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182話「仕事を舐めるな」

提出日の朝。


 樹里と黒澤は、まだ営業部にいた。


 窓の外から差し込む朝の光が、散らかった机を照らしている。


 空になったコーヒーの容器。


 書き込みで埋まった区画図。


 何度も並べ替えられた契約資料。


 中央には、神谷が組み上げた工期案が置かれていた。


 完全ではない。


 概算見積もりは、最後まで揃わなかった。


 それでも工期案には、9日間で神谷が考えたことのすべてが残っている。


 樹里は資料をまとめ、鞄へ入れた。


「日高さん」


 黒澤が椅子へ身体を預けたまま、声をかける。


「本当に行くのか」


『行きます』


「謝って帰るだけになるかもしれんぞ」


『そのために行きます』


「切られる可能性もある」


『電話で済ませれば、もっと簡単に切られます』


 樹里は、神谷の空席を見る。


『神谷さんが作ったものを、なかったことにはできません』


「……そうか」


 黒澤は、それ以上止めなかった。


 時計は午前7時を回ったところだった。


 高槻興産との約束は、正午。


 まだ時間はある。


 しかし、できることが増える時間ではなかった。


     ◇


 午前8時を過ぎると、社員たちが出勤してきた。


 営業部へ入った陽菜は、樹里と黒澤の姿を見て足を止めた。


『おはようございます』


「おはよう」


 黒澤が返す。


 樹里も顔を上げる。


『おはようございます』


 陽菜は、2人の机を見る。


『帰ってないの?』


『はい』


『日高先輩』


『食事はしました』


『そこじゃない』


 陽菜は何かを言いかけたが、樹里の顔を見て止めた。


 目の下には薄い影がある。


 それでも意識ははっきりしていた。


 今ここで休めと言っても、樹里は聞かない。


『高槻興産には、日高先輩が行くの?』


『そのつもりです』


『見積もりは?』


『間に合いませんでした』


『それでも行くんだ』


『はい』


 陽菜は、神谷の空席へ目を向ける。


『分かった。こっちは、あたしがやる』


『お願いします』


『だから、絶対戻ってきて』


 樹里が陽菜を見る。


『戻ります』


『約束ね』


『はい』


 短い会話だった。


 それでも陽菜は、樹里の返事を聞いてから自分の席へ向かった。


     ◇


 萌が出勤すると、机の上に昨日確認した資料が置かれていた。


 自分が提案した区画の順序が、全体の工期案へ組み込まれている。


 端には、樹里の字で短く書かれていた。


『このまま使用します。ありがとうございました』


 萌は、その一文を見つめた。


 たった2行。


 相変わらず、言葉は少ない。


 それでも、自分の仕事が初めて実際の案件へ使われる。


 胸の奥に、嬉しさと怖さが同時に広がった。


「川原さん」


 隣から、陸が声をかける。


「神谷先輩、今日も休みですよね」


「当たり前でしょ。昨日倒れたんだから」


「日高先輩と黒澤部長、帰ってないみたいです」


「うん」


 2人は、少し離れた場所にいる樹里を見る。


 昨日までなら、萌は樹里が忙しいことを、自分を見ない理由だと思っていた。


 今は、その忙しさが何から生まれているのかを知っている。


 神谷が倒れた。


 それでも、期限は待ってくれない。


 樹里は神谷の仕事を守るため、夜を越えた。


 萌は自分の資料へ目を戻す。


 自分の考えも、その中へ連れていってもらえる。


 それが少しだけ、誇らしかった。


     ◇


 午前8時55分。


 始業まで、あと5分。


 黒澤のデスクにある電話が鳴った。


 黒澤が受話器を取る。


「はい。営業部、黒澤」


「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」


 聞こえてきた声に、黒澤の表情が変わる。


「神谷か」


 その名前に、営業部の空気が止まった。


 樹里が顔を上げる。


 陽菜も、陸も、萌も、一斉に黒澤を見る。


「お前、病院はどうした」


「今朝、自宅へ戻りました。検査では問題なかったので、あとは自宅で休むようにと」


「なら、寝てろ」


「そうしたいのですが、今日の高槻興産があります」


 神谷の声には、昨日倒れた人間とは思えないほど意識があった。


 だが、力はない。


 普段より声が細く、言葉の間に浅い息が混じっている。


「今から向かいます。少し遅れるかもしれませんが、11時までには会社へ着けます」


「何を言ってる」


「額の傷以外は大丈夫です。歩けますし、熱もありません」


「医者は何て言った」


「3日間は安静にと」


「答え出てるだろ」


「ですが、今日だけは休めません」


 樹里が席を立った。


 黒澤へ手を伸ばす。


『スピーカーにしてください』


 黒澤が樹里を見る。


 一瞬迷ったあと、通話をスピーカーへ切り替えた。


 神谷の呼吸が、静まり返った営業部へ流れる。


「黒澤部長?」


『聞いています』


 樹里の声に、電話の向こうで沈黙が落ちた。


「日高さん」


『今、どこですか』


「自宅です」


『何をしているんですか』


「出社の準備をしています」


『やめてください。今日は休んでいてください』


「でも、今日は高槻社長との約束があります」


『私が行きます』


「日高さん1人では無理です。見積もりも揃っていませんし、工期案には私にしか説明できない部分があります」


『説明は、資料を読めば分かります』


「細かな判断の理由までは書けていません。今から向かいますので、社用車だけ先に準備しておいていただけませんか」


『来ないでください』


「もう大丈夫です。歩けますし、意識もはっきりしています」


『大丈夫かどうかを、神谷さんが判断しないでください』


「自分の身体です。今日だけなら――」


『仕事を舐めるな!』


 樹里の怒鳴り声が、営業部全体を震わせた。


 陸の肩が跳ねる。


 凛が、持っていた資料を強く握る。


 柚希は目を見開き、萌は息をすることさえ忘れて樹里を見ていた。


 陽菜だけが、驚きながらも目を逸らさなかった。


 樹里は受話器に向かっている。


 肩が、わずかに上下していた。


『歩けるから仕事ができるんですか。意識があるから、正しい判断ができるんですか』


「日高さん……」


『昨日、自宅の玄関で意識を失った人が、何を根拠に大丈夫だと言っているんですか』


「ですが、私が担当です」


『担当なら、自分が動けないときのことまで考えてください』


「今日を逃せば、高槻興産との関係が終わるかもしれません」


『だから私が行くと言っています』


「日高さんに、全部押しつけるわけには――」


『押しつけられてはいません』


 怒鳴ったあとの樹里の声は、低く、はっきりしていた。


『私は、神谷さんのサポートとしてこの案件に入りました』


 神谷は何も言わない。


『今日は、私が高槻興産へ向かいます。それでも神谷さんが来るとおっしゃるなら、私はもう、あなたのサポートを降ります』


「……それは」


『病院から安静を命じられた状態で出社する人を、私は支えられません』


 電話の向こうから、神谷の息遣いだけが聞こえる。


『今、神谷さんが会社へ来ても、全員があなたの身体を気にします。判断をするたび、無理をしていないか確認します。そんな状態で、まともな仕事ができると思いますか』


「思いません」


『では、休んでください』


「……はい」


 神谷の声から、力が抜けていた。


「申し訳ありません。今日は、お願いします」


『分かりました』


「高槻社長には、私からも――」


『連絡しないでください』


「ですが」


『今日の連絡は、私がします。神谷さんは、何もしないでください』


「……分かりました」


『パソコンも開かないでください』


「はい」


『食事はしましたか』


「まだです」


『食べて、薬を飲んで、寝てください』


「はい」


『それでは』


 樹里が黒澤を見る。


 黒澤は、静かに通話を切った。


     ◇


 誰も声を出せなかった。


 始業時間を知らせるチャイムだけが、普段と変わらず流れている。


 樹里は自分の席へ戻り、資料を鞄へ入れ始めた。


 先ほど怒鳴った人間と同じとは思えないほど、その手つきは静かだった。


『櫻井さん』


『はい』


『高槻興産へ行ってきます。こちらをお願いします』


『分かりました』


『中井さんにも、神谷さんの通常業務の確認を頼んでください』


『うん』


 陽菜は、周囲を見渡した。


『みんな、仕事に戻ろう』


 その声で、止まっていた営業部が少しずつ動き始める。


 電話が鳴る。


 パソコンが立ち上がる。


 資料を運ぶ足音が戻る。


 それでも萌は、すぐには樹里から目を離せなかった。


 怖かった。


 今まで聞いたことのない怒鳴り声だった。


 だが、神谷を責めるための怒りではない。


 会社へ来させないため。


 神谷に仕事をさせないため。


 自分が代わりにすべてを背負うための怒りだった。


(この人は、心配だって言えないんだ)


 言えないから、仕事の言葉で止める。


 休んでほしいという願いを、命令に変える。


 優しいとは、まだ思えなかった。


 優しさという言葉だけで片づけてはいけない気もした。


 ただ、神谷を守ろうとしている。


 それだけは分かった。


 歓迎会で聞いた言葉が、萌の頭に浮かぶ。


 日高先輩は、スルメなんだよ。


(分かりにくすぎるでしょ)


 萌は、心の中で呟いた。


     ◇


「川原さん」


 樹里に呼ばれ、萌は顔を上げた。


『昨日、確認してもらった資料を借ります』


「はい」


『高槻社長へ説明する際に使います』


「分かりました」


 萌は、自分の資料を樹里へ差し出す。


 樹里が受け取る。


「日高先輩」


『何ですか』


「私の名前は、出さなくていいです」


 樹里が萌を見る。


「まだ新人ですし、そのまま使うわけでもないと思うので」


『これは、川原さんが考えたものです』


「でも」


『必要であれば、高槻社長にもそう説明します』


「……いいんですか」


『なぜ、駄目なんですか』


「新人の考えだと言ったら、信用されないかもしれません」


『内容に問題がなければ、誰が考えたかは関係ありません』


 樹里は資料を鞄へ入れた。


『問題があれば、それを確認した私の責任です』


 昨日までは、神谷の仕事を守るための言葉だと思っていた。


 今の言葉は、萌の仕事にも向けられている。


「日高先輩」


『はい』


「頑張ってください」


 口にしてから、違うと思った。


 樹里は、もう十分に頑張っている。


「……違いますね。すみません」


 萌が言い直そうとする。


 樹里は、わずかに首を横へ振った。


『ありがとうございます』


 それだけ答えて、営業部を出ていく。


 萌は、その背中を見送った。


     ◇


 陸は、自分の席に座りながら、スピーカーの置かれた黒澤の机を見ていた。


 昨日までの自分は、神谷の体調がおかしいことに気づきながら、何もできなかった。


 今日は樹里が、一度も迷わず神谷を止めた。


 怒鳴ることが正しいのではない。


 相手が嫌がっても、必要なことを伝える。


 それが、自分にはできなかった。


「山本」


 中井に呼ばれ、陸が振り向く。


「はい」


「神谷さんの今日の予定を、一緒に確認しよう」


「分かりました」


「高槻興産以外にも、連絡を待っているお客さまがいる。誰へ引き継ぐか決めないといけないからね」


「俺にもできますか」


「全部を任せるわけじゃないよ」


 中井は、神谷の予定表を画面へ表示する。


「山本には、予定と連絡先を拾ってほしい。判断は俺と櫻井さんでするから」


「はい」


「分からないところは、すぐに聞いて」


「分かりました」


 陸は予定表を見る。


 神谷の空席を埋めることはできない。


 だが、神谷が戻ってきたとき、その机へ滞った仕事を積み上げないことはできる。


 昨日までなら、陽菜に認められることばかり考えていた。


 今は、誰が見ているかは関係なかった。


     ◇


 午前10時30分。


 樹里は、必要な資料をすべて鞄へ入れた。


 工期案。


 契約状況。


 移転順序の検討資料。


 揃わなかった見積もりについての説明。


 そして、謝罪文。


 黒澤が樹里の前へ立つ。


「日高さん」


『はい』


「無理だと思ったら、持ち帰れ」


『分かりました』


「向こうが何を言っても、全部1人で抱えるなよ」


 樹里は、すぐには答えなかった。


「今朝、神谷に言ったばかりだろ」


『……はい』


「戻ってこい。それが今日の日高さんの仕事だ」


『分かりました』


 黒澤が頷く。


「行ってこい」


『行ってきます』


 樹里は営業部を出た。


 エレベーターへ向かう足取りに迷いはない。


 高槻正彦が、未完成の資料を受け入れるとは思っていなかった。


 怒るだろう。


 関係を終わらせると言われるかもしれない。


 それでも、神谷が9日間で積み上げた仕事を、何もなかったことにはさせない。


 神谷の名前を落とさない。


 そのために、樹里は1人で高槻興産へ向かった。

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