187話「知ってる」
佐藤が出社したのは、始業の10分前だった。
「おはようございます」
挨拶は普段と変わらない。
スーツにも乱れはなく、髪も綺麗に整えられている。
自分の席へ鞄を置き、パソコンの電源を入れる。
どこから見ても、いつもの佐藤だった。
ただし、顔を除いて。
口元が、わずかに緩んでいる。
本人は隠しているつもりなのだろう。
画面を見ている間は、普段と同じ真面目な表情を作れている。
しかし、ふとした瞬間に頬が緩む。
何かを思い出している。
そして、そのたびに耳が少し赤くなる。
その変化を、陽菜が見逃すはずがなかった。
『佐藤さん』
「はい」
『昨日、何かあった?』
「何もありません」
返事が早かった。
早すぎた。
陽菜の目が、楽しそうに細くなる。
『まだ何も聞いてないのに、答えるの早くない?』
「何かあったかと聞かれたので」
『へえ。何もなかったんだ』
「はい」
『何もなかった人が、朝からそんな顔する?』
「どんな顔ですか」
『大好きな女の人と、朝まで一緒にいた顔』
佐藤の手が止まった。
近くにいた社員たちも、何人か顔を上げる。
「櫻井さん」
『何?』
「朝から大きな声で、何を言っているんですか」
『当たった?』
「当たっていません」
『今、耳赤くなったよ』
「暖房が効いているので」
陽菜が天井を見る。
空調は、まだ動いていない。
『暖房ついてないよ』
「……今日は、少し暑いですね」
『外、寒かったけど』
「社内に入ったので」
『言い訳がどんどん苦しくなってる』
「言い訳ではありません」
佐藤は画面へ向き直った。
これ以上相手にしないつもりなのだろう。
陽菜は佐藤の机へ両手をつき、横から顔を覗き込む。
『昨日、美園さんと一緒だった?』
「答える必要はありません」
『一緒だったんだ』
「そうは言っていません」
『どっちの家?』
「答えません」
『美園さんの家には、まだ入れてもらえなさそうだから、佐藤さんの家かな』
「櫻井さん」
『泊まっただけ?』
「ここは会社です」
『何回したの?』
「櫻井さん!」
佐藤の声が営業部へ響く。
陽菜が自分の唇へ人差し指を立てた。
『声大きいよ。会社なんだから静かにして』
「誰のせいですか」
『佐藤さんが分かりやすすぎるせい』
周囲から笑いが起こる。
柚希は書類で口元を隠し、肩を震わせていた。
凛は顔を赤くしたまま、陽菜から視線を逸らしている。
『凛ちゃんまで顔赤いじゃん』
「私の話ではありません」
『でも、何か思い出した?』
「思い出していません」
『まだ何をとは言ってないよ』
「もう、陽菜さん!」
凛まで巻き込まれ、笑い声が広がる。
神谷も、自分の席で小さく笑っていた。
倒れる前まで張りつめていた営業部に、久しぶりに普段の空気が戻っている。
佐藤は助けを求めるように中井を見る。
しかし中井は、すぐには口を挟まなかった。
『中井くん』
陽菜が先に呼ぶ。
「はい」
『佐藤さん、昨日美園さんと一緒だったと思う?』
「僕に聞かないでください」
『男同士、何か分かるでしょ』
「分かりません」
『でも、顔は緩んでるよね』
中井は困ったように佐藤を見る。
「……少しだけ、普段とは違うように見えます」
「中井」
「ごめん。でも、陽菜さんに嘘はつけないから」
『さすが中井くん』
陽菜が満足そうに頷く。
「陽菜さん。そろそろ仕事を始めましょう」
『まだ始業前だよ』
「あと2分です」
『2分あれば、何回したか聞ける』
「聞かなくていいです」
『中井くんは気にならない?』
「気になっても、会社で聞くことではありません」
『じゃあ、Roseなら聞いていい?』
「そういう意味ではありません」
『佐藤さん。今夜、Roseで続きね』
「行きません」
『美園さんに、佐藤さんが来ないって言おうかな』
「卑怯ですよ」
『来るんだ?』
「……考えておきます」
『絶対来るじゃん』
始業のチャイムが鳴る。
陽菜は満足そうに自分の席へ戻った。
『じゃあ、仕事しよっか』
「朝から疲れました」
『幸せそうだから大丈夫でしょ』
「何も答えていません」
『顔が全部答えてるよ』
佐藤は、もう反論しなかった。
反論するほど、陽菜を喜ばせるだけだと気づいたらしい。
◇
昼休み。
萌と陸は、並んで社員食堂にいた。
「櫻井先輩って、いつもあんな感じなの?」
萌が尋ねる。
「人をからかうのは好きみたいです」
「教育担当なのに、ずいぶん他人事だね」
「仕事以外の櫻井先輩は、俺にも理解できません」
『ひどくない?』
背後から陽菜の声がした。
陸の肩が跳ねる。
『毎日、こんなに丁寧に教えてるのに』
「仕事の教え方には感謝しています」
『仕事以外にも感謝してよ』
「例えば?」
『人生に笑いを提供してる』
「俺が笑われていることの方が多いです」
『それで周りが笑ってるなら、役に立ってるじゃん』
「勝手に俺を使わないでください」
陽菜は2人の向かいへ座った。
その隣に、中井も腰を下ろす。
「陽菜さん。後輩を困らせない方がいいですよ」
『陸は困ってないよね』
「困っています」
『即答するようになったね』
「櫻井先輩に教わりました」
『成長してる』
陽菜が嬉しそうに笑う。
萌は、そんな2人を見ていた。
「でも、櫻井先輩がいると、みんな楽しそうですね」
『何、急に』
「神谷先輩が倒れてから、ずっと会社の空気が重かったから」
陽菜の表情が、少しだけ静かになる。
「今日、久しぶりに元へ戻った気がします」
『あたしは、佐藤さんをからかってただけだよ』
「それで周りまで笑えるのが、すごいんだと思います」
『萌、あたしのこと好きになった?』
「そういうところは苦手です」
『振られた』
「何も始まっていません」
陸が小さく笑った。
『陸、今笑った?』
「笑ってません」
『笑ったよね、中井くん』
「少し笑っていたと思いますよ」
「中井先輩」
「ごめん。でも、少しだけ笑ってたよ」
中井は陸へ、優しいタメ口で答える。
陽菜がいる場所へ、人が集まる。
ふざけてばかりに見える。
恥ずかしいことも、平然と口にする。
それでも、重くなった空気をいつの間にか動かしている。
萌と陸も、その輪の中へ少しずつ入っていた。
◇
その夜。
Roseのカウンターには、神谷、佐藤、陽菜が並んでいた。
高槻興産との取引が途切れずに済んだこと。
神谷が無事に仕事へ戻れたこと。
その報告も兼ねて、神谷が2人を誘った。
凛は店の手伝いに入っている。
美園が水を出し、いつもの席が埋まった。
『じゃあ、とりあえず』
陽菜がグラスを持ち上げる。
『神谷さんが無事に戻って、高槻の仕事も続けられるようになったことに。お疲れさま』
「ありがとうございます」
グラスが重なる。
神谷は酒ではなく、炭酸水を飲んでいた。
美園が、神谷の空いたグラスを見る。
『神谷くん、おかわりいる?』
「お願いします」
『お酒じゃないよ』
「分かっています」
『今、残念そうな顔したね』
「していません」
『陽菜。神谷くん、まだ懲りてないみたい』
『日高先輩に連絡しようか?』
「炭酸水でお願いします」
神谷がすぐに言い直し、店の中に笑いが起こった。
凛が氷を入れながら、神谷を見る。
「本当に、戻ってこられてよかったです」
「ご心配をおかけしました」
「すごい剣幕でしたよ。日高先輩」
神谷の耳が、わずかに赤くなる。
「あのあと、改めて体調管理について叱られました」
『すごかったもんね』
陽菜が頷く。
『あたし、日高先輩があんな怒鳴り方するところ、久しぶりに見た』
美園が神谷へ視線を向ける。
『そのあと、樹里とは話したの?』
「はい」
『どこで?』
神谷は、少しだけ答えをためらった。
陽菜が、その間を逃さない。
『何、その顔。会社じゃないね』
「自宅です」
『神谷さんの?』
「はい」
『日高先輩が、神谷さんの家に行ったの?』
「はい」
陽菜の目が大きく開く。
『何しに?』
「食事を作りに来てくれました」
『日高先輩が?』
陽菜は本気で驚いていた。
美園も、手にしていたボトルを止める。
『樹里が料理を?』
「おかゆを作ってくれました」
『聞いてないんだけど』
陽菜がスマートフォンへ手を伸ばす。
「何をするんですか」
『日高先輩にLINEする』
「やめてください」
『なんで黙ってたの、って』
「私から聞いたとは言わないでください」
『もう遅いよ』
「本当にやめてください」
美園が、陽菜のスマートフォンを取り上げた。
『今は神谷くんの話を最後まで聞こう』
『あとで送るからね』
「送らなくていいです」
神谷はグラスの外側を指でなぞる。
「日高さんから、高槻社長が待ってくださることになったと聞きました」
『うん』
「それで……自分が情けなくなって、泣いてしまいました」
神谷は恥ずかしそうに視線を落とす。
「そのとき、日高さんが抱きしめてくれました」
美園の目が、わずかに見開かれる。
『樹里が?』
「はい」
『向こうから?』
「はい」
『あの樹里が、自分から神谷くんを抱きしめたの?』
「そうなります」
美園は、すぐには何も言わなかった。
驚いている。
同時に、誰より嬉しそうでもあった。
『そっか』
そのひと言に、いくつもの感情が混じっていた。
陽菜も、珍しく声を落とす。
『日高先輩が、抱きしめてくれたんだ』
「はい」
『よかったね、神谷さん』
「……はい」
神谷の声にも、静かな喜びが滲んだ。
「やっぱり僕は、日高さんのことが好きなんだと思いました」
店内に、短い沈黙が落ちる。
陽菜と美園が顔を見合わせる。
佐藤と凛も、ほとんど同じ表情になった。
『知ってる』
『知ってる』
「知ってる」
「知っています」
4人の声が重なった。
神谷は、少しだけ負けたような顔をした。
「そんなに分かりやすいですか」
『分かりやすいよ』
陽菜が即答する。
『会社の新人でも、そのうち気づくと思う』
「それは困ります」
『もう気づいてるんじゃない?』
「日高さんに迷惑がかかります」
『じゃあ、早く迷惑じゃない関係になればいいじゃん』
「簡単に言わないでください」
『難しく考えすぎなんだよ』
美園が神谷のグラスへ炭酸水を注ぐ。
『でも、急がなくていいと思うよ』
神谷が美園を見る。
『樹里が、自分から誰かを抱きしめた。それだけで、ちゃんと進んでるから』
「はい」
『あとは神谷くんが、倒れずに仕事を終わらせること』
「必ず最後までやります」
『1人で?』
「日高さんと2人で、です」
美園は、満足そうに頷いた。
◇
『さて』
陽菜が、今度は佐藤へ顔を向ける。
佐藤の表情が、露骨に警戒へ変わる。
『神谷さんの話は聞いた。次は佐藤さんね』
「なぜ僕なんですか」
『朝から顔が緩みっぱなしだったから』
「もう戻っています」
『戻ってないよ』
陽菜は、カウンターの向こうにいる美園を見る。
『美園さん。昨日、佐藤さんの家に泊まった?』
佐藤の身体が固まった。
美園は少しも慌てない。
『泊まったよ』
凛の手が止まる。
神谷が佐藤を見る。
「お前、何も言ってなかっただろ」
「言う必要ありますか?」
「俺がおかゆの話をしたあとに黙ってるのは、ずるくないか」
「何がずるいんですか」
「分からないけど、何となく」
陽菜が、カウンターを叩いて笑う。
『それで、美園さん』
『何?』
『どうだった?』
『何が?』
『全部』
「櫻井さん」
佐藤が止めようとする。
美園は佐藤を見て、柔らかく微笑んだ。
『たくさん愛してもらったよ』
「美園さん」
『朝まで、ずっとね』
凛が布巾を強く握る。
「美園さんまで、陽菜さんみたいなことを言わないでください」
『事実だよ』
『何回?』
「櫻井さん、聞かなくていいです」
『佐藤さんには聞いてないよ』
美園は少しだけ考えるふりをした。
『覚えてない』
「美園さん」
『途中で数えるのやめたから』
「美園さん!」
佐藤の顔が真っ赤になる。
陽菜は声を上げて笑い、神谷も耐えきれずに顔を逸らした。
『よかったね、佐藤さん。朝の顔、嘘じゃなかった』
「忘れてください」
『無理。しばらく使う』
「何に使うんですか」
『佐藤さんをからかいたいとき』
「そのままじゃないですか」
◇
笑いが落ち着いたあと、陽菜は凛へ顔を向けた。
『じゃあ、美園さんのところも、凛ちゃんのところも、次へ進んだってことだね』
佐藤と神谷が、同時に凛を見る。
凛の顔が真っ赤になる。
「もう! 陽菜さん、すぐそういう言い方をする!」
『違うの?』
「佐藤さんも神谷さんも、こっちを見ないでください!」
2人は同時に視線を逸らした。
美園が、小さく笑う。
『あとは、神谷くんだね』
神谷が美園を見る。
『樹里の心を動かせるのは、神谷くんだけだと思うよ』
「保証はありません」
『恋愛に保証なんてないよ』
「はい」
神谷は少しだけ考え、まっすぐ答えた。
「それでも、日高さんには本気で向き合うつもりです」
『仕事で倒れない範囲でね』
『それ大事』
美園と陽菜の声が重なった。
「もう倒れません」
『そう言って倒れたんだよ』
「櫻井さん」
『何?』
「今日は、私をからかう会ですか」
『違うよ』
陽菜がグラスを持ち上げる。
『幸せな人を、順番に白状させる会』
「もっと悪い気がします」
『でも、みんな幸せでしょ』
誰も、すぐには否定しなかった。
神谷は、樹里に抱きしめられた夜を思い出している。
佐藤は、美園と過ごした朝を思い出している。
凛は、離れた場所にいる青柳を思い浮かべている。
美園は、佐藤の隣で静かに笑っている。
陽菜は、その全員の顔を見て、満足そうに酒を飲む。
ふざけている。
からかっている。
恥ずかしいことも平然と口にする。
それでも陽菜が触れた幸せは、隠していたときより少しだけ温かくなる。
美園が、新しい酒をグラスへ注ぐ。
氷が鳴る。
笑い声の中で、Roseの夜はゆっくりと更けていった。




