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186話「帰りたくない」

スナックRoseの営業が終わった。


 最後の客を見送り、美園が入口の札を裏返す。


 店内には、使い終えたグラスと、溶けかけた氷が残っていた。


 佐藤はカウンターの椅子を上げ、床を拭いている。


『佐藤くん。そこまでしなくていいよ』


「もう少しで終わります」


『お客さんに掃除させる店だと思われるでしょ』


「もう閉店しています。それに、僕は客として残っているわけではありません」


『じゃあ、何として残ってるの?』


 美園に聞かれ、佐藤の手が止まる。


「それは……」


『彼氏?』


「はい」


 答えは早かった。


 美園が、わずかに笑う。


『そこは迷わないんだ』


「迷う理由がありません」


『そっか』


 美園は、洗い終えたグラスを布巾で拭く。


 佐藤は再び床へ視線を落とした。


 付き合う前なら、こうして閉店後まで残ることはなかった。


 付き合ってからも、美園は店の顔と私生活を簡単には混ぜなかった。


 客がいる間は、ほかの誰かと同じように接する。


 閉店後、2人きりになってから、ようやく佐藤くんと呼ぶ声が少しだけ柔らかくなる。


 その境目を、佐藤は大事にしていた。


     ◇


 片づけを終えて、2人は店を出た。


 夜の空気は冷えている。


 佐藤は美園の歩幅に合わせ、隣を歩く。


 何度も通った帰り道だった。


 美園を自宅近くまで送り、途中の分岐で別れる。


 今日も、そのはずだった。


「神谷さん、仕事に戻れたみたいです」


『陽菜から聞いた。もう会社に来てるんでしょ』


「はい。まだ無理をしようとするので、黒澤部長と日高さんに見張られています」


『佐藤くんも、人のこと言えないんじゃない?』


「僕ですか」


『神谷くんが倒れてから、仕事増えたでしょ』


「多少は。でも、みんなで分けています」


『ちゃんと寝てる?』


「寝ています」


『ご飯は?』


「食べています」


『嘘ついたら、樹里に言うよ』


「それは怖いですね」


『私に怒られるのは怖くないの?』


「怖いです」


『即答』


「ただ、美園さんに心配をかける方が嫌です」


 美園の足が、わずかに遅くなる。


 佐藤も、それに合わせた。


『そういうこと、普通に言うようになったね』


「嫌でしたか」


『ううん』


 美園は前を向いたまま答える。


『前より、ずっといい』


 分岐へ着く。


 まっすぐ進めば、美園の帰る方向。


 曲がれば、佐藤の自宅へ続く。


「では、今日はここで」


 佐藤が立ち止まる。


 美園は、すぐには返事をしなかった。


 いつもなら、短いキスをして別れる場所だった。


『佐藤くん』


「はい」


『今夜は、そっちに行ってもいい?』


 佐藤の表情が止まる。


 聞こえなかったわけではない。


 意味を理解するまでに、時間がかかった。


「僕の家、ですか」


『ほかにどこがあるの』


「いえ。ただ……本当に?」


『嫌なら帰るけど』


「嫌ではありません」


 否定だけは早かった。


「もちろん、来てください」


『顔、分かりやすいね』


「すみません」


『謝らなくていいよ』


 美園は佐藤の自宅へ続く道へ、先に足を向けた。


 数歩進んでから、振り返る。


『行かないの?』


「行きます」


 佐藤は慌てて隣へ並ぶ。


 先ほどまでと同じ道。


 ただ、帰る場所が変わっただけで、2人の間にある空気まで変わっていた。


     ◇


 佐藤の部屋へ入る。


 1人暮らしの男の部屋だった。


 余計なものは少ない。


 床は掃除されている。


 棚の本は、不自然なほど同じ位置に揃えられていた。


 テーブルの中央にも、何も置かれていない。


 美園が部屋を見渡し、小さく笑う。


『片づけた跡、残ってる』


「分かりますか」


『分かるよ。普段から綺麗にはしてるんだろうけど、今日は特に何もない』


「美園さんが、いつ来てもいいようにと思って」


『来る予定なかったでしょ』


「来られると思って、ではありません」


 佐藤は靴を揃えながら答える。


「来てほしくて、です」


『正直だね』


「隠しても、すぐに顔へ出るので」


『うん。それは知ってる』


 美園は部屋の中へ進む。


 Roseのママではない。


 客へ向ける微笑みも、相手の望む言葉を先に探す目もない。


 店が終わったあとの、1人の女として立っている。


『今日は、帰りたくない』


 佐藤の喉が、1度鳴った。


 返事が出るまでに、わずかな間ができる。


「……泊まってください」


『それだけ?』


「帰したくありません」


 美園が佐藤を見る。


「朝まで、ここにいてほしいです」


『うん』


 美園の表情が、柔らかくなる。


『最初から、そう言って』


     ◇


『シャワー、借りるね』


「はい。タオルは洗面台の棚にあります」


『部屋着は?』


「新しいものを洗ってあります」


『用意がいいね』


「いつ来ていただいてもいいようにしていたので」


『さっきの片づけと同じ理由?』


「はい」


『本当に、来てほしかったんだ』


「ずっと」


 美園は一瞬だけ黙り、それから佐藤の頬へ触れた。


『借りるね』


「はい」


 浴室の扉が閉まる。


 やがて、シャワーの音が聞こえ始めた。


 佐藤は1人になった部屋で、落ち着きなく動いた。


 テーブルへ水を置く。


 カップの向きを直す。


 冷蔵庫の中を確認する。


 何か朝食にできるものがあったかと思い、卵の数を確かめる。


 それから、今考えることではないと気づいて冷蔵庫を閉めた。


 距離の取り方が分からない。


 近づきすぎれば、美園を急かしてしまう。


 離れすぎれば、美園が自分から来てくれた気持ちを拒むことになる。


 佐藤はソファへ座り、何度も深呼吸した。


 シャワーの音が止まる。


 しばらくして、美園が浴室から出てきた。


 髪はまだ少し濡れている。


 佐藤が用意した部屋着は、美園の身体には少し大きかった。


 袖から出た指先。


 化粧を落とした顔。


 店では見せない姿に、佐藤は目のやり場を失う。


 先に、テーブルの水を差し出した。


「どうぞ」


『ありがとう』


 美園が隣へ座る。


 近い。


 それだけで、佐藤の身体が固くなる。


『そんな顔しないで』


「どんな顔ですか」


『何をしていいか分からない顔』


「実際、分かりません」


『こっちは、もう覚悟して来てるよ』


「僕は、まだ覚悟の途中です」


 美園が佐藤の手へ、自分の指を重ねる。


『途中でいいよ』


「美園さん」


『急がなくていい。でも、遠慮もしないで』


 佐藤は重なった指を見る。


「嫌なことがあったら、言ってください」


『言うよ』


「やめてほしいときも」


『ちゃんと言う』


「僕も、言っていいですか」


『もちろん』


「緊張しています」


『見れば分かる』


「それでも、美園さんに触れたいです」


 美園は、少しだけ目を細めた。


『それは、言ってくれないと分からない』


 佐藤の手が、美園の頬へ触れる。


 逃げないことを確かめてから、唇を重ねた。


 最初のキスは短い。


 離れたあと、2人の視線が近い場所で重なる。


 美園が、佐藤の襟元を指で掴んだ。


『もう1回』


 今度は、美園から唇を重ねる。


 先ほどより長い。


 触れた呼吸が、どちらのものか分からなくなる。


 佐藤の手が、美園の背中へ回る。


 部屋着越しに伝わる体温へ、指先が迷った。


『止める?』


「止めません」


『じゃあ、こっち』


 美園が佐藤の手を取り、自分の腰へ導く。


『怖がらなくていいよ』


「大切にしたいんです」


『大切にするのと、触れないのは違うでしょ』


「……はい」


『私は、佐藤くんに触ってほしい』


 美園の言葉で、佐藤の腕に力が入る。


 強く抱き寄せる。


 美園も、その背中へ腕を回した。


     ◇


 夜が深くなる。


 佐藤は寝室へ布団を運ぼうとした。


「ベッドは美園さんが使ってください。僕は、こちらで寝ます」


 美園は、畳まれた布団を見る。


『どうして?』


「どうしてって……」


『一緒に寝ようよ』


「ですが」


『それとも今日は、抱きたくない気分?』


「そんなわけありません」


 否定は、先ほどよりも早かった。


 美園が笑い、ベッドの内側へ身体をずらす。


『じゃあ、おいで』


 佐藤は布団を元の場所へ戻した。


 照明を落とし、美園の隣へ入る。


 向かい合う。


 近づいた瞬間から、部屋の空気が変わる。


 乾ききっていない髪。


 石けんの匂い。


 互いの呼吸。


 美園の指が、佐藤の胸元へ触れる。


『心臓、すごいね』


「美園さんばかり、落ち着いています」


『そう見えてるだけ』


 美園が佐藤の手を取り、自分の胸元へ重ねた。


『私も、普通じゃないよ』


 掌へ、早い鼓動が伝わる。


 美園も緊張している。


 それを知ったことで、佐藤の肩から少しだけ力が抜けた。


「美園さん」


『何?』


「好きです」


『うん』


「今夜、来てくれて嬉しいです」


『私も』


「抱いてもいいですか」


 美園は言葉では答えなかった。


 佐藤の首へ腕を回し、唇を重ねる。


 それが答えだった。


 衣服が、1枚ずつベッドの端へ落ちる。


 佐藤は急がなかった。


 触れるたび、美園の顔を見る。


 呼吸が変われば、手を止める。


 美園は、そのたびに佐藤の手を取り、続きを教えた。


『そこは、ゆっくり』


「はい」


『目、逸らさないで』


「恥ずかしくないんですか」


『恥ずかしいよ』


「そう見えません」


『佐藤くんにしか見せてないから』


 その言葉に、佐藤の瞳が揺れる。


 美園が笑う。


『見て。今の顔、好き』


 今夜の熱は、嵐の夜とは違った。


 あの日は、帰れない状況の中で互いを求めた。


 今日は、美園が自分の意思で佐藤の家を選んだ。


 帰れるのに、帰らなかった。


 触れられることを待つのではなく、自分から触れた。


 佐藤の名前を呼ぶ。


 呼ぶたび、佐藤も美園の名前を返す。


 急がない。


 けれど、浅い場所では止まらない。


 何度も互いの顔を確かめ、言葉を交わしながら、2人は同じ熱の中へ沈んでいった。


     ◇


 時間の感覚が曖昧になる。


 どこからが始まりで、どこまでが途中だったのか。


 あとからでは、はっきりと思い出せない。


 残ったのは、乱れたシーツ。


 重なった呼吸。


 佐藤の肩へ残った、美園の小さな歯形。


 美園の髪を撫でる、佐藤の手。


 1度、静かな時間が訪れる。


 佐藤が水を取り、美園へ渡した。


「大丈夫ですか」


『うん』


「痛いところは?」


『ないよ』


「嫌なことは、ありませんでしたか」


『なかった』


「本当に?」


『佐藤くん』


「はい」


『今、すごく幸せ』


 佐藤は、それ以上確かめるのをやめた。


 美園の肩へ布団をかける。


 2人とも何も身につけないまま、並んで天井を見る。


 先ほどまでの熱が、肌の表面に残っていた。


『明日の朝、早い?』


「朝礼があります」


『何時に出るの』


「7時半頃です」


『じゃあ、6時には起きないとね』


「美園さんは、もう少し寝ていても大丈夫ですよ」


『朝ご飯、作る』


「僕が作ります」


『仕事行く人が何言ってるの』


「泊まりに来てくれた人へ、何もさせたくありません」


『私がしたいの』


 美園が横を向き、佐藤の鎖骨を指で軽く叩いた。


『それとも、早く帰ってほしい?』


「帰ってほしくありません」


『そっか』


 美園の指が、鎖骨から胸元へゆっくり下がる。


 佐藤の呼吸が止まった。


『じゃあ、もう1回しよ』


 佐藤が目を見開く。


「身体は、大丈夫ですか」


『さっき確認したでしょ』


「確認は大切です」


『うん。そういうところも好き』


 美園は佐藤の上へ身体を起こした。


 髪が肩から落ち、佐藤の頬へ触れる。


『私は、まだしたい』


 今度は佐藤から、美園の身体を抱き寄せた。


「僕もです」


 美園の笑みが、すぐ近くへ落ちてくる。


 そこから先は、夜の続きではなかった。


 朝まで、2人で選び続ける時間だった。


     ◇


 カーテンの隙間が、少しずつ白くなる。


 美園は佐藤の腕の中で目を覚ました。


 店では絶対に見せない素顔。


 乱れた髪。


 わずかに荒れた唇。


 佐藤は、それを起こさないよう静かに見つめていた。


『いつから起きてたの?』


「少し前です」


『見てた?』


「はい」


『悪い子だね』


「すみません」


『謝ったら、見るのやめるの?』


「やめません」


『じゃあ、謝らなくていいよ』


 美園が短いキスをする。


『朝ご飯、作ろ』


「僕がやります」


『一緒に』


 2人は部屋着を身につけ、キッチンへ向かった。


 佐藤が卵を割る。


 美園を意識しすぎて、殻が少し入った。


『貸して』


「すみません」


『焦りすぎ』


「美園さんが近いので」


『昨夜はもっと近かったでしょ』


 佐藤の耳が赤くなる。


『今さら照れるんだ』


「朝に言わないでください」


『朝だから言ってるの』


 美園は笑いながら、卵の殻を取り除いた。


 パンと卵。


 熱いお茶。


 特別なものは何もない。


 それでも、向かい合って食べる朝食は、佐藤にとって何より特別だった。


     ◇


 玄関で、佐藤が美園の靴を揃える。


「いつでも、来てください」


 美園は靴を履きながら、顔を上げた。


『来てほしいんでしょ』


「はい」


『だったら、ちゃんと言って』


 佐藤は、美園の目を見る。


「また来てほしいです」


『うん』


「できれば、近いうちに」


『そんなに待てない?』


「待ちたくありません」


『正直になったね』


「美園さんが、そうしろと言ったので」


 美園が佐藤のネクタイを引き寄せる。


 短いキスをした。


『じゃあ、また来る』


「待っています」


『行ってらっしゃい、佐藤くん』


「行ってきます」


 美園は階段を下りる。


 途中で1度だけ振り返った。


 佐藤は、まだ玄関に立っている。


『仕事、遅れるよ』


「分かっています」


『今日も無理しないでね』


「はい。美園さんも」


 今度こそ、美園は階段を下りていった。


 佐藤の部屋に、朝の光と、2人分の食器が残る。


 美園の掌には、まだ佐藤の家のドアへ触れた感触があった。


 帰りたくないと、自分から言えた夜。


 帰る場所を失ったのではない。


 もう1つ、帰ってきたい場所を見つけた夜だった。

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