183話「責任」
正午ちょうど。
樹里は、高槻興産の受付に立っていた。
隣に神谷はいない。
これまで2人で訪れた場所へ、今日は1人で来ている。
「日高さん」
受付の奥から、緒方が歩いてくる。
いつもの穏やかな表情はなかった。
「神谷さんは……」
『過労で倒れました』
樹里は隠さなかった。
『本日は、私1人で伺いました』
「倒れたって、大丈夫なんですか」
『命に別状はありません。昨日は入院していましたが、今朝から自宅療養へ切り替わっています』
「そうですか……」
緒方は安堵したあと、すぐに会議室の方を見る。
「高槻社長には、まだお伝えしていません」
『私から説明します』
「ですが、今日の資料は」
『見積もりが間に合いませんでした』
緒方の表情が固まった。
高槻がそれを知れば、どうなるか。
同じ会社で働く緒方には分かっている。
「少し待っていただけませんか。先に森山さんへ――」
『必要ありません』
「でも」
『神谷さんが倒れたことも、資料を揃えられなかったことも、私たちの責任です』
樹里は、持っている鞄の取っ手を握る。
『その説明まで、そちらへお願いすることはできません』
「……分かりました」
緒方は、それ以上止めなかった。
「ご案内します」
◇
通されたのは、いつもの応接室だった。
高槻正彦は、樹里が入ってくると、その隣を見た。
誰もいない。
「あの坊やはどうした」
『過労で倒れました。現在は、自宅で療養しています』
高槻は、しばらく何も言わなかった。
驚いた顔もしない。
同情する言葉も出さない。
「座れ」
『失礼いたします』
樹里が腰を下ろす。
森山は高槻の隣に立ち、緒方は樹里から少し離れた場所に控えた。
高槻は、樹里の鞄へ目を向ける。
「持ってきたんだろうな」
『現時点で揃っているものは、すべてお持ちしました』
「現時点で?」
樹里は鞄を開き、資料を机へ置く。
工期案。
区画の移転順序。
既存テナントへの影響。
管理体制の再編案。
その束を見た高槻が、1番上の資料を手に取る。
数ページめくり、樹里を見る。
「見積もりは」
『間に合いませんでした』
部屋の空気が止まる。
『大変申し訳ございません』
樹里は頭を下げた。
「顔を上げろ」
低い声だった。
樹里が顔を上げる。
「俺は、概算の見積もりと工期を持ってこいと言ったはずだ」
『はい』
「片方しかないものを、よく持ってこられたな」
『何も持たずに延期をお願いすることは、できないと判断しました』
「だから、半端なものを持ってきたと?」
『半端な状態になった責任は、私にあります』
「お前だけの責任か」
『担当者は神谷さんですが、私も同じ案件を任されています』
高槻は、工期案を机へ置いた。
「倒れてまでやれとは言っていない」
『承知しています』
「期限を出したときにも、俺は確認した。無理なら断れとな」
『はい』
「それでも、あいつはやると答えた」
『はい』
「結果がこれか」
高槻が資料を指で叩く。
「仕事を受けた人間が途中で倒れ、約束したものも揃えられない。これで何を評価しろと言うんだ」
『おっしゃるとおりです』
「日高さん。お前は、止めなかったのか」
樹里は一瞬だけ黙った。
『止めました』
「止まらなかった?」
『はい』
「なら、引きずってでも止めるべきだったな」
『そのとおりです』
「一緒に担当していたなら、あいつがどれだけ抱えているかも分かっていたはずだ」
『分かっていたつもりでした』
「つもりで人間の身体は守れない」
『はい』
樹里は、どの言葉からも逃げなかった。
高槻の指摘は正しい。
神谷が仕事を渡そうとしなかった。
止めても聞かなかった。
それだけを理由にして、自分の責任から逃れることはできない。
2人でやると言った。
1人で抱えないよう約束もさせた。
それでも、神谷を止められなかった。
高槻は、もう1度工期案を開く。
「内容は見た」
樹里が顔を上げる。
「工期の考え方自体は悪くない。営業を止めずに動かす順序も、現場を見ている」
『ありがとうございます』
「だが、見積もりがなければ判断はできん」
『承知しています』
「承知しています、申し訳ございません。それで9日が戻ってくると思うか」
『思いません』
「なら、どうする」
『神谷さんの体調が戻り次第、2人で改めて伺います』
「それまで待てと?」
『お願いいたします』
樹里は深く頭を下げた。
高槻は、何も言わない。
時計の音だけが響く。
頭を下げたままの樹里には、高槻の表情が見えない。
どれだけ時間が経ったのかも分からなかった。
「断る」
高槻の声が落ちる。
樹里は頭を上げた。
「この案件は、ほかへ回す」
緒方がわずかに息を呑む。
森山も、高槻を見る。
だが、口を挟む者はいない。
『もう1度、機会をいただけませんか』
「ない」
『お願いいたします』
「聞こえなかったのか」
『聞こえています』
樹里は、高槻から目を逸らさなかった。
『それでも、お願いいたします』
「約束した資料を揃えられなかった会社に、何を任せろと言うんだ」
『今回の失態は、すべて認めます』
「認めたから何だ」
『ですが、工期案だけでも見ていただけませんか』
「見たと言っただろ」
『神谷さんが、9日間で組んだものです』
「その神谷が、ここにいない」
『だから、私が来ました』
高槻の眉が動く。
『私は、神谷さんの代わりではありません。あの人と一緒に、この案件を任された人間です』
「見積もりも持たずに来た人間が、よく言う」
『はい。お叱りは、すべて受けます』
「なら、これで終わりだ」
『終わらせないでください』
高槻の顔から、わずかに感情が消えた。
「何?」
『見積もりが揃わなかったこと。担当者が倒れたこと。その担当者を止められなかったこと。責任は、私にもあります』
樹里の手が、膝の上で握られる。
『この案件を島川不動産へ任せられないと判断されるのであれば、それも受け入れます』
「さっきから、言ってることが逆だぞ」
『それでも、神谷さんが積み上げた仕事まで否定しないでください』
「結果を出せなかった仕事に、何の意味がある」
『まだ、結果が出ていないだけです』
樹里の声が強くなる。
『終わってはいません』
「俺が終わりだと言っている」
『だから、終わらせないでほしいとお願いしています』
高槻が、椅子へ深く腰を預けた。
樹里は引かなかった。
立場は、圧倒的に弱い。
契約を切られても、何も言い返せない。
それでも、神谷の作った資料から手を離さなかった。
「大した自信だな」
『自信ではありません』
「なら、何だ」
『責任です』
樹里は、はっきりと答えた。
『神谷さんは、できもしない仕事を軽い気持ちで受けたわけではありません』
「結果的には倒れた」
『はい』
「仕事も完成しなかった」
『はい』
「担当者としては失格だ」
『今回に関しては、否定できません』
「口だけの、しょうもない男だったな」
樹里の目が変わった。
それまで、すべての叱責を受け入れていた。
自分の責任も、神谷の失敗も認めていた。
だが、そのひと言だけは、黙って飲み込めなかった。
『その言葉は、撤回してください』
緒方が樹里を見る。
森山も、わずかに目を見開いた。
高槻の眉間に皺が寄る。
「誰にものを言ってる」
『高槻社長に申し上げています』
「このまま、島川不動産との関係を終わらせてもいいんだぞ」
『承知しています』
「分かっていて言ってるのか」
『はい』
樹里は、まっすぐ高槻を見る。
『資料を揃えられなかったことについて、弁解するつもりはありません。神谷さんが倒れる前に止められなかったことも、私の責任です』
一度、息を吸う。
『ですが、神谷さんは、しょうもない人間ではありません』
「日高さん」
森山が思わず名前を呼ぶ。
樹里は止まらなかった。
『神谷さんは、誰より真剣にこの案件へ向き合っていました。高槻社長からいただいた資料を何度も読み直し、現場へ足を運び、関係する業者へ頭を下げ続けました』
「それで倒れたなら、ただの無能だ」
『仕事の進め方を間違えたことは認めます』
「同じことだろ」
『同じではありません』
樹里の声は荒れていない。
怒鳴ってもいない。
それでも、室内の誰も割って入れないほどの圧があった。
『神谷さんの失敗を叱ることと、神谷さんという人間を見下すことは違います』
「ずいぶん偉そうに言うじゃないか」
『申し訳ございません』
「謝るなら黙れ」
『それはできません』
樹里は頭を下げなかった。
『今回のことで島川不動産との関係を終わらせるのであれば、責任は私が負います』
「お前に負える金額じゃない」
『分かっています。それでも、神谷さんだけの責任にはさせません』
高槻は、樹里を見つめた。
怒りを向けられても退かない。
契約を守るための機嫌取りもしない。
自分の失敗を認めながら、他人の尊厳だけは守ろうとする。
やがて高槻は、短く息を吐いた。
工期案を、もう1度手に取る。
「この最初の区画を選んだ理由は」
突然、質問が変わった。
樹里は一瞬だけ目を見開く。
すぐに資料を開いた。
『単独で改修工事に入ることができ、隣接するテナントへの影響が最も少ないためです』
「費用効率だけなら、南寄りから動かした方がいい」
『はい。ただ、最初の工事で問題が起きれば、ほかのテナントとの交渉が難しくなります』
「だから、小さく実績を作る?」
『はい。最初の区画で工事と移転の実例を作り、その結果をもとにほかのテナントへ説明します』
「誰が考えた」
『基本案は神谷さんです。最初の区画選定には、弊社の新人社員がまとめた分析も使用しています』
「新人?」
『はい』
「そんなものを持ってきたのか」
『内容に問題がないと、私が判断しました』
高槻が工期案へ目を落とす。
「新人の案が間違っていたら?」
『確認した私の責任です』
「また責任か」
『はい』
「便利な言葉だな」
『便利に使っているつもりはありません』
高槻はしばらく工期案を読み、やがて机へ置いた。
「見積もりは、いつ出せる」
『神谷さんの回復後、必要な確認を終えてからになります』
「日を言え」
『現時点では、お約束できません』
「また失敗するのが怖いか」
『守れない期限を申し上げる方が、無責任です』
高槻の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
「分かった」
樹里は、高槻を見た。
「今回は延期にする」
緒方が、小さく息を吐く。
森山の肩からも力が抜けた。
「神谷の体調が戻ったら、2人で来い」
『ありがとうございます』
「勘違いするな。許したわけじゃない」
『はい』
「次に半端なものを持ってきたら、本当に終わりだ」
『承知しました』
「神谷にも伝えろ。次は倒れる前に仕事を終わらせろとな」
樹里は一瞬だけ黙った。
『その言い方では、また無理をします』
「あぁ?」
『次は、倒れずに仕事を終わらせます。2人で』
高槻は鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
『ありがとうございます』
樹里は立ち上がり、深く頭を下げた。
◇
応接室を出ると、森山が樹里をエレベーターまで送った。
緒方も、その隣を歩いている。
「日高さん」
緒方が、小さな声で呼ぶ。
「神谷さんへ、どうかお大事にとお伝えください」
『ありがとうございます。必ず伝えます』
「それと……川原さん、でしたか」
萌の名前が出て、樹里が緒方を見る。
「最初の区画選定を考えた新人の方です」
『はい』
「良い案だと思います。現場へ説明しやすい順序です」
『本人へ伝えます』
「お願いします」
緒方が一礼する。
エレベーターの扉が開く。
樹里が乗り込み、森山と緒方へ頭を下げる。
『本日は、ありがとうございました』
「日高さん」
応接室の方から、高槻の声がした。
樹里は、閉まりかけた扉を手で止める。
高槻が廊下に立っていた。
「ひとつだけ聞く」
『何でしょうか』
「あの男に、惚れてるのか」
森山の表情が固まる。
緒方も目を見開いた。
樹里は、高槻から目を逸らさなかった。
迷う時間は必要なかった。
『はい』
短い答えが、廊下へ落ちた。
自分でも、驚くほど自然に出た。
誰かに尋ねられたから、仕方なく認めたのではない。
神谷を守るための方便でもない。
それは、樹里が初めて声にした自分の気持ちだった。
高槻は、それ以上何も言わない。
「そうか」
背を向け、応接室へ戻っていく。
樹里はエレベーターの扉から手を離した。
扉が閉まる。
1人になった箱の中で、樹里は鞄の取っ手を握った。
見積もりは揃わなかった。
神谷も連れてこられなかった。
高槻との関係は、かろうじて切れずに済んだ。
今日、守れたものは、それだけだった。
それでも、神谷の名前だけは落とさなかった。
◇
高槻興産を出ると、樹里は会社へ電話を入れた。
「営業部、櫻井です」
『櫻井さん。私です』
『日高先輩。どうだった?』
『延期になりました』
電話の向こうで、大きく息を吐く音がする。
『切られてない?』
『はい。神谷さんの体調が戻り次第、2人で改めて伺います』
『そっか』
陽菜の声が、わずかに震えた。
『よかった。本当に、よかった』
『ご心配をおかけしました』
『日高先輩は大丈夫?』
『大丈夫です』
『今日、その言葉は禁止って言ったよね』
樹里は答えなかった。
『会社に戻ってくる?』
『はい。報告があります』
『分かった。待ってる』
通話を切る。
樹里は、スマートフォンの画面を見る。
神谷へ連絡を入れようとして、指を止めた。
電話で報告することではない。
高槻が怒っていたこと。
それでも待つと言ったこと。
2人で来いと言われたこと。
そして、もう1つ。
自分が何を口にしたのか。
樹里はスマートフォンを鞄へ入れた。
会社へ戻り、黒澤への報告を終えたら、神谷の家へ行く。
あの人は、食事をしているだろうか。
薬を飲んだだろうか。
きちんと眠れているだろうか。
仕事のことばかり考えて、何もしていない気がした。
樹里は駅へ向かう途中で、進行方向を少し変えた。
神谷の家へ行く前に、米と卵を買わなければならなかった。




