188話「お茶」
数日後。
柚希と零は、仕事終わりに2人で夕食を取った。
付き合い始めてから、2人きりで会うのは初めてではない。
それでも、待ち合わせ場所で顔を見つけた瞬間に嬉しくなることも、向かい合って座るだけで少し緊張することも、以前とは違っていた。
「今日、仕事は大丈夫だった?」
「大丈夫っす。柚希さんは?」
「私も。ちょっと残業になるかと思ったけど、凛ちゃんが手伝ってくれたから間に合った」
「凛さん、優しいっすね」
「うん。今度お礼しないと」
食事をしながら交わしたのは、そんな何気ない話ばかりだった。
島川不動産で起きたこと。
零が働くガソリンスタンドへ来た客のこと。
陽菜がまた中井をからかっていたこと。
美園が、いつの間にか佐藤の好みに合わせた酒を用意するようになったこと。
どれも、恋人同士でなければ話せない内容ではない。
それでも、話題が途切れても帰ろうとは思わなかった。
互いの声を聞いている時間そのものが、以前よりも大切になっていた。
夕食を終え、2人は並んで駅へ向かう。
改札が見えたところで、柚希の歩幅が少しだけ遅くなった。
このまま別れれば、次に会う約束はまたLINEですればいい。
零なら、きっと返事をくれる。
そう分かっているのに、今夜はまだ帰したくなかった。
「零ちゃん」
「はい」
「このあと、時間ある?」
「あります」
零は即答してから、少しだけ目を泳がせた。
「……終電までなら」
「そんなに遅くならないよ」
柚希は笑う。
「お茶、うちで飲まない?」
零の足が止まった。
驚いたように柚希を見る。
「柚希さんの家で?」
「うん。嫌なら、近くのお店でもいいけど」
「嫌じゃないっす」
また、答えが早かった。
それから零は、何かを考えるように口を閉じる。
「付き合ってすぐに家へ行くのは、軽いと思われませんか」
「誰に?」
「……誰でしょう」
零自身にも、答えはなかったらしい。
柚希はおかしくなって、小さく笑った。
「私が来てほしいって言ってるの。ほかの人がどう思うかは、関係ないよ」
「そうっすね」
零も、ようやく表情を緩める。
「遠慮しすぎるのも、変っすよね」
「うん。行こう」
改札へ向かいかけていた2人は、並んで別の道へ歩き出した。
◇
柚希の部屋に入った零は、玄関で靴を丁寧に揃えた。
「適当に座ってて」
「はい」
そう返事をしたものの、零は部屋の中央で立ち止まったまま動かない。
小さなテーブル。
ベッド。
壁際の棚に並んだ化粧品や小物。
旅行のときに買った色違いの飾りも、大切そうに置かれている。
そこは間違いなく、柚希が1人で生活している場所だった。
会社でも、旅行先でもない。
誰にも見られない、2人だけの部屋。
「どうしたの?」
「どこに座ればいいのかと思って」
「どこでもいいよ」
「その“どこでも”が難しいっす」
「じゃあ、そこ」
柚希がテーブルの前を指さす。
零は言われた場所へ正座した。
「そんなに畏まらなくてもいいのに」
「今、崩したら駄目な気がします」
「何が?」
「いろいろっす」
柚希には、その“いろいろ”が少しだけ分かった。
零は、自分が部屋へ招かれた意味を考えている。
何を期待していいのか。
何をしてはいけないのか。
どこまで近づけば、柚希を困らせてしまうのか。
正解が分からないから、何もしないという場所に座っている。
「お茶、淹れるね」
「自分も何かします」
「お客さんなんだから、座ってて」
「でも」
「じゃあ、カップを出してくれる?」
「分かりました」
零は立ち上がり、柚希が指した棚からカップを2つ取り出した。
並べて置くときにも、割れ物を扱う以上に慎重な手つきをしている。
湯が沸く音がする。
茶葉を入れたポットから、細い湯気が立ち上る。
柚希は向かいへ座り、零の前にカップを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
零は両手でカップを持つ。
すぐには飲まず、湯気の向こうから柚希を見た。
「何?」
「いえ」
「さっきから、ずっと緊張してるね」
「しますよ」
「私の部屋だから?」
「それもあります」
「ほかにも?」
零はカップへ視線を落とした。
「恋人になってから、柚希さんと2人だけの部屋にいるのは初めてなので」
「旅行では同じ部屋だったよ」
「あのときは、まだ付き合ったばかりで、ベッドも別だったじゃないっすか」
「今もベッドは1つしかないけど、お茶を飲んでるだけだよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……分かろうとしてます」
柚希は笑った。
零は不満そうに眉を寄せる。
「笑わないでください」
「ごめん。でも、零ちゃんらしいと思って」
「自分、こういうときに何をすればいいのか分からないっす」
「何もしなくていいよ」
「それでいいんですか」
「うん。今のままでいい」
零の表情から、わずかに力が抜けた。
恋人になったからといって、決められた順番を進まなければならないわけではない。
部屋へ入ったからといって、何かを求めなければならないわけでもない。
柚希がそう伝えると、零はようやくカップへ口をつけた。
「美味しいっす」
「よかった」
しばらく、2人は黙って茶を飲んだ。
沈黙は気まずくない。
時計の針が進む音も、外を走る車の音も、今は2人の間を邪魔しなかった。
柚希はテーブルの上に置かれた零の手を見る。
指先には、仕事でついた小さな傷がいくつも残っている。
「零ちゃん」
「はい」
「手、借りてもいい?」
「手?」
柚希が自分の手を差し出す。
零は意味を測りかねたまま、その上へ手を重ねた。
柚希は指を絡める。
零の肩が、わずかに揺れた。
「冷たいね」
「外にいたからだと思います」
「温めてあげる」
「柚希さんの手も、そんなに温かくないっす」
「じゃあ、お互いに温めればいいでしょ」
「……はい」
零の指が、恐る恐る柚希の手を握り返す。
強くはない。
離そうと思えば、いつでも離せるほどの力だった。
その触れ方に、柚希の胸が温かくなる。
以前好きだった男は、柚希が差し出すものをためらいなく受け取った。
時間も、気遣いも、身体も。
柚希が本当に望んでいるかを確かめるより、自分にとって都合がいいかを優先した。
それでも柚希は、求められているのだと思おうとした。
嫌だと言えば、もう呼ばれなくなる気がした。
零は違う。
近づくたびに、柚希の顔を見る。
手を握ることさえ、これでいいのかと確かめている。
「零ちゃんは、急がないね」
「急いだら、柚希さんを置いていくかもしれないので」
「私がついていくかもしれないよ?」
「無理をして?」
「……それも、あるかもしれない」
零は絡めた指へ視線を落とす。
「それが嫌っす」
静かな声だった。
「柚希さんは、前の人に合わせすぎて傷ついたんですよね」
「うん」
「自分にまで合わせてほしくないっす」
「合わせることが、全部悪いわけじゃないよ」
「分かってます。自分も柚希さんに合わせたいと思うことはあるので」
「じゃあ、同じだね」
「でも、我慢してまで合わせるのは違うと思います」
零が顔を上げる。
「自分は、柚希さんを都合よく扱いたくないっす。好きだから、余計に」
真っ直ぐな言葉だった。
上手に言おうとしていない。
喜ばせるために用意した言葉でもない。
零が怖がりながら、それでも守りたいと思っているものが、そのまま声になっていた。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないっす」
「私には、嬉しいことなの」
柚希は指を繋いだまま、テーブルの横へ身体をずらした。
零との距離が近くなる。
手を伸ばさなければ触れられなかった距離が、少し顔を傾けるだけで互いの息遣いを感じられる距離へ変わる。
零の呼吸が浅くなった。
「柚希さん」
「何?」
「近いっす」
「嫌?」
「嫌ではないっす」
「じゃあ、このままでいい?」
「はい」
柚希は、零の肩へ額を預けた。
零の身体が硬くなる。
だが、逃げなかった。
繋いでいない方の手がゆっくりと上がり、柚希の背中へ触れる。
抱き寄せるのではない。
そこにいることを確かめるように、そっと添えるだけだった。
「零ちゃん」
「はい」
「私、今、すごく安心してる」
「どうしてっすか」
「急かされないから」
零の手が、柚希の背中で止まる。
「私のことを、ちゃんと見てくれてるから」
「見ます」
「うん」
「分からないときは、聞きます」
「うん」
「柚希さんも、嫌なときは言ってください」
「分かった」
「嫌じゃなくても、止まりたいときは言ってください」
「分かったってば」
柚希は肩へ額を預けたまま笑う。
「零ちゃん、本当に真面目だね」
「大事なことなので」
「そうだね」
柚希は身体を起こした。
顔が近い。
視線が重なったあと、どちらからともなく相手の唇を見る。
名古屋の夜は、気持ちを伝えただけで終わった。
急がなくていいと思った。
今も、その気持ちは変わらない。
それでも、今夜はもう少し近づきたかった。
零が小さく息を吸う。
「柚希さん」
「うん」
「キス、してもいいっすか」
声が震えていた。
「今が嫌なら、やめます」
「嫌じゃないよ」
「本当に?」
「うん」
柚希は零から目を逸らさなかった。
「今がいい」
零がゆっくりと顔を近づける。
逃げるための時間も、止めるための距離も残したまま。
柚希が目を閉じる。
唇が、静かに触れた。
短い口づけだった。
重なったと思った次の瞬間には、もう離れている。
零はすぐに柚希の顔を見る。
その目には嬉しさより先に、不安があった。
「大丈夫でしたか」
「うん」
「嫌じゃなかったっすか」
「嫌だったら、もう一回してなんて言わないよ」
零が目を見開く。
「もう一回、していいんですか」
「してほしいの」
今度は、柚希から零の服の袖を掴んだ。
「零ちゃんに」
「……はい」
2度目の口づけは、最初より少しだけ長かった。
それでも、零の手は柚希の肩に置かれたまま、それ以上は動かない。
唇が離れてからも、2人はすぐには距離を戻さなかった。
柚希の指は、零の袖を掴んだまま。
零の手も、柚希の肩から離れない。
「下手だったっすか」
「比べる必要ないでしょ」
「でも」
「零ちゃんとのキスは、零ちゃんとしかしないから」
零の頬が赤くなる。
「そういうこと、普通に言うんですね」
「陽菜さんほどじゃないよ」
「陽菜さんと比べたら、ほとんどの人が普通になるっす」
「それはそうかも」
2人は顔を見合わせて笑った。
張り詰めていたものが、ようやく解けていく。
テーブルの上では、淹れた茶がもう冷め始めていた。
それでも、どちらもカップへ手を伸ばさない。
柚希は再び零の肩へ寄りかかる。
今度は零も迷わず、その背中へ腕を回した。
強く抱きしめない。
柚希が預けてきた重さだけを、丁寧に受け止める。
「次も、うちでお茶飲む?」
「呼んでくれたら、来ます」
「お茶だけだよ?」
「分かってます」
「本当に?」
「……分かる努力はします」
「そこは言い切ってよ」
「恋人の部屋で、何も考えない方が失礼な気もするっす」
柚希は一瞬黙ったあと、零の肩を軽く叩いた。
「零ちゃんも、意外とそういうこと考えるんだ」
「自分を何だと思ってるんですか」
「すごく真面目な人」
「否定はしないっす」
また、2人の笑い声が重なる。
◇
零が帰る時間になり、柚希は玄関まで見送った。
靴を履いた零が、立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。来てくれてありがとう」
「お茶も、美味しかったっす」
「今度は、もう少しちゃんとしたものを用意するね」
「今日ので十分っす」
「次も来てくれる?」
「はい」
零は答えてから、扉へ手を伸ばした。
だが、すぐには開けなかった。
何かを言いたそうに、柚希を見る。
「どうしたの?」
「……もう一度、キスしてもいいっすか」
柚希は笑った。
「今度は聞かなくてもよかったのに」
「それが分からないから、聞いたんです」
「そっか」
柚希は零の前へ立つ。
「していいよ」
3度目の口づけは、別れを惜しむように静かだった。
唇が離れる。
零は少し照れたように俯き、それから扉を開けた。
「着いたらLINEします」
「うん。気をつけてね」
「おやすみなさい、柚希さん」
「おやすみ、零ちゃん」
扉が閉まる。
柚希は、その内側へ背中を預けた。
唇へ指先で触れる。
求められたのに、置いていかれなかった。
近づいたのに、急かされなかった。
自分の速度を守ってもらうことが、これほど温かいとは知らなかった。
柚希は、幸せなまま小さく息を吐いた。
◇
零はアパートを出たあと、外灯の下で一度立ち止まった。
嬉しかった。
柚希に部屋へ招かれたことも。
手を繋いだことも。
初めて口づけを交わしたことも。
もう一度してほしいと言われたことも。
全部、胸の奥へ大切にしまっておきたかった。
それでも、幸せだけでは終われなかった。
言わなければならないことがある。
柚希は、零が昔どこにいたのかを知らない。
なぜ樹里たちと深く繋がっているのかも。
Rose girlsに、自分がいたことも。
今夜、話そうと思えば話せた。
けれど、柚希の嬉しそうな顔を見たら、言葉が出なくなった。
(隠したままでいいわけがない)
柚希は過去を明かさなかった男に傷つけられた。
都合のいい部分だけを見せられ、都合の悪い事実を伏せられた。
同じことだけは、したくない。
零はスマートフォンを取り出す。
柚希とのLINEを開く。
何度か文章を打ち、消した。
最後に、短い言葉だけを送る。
【今日はありがとうございました。次に会ったとき、話したいことがあります】
すぐに既読がついた。
【うん。待ってる】
何を聞かれることもなかった。
話せるまで待つという、短い返事。
零は画面を見つめ、小さく息を吐いた。
帰り道には、初めての口づけの温度と、まだ明かしていない過去の重さがある。
そのどちらも抱えて、零は歩き始めた。
恋人になったからこそ、いつか話さなければならない。
自分が、柚希の隣へ来るまでに歩いてきた道を。




