185話「まんざら」
週明け。
始業の15分前に、神谷が営業部へ入ってきた。
「おはようございます」
その声に、何人もの社員が顔を上げる。
額を覆っていたガーゼは取れている。
傷口には小さな保護テープが貼られ、顔色にもまだ薄さが残っていた。
それでも、自分の足で立っている。
神谷の姿を見た陽菜が、最初に席を立った。
『神谷さん』
「櫻井さん。ご心配をおかけしました」
『本当に神谷さん?』
「はい?」
『仕事しすぎて頭の中身が入れ替わってない?』
「入れ替わっていません」
『じゃあ、自分が倒れた理由は?』
「過労と睡眠不足です」
『今日、具合悪くなったら?』
「すぐに報告して帰ります」
『家で仕事は?』
「しません」
『ご飯は?』
「食べます」
『睡眠は?』
「取ります」
陽菜は神谷の顔をじっと見る。
『一応、合格』
「何の試験ですか」
『神谷さんを信用していいかの試験』
「まだ信用されていなかったんですね」
『日高先輩に聞いて。今の神谷さんの“大丈夫”に信用があるか』
神谷の視線が、樹里へ向かう。
樹里は自分の席に座ったまま、神谷を見ていた。
目が合う。
神谷が、静かに頭を下げる。
「日高さん。先日は、本当にありがとうございました」
『その話は、あとにしてください』
「はい」
『先に、黒澤部長へ報告を』
「分かりました」
いつもと変わらない、仕事の声だった。
けれど神谷には、あの日の胸の音が重なって聞こえた。
◇
神谷は黒澤の前に立ち、深く頭を下げた。
「この度は、多大なご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした」
「医者は、出社していいと言ったんだな」
「はい。通常勤務に戻って問題ないと診断を受けています」
「診断書は?」
「こちらです」
神谷が書類を差し出す。
黒澤は内容を確認し、机へ置いた。
「頭を上げろ」
「はい」
「生きて戻ったなら、それでいいとは言わん」
神谷が黒澤を見る。
「仕事を抱えたこと。周りの話を聞かなかったこと。家に帰されても仕事を続けたこと。全部、あとで始末書に書け」
「分かりました」
「ただし、今日書くな」
「今日ではないんですか」
「今日は高槻へ行くんだろ。帰ってきたら定時で帰れ。始末書は明日だ」
「ですが」
「最初から言うことを聞かないのか?」
「……分かりました」
「それとな」
黒澤は、神谷の机を見る。
「お前が休んでいる間、高槻以外の仕事は櫻井さんと中井、山本が整理した」
神谷が陸を見る。
陸は少し緊張した様子で立ち上がった。
「連絡予定だったお客さまと、確認が必要な案件をまとめました。中井先輩と櫻井先輩にも確認してもらっています」
「ありがとうございます。あとで引き継ぎをお願いします」
「はい」
「それと川原さん」
神谷が萌へ顔を向ける。
「工期案の区画選定、ありがとうございました。高槻社長へ提出した資料にも入っています」
「私は、頼まれた部分をまとめただけです」
「それでも、川原さんの考えがあったから提案へ入れられました」
「……はい」
「助かりました。ありがとうございます」
萌は一瞬だけ樹里を見た。
樹里は何も言わない。
だが、神谷の言葉を否定もしなかった。
「神谷」
黒澤が呼ぶ。
「見ただろ」
「はい」
「お前がいなくても、仕事は止まらなかった」
厳しい言葉にも聞こえる。
しかし、神谷はその意味を理解していた。
「はい」
「それを悔しいと思うな。安心しろ」
「……分かりました」
「戻ってきた日に、全部取り返そうとするなよ」
「はい」
「返事だけは、前から立派なんだよな」
『それは私も同意します』
樹里の声が入り、周囲から小さな笑いが起こる。
神谷は困ったように微笑んだ。
「今回は、本当に守ります」
「そうしてくれ」
◇
高槻興産へ向かう時間になった。
神谷が資料を持って席を立つ。
樹里もジャケットを羽織った。
『神谷さん』
「はい」
『車は、私が運転します』
「もう体調は問題ありません」
『私が運転します』
「ですが」
『私が、運転します』
拒否を許さない声だった。
「……お願いします」
2人が営業部を出ようとする。
その背中へ、陽菜が声をかけた。
『神谷さん』
「はい」
『日高先輩に怒られたくなかったら、助手席で大人しくしてた方がいいよ』
「そのつもりです」
『あと、帰りに寝ても怒られないと思う』
『櫻井さん』
樹里が振り返る。
『余計なことを言わないでください』
『寝てもいいんだ?』
『言っていません』
『顔には書いてあるよ』
『書いていません』
『神谷さん、今の聞いた?』
「私は、何も聞いていません」
『賢い』
陽菜が楽しそうに笑う。
樹里は、それ以上相手にせず営業部を出た。
◇
社用車の往路で、神谷は助手席に座っていた。
樹里が運転する。
会話は、仕事の確認だけだった。
『見積もりの前提条件は』
「前回から変更ありません。業者3社から回答をいただき、金額に幅がある箇所は理由も記載しました」
『高槻社長から、金額の差を聞かれると思います』
「説明できます」
『工期については』
「川原さんの案を入れた順序で、関係業者とも調整しました」
『分かりました』
そこで会話が止まる。
神谷は窓の外を見る。
聞きたいことは、仕事以外にもあった。
樹里は高槻の前で、何を言ったのか。
どれほど頭を下げたのか。
どうやって、終わるはずだった案件をつないだのか。
樹里は、詳細を話さなかった。
自宅でも、会社でも。
神谷が尋ねても、
『必要なことは、高槻社長へ説明しました』
と答えるだけだった。
「日高さん」
『何でしょうか』
「先日は、本当にありがとうございました」
『今朝も聞きました』
「まだ、きちんとお伝えできていません」
『高槻興産へ着きます。仕事へ集中してください』
「……はい」
神谷は、また前を向いた。
樹里の横顔は仕事の顔をしている。
それでも、ハンドルを握る手がいつもより少し慎重だった。
◇
高槻興産の応接室。
神谷と樹里は、並んで深く頭を下げた。
「先日は、私の体調管理不足により、ご迷惑をおかけしました。大変申し訳ございませんでした」
『私からも、改めてお詫び申し上げます』
高槻は椅子へ座ったまま、2人を見ていた。
「座れ」
2人が腰を下ろす。
神谷は完成させた概算見積もりを差し出した。
「遅くなり、申し訳ございません。工期案と合わせて、改めてご確認をお願いいたします」
高槻は見積もりを受け取り、最初のページを開く。
金額を見る。
条件を見る。
数ページ進み、前回提出された工期案と並べた。
「この金額の差は」
「工事中の営業継続を前提とする場合と、一時移転を行う場合の差です。一時移転の費用を含めても、全体の工期を短縮できる区画があります」
「こっちは高いままだ」
「営業設備の移動が難しいためです。無理に短縮すると、テナント側への負担が大きくなります」
「安い方を勧めないのか」
「金額だけで判断すれば安い方です。しかし、長期的な関係を考えると、こちらの区画へ無理を求めるべきではないと判断しました」
高槻は神谷の顔を見る。
以前のように試すだけの視線ではない。
神谷の説明を、判断材料として聞いている。
「倒れてる間に、考えたのか」
「いえ。療養中は仕事をしていません」
「本当か?」
神谷が樹里を見る。
樹里は無言で見返している。
「……本当です」
「今の間は何だ」
「以前の私なら、仕事をしていたと思いました」
「少しは学んだらしいな」
「はい」
「日高さんに怒鳴られたか」
「どうして、それを」
「顔に書いてある」
高槻が鼻で笑う。
樹里は表情を変えなかった。
『体調管理も含めて仕事です。同じことを繰り返さないよう、今後は2人で管理します』
「日高さんが、こいつの体調まで管理するのか」
『仕事の分担を管理します』
「そういうことにしておくか」
樹里の眉が、わずかに動く。
高槻はそれ以上からかわず、見積もりへ視線を戻した。
「置いていけ。中身は、あとで見る」
「よろしくお願いいたします」
その後の打ち合わせは、滞りなく進んだ。
北側区画の優先順位。
既存テナントへの説明時期。
業者を交えた現場確認の日程。
神谷が主に説明し、樹里は必要な箇所だけ補足する。
以前とは違う。
神谷は、自分が答える前に樹里を見ることが増えた。
樹里の担当箇所なら、無理に自分で説明しない。
「そこは、日高さんからお願いします」
そう言って、仕事を渡す。
樹里も受け取る。
『ご説明します』
倒れる前にはできなかった、ごく当たり前の往復だった。
◇
打ち合わせが一段落したところで、樹里が席を立った。
『申し訳ございません。少し、お手洗いをお借りします』
「緒方、案内しろ」
「はい。日高さん、こちらです」
樹里と緒方が応接室を出る。
森山も、次回使用する資料を取りに席を外した。
室内には、高槻と神谷だけが残った。
高槻は、見積もりを閉じる。
「神谷」
「はい」
「いい女だな」
神谷の身体が固まった。
「……何の話でしょうか」
「日高さんだ」
「はい」
「いやらしい意味で言ってるんじゃない。人間の話だ」
高槻は、樹里が座っていた椅子を見る。
「これだけ金の動く話で、お前は倒れた。約束した見積もりも持ってこられなかった」
「申し訳ございません」
「今は謝罪を聞いてるんじゃない」
「はい」
「あの女は、お前の代わりに平謝りして帰ることもできた。お前が倒れたせいだと言えば、自分の責任を軽くすることもできた」
神谷は黙って聞く。
「だが、全部自分の責任だと言った」
神谷の指が、膝の上で動く。
「彼女が、ですか」
「ああ。お前を止められなかった自分の責任だとな」
樹里は、そんなことを何も話さなかった。
自宅では、高槻が怒っていたことだけを伝えた。
自分にも責任があるとは言った。
だが、高槻の前でも同じことを言ったとは聞いていない。
「それだけじゃない」
高槻は椅子へ深く腰を預けた。
「俺が、お前をしょうもない男だと言った」
神谷の目が、わずかに揺れる。
「そうしたら、あの女は噛みついてきた」
「日高さんが……」
「今回の仕事が失敗だったことは認める。自分の責任も認める。だが、神谷という人間を見下す発言だけは撤回しろとな」
神谷は、何も言えなかった。
「あれだけの金が動く案件だ。俺が付き合いを終わらせると言えば、普通は黙る」
高槻が、神谷を見据える。
「それでも引かなかった」
「……そうですか」
「お前は、あの女にずいぶん大事にされてるらしい」
「日高さんは、責任感の強い人です。私が担当だったから、守ってくださっただけだと思います」
「鈍いのか。逃げてるのか。どっちだ」
「彼女とは、まだそういう関係ではありません」
「まだ、か」
神谷は、自分の言葉に気づいて黙る。
高槻が鼻で笑った。
「仕事でも、恋愛でも、ああいう女は逃すな」
「それは……私が決めることではありません」
「お前が決めずに、誰が決める」
「日高さんの気持ちがあります」
「あちらさんも、まんざらではなさそうだったがな」
神谷が高槻を見る。
「どういう意味ですか」
「さあな」
「高槻社長」
「本人に聞け」
そこへ応接室の扉が開いた。
『お待たせしました』
樹里が戻ってくる。
神谷と高槻の間に残る沈黙へ、樹里がわずかに視線を向けた。
『何かありましたか』
「何もない」
高槻が答える。
「今日のところは、これでいい。次の日程は森山から連絡させる」
「承知しました」
『承知しました』
2人は立ち上がり、頭を下げた。
◇
帰りの社用車。
運転席には樹里。
助手席には神谷。
往路と同じ席だった。
高槻興産を出てから、神谷は何度か口を開こうとしていた。
そのたびに、言葉が出ない。
『神谷さん』
「はい」
『具合が悪いんですか』
「いえ。大丈夫です」
樹里の目が鋭くなる。
「今の大丈夫は、本当です」
『信用はしていません』
「顔色は見ていただいて構いません」
『運転中です』
「では、会社へ戻ってからお願いします」
『そうします』
会話が途切れる。
神谷は窓の外を見る。
高槻の言葉が、何度も頭へ戻ってくる。
自分の責任だと言った。
神谷を悪く言うなと、高槻へ食い下がった。
付き合いを切られる可能性があっても、引かなかった。
「日高さん」
『何でしょうか』
「高槻社長から、先日のことを聞きました」
樹里の手が、ハンドルの上でわずかに動いた。
『余計なことを』
「どうして、話してくださらなかったんですか」
『話す必要がないからです』
「私のことで、高槻社長に意見したと」
『事実と異なる評価をされたので、訂正しただけです』
「付き合いを終わらせると言われたそうですね」
『言われました』
「それでも、私を庇ったんですか」
『庇っていません』
「では、何ですか」
『神谷さんが、しょうもない人間ではないと知っているだけです』
樹里は前を向いたまま答えた。
神谷の胸が、強く鳴る。
あの日、自分を抱きしめた腕。
『1からやり直しだ』
髪の上へ落ちた声。
そのすべてが、高槻の言葉と重なった。
「日高さん」
『何ですか』
「先日は、本当にありがとうございました」
『それは、もう聞きました』
「何度でも言わせてください」
『必要ありません』
「私にはあります」
樹里が、ほんの一瞬だけ神谷を見る。
「おかゆも、高槻社長とのことも……全部、ありがとうございました」
『次から、同じことがないようにしてください』
「はい」
『体調管理も、仕事のうちです』
「分かっています」
『仕事を渡すこともです』
「はい」
『返事だけにしないでください』
「今度は守ります」
『信用は、これから戻してください』
「1から、ですよね」
樹里が黙る。
神谷の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「日高さんに、そう言っていただきました」
『覚えていたんですか』
「忘れられるわけがありません」
神谷が何を指しているのか。
樹里には分かっていた。
1からやり直すという言葉だけではない。
胸へ顔を預けさせたこと。
後頭部へ回した手。
髪へ触れた指。
『……仕事の話です』
「はい」
神谷は素直に頷いた。
それ以上追及しなかった。
けれど、その横顔は、倒れる前よりも穏やかだった。
樹里が短く息を吐く。
叱られているはずなのに、なぜ笑っているのか。
聞く気にはなれなかった。
「あちらさんも、まんざらではなさそうだったがな」
神谷は、高槻の言葉を胸の中で繰り返す。
意味を確かめたい。
しかし、今はまだ聞かない。
仕事で失った信用を、これから2人で取り戻す。
その先で、自分の言葉として尋ねる。
神谷は前を向いた。
樹里も、運転に集中している。
同じ車の中で、2人は今度こそ同じ速度で走っていた。
◇
島川不動産へ戻ると、陽菜がエントランスで待っていた。
『おかえり』
『戻りました』
「戻りました」
陽菜は2人を交互に見る。
『どうだった?』
『見積もりを提出し、今後の進め方を確認しました』
『そっちじゃなくて』
『ほかに何がありますか』
『ドライブデート』
『仕事です』
『仕事の顔してるの、日高先輩だけだよ』
神谷の表情が固まる。
「私も仕事の顔をしています」
『緩んでるよ』
「緩んでいません」
『高槻社長と何話したの?』
「仕事の話です」
『本当に?』
「本当です」
『じゃあ、どうして耳赤いの?』
「車内が少し暑かったので」
『今日、寒いよ』
陽菜が楽しそうに笑う。
『ま、いいや。日高先輩をからかうのは、神谷さんがもう少し元気になってからにする』
『今後も必要ありません』
『それは無理』
陽菜は先に社内へ戻っていく。
樹里も、そのあとを歩く。
神谷は一歩遅れて、2人の背中を見た。
『仕事の顔して、神谷さん緩いよ』
否定はした。
けれど自分の頬が緩んでいることを、神谷自身も分かっていた。
樹里は、まだ何も答えていない。
何も始まってもいない。
それでも高槻から聞いた言葉と、あの日の温度は、簡単には消えてくれなかった。




