180話「渡す前に」
9日間のうち、最初の3日は目に見える混乱の中で過ぎていった。
高槻興産から渡された契約資料には、更新時期の異なる物件が入り交じっていた。
移転させる区画。
契約を継続する区画。
改修工事が必要な区画。
工事期間中も営業を止められないテナント。
1つの条件を動かせば、別の条件が崩れる。
神谷と樹里は作業を分担した。
少なくとも、表の上では。
『神谷さん。契約更新時期の一覧は、私が確認します』
「お願いします。関連する覚書だけ、先に整理します」
『整理も私がします』
「覚書の記載方法が物件ごとに違うんです。該当箇所だけ付箋をつけます」
『付箋は必要ありません』
「ですが、そのままでは時間がかかります」
『その時間を短くするために、分けているんです』
「分かっています。あと少しだけです」
樹里の机へ仕事を渡す前に、神谷は必ず中身を確認した。
確認するだけではない。
資料の順番を整える。
必要な箇所へ印をつける。
関連するデータを別紙へまとめる。
受け取る側が迷わない状態にしてから渡そうとする。
気遣いと言えば、気遣いだった。
責任感と言えば、責任感だった。
しかし、神谷が1人ですべての入口を通すことに変わりはない。
樹里へ渡る頃には、神谷が一度抱えた仕事になっていた。
◇
4日目。
川原萌は、樹里から新しい資料を渡された。
『川原さん。こちらをお願いします』
「これは、いつもの課題ですか」
『いいえ。高槻興産の案件で使用します』
萌の手が止まる。
「本物の案件ですか」
『個別の企業情報や金額は伏せています。複数区画の条件を比較し、優先順位を整理してください』
「私が作ったものを、そのまま使うんですか」
『そのままでは使いません。私が確認します』
期待しかけた感情を、先に切られた気がした。
「締め切りはいつですか」
『明日の午前中です』
「分かりました」
『通常業務に支障が出るようなら言ってください。そちらを優先します』
「できます」
萌は即答した。
樹里が一瞬だけ、萌を見る。
『無理なら、早めに伝えてください』
「無理ではありません」
高槻興産の案件に関われる。
その嬉しさより先に、試されているという感覚が湧いた。
できないと思われたくない。
萌は資料を持って自席へ戻った。
区画ごとの条件を読み比べる。
賃料だけを基準にはできない。
入居年数。
更新時期。
改修の必要性。
営業を止められる期間。
移転に伴う負担。
数字の上では効率的でも、現実には成立しない組み合わせがある。
樹里から出された課題で、何度も指摘されたことだった。
(このためだったの?)
これまで取り組んできたものと、考え方が似ている。
練習として作られた条件が、初めからこの案件を想定していたのかは分からない。
樹里から、その説明はなかった。
萌は一度、樹里の席を見た。
樹里は神谷と会議室に入っている。
やはり、聞く時間はなさそうだった。
「川原さん」
声をかけたのは彩花だった。
「はい」
「さっきから同じ行を見てるけど、分からないところがあるの?」
「いえ。どうまとめるか考えていました」
「考えるのはいいけど、正解を当てようとしない方がいいよ」
「どういう意味ですか」
「日高が何を求めているかじゃなくて、自分ならどうするかを書けばいい」
「間違っていたら、直されますよね」
「間違ってるならね」
彩花が萌の資料へ目を向ける。
「日高は、自分と違う答えだからって直す人間じゃない。理由が通っていれば、そっちを使う」
「森下先輩は、日高先輩のことをよく知っているんですね」
「同期だから」
「嫌いだったのに?」
「嫌いな相手ほど見るでしょ。負けたくなかったら」
彩花はそれだけ言って、自席へ戻った。
萌は資料へ視線を戻す。
正解を当てるのではない。
自分なら、どう組むか。
萌は、最初に作った表を消した。
◇
一方、陸には特別な資料は渡されなかった。
陽菜から頼まれたのは、会議室と営業部を往復する仕事だった。
『陸、この資料を中井くんに渡して。確認が終わったら、神谷さんのところへ』
「はい」
『あと、工事業者から連絡が来たら、会社名と担当者名を聞いて。内容は勝手に答えなくていいからね』
「分かりました」
『分からないことを、分かったふりしない。それが今日の目標』
「昨日と同じじゃないですか」
『昨日できなかったから、今日も同じなの』
「……はい」
陸は資料を持って、中井の席へ向かった。
「中井先輩、確認をお願いします」
「うん。少し待ってね」
中井は資料を受け取り、ページをめくる。
「山本、この数字はどこから持ってきたか分かる?」
「すみません。俺は渡すように言われただけで」
「そうだよね。じゃあ、次に同じような資料を受け取ったときは、作った人と目的だけ確認しておこう」
「中身まで確認するんですか」
「全部を理解する必要はないよ。でも、誰が何のために作った資料か分かっていれば、渡す相手も判断しやすいから」
「分かりました」
中井は確認を終えると、付箋を貼って陸へ返した。
「これは神谷さんじゃなくて、先に日高さんへ渡そう。工事区分の確認が必要だから」
「櫻井先輩には、神谷先輩へ渡すように言われました」
「状況が変わったんだ。俺から櫻井さんには伝えておくよ」
「はい。お願いします」
陸は、会議室へ向かう。
扉を開けると、神谷が電話で業者と話していた。
樹里は別の資料へ目を通している。
「失礼します。日高先輩」
樹里が顔を上げる。
『どうしましたか』
「中井先輩からです。工事区分の確認が必要なので、先に日高先輩へ渡すようにと」
『分かりました。ありがとうございます』
陸が資料を渡す。
そのまま会議室を出ようとしたとき、机の端に置かれた弁当が目に入った。
昼休みに配られたものだ。
すでに午後3時を過ぎている。
蓋は開いていなかった。
陸が視線を向けたことに、樹里も気づく。
樹里は神谷の弁当を見たあと、電話を終えるのを待った。
『神谷さん』
「はい」
『昼食を取ってください』
「この確認が終わってからにします」
『朝も同じことを言っていました』
「今、業者から回答が来たので、先に反映させたいんです」
『回答は消えません』
「5分で終わります」
神谷はすぐに画面へ向き直った。
樹里の目が、わずかに細くなる。
『山本さん』
「はい」
『櫻井さんへ、神谷さんが昼食を取っていないと伝えてください』
「えっ」
「日高さん」
『私が言っても聞かないので』
「食べます。本当に、あと5分だけです」
『すでに午後3時です』
陸は、2人を交互に見る。
何と答えればいいのか分からない。
「山本、大丈夫です。櫻井さんには伝えなくていいですよ」
神谷は陸へ穏やかに言った。
その顔には笑みもある。
だが、目の下には以前までなかった影が浮かんでいた。
「でも」
『山本さん。お願いします』
「はい」
陸は会議室を出た。
陽菜のところへ戻り、言われたとおりに報告する。
「櫻井先輩。神谷先輩が、まだ昼食を取っていないそうです」
『また?』
陽菜の顔から、いつもの笑みが消えた。
すぐに立ち上がり、会議室へ向かう。
陸も、そのあとを追った。
陽菜は扉を開けると、神谷の机からキーボードを取り上げた。
「櫻井さん?」
『食べて』
「あと少しで――」
『その“あと少し”が何時間続いてるの?』
「本当に、もう終わります」
『終わってからじゃなくて、今食べるの』
陽菜は弁当を神谷の前へ置いた。
『食べ終わるまで、これ返さないから』
「困ります」
『倒れられる方が困る』
神谷は陽菜を見た。
次に樹里を見る。
樹里も、神谷から目を逸らさない。
「……分かりました」
神谷が弁当の蓋を開ける。
『全部食べてね』
「はい」
『陸、見張ってて』
「俺がですか」
『神谷さんが途中で仕事に戻ろうとしたら、あたしを呼んで』
「分かりました」
「そこまでしなくても大丈夫ですよ」
『神谷さんの大丈夫、今日から信用しないことにした』
陽菜はキーボードを抱えたまま、会議室を出ていった。
陸は神谷の向かいへ座る。
神谷が、気まずそうに箸を持った。
「すみません。山本の仕事を増やしましたね」
「いえ」
「食べるところを見られるのは、少し落ち着かないです」
「俺も、見張るのは落ち着きません」
神谷が小さく笑う。
「それなら、お互い様ですね」
冗談を言う余裕はある。
そう見えた。
けれど、数口食べたところで神谷の箸が止まる。
「どうしましたか」
「いえ。少し、食欲がなくて」
「全部食べるように言われてました」
「そうでしたね」
神谷は再び箸を動かす。
食べる速度は遅かった。
陸は、その姿を黙って見ていた。
陽菜から、人の変化を見るように言われている。
何をすべきかまで、まだ分からない。
それでも、これは普通ではない。
そう感じることはできた。
◇
5日目の午前。
萌は完成させた資料を樹里へ提出した。
『確認します』
樹里は、その場で資料を開く。
萌は立ったまま、返事を待った。
以前なら樹里は、受け取っただけで終わらせていた。
しかし今日は、数ページを確認したあと、最初の表へ戻った。
『この順番にした理由を教えてください』
「賃料や改修費だけなら、こちらの区画を先にするべきです。でも、そのテナントを動かすと、隣の店舗にも工事の影響が出ます」
『はい』
「だったら先に、移転への抵抗が少なく、単独で工事に入れる区画から進めた方がいいと思いました。最初の工事で実績を作れば、ほかのテナントにも説明しやすくなるので」
『分かりました』
樹里は、資料の一部へ印をつけた。
『この考え方を、実際の計画案にも使います』
「本当に使うんですか」
『はい』
「私の考えを?」
『川原さんが考えたものですから』
萌は、すぐに言葉を返せなかった。
『ただし、実際の契約状況と照合して調整します。これで決定という意味ではありません』
「分かっています」
『ありがとうございます。助かりました』
樹里は資料を持って、会議室へ戻ろうとする。
「日高先輩」
『何ですか』
「最初から、これに使うために似た課題を出していたんですか」
樹里が足を止める。
『高槻興産の案件が決まる前から、川原さんには同じ力が必要だと考えていました』
「答えになっていません」
『今回の資料をお願いしたのは、これまでの課題を見て、川原さんなら考えられると判断したからです』
「……そうですか」
『はい』
もっと分かりやすく言えばいいのに。
期待していた。
任せられると思った。
その一言で済むはずだった。
樹里は、やはり言わない。
それでも今日は、以前より少しだけ意味が伝わった。
「ほかに、手伝えることはありますか」
萌の口から、自然に言葉が出た。
樹里は少し考える。
『今は、自分の仕事へ戻ってください』
また拒まれたように感じる。
萌の表情が曇りかけた。
『必要になったら、私から川原さんへお願いします』
続いた言葉に、萌は顔を上げた。
「分かりました」
樹里が会議室へ戻る。
萌は、自分の資料の一部がその中へ運ばれていくのを見送った。
◇
6日目。
神谷は、誰より早く出社していた。
7日目も同じだった。
昼食は、陽菜や陸が声をかければ取るようになった。
少なくとも、会社では。
代わりに、神谷から送られてくる会社メールの時刻が遅くなった。
午前0時14分。
午前1時26分。
午前2時03分。
樹里は、そのすべてを見ていた。
7日目の朝。
樹里は届いたメールへ返信せず、神谷の席へ向かった。
『神谷さん』
「おはようございます」
『昨夜は、何時に寝ましたか』
「日高さん、おはようございます。昨日お願いした業者から回答が来ています」
『質問に答えてください』
「少し遅くなりましたが、睡眠は取っています」
『何時間ですか』
「大丈夫です」
『何時間ですか』
神谷の手が、止まる。
「……3時間ほどです」
『今日は定時で帰ってください』
「それは難しいです」
『命令です』
「日高さんは、私の上司ではありません」
穏やかな声だった。
拒絶するためではなく、事実を述べただけの声。
それでも樹里の表情が固まった。
「すみません。ですが、今日は工期案を形にしなければ間に合いません」
『でしたら、私が残ります』
「日高さんも、昨日遅かったですよね」
『神谷さんほどではありません』
「日高さんにだけ無理をさせるわけにはいきません」
『私が言っているのは、そういう話では――』
「2人でやるんですよね」
神谷は微笑んだ。
「だから、私も残ります」
樹里は何も言えなくなった。
2人でやる。
自分が言った言葉だった。
だが神谷は今、その言葉を休まない理由に変えている。
◇
その日の夕方。
黒澤が会議室へ入ってきた。
「神谷」
「はい」
「今日は帰れ」
「工期案の骨組みだけ、終わらせます」
「終わらせなくていい。明日の朝やれ」
「明日の朝では、業者への確認が間に合いません」
「なら、確認は日高さんに渡せ」
「日高さんは、見積もりの調整をしています」
黒澤は机の上にある資料を見る。
「お前、今いくつ持ってる」
「担当として必要な分だけです」
「答えになってない」
黒澤は神谷の画面を覗き、開かれているファイルの数を見る。
「通常業務は全部こっちで回す。高槻の連絡も、今夜は出るな。携帯を置いて帰れ」
「それはできません」
「できる。俺が出る」
「高槻社長から直接連絡が入る可能性があります」
「入ったら俺が聞く」
「これまでの経緯をすべて説明する時間が――」
「神谷」
黒澤の声が低くなる。
「お前が説明する手間を惜しんで、全部自分で持ってることは分かってる」
神谷が黙る。
「任せるのも仕事だ。今すぐ帰れ」
「……分かりました」
神谷はパソコンを閉じた。
資料を鞄へ入れようとする。
「それも置いていけ」
「確認するだけです」
「家で仕事をするなら、帰す意味がないだろ」
「持ち帰りません。移動中に、明日の作業を整理したいだけです」
「置いていけ」
神谷は、しばらく資料へ手を置いていた。
やがて諦め、机へ戻す。
「お先に失礼します」
「明日は始業時間より前に来るなよ」
「はい」
神谷が会議室を出る。
黒澤はその背中を見送ったあと、樹里へ顔を向けた。
「日高さん」
『はい』
「あいつ、止まってるように見えるか」
『見えません』
「俺にもだ」
『今日だけでも、完全に休ませるべきです』
「携帯まで取り上げるわけにもいかん」
黒澤は、神谷が置いていった資料を見る。
「俺が最初に、頼むぞと言った」
『神谷さんが引き受けたのは、部長の言葉だけが理由ではありません』
「分かってる。それでも、言った側には責任がある」
黒澤は資料の一部を手に取った。
「今夜は俺も見る。日高さんも、日が変わる前には帰れ」
『はい』
「今の返事、あいつと同じに聞こえたぞ」
樹里は答えなかった。
◇
午後11時。
樹里のスマートフォンへ、神谷から会社メールが届いた。
件名は、高槻興産北側区画・工期案修正版。
添付ファイルがついている。
樹里は、画面を見つめた。
神谷は資料を持ち帰らなかった。
だが、データは自宅から確認できる。
黒澤との約束を正面から破ったつもりはないのだろう。
会社に残ってはいない。
持ち帰った資料もない。
ただ、記憶と保存済みのデータを使って、続きをしている。
樹里は、すぐに神谷へ電話をかけた。
「はい。神谷です」
『今、何をしていますか』
「明日の作業を少し整理していました」
『仕事をしないでください』
「もう終わりました」
『今、メールが届きました』
「確認していただくのは、明日で大丈夫です」
『そういう問題ではありません』
「すみません。でも、これで明日の朝から業者へ確認できます」
『神谷さん』
「あと2日です」
樹里の言葉が止まる。
「ここまで来たんです。最後までやらせてください」
『最後まで進むために、休んでください』
「休みます。もうパソコンも閉じました」
『信用できません』
電話の向こうで、神谷が少し笑った。
「日高さんに、そこまで言われるとは思いませんでした」
『笑っている場合ではありません』
「心配してくださって、ありがとうございます」
『私は――』
「おやすみなさい。明日、会社で」
通話が切れた。
樹里は、スマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
もう一度かけても、神谷は同じことを言う。
大丈夫。
休む。
あと少し。
その言葉のどれも、今は安心につながらない。
約束の日まで、あと2日。
神谷だけが、期限の終わりを見ている。
樹里は、その手前で神谷の身体が尽きかけていることを見ていた。
見ているのに、止められない。
その事実が、夜の中に重く残った。




