事は仕事です。私たちまで変な空気にしたら、高槻社長に追い出されます」
「それは困るな」
「でしょう?」
照明が消える。
薄暗くなった受付を、2人は並んで歩き出した。
金額も、関わる人間も大きな案件だ。
この先、個人的な感情だけで仕事を乱す余裕などない。
それでも、人が人を見る以上、仕事だけでは終わらない気持ちが生まれることはある。
緒方は、自分の答えを受け取った。
森山は、まだ何も尋ねていない。
高槻興産の仕事は、明日も続く。
遠回しな感情もまた、それぞれ違う場所へ向かい始めていた。




