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184話「おかゆ」

樹里が島川不動産へ戻ったのは、午後2時を過ぎた頃だった。


 営業部の扉を開けた瞬間、いくつもの視線が集まる。


 誰も、すぐには声をかけなかった。


 樹里の表情から、結果を読み取ろうとしている。


『戻りました』


『おかえり』


 最初に答えたのは陽菜だった。


 いつもの明るい声ではない。


 樹里が自分の足で帰ってきたことを確かめるような、静かな声だった。


 黒澤が席を立つ。


「日高さん。どうだった」


 樹里は黒澤の机へ向かい、持ち帰った資料を置いた。


『工期案は渡しました。見積もりが揃っていないため、判断は延期です』


「切られては、いないんだな」


『はい。神谷さんの体調が戻り次第、2人で改めて伺います』


 黒澤の肩から、わずかに力が抜けた。


「……よくつないだな」


『つながっただけです』


「それができなかったら、終わってた」


『はい』


「高槻社長は?」


『怒っていました。当然だと思います』


「神谷のことは、何か言ってたか」


 樹里の目が、ほんの少しだけ細くなる。


『次は、倒れずに仕事を完成させろと』


「それだけか?」


『それだけです』


 樹里は、高槻から投げられた言葉をすべて伝えなかった。


 しょうもない男。


 神谷へ伝える必要のない言葉だった。


 その言葉に自分が何と返したのかも、今は誰にも話したくなかった。


「あの男に、惚れてるのか」


『はい』


 あのときは、迷わず答えられた。


 今、同じことを陽菜や美園の前で尋ねられたら、同じように答えられるかは分からない。


 ただ、高槻の前で口にした言葉を、嘘だったとは思わなかった。


「今日はもう帰れ」


 黒澤の声で、樹里の意識が戻る。


『残っている仕事があります』


「昨日から残りっぱなしだろ」


『報告と引き継ぎだけ済ませます』


「それが終わったら帰れよ」


『分かりました』


「本当に帰れ。神谷の次に日高さんまで倒れたら、俺が先に会社を辞める」


 黒澤の言葉に、営業部の空気が少しだけ緩んだ。


 陽菜が自分の席から口を挟む。


『黒澤部長が辞めたら、送別会で昔の写真ばらまくからね』


「どうして持ってる前提なんだ」


『探せばどっかにあるでしょ』


「やめろ。絶対に探すな」


 小さな笑いが起こる。


 張りつめていた空気が、ようやく動き始めた。


 樹里も、自分の席へ戻ろうとする。


「日高先輩」


 萌が立ち上がった。


 樹里が振り向く。


『何ですか』


「高槻興産で、私の資料は……」


 尋ねながら、萌の声が小さくなる。


 今、それを聞くべきではなかったかもしれない。


 神谷が倒れ、樹里が1人で高槻社長と対峙してきた。


 自分の案がどうだったかを気にするのは、場違いに思えた。


「すみません。あとでいいです」


『使用しました』


 萌が顔を上げる。


『最初に着手する区画の選定理由として説明しました』


「何か、言われましたか」


『高槻興産の緒方さんが、現場へ説明しやすい良い案だと評価していました』


「私の案をですか」


『はい』


 樹里は、萌をまっすぐに見る。


『高槻社長にも、新人社員がまとめた分析を使用していると説明しました』


「本当に名前を出したんですか」


『川原さんの名前までは出していません。ですが、新人が考えたことは隠していません』


「怒られませんでしたか」


『内容に問題がなければ、誰が考えたかは関係ありません』


 以前にも聞いた言葉だった。


 だが今回は、高槻社長を前にして、本当にそれを貫いてきた。


『助かりました。ありがとうございます』


「……はい」


 萌は、すぐに喜ぶことができなかった。


 胸の中が熱くなり、そのまま口を開けば声が震えそうだった。


「次も、何かあれば言ってください」


『お願いします』


 樹里が自分の席へ戻る。


 萌も椅子へ座った。


 付箋に書かれた評価よりも、今の言葉の方が重かった。


 樹里は、ただ見ていたわけではない。


 萌が考えたものを、高槻の前まで持っていった。


 しかし、その事実だけで樹里への不満がすべて消えたわけではない。


 どうして最初から、こうして説明してくれなかったのか。


 もっと言葉にしてくれれば、何度も疑わずに済んだ。


 その思いも、まだ残っている。


 尊敬と不満が、同じ場所に並び始めていた。


     ◇


 樹里は報告書を作成し、神谷が担当していた通常業務の進捗を確認した。


 陽菜と中井、そして陸が整理している。


 神谷の机へ、未処理の書類が積み上がってはいない。


『櫻井さん』


『何?』


『神谷さんの通常業務、ありがとうございます』


『あたしだけじゃないよ。中井くんと陸がほとんどやった』


 陽菜が陸を見る。


『陸、報告して』


「はい。今日連絡予定だったお客さまには、すべて連絡しました。判断が必要なものは中井先輩へ確認してあります」


『よくできています』


「ありがとうございます」


 樹里の短い言葉に、陸が姿勢を正す。


『神谷さんが戻ったあと、もう1度引き継げるように記録を残しておいてください』


「分かりました」


『お願いします』


 樹里は、神谷の空席を見る。


 この机へ戻ってきたとき、神谷に仕事を押し戻さない。


 その準備は、すでに始まっていた。


『日高先輩』


 陽菜が樹里の顔を覗き込む。


『もう帰るんだよね』


『はい』


『家に?』


 樹里は答えなかった。


 陽菜の目が、わずかに細くなる。


『神谷さんのところ?』


『……食事をしているか、確認してきます』


『電話で聞けばいいじゃん』


『信用できません』


『だよね』


 陽菜が小さく笑った。


 からかうことはしなかった。


『だったら、早く行ってあげて』


『はい』


『あとさ』


『何ですか』


『優しくしてあげてね』


『そのつもりです』


『日高先輩の優しいは、普通の人には怖いことがあるから』


『余計なお世話です』


『ほら、もう怖い』


 今度は、いつもの陽菜らしい笑みだった。


『行ってらっしゃい』


『行ってきます』


     ◇


 会社を出た樹里は、駅へ向かう途中でスーパーマーケットへ立ち寄った。


 米。


 卵。


 長ねぎ。


 水。


 消化の良いものをいくつか買い、神谷の自宅へ向かう。


 住所は、緊急連絡の際に黒澤から教えてもらっていた。


 向かう前に、神谷へLINEを送る。


『今から伺います』


 すぐに既読がついた。


『大丈夫です。今日は休んでいます』


 大丈夫。


 その言葉を見た瞬間、樹里の眉間に皺が寄った。


『食事はしましたか』


 返信が途切れる。


 しばらくして、短い文章が届く。


『あとで食べます』


『していないんですね』


『食欲がないだけです。本当に大丈夫です』


 樹里は、その返信を最後まで読んでから入力した。


『今から行きます』


『日高さんも休んでください。昨日から寝ていませんよね』


『向かっています』


『来なくても大丈夫です』


『もう電車に乗りました』


 本当は、まだ改札の前だった。


 数秒後、神谷から諦めたような返信が届く。


『分かりました。お気をつけて』


 樹里はスマートフォンを鞄へ入れ、改札を通った。


     ◇


 神谷の部屋のインターホンを押す。


 中で何かが動く音がした。


 すぐには、扉が開かない。


 ゆっくりとした足音が近づいてくる。


 鍵が回り、扉が開いた。


「日高さん……」


 神谷は部屋着姿だった。


 額には白いガーゼが貼られている。


 顔色は悪く、立っているだけでも辛そうだった。


『どうしてすぐに開けないんですか』


「少し、寝ていたので」


『嘘ですね』


「……起き上がるのに、時間がかかりました」


『それを大丈夫とは言いません』


 樹里は買い物袋を持ち上げる。


『上がります』


「はい?」


『失礼します』


 神谷が驚いている間に、樹里は靴を脱いだ。


 狭い玄関で2人の距離が近づく。


 神谷は慌てて壁へ背を寄せ、樹里が通れる場所を空けた。


 部屋には、倒れた日の痕跡が残っていた。


 半分だけ閉じられたカーテン。


 飲みかけの水。


 床に落ちたファイル。


 机の上には、閉じたままのパソコンがある。


 樹里はパソコンを確認してから、床のファイルを拾い上げた。


「仕事はしていません」


『当然です』


「今朝の電話から、1度も開いていません」


『それも当然です』


「少しくらい、信用してください」


『神谷さんの大丈夫と休みますは、当分信用しません』


「……分かりました」


 神谷は反論を諦め、ソファへ座った。


 樹里はジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくる。


『キッチンを借ります』


「何をするんですか」


『食事を作ります』


「自分でできます」


『では、今まで何も食べていない理由を教えてください』


「食欲がなかったので」


『できていませんね』


 樹里は買ってきたものをキッチンへ運ぶ。


「日高さんも疲れているでしょう。そこまでしていただかなくても」


『座っていてください』


「でも」


『歩くのも辛い人に手伝われる方が困ります』


 水道の音がする。


 米を研ぐ。


 鍋へ水を入れ、火をつける。


 必要なものだけを取り出し、使ったものはその場で片づける。


 余計な動きがない。


 神谷はソファの端へ座り、キッチンに立つ樹里の背中を見ていた。


 自分の部屋に、樹里がいる。


 仕事着の袖をまくり、自分のために料理をしている。


 嬉しいと思ってしまうことが、今は情けなかった。


「日高さん」


『何ですか』


「高槻社長は、どうでしたか」


 樹里の手が、一瞬止まる。


『怒っていました』


「やはり、契約は」


『終わっていません』


 神谷が顔を上げる。


 樹里は鍋を見たまま、今日のことを伝える。


『工期案は渡しました。見積もりがないため、その場での判断はいただけませんでした』


「申し訳ありません」


『まだ話の途中です』


「はい」


『最初は、ほかの会社へ回すと言われました』


 神谷の指が、膝の上で強く握られる。


『ですが、神谷さんの体調が戻り次第、2人で改めて伺うことで延期していただきました』


「……本当ですか」


『はい』


「どうやって」


『お願いしました』


「高槻社長が、それだけで待ってくれたんですか」


『何度か、断られました』


「何を言われたんですか」


『今は、話しません』


「日高さん」


『食事のあとです』


 樹里は、それ以上答えなかった。


 鍋から、柔らかな湯気が上がる。


 米が煮える匂いが、静かな部屋へ広がっていった。


     ◇


 樹里は、出来上がったおかゆを椀へ盛った。


 溶いた卵を加え、細かく刻んだねぎを少しだけ散らす。


 自分の手の甲へ湯気を当て、熱さを確かめる。


 それから神谷の前へ置いた。


『食べてください。熱いので気をつけて』


「ありがとうございます」


 神谷が椀を持とうとする。


 手に力が入らず、わずかに傾いた。


 樹里がすぐに支える。


「すみません」


『私が持ちます』


「大丈夫です。これくらいは」


『持てても、今は私が持っています』


 樹里は椀を自分の手元へ引き寄せた。


 スプーンで少量をすくい、息を吹きかけて冷ます。


 それを神谷の口元へ運ぶ。


「日高さん」


『口を開けてください』


「自分で食べられます」


『先ほど、こぼしかけました』


「少し手が滑っただけです」


『口を開けてください』


 神谷は諦めたように、口を開いた。


 ひと口目のおかゆが、身体へ入る。


 味は薄い。


 それなのに、空になっていた胃へ熱がゆっくり広がっていく。


『熱くありませんか』


「大丈夫です」


『本当ですか』


「これは、本当です」


 樹里は次をすくう。


 神谷が飲み込むのを、急がずに待つ。


 ひと口ずつ。


 言葉を挟まず。


 神谷は、次第に樹里の顔を見られなくなった。


 額のガーゼ。


 整っていない髪。


 弱った身体。


 自分の情けない姿を、すべて見られている。


 その樹里は嫌な顔ひとつせず、神谷が飲み込むたびに次のおかゆを運ぶ。


「……おいしいです」


『そうですか』


「ありがとうございます」


『まだ残っています』


「はい」


 椀が空になるまで、樹里は隣を離れなかった。


     ◇


 最後のひと口を飲み込む。


 樹里が空になった椀を下げようとしたとき、神谷が声を出した。


「日高さん」


『何ですか』


「申し訳ありませんでした」


『何についてですか』


「全部です」


 神谷は俯いた。


「2人でやると言ってくださったのに、私は何も渡しませんでした」


『資料は受け取っています』


「そういう意味ではありません」


 神谷の手が、膝の上で震えている。


「高槻社長から任せてもらえるかもしれない。黒澤部長からも、自分が指名された。そのことが嬉しくて……絶対に失敗したくなかったんです」


 樹里は、黙って聞いている。


「日高さんに選んでもらったんじゃない。今回は、最初に自分の名前が呼ばれた。だから、自分がやらなければいけないと思いました」


『はい』


「それなのに、結局は倒れました」


 神谷の声が掠れる。


「見積もりも完成させられなかった。高槻社長のところへも行けなかった。日高さんに徹夜までさせて、1人で謝らせて……」


『神谷さん』


「自分が情けないです」


 神谷の目から、涙が落ちた。


 声を上げて泣くのではない。


 俯いたまま、止めようとしても止まらない。


 男の悔し涙だった。


「任せてもらったのに」


 もう1滴、膝へ落ちる。


「あなたに、任せてくださいと言ったのに」


 神谷の肩が震える。


 樹里は、その横顔を見つめた。


 何と言えば、この人へ届くのか。


 大丈夫。


 気にするな。


 仕方がなかった。


 どれも違う。


 失敗は、失敗だった。


 神谷は仕事を抱え、周囲の言葉を聞かず、途中で倒れた。


 それをなかったことにはできない。


 だから樹里は、慰める言葉を探すのをやめた。


 身体が、先に動いた。


 神谷の後頭部へ手を回す。


 そのまま、神谷の顔を自分の胸へ引き寄せた。


「日高さん……」


 ガーゼの貼られた額が、樹里の鎖骨の下へ触れる。


 仕事着に残った外の空気。


 樹里の体温。


 胸の奥で鳴る、ゆっくりとした心臓の音。


 今朝、電話越しに怒鳴った人の胸は、驚くほど静かだった。


『高槻社長は、怒っていました』


 樹里の声が、神谷の髪へ落ちる。


『資料を揃えられなかったことも、神谷さんが倒れたことも、厳しく叱られました』


「……はい」


『ですが、工期案は評価していました』


 神谷の手が、樹里の服を弱く掴む。


『最初の区画から実績を作る考え方も、現場を見ていると言っていました』


「それは、川原さんの……」


『神谷さんが組んだ全体案があったから、川原さんの考えを入れられたんです』


 樹里は、神谷の後頭部へ回した手を離さない。


『先方は怒っていた。でも、それと同じくらい、あなたに期待しています』


 神谷の涙が、樹里のシャツを濡らす。


『終わった時間は戻せません』


「はい」


『仕事を抱えたことも、倒れたことも、約束した資料を揃えられなかったことも、失敗です』


「……はい」


『私も、あなたを止められませんでした』


「日高さんのせいではありません」


『2人でやると言いながら、結果として1人で走らせました。私にも責任があります』


「違います」


『違いません』


 樹里の腕に、少しだけ力が入る。


『だから、体調を戻してください』


 神谷は何も言えない。


『しっかり休んで、立てるようになったら、2人で高槻社長のところへ謝罪に行きます』


「……はい」


『1からやり直しだ』


 その言葉だけ、敬語ではなかった。


 叱る声でもない。


 突き放す声でもない。


 失敗した場所へ、2人で戻るための言葉だった。


「ありがとうございます」


 神谷は、樹里の胸へ顔を預けたまま答えた。


 それ以上は言えなかった。


 声を出せば、また涙が溢れる。


 樹里は急かさなかった。


 離れろとも言わない。


 神谷の呼吸が落ち着くまで、その後頭部を預かり続けた。


 やがて、樹里の指が1度だけ髪を撫でる。


 慰めと呼ぶには短い。


 仕事の関係と呼ぶには、あまりにも近い。


 神谷の肩から、少しずつ力が抜けていった。


     ◇


 樹里は、ゆっくりと腕を解いた。


 神谷の顔を確認する。


 目元は赤く、まだ涙の跡が残っている。


『今は寝てください』


「日高さんこそ、昨日から休んでいないでしょう」


『私は帰って寝ます』


「本当ですか」


『神谷さんとは違います』


「否定できませんね」


『高槻興産への連絡は、私がします。会社のことも心配しないでください』


「通常業務は」


『櫻井さんと中井さん、山本さんが整理しています』


「山本も?」


『はい。神谷さんが戻ったとき、仕事が積み上がっていないように動いてくれています』


 神谷が目を伏せる。


「そうですか」


『川原さんも、工期案の最終確認に加わりました』


「みんなに、迷惑をかけました」


『迷惑をかけたなら、戻ってから返してください』


「はい」


『今、返そうとしないでください』


「……分かりました」


 樹里は椀を洗い、鍋の火が消えていることを確認する。


 残ったおかゆは容器へ移し、冷蔵庫へ入れた。


『次に食べるときは、少し水を足して温めてください』


「はい」


『薬は』


「食後に飲むように言われています」


『今、飲んでください』


「分かりました」


 神谷が薬を飲むところまで見届ける。


 樹里はジャケットを羽織り、鞄を持った。


 玄関へ向かう。


「日高さん」


 神谷に呼ばれ、樹里が振り返る。


「今日は、本当にありがとうございました」


『はい』


「高槻社長とのことも、おかゆも……それから」


 神谷の視線が、樹里の胸元へ一瞬だけ向かう。


 すぐに逸らされた。


「全部、ありがとうございます」


 樹里も、その意味に気づいた。


『忘れてください』


「それは難しいです」


『忘れてください』


「努力します」


『努力ではなく、忘れてください』


 神谷の口元に、ほんのわずかな笑みが戻った。


「分かりました」


『嘘ですね』


「はい」


 樹里は小さく息を吐いた。


 怒る気にはなれなかった。


『鍵をかけてください。玄関まで来なくていいです』


「でも」


『歩かないでください』


「はい」


『おやすみなさい』


「おやすみなさい。日高さん」


 扉が閉まる。


     ◇


 樹里が帰ったあとも、部屋にはおかゆの匂いが残っていた。


 神谷はソファへ身体を預ける。


 額の傷は、まだ痛む。


 身体も重い。


 失った時間は戻らない。


 未完成の見積もりも、消えたわけではない。


 それでも、先ほどまで胸を満たしていた絶望だけは薄くなっていた。


『仕事を舐めるな!』


 朝、電話越しに聞いた声。


『1からやり直しだ』


 夕方、樹里の胸の中で聞いた声。


 どちらも、同じ人の言葉だった。


 神谷を否定するためではない。


 ここで終わらせないための言葉だった。


 神谷は、ガーゼの上から額へ触れる。


 次は、1人で走らない。


 樹里に仕事を渡す。


 周囲を頼る。


 倒れずに、高槻の前へ戻る。


 それが、今日自分を抱きしめてくれた人へ返すべきものだった。


 神谷は目を閉じた。


 今度こそ、仕事の続きを考えずに眠る。


 静かな部屋の中で、樹里の胸の温度だけが、いつまでも消えずに残っていた。

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