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181話「玄関」

提出期限の前日。


 樹里が出社したとき、神谷の席は空いていた。


 時刻は、始業の20分前。


 普段なら、すでにパソコンを立ち上げている時間だった。


 昨日は黒澤から、始業時間より前に来るなと言われている。


 それを守っているだけかもしれない。


 樹里は自分の席へ鞄を置き、パソコンを立ち上げた。


 神谷から昨夜届いた工期案を開く。


 午前1時を過ぎてから、もう一度更新された形跡があった。


 樹里との通話を終えたあとも、神谷は仕事を続けていた。


『……休むと言ったのに』


 小さく呟き、資料へ目を通す。


 工期案は、昨夜より具体的になっていた。


 工事期間中の代替区画。


 営業を止められないテナントへの対応。


 川原萌が提案した、単独で工事へ入れる区画から実績を作る順序も組み込まれている。


 進め方に、大きな間違いはない。


 細部を詰めれば、提出できる。


 だからこそ、樹里の胸に重いものが残った。


 これを、いつまで作っていたのか。


     ◇


 始業10分前。


 社員が次々と出勤してくる。


『おはようございます』


「おはようございます」


 陽菜が挨拶をしながら営業部へ入ってくる。


 自席へ向かう途中、神谷の空席を見た。


『神谷さん、まだ来てないんだ』


『はい』


『昨日、帰らされたんでしょ?』


『自宅で仕事をしていました』


『うわ。あの人、全然言うこと聞かないじゃん』


 いつもの陽菜なら、呆れながら笑っていたかもしれない。


 しかし今日は、口元が動かなかった。


『連絡は?』


『昨夜、電話しました。それ以降はありません』


 陽菜は神谷の席を見つめたあと、自分のスマートフォンを取り出す。


『あたしからかけてみる』


 呼び出し音が続く。


 陽菜の顔から、少しずつ表情が消えていった。


『出ない』


 樹里もスマートフォンを手に取る。


 電話をかける。


 繋がらない。


 LINEも送る。


 既読はつかない。


 始業5分前になっても、神谷は現れなかった。


     ◇


 黒澤が営業部へ入ってくる。


「おはよう」


「おはようございます」


 周囲の挨拶へ短く返しながら、自分の席へ向かう。


 その途中で、神谷の空席に気づいた。


「神谷は?」


『まだ来ていません』


 樹里が答える。


「連絡は」


『ありません。電話にも出ません』


 黒澤の足が止まった。


 すぐに自分のスマートフォンを取り出す。


「外へ出る予定だったか」


『今日はありません。朝から工期案の最終確認をする予定でした』


「昨日、何時に帰った」


『部長に言われたあと、すぐです。ただ、自宅で仕事を続けていました』


 黒澤が神谷へ電話をかける。


 やはり出ない。


「おかしいな」


 黒澤の声が低くなる。


「あいつは、遅れるなら必ず連絡する」


 営業部の空気が変わった。


 それまで遠巻きに様子を見ていた社員たちも、会話を止める。


 陸が、自分の席から神谷の空席を見つめていた。


 昨日、会議室で弁当を食べていた神谷を思い出す。


 数口ごとに止まっていた箸。


 目の下の影。


 自分へ向けた、無理に作ったような笑顔。


「櫻井先輩」


『どうしたの』


「昨日の神谷先輩、食欲がないって言ってました」


 陽菜が陸を見る。


『いつ?』


「昼食のときです。食べるところを見ていたら、途中で箸が止まって」


『どうして昨日のうちに言わなかったの?』


「そのあとは食べていたので、大丈夫だと思って……」


 陸の声が小さくなる。


『そっか』


 陽菜は責めなかった。


『教えてくれてありがと』


 その言葉で、陸はかえって俯いた。


 見ていた。


 異変にも気づいていた。


 けれど、それが何を意味するのかまでは考えなかった。


 気づくことと、気づいたあとに動くことは違う。


 凛が、神谷の席へ目を向けた。


「昨日、帰るときも顔色が悪かったです。声をかけようとは思ったんですが……黒澤部長と話していたので」


「遠藤さんのせいじゃない」


 黒澤がはっきりと言った。


「止めるのは、俺の仕事だ」


 そう言うと、ジャケットを掴む。


『黒澤部長。私も行きます』


「日高さんは残れ」


『ですが』


「高槻へ出す資料がある。神谷の状態が分かったら、すぐに連絡する」


『資料より、神谷さんの方が――』


「だから俺が行く」


 黒澤は樹里の目を見る。


「今、全員で動いても仕方ない。日高さんは、ここで連絡を待ってくれ」


 樹里は、すぐには答えなかった。


 自分が行きたい。


 その感情を押し込めるように、指先を握る。


『……分かりました』


「住所は分かってる。何かあれば連絡する」


 黒澤が営業部を出ていく。


 扉が閉まったあとも、誰もすぐには動けなかった。


     ◇


『みんな、仕事に戻ろう』


 陽菜が声を上げた。


 普段より少しだけ低い声だった。


『ここで全員止まっても、神谷さんは喜ばないでしょ。連絡が来たら、日高先輩が教えてくれるから』


 周囲がゆっくりと動き始める。


 電話が鳴る。


 キーボードの音が戻る。


 完全に日常へ戻ったわけではない。


 それでも、仕事は止められない。


『陸』


「はい」


『昨日のことで、自分を責めてる?』


「……少し」


『陸はちゃんと見てたよ』


「でも、報告しませんでした」


『異変だって判断できなかったんでしょ』


「はい」


『だったら、次から覚えておけばいい』


 陽菜は陸の机に、今日の予定表を置いた。


『誰かの顔色が悪い。いつもと違う。自分では判断できない。そういうときは、あたしに言って』


「迷惑になりませんか」


『ならないよ』


 陽菜は迷わず答えた。


『何でもないなら、それで終わり。何かあったなら、早く気づける。言わないより全然いいじゃん』


「分かりました」


『今は、自分の仕事をしよう。手が止まったら、余計なことばっかり考えちゃうから』


「はい」


 陸は予定表を開く。


 それでも、何度も神谷の空席を見てしまった。


     ◇


 萌は、自分の仕事を進めながら樹里を見ていた。


 樹里は席に座り、高槻興産の資料を確認している。


 表情は、いつもと変わらない。


 ページをめくる。


 数字を確認する。


 必要な箇所へ書き込む。


 作業だけを見れば、普段と同じだった。


 しかし、机の上に置かれたスマートフォンへ、何度も視線が向いている。


 画面が点灯するたび、樹里の手が止まる。


 会社メールの通知だと分かると、すぐに資料へ戻る。


 神谷からの連絡を待っている。


 誰が見ても分かるほど、樹里は落ち着いていなかった。


 萌は、自分の机に置かれた付箋を見る。


『川原さんなら、ここまで考えられると判断しました』


 樹里は見ていた。


 萌が思っていたより、ずっと細かく。


 なら、神谷の異変にも気づいていたはずだ。


 気づいていても、止められなかった。


(何でもできるわけじゃないんだ)


 当たり前のことだった。


 それでも萌は、樹里ならすべてを正しく判断し、すべてを解決できるような錯覚を抱いていた。


 何も言わない。


 慌てない。


 迷わない。


 その姿を、冷たいと思っていた。


 今は違う。


 表情を変えないまま、連絡を待つしかない樹里の方が、苦しそうに見えた。


「日高先輩」


 萌は、自分でも気づかないうちに声をかけていた。


 樹里が顔を上げる。


『何ですか』


「何か、私にできることはありますか」


『今はありません』


 また、同じ答えだった。


 萌は唇を結ぶ。


 だが樹里は、そこで話を終えなかった。


『ありがとうございます。必要になったら、お願いします』


「……はい」


 樹里は、もう一度資料へ戻る。


 萌も自分の画面へ向き直った。


 役に立てないことが、少しだけ悔しかった。


     ◇


 午前10時を過ぎた頃。


 樹里のスマートフォンが震えた。


 画面には、黒澤の名前が表示されている。


 樹里は、すぐに電話へ出た。


『はい』


「日高さん」


『神谷さんは』


 最初に聞いたのは、それだった。


 黒澤の声が、一度詰まる。


「自宅にいた」


 営業部に緊張が走る。


 樹里の声を聞いていた者たちが、一斉に動きを止めた。


『無事ですか』


「玄関で倒れてた。意識はあるが、反応が鈍い。救急車を呼んだ」


 樹里の手が、机の端を掴む。


『怪我は』


「倒れたときに額を切ってる。出血はあるが、救急隊の話では命に関わる状態ではなさそうだ」


『どこの病院ですか』


「まだ決まってない。搬送先が決まったら連絡する」


『私も向かいます』


「来るな」


『なぜですか』


「今来ても、できることはない。俺がついていく」


『ですが――』


「日高さん」


 黒澤の声が強くなる。


「高槻との約束は明日だ」


 樹里が黙る。


「神谷がここまでやった仕事を、今止めるのか」


『止めません』


「なら、そっちを頼む。病院のことは俺がやる」


『……分かりました』


「必ず連絡する」


『お願いします』


 通話が切れる。


 樹里はスマートフォンを机へ置いた。


 手を離したあと、指先がわずかに震えていた。


 萌は、それを見た。


 神谷が倒れた。


 その言葉の重さを、まだ現実として受け止められない。


「日高先輩」


 誰かが声をかけようとする。


 陽菜が、手で制した。


 樹里は目を閉じる。


 ほんの数秒。


 次に目を開けたときには、震えていた指を握り込んでいた。


『仕事を続けます』


 それだけ言って、資料へ向き直る。


     ◇


 昼過ぎ。


 黒澤から、もう一度連絡が入った。


 神谷は過労と極度の睡眠不足。


 倒れた際に額を切り、数針縫った。


 今日は入院となり、少なくとも3日間は絶対安静。


 命に別状はない。


 その報告を聞いた瞬間、営業部の空気がわずかに緩んだ。


 安心と呼ぶには、まだ早い。


 それでも、最悪の可能性だけは消えた。


『日高先輩』


 陽菜が、水の入った紙コップを樹里の机へ置いた。


『飲んで』


『大丈夫です』


『神谷さんも、そう言ってたよ』


 樹里の手が止まる。


 陽菜はいつものように笑わなかった。


『あたし、同じこと2回も言いたくない』


 樹里は、紙コップを手に取った。


『……ありがとう』


『うん』


 陽菜はそれ以上何も聞かず、自分の席へ戻った。


 萌は少し離れた場所から、2人のやり取りを見ていた。


 誰かを止めようとしていた樹里も、また誰かに止められなければ進み続ける。


 神谷と樹里は、似ているのかもしれない。


 似ているからこそ、神谷の無理を理解できる。


 似ているからこそ、止めることができなかった。


     ◇


 午後3時を過ぎて、黒澤が会社へ戻ってきた。


 ジャケットは乱れ、顔には疲労が滲んでいた。


 樹里がすぐに席を立つ。


『お帰りなさい。神谷さんは』


「眠ってる。医者には、しばらく仕事のことを考えさせるなと言われた」


『面会はできますか』


「今日はやめておけ。額を縫ったばかりだし、本人もまともに話せる状態じゃない」


『そうですか』


「明日以降、入院を続けるか自宅療養へ切り替えるか判断するらしい」


 黒澤が、自分の机へ鞄を置く。


 それから、神谷の空席を見た。


「高槻へは、俺から延期の連絡を入れる」


『待ってください』


「この状態で、明日の提出は無理だ」


『スケジュール案は、神谷さんがほぼ完成させています』


「見積もりは?」


『まだです』


「なら、揃ってないだろ」


『揃っているものだけでも、私が持っていきます』


 黒澤が樹里を見る。


「先方は、完成した資料を待ってる」


『分かっています』


「担当者もいない。見積もりもない。その状態で行けば、切られるぞ」


『電話だけで延期をお願いしても、結果は同じです』


「日高さん」


『神谷さんが9日間で、ここまで組みました』


 樹里は、机の上にある工期案へ手を置いた。


『完成していないからといって、何も持たずに謝ることはできません』


「でもな」


『明日は、私が行きます』


 樹里の声には、迷いがなかった。


『神谷さんが作ったものを、私が持っていきます』


 黒澤はすぐには答えなかった。


 樹里の目を見て、何を言っても変わらないと悟る。


「……分かった」


『ありがとうございます』


「ただし、今あるものを全部確認する。俺も残る」


『はい』


「ほかに必要な人間は?」


 樹里が営業部を見渡す。


 陽菜。


 凛。


 彩花。


 中井。


 佐藤。


 柚希。


 萌と陸。


 全員が、樹里の返事を待っていた。


『通常業務を止めるわけにはいきません。皆さんは、そちらをお願いします』


「高槻の資料は、日高先輩と部長だけでやるんですか」


 萌が尋ねた。


『はい』


「私がまとめた部分も入っているんですよね」


『入っています』


「だったら、私にも確認させてください」


『川原さん』


「自分が考えた部分です。何か修正が必要なら、私が直します」


 樹里は萌を見つめた。


 以前なら、即座に断っていたかもしれない。


 新人を遅くまで残す必要はない。


 自分で確認した方が早い。


 そう判断していた。


『分かりました』


 萌の目がわずかに見開かれる。


『ただし、川原さんが担当した箇所だけです。確認が終わったら帰ってください』


「はい」


 樹里は次に、陸を見る。


 陸は自分も何か言わなければと思い、口を開きかける。


『山本さん』


「はい」


『明日の通常業務で、神谷さんが担当する予定だった部分を、櫻井さんと中井さんへ確認してください』


「資料の手伝いではなくていいんですか」


『今、止まりかけている仕事は高槻興産だけではありません』


 陸は、神谷の空席を見る。


 神谷が抱えていたのは、この大型案件だけではない。


『神谷さんが戻ったとき、ほかの仕事まで滞っていたら休んだ意味がありません』


「……分かりました」


『お願いします』


「はい」


 陸は自分の席へ戻り、中井と陽菜へ確認する業務を書き出し始めた。


 萌は高槻興産の資料へ加わる。


 それぞれに与えられた役割は違う。


 目の前の大きな仕事だけを見る者。


 その周囲で止まりかけた仕事を見る者。


 どちらが欠けても、会社は回らない。


     ◇


 定時を過ぎた。


 萌が担当した箇所の確認を終える。


「日高先輩」


『はい』


「修正しました」


 樹里が資料を受け取る。


 入居年数の条件と、移転にかかる負担が追記されていた。


『確認します』


 樹里はその場で目を通す。


『問題ありません。ありがとうございます』


「……はい」


『川原さんは、帰ってください』


「まだ残れます」


『明日も仕事があります』


「日高先輩も同じですよね」


『私は、この案件の担当です』


「私の部分も、この案件に入ってます」


 萌は引かなかった。


 樹里は、少しだけ黙る。


 萌の言葉は間違っていない。


『では、最終の照合だけお願いします。それが終わったら帰ってください』


「分かりました」


 萌が席へ戻る。


 彩花がその横を通りながら、樹里へ言った。


「少しは任せられるようになったじゃない」


『聞こえています』


「聞かせてるのよ」


 彩花は自分の鞄を持ち上げた。


「通常業務は片づけた。明日の午前分も、ある程度振り分けてあるから」


『ありがとうございます』


「礼なら、終わってから聞く」


 彩花が営業部を出ていく。


 ほかの社員も、1人ずつ帰っていった。


 陽菜は最後まで残ろうとした。


『日高先輩。本当に大丈夫?』


『大丈夫です』


『今日、その言葉は禁止にした方がいいと思う』


『櫻井さんは、明日、山本さんと神谷さんの通常業務をお願いします』


『分かってる。でも――』


『こちらは私と黒澤部長で進めます』


 陽菜は樹里の顔を見る。


 止めても帰らない。


 それは分かっていた。


『倒れないでよ』


『はい』


『それ、約束だからね』


『分かりました』


 陽菜は納得していない顔のまま、営業部を出ていった。


     ◇


 夜が深くなる。


 萌が最後の照合を終え、樹里へ提出する。


「終わりました」


『確認しました。問題ありません』


「ほかには?」


『ありません。今日はありがとうございました』


「……お先に失礼します」


『お疲れさまでした』


 萌は鞄を持つ。


 営業部を出る前に、もう一度振り返った。


 神谷の空席。


 その隣で資料を広げる樹里。


 黒澤も、自分の席で過去の取引資料を確認している。


 萌は何も言わず、扉を閉めた。


 自分が帰ったあとも、2人は仕事を続ける。


 明日、高槻の前へ持っていくために。


     ◇


 日付が変わった。


 樹里は、神谷が残した工期案を最初から追っていた。


 資料の順番には、意味がある。


 先に既存契約を整理し、そのあと移転可能な区画を抽出する。


 改修時期と費用を重ね、最後に全体の工期へ落とし込む。


 神谷が9日間、どの順番で考えてきたのか。


 その思考が、紙の上に残っている。


 樹里は順番を崩さなかった。


 分かりにくい箇所を、自分のやり方へ変えることもしなかった。


 神谷が戻ったとき、続きを始められる形を残す。


 これは、樹里だけの資料ではない。


 神谷が積み上げた仕事だった。


「日高さん」


 黒澤が、机を挟んだ向こうから声をかける。


「少し休め」


『まだ終わっていません』


「その言葉を、昨日まで誰が言ってた」


 樹里の手が止まる。


「同じことをするな」


『分かっています』


「分かってる顔じゃない」


『明日の12時までです』


「だから、倒れていいわけじゃない」


『倒れません』


 黒澤が深く息を吐く。


「神谷も、そう言ったんだろ」


 樹里は答えなかった。


 机の上に、陽菜が置いていった栄養補助食品がある。


 萌が帰る前に淹れたコーヒーも、手をつけないまま冷めていた。


 樹里は栄養補助食品を開ける。


 無言で口へ運び、水を飲んだ。


「それでいい」


 黒澤は、それ以上言わなかった。


 窓の外が、少しずつ白くなっていく。


 完成には届かない。


 見積もりは、まだ揃っていない。


 それでも、神谷の仕事を空の手にはしない。


 樹里は資料を揃える。


 神谷を止められなかった後悔も。


 高槻との関係を失う恐れも。


 神谷が目を覚まさなかったらという、仕事とは別の恐怖も。


 すべて、今は机の奥へ押し込んだ。


 夜が明ける。


 提出日の朝が、始まろうとしていた。

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