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189話「滞りなく」

神谷が職場へ復帰してから、高槻興産の案件は再び動き始めた。


 止まっていた見積もりを完成させ、高槻へ提出する。


 北側区画の現地調査を行い、既存テナントの契約状況を整理する。


 改修工事を担当する業者と日程を擦り合わせ、営業を続けながら施工できる範囲を確定させる。


 ひとつ終われば、次の問題が見つかる。


 高槻が求めているのは、書類の上だけで成立する計画ではない。


 現場で実行でき、その後も利益を生み続ける仕組みだった。


 以前の神谷なら、そのすべてを自分で確認しようとしていた。


 今は違う。


「現場から上がった変更点は、日高さんに確認をお願いしてもよろしいですか」


『分かりました』


「契約更新については、僕が緒方さんと整理します。工事業者からの回答が届いたら、森山さんにも共有します」


『では、午後に1度、互いの進捗を確認しましょう』


「お願いします」


 任せる。


 預ける。


 それから、戻ってきたものを確認する。


 当たり前の進め方を、神谷は意識して繰り返していた。


 身体が回復したからといって、倒れる前と同じ働き方へ戻れば意味がない。


 失敗をなかったことにはできない。


 だから、その失敗から始め直す。


 樹里が言った、1からやり直すという言葉を、神谷は仕事の中で形にしようとしていた。


 ◇


 その日の午後。


 神谷と樹里は、高槻興産の北側区画を訪れていた。


 建物の裏手では、森山が工事業者と話している。


 作業用の図面を広げ、搬入口の幅と、資材を運び込む経路を確認していた。


「神谷さん、日高さん。こちらです」


 2人に気づいた森山が手を上げる。


 神谷と樹里はヘルメットを着用し、区画の中へ入った。


「先ほど、工事業者から変更の相談がありました」


 森山が図面の一部を指す。


「当初は西側の搬入口を使う予定でしたが、既存テナントの納品時間と重なります。このままでは、毎朝作業を止めることになります」


「東側は使えませんか」


 神谷が尋ねる。


「資材を入れるだけなら可能です。ただ、大型車両を止めるスペースがありません」


『車両を常駐させず、搬入時間だけ使用することは可能ですか』


 樹里が図面を覗き込む。


「時間を分けるということですか」


『はい。必要な資材を一度に運び込むのではなく、工程ごとに分けます。車両が到着する時間を既存テナントへ事前に共有すれば、営業への影響も抑えられると思います』


「搬入回数が増えますね」


「費用も増える可能性があります」


 神谷が続けた。


「ですが、西側を使用して毎朝作業が止まる場合と、どちらの損失が大きいかを比較する必要があります。工事業者へ、両方の見積もりを依頼しましょう」


『既存テナントにも確認が必要です。東側を使用する時間帯に、別の支障がないか聞いておきます』


「分かりました。こちらから連絡します」


 森山が手帳へ書き込む。


 神谷はそこで口を挟まなかった。


 以前なら、自分が連絡すると言っていたかもしれない。


 しかし、既存テナントとの関係を最も把握しているのは森山だ。


「工事業者への確認は、僕が行います」


『私は、搬入回数が増えた場合の工程表を作ります』


「お願いします」


 誰が何を持つかが、その場で決まっていく。


 1人がすべてを抱えるのではない。


 だからといって、責任を押しつけ合うわけでもない。


 神谷が中心に立ち、樹里と森山が別の方向から支える。


 案件は、滞りなく前へ進んでいた。


 ◇


 現地確認を終えると、森山は2人を建物の外まで見送った。


「今日の変更点ですが、電話だけでは行き違いが出るかもしれません」


 森山が樹里を見る。


「現場の写真と一緒にお送りしたいので、直接連絡できる番号を教えていただいてもよろしいですか」


『会社へお送りいただければ、私が確認します』


「緊急の変更が出た場合、会社を通すと遅くなる可能性があります。今後、現場へ立ち会うのは日高さんが多くなると思いますので」


 理由は、仕事として不自然ではなかった。


 神谷もそれを理解している。


『分かりました。社用携帯でよろしければ』


「もちろんです」


 樹里は名刺を取り出し、裏面へ社用携帯の番号を書いた。


 森山が受け取る。


「ありがとうございます。業務上必要な場合のみ、ご連絡します」


『よろしくお願いいたします』


 2人のやり取りを、神谷は少し離れた場所から見ていた。


 止める理由はない。


 現場の細かな変更を樹里が直接受け取れるようになれば、仕事は早くなる。


 担当者として考えれば、必要な連絡先の交換だった。


 それでも、名刺を受け取った森山が僅かに表情を緩めたことまで、神谷は見逃さなかった。


「神谷さん」


 呼ばれ、神谷が顔を上げる。


「はい」


「次回までに確認する内容は、先ほどお話ししたもので以上です」


「承知しました。工事業者から回答が届き次第、共有します」


「よろしくお願いします」


 森山が神谷へ頭を下げる。


 態度に差はない。


 仕事へ私情を持ち込む人物にも見えない。


 だからこそ、神谷は自分の中に生まれた僅かな引っかかりを、口に出せなかった。


 ◇


 2人が高槻興産の本社へ戻ると、受付には緒方がいた。


「お疲れさまでした」


「お疲れさまです」


『お疲れさまです』


 緒方は神谷と樹里を見比べたあと、神谷へ視線を止めた。


「現場はいかがでしたか」


「搬入口について変更が必要になりそうです。詳細は、森山さんからも共有されると思います」


「分かりました」


 緒方はそう答えたものの、すぐには視線を戻さなかった。


「体調は、もう大丈夫ですか」


「はい。ご心配をおかけしました」


「本当に?」


 仕事上の確認としては、少しだけ近い言葉だった。


 神谷が僅かに目を瞬かせる。


「顔色は、以前より良くなりました。ただ、無理をされていないかと思って」


「今は、仕事を分担しています。以前と同じことにはならないよう気をつけています」


「そうですか」


 緒方は安堵したように笑った。


「よかったです」


 その表情を、今度は樹里が見ていた。


 神谷が倒れたとき、緒方は本気で心配していた。


 今日も、その後の体調を気にかけている。


 取引先の担当者が無事に戻ったことを喜んでいるだけだ。


 そう説明できる。


 説明できるはずなのに、樹里の指が持っていたファイルの角を僅かに強く掴んだ。


「日高さん」


 別の受付担当者に呼ばれ、樹里がそちらを向く。


「先ほど、工事業者からお電話がありました」


『私にですか』


「はい。折り返しをお願いしたいとのことです」


『承知しました』


 樹里が少し離れる。


 その背中を見送ってから、緒方は神谷へ小さな声で尋ねた。


「日高さんとは、いつもお2人で動かれているんですか」


「この案件では、そうです」


「息が合っていますよね」


「日高さんに助けていただくことが多いです」


「でも、今日の神谷さんは、きちんと皆さんへ仕事を振っていました」


 神谷が緒方を見る。


「以前は、全部ご自分で抱えようとしているように見えましたから」


 責める声音ではなかった。


 倒れたことをからかっているわけでもない。


 緒方もまた、神谷の仕事を見ていたのだ。


「失敗しましたから」


「はい」


 緒方は、安易に否定しなかった。


「でも、失敗したあとで変えられる人なら、次は大丈夫だと思います」


「ありがとうございます」


 神谷は素直に頭を下げた。


 そのとき、電話を終えた樹里が戻ってくる。


 緒方は自然に仕事の表情へ戻った。


「高槻は、あと10分ほどで戻ります。お待ちになりますか」


「いえ。本日は現地確認のみと伺っていますので、会社へ戻ります」


『高槻社長へ、よろしくお伝えください』


「承知しました」


 緒方が一礼する。


 樹里と神谷も頭を下げ、高槻興産を出た。


 ◇


 帰りの社用車は、神谷が運転した。


 助手席には樹里が座っている。


 車内では、現場で確認した内容を順番に整理していった。


「東側を使う場合、搬入は3回に分けることになると思います」


『既存テナントから了承が得られれば、その形が最も現実的です』


「明日の午前中に、工事業者へ確認します」


『工程表は、本日中に作成しておきます』


「今日中でなくても大丈夫です」


 樹里が神谷を見る。


「明日の回答を待ってからでも、間に合います」


『ですが』


「今夜作成して、明日条件が変われば、また最初から直すことになります」


 神谷の声は穏やかだった。


「急ぐ必要があるものと、急いでも意味がないものを分けます」


 倒れる前の神谷なら、言わなかった言葉だった。


 樹里は少しだけ目を細める。


『分かりました。では、下書きだけにしておきます』


「お願いします」


 そこで会話が途切れる。


 神谷は前を向いたまま、ハンドルを握っている。


 樹里も窓の外へ視線を向けた。


 先ほど見た、緒方の表情が頭に残っていた。


 体調は本当に大丈夫なのか。


 無理をしていないか。


 神谷が戻ってきたことを、心から安堵しているように見えた。


 樹里が口を開く。


『緒方さんと、何を話していたんですか』


「え?」


 神谷が一瞬だけ樹里を見る。


『私が電話をしている間です』


「僕の仕事の進め方についてです」


『仕事の話ですか』


「はい」


『そうですか』


 それだけ聞くと、樹里は前を向いた。


 神谷はしばらく黙っていた。


「日高さん」


『はい』


「森山さんと、連絡先を交換されていましたね」


『社用携帯です』


「分かっています」


『現場で変更が出た場合に、直接連絡を受けるためです』


「それも分かっています」


『では、何でしょうか』


「いえ」


 神谷は前を向いたまま答える。


「確認しただけです」


『何をですか』


「業務上の連絡先なのだと」


『森山さんも、そうおっしゃっていました』


「そうですか」


『はい』


 再び会話が途切れた。


 互いに尋ねたかったことは、それだけではない。


 緒方は、なぜ神谷の体調をあれほど気にかけていたのか。


 森山は、本当に樹里との連絡を業務の範囲だけに留めるのか。


 しかし、どちらもそれを聞く立場ではなかった。


 好きだと、自分の中で認めている。


 樹里は高槻の前で、その気持ちを口にした。


 神谷も、何度も自分の気持ちを周囲へ明かしている。


 それでも2人は、まだ互いに対して何も求めていない。


 樹里には、神谷が誰から好意を向けられるかを問う権利がない。


 神谷にも、樹里が誰と連絡を取るかを制限する権利はない。


 権利がないと分かっていることと、何も感じないことは、同じではなかった。


 信号が赤に変わる。


 神谷が車を止めた。


『神谷さん』


「はい」


『緒方さんは、神谷さんが戻ってきたことを喜んでいました』


「取引先の担当者が倒れたので、心配してくださったのだと思います」


『そうでしょうか』


 樹里の口から、考えるより先に言葉が出た。


 神谷が樹里を見る。


 その視線を受けて、樹里自身が僅かに目を見開いた。


『……いえ。何でもありません』


「日高さん」


『仕事の話へ戻りましょう』


「先ほどまで、仕事の話をしていました」


『では、その続きを』


「森山さんも、日高さんのことをよく見ていますね」


 樹里の眉が動く。


『現場担当者ですから』


「そうですね」


『何か問題がありますか』


「ありません」


『なら、いいでしょう』


「はい」


 信号が青に変わる。


 神谷は車を発進させた。


 どちらも、自分の口元が僅かに緩んでいることには気づいていない。


 問い詰められたわけではない。


 嫉妬していると言われたわけでもない。


 それでも、互いが同じように気にしていた。


 その事実だけが、言葉にしないまま車内へ残っていた。


 高槻興産との仕事は、滞りなく進んでいる。


 誰が何を担当するのかも、何をいつまでに終わらせるのかも、少しずつ明確になっていた。


 だが、仕事の隣で育っている感情だけは、まだ誰の担当にもできなかった。

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