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179話「9日」

川原萌が新しい課題へ取りかかってから、数日が過ぎた。


 日高樹里の席は、今日も朝から空いている。


 以前の萌なら、その空席を見るだけで不満を募らせていた。


 今も、納得しているわけではない。


 机に置かれた付箋を、信頼の証だと受け取ることもできなかった。


 それでも、樹里が何も考えずに自分へ課題を与えているわけではないことだけは、少しずつ分かり始めていた。


「川原さん、日高先輩は今日も高槻興産ですか」


 山本陸に尋ねられ、萌が顔を上げる。


「そうみたい。神谷先輩と朝から出てる」


「大きな案件なんですよね」


「私に聞かれても分からないよ。まだ詳しいことは教えてもらってないから」


「でも、その資料って高槻興産のものじゃないんですか」


 陸が、萌の机に置かれた資料を見る。


「本物の資料じゃない。日高先輩が条件を一部変えて作った課題」


「高槻興産の案件を想定してるってことですか」


「多分ね」


 萌は曖昧に答えた。


 樹里から明確な説明はない。


 だが、資料の中にある条件や数字は、これまでの練習課題よりもはるかに複雑だった。


『陸。人の課題を覗いてる暇があるなら、こっち終わらせて』


 陽菜の声が飛ぶ。


「覗いてません。少し話していただけです」


『勤務中に、女の子の机で立ち話。それを世間では何て言うと思う?』


「仕事の相談です」


『ナンパ』


「違います」


『浮気』


「誰から誰へのですか」


『あたしから萌への』


「意味が分かりません」


 陽菜が楽しそうに笑う。


『ほら、早く戻っておいで。次の仕事教えるから』


「はい」


 陸が席へ戻っていく。


 萌は、その後ろ姿を見送りながら小さく息を吐いた。


(あっちは、毎日楽しそうでいいな)


 自分の教育担当は、今日もいない。


 その樹里が今、どれほど大きな局面に立ち会っているのかを、萌はまだ知らなかった。


     ◇


 高槻興産を訪れるのは、今回で4度目だった。


 受付で名前を告げると、緒方がすぐに姿を見せた。


「お待ちしておりました。神谷さん、日高さん、こちらへどうぞ」


「よろしくお願いいたします」


『よろしくお願いいたします』


 緒方の案内で廊下を進む。


 前回までと違い、案内されたのは通常の応接室ではなかった。


 長い机と大型のモニターが置かれた会議室。


 壁には、複数の区画図が貼られている。


 その中央に、高槻正彦が座っていた。


 森山も、分厚いファイルを抱えて隣に立っている。


「来たか」


 高槻は神谷を見た。


 その視線には、初対面の頃にあった値踏みだけではない。


 これまでに神谷が見せてきた仕事を踏まえ、その先を試そうとする厳しさがあった。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


「挨拶はいい。座れ」


 神谷と樹里が並んで腰を下ろす。


 高槻は森山へ目を向けた。


 森山が、抱えていたファイルを机の上へ置く。


 鈍い音がした。


 神谷が表紙を見る。


 高槻興産が所有する、北側区画の再編計画。


 これまで2人が扱ってきたものとは、規模が違う。


「北側にある物件を、まとめて見直す」


 高槻が区画図を指で叩く。


「既存テナントの移転、空き区画の再募集、管理体制の再編。それに伴う改修工事の調整も必要になる」


 森山が資料を開き、補足する。


「区画内には契約更新時期の異なる物件が含まれています。すべてを一度に動かすことはできません。そのため、営業を継続しながら段階的に入れ替える計画が必要です」


 神谷の表情が変わった。


 金額が大きいだけの案件ではない。


 関係する企業も、必要な調整も、これまでとは桁が違う。


「こちらを、島川不動産へお任せいただけるということでしょうか」


「まだ決めていない」


 高槻は即答した。


「候補に入れただけだ」


「はい」


「この話は、俺の一存だけで動いてるわけじゃない。北側区画の再編に伴う決議が、予定より早まった」


 高槻は卓上カレンダーを引き寄せ、ある日付を指で示す。


「ここで、どこへ任せるか決める。それまでに概算の見積もりと、工期の段取りを出せ」


 神谷が日付を見る。


 今日から数えて、9日後。


 樹里も、同じ日付を見ていた。


 必要な調査。


 既存資料の精査。


 業者への確認。


 概算費用の算出。


 現実的な工期の組み立て。


 どれか1つを仕上げる期限ではない。


 すべてを、判断に使える形へまとめなければならない。


『高槻社長。9日では――』


「分かりました」


 樹里の言葉を遮るように、神谷が答えた。


『神谷さん』


「9日後までに、概算の見積もりと工期案をお持ちします」


 高槻は、神谷の顔を見つめた。


「今、日高さんは無理だと言おうとしたぞ」


「はい」


「その意味を考えたうえで言ってるのか」


「承知しています」


「簡単な資料を持ってくればいいと思うな。金額だけ並べたものも、現場を無視した日程もいらない」


「はい」


「できなければ、この案件はほかへ回す。今後の島川との付き合いも、考え直すことになる」


 脅しではなかった。


 高槻興産ほどの企業が、大規模な案件を任せる相手を選ぶ。


 その判断に値しない仕事を出せば、次の機会が失われる。


 それだけの話だった。


 だからこそ、重い。


「必ず、判断していただけるものをお持ちします」


 神谷は引かなかった。


 高槻が椅子へ深く腰を預ける。


「そうか」


 その返事には、満足も称賛もなかった。


「なら、やってみろ」


「ありがとうございます」


 神谷が頭を下げる。


 樹里は、隣で何も言わなかった。


 高槻の前で、担当者である神谷の判断を否定することはできない。


 だが、組んでいた手には力が入っていた。


 高槻は、その手元へ一度だけ目を向けた。


「神谷」


「はい」


「俺は、倒れてまでやれとは言っていない」


 神谷が顔を上げる。


「期限を守ることと、人間を壊すことは同じじゃない。できないなら、今ここで断れ」


 会議室に沈黙が落ちた。


 樹里は、神谷を見た。


 今なら、まだ戻れる。


 期限の延長を求めることも、規模を限定して提案することもできる。


 神谷は高槻の目をまっすぐに見返した。


「やらせてください」


「分かった」


 高槻は、それ以上止めなかった。


「空の手で来るなよ」


「はい」


     ◇


 会議室を出たあと、森山が2人をエレベーターまで見送った。


 その途中、緒方が後ろから駆けてくる。


「神谷さん」


 緒方が封筒を差し出した。


「追加の図面と、現在の契約状況をまとめた資料です。電子データは、先ほど会社宛てに送りました」


「ありがとうございます。確認します」


 神谷が受け取る。


 封筒にも、明らかな厚みがあった。


 緒方は神谷の顔と、隣に立つ樹里を見る。


「9日、ですよね」


「はい」


「高槻社長は、一度決めた期限を簡単には変えません。ただ、本当に倒れることを望んでいるわけではありません」


「分かっています」


「無理をしないでください、と言って済む仕事ではないことも分かっています。それでも……気をつけてください」


 緒方の言葉は、高槻の要求を否定するものではなかった。


 同じ会社で働いているからこそ、その厳しさも、今回の案件の大きさも知っている。


「ありがとうございます」


 神谷が、もう一度頭を下げる。


 森山がエレベーターのボタンを押した。


「確認事項があれば、私か緒方まで連絡してください。分かる範囲で、できる限り早く返答します」


「よろしくお願いいたします」


『よろしくお願いいたします』


 扉が閉まる。


 密閉された空間に、神谷と樹里だけが残った。


 樹里は黙ったまま、階数表示を見ている。


「日高さん」


『今は、話しません』


「ですが」


『会社に戻ってから、必要な作業をすべて洗い出します』


 声は冷静だった。


 しかし、怒っている。


 神谷にも、それは伝わっていた。


     ◇


 帰路の車内。


 神谷がハンドルを握り、樹里は助手席で資料を読んでいた。


 信号で車が止まる。


 樹里が、ファイルを閉じた。


『神谷さん』


「はい」


『なぜ、相談せずに引き受けたんですか』


「窓口として、私が判断すべきだと思いました」


『これは、神谷さん1人の案件ではありません』


「分かっています」


『分かっていません』


 樹里が神谷を見る。


『9日で概算見積もりと工期案です。調査だけでも、どれだけかかると思っているんですか』


「厳しいことは承知しています」


『厳しいのではありません。通常なら、受ける前に社内へ持ち帰って検討する条件です』


「持ち帰れば、高槻社長はほかへ回していたかもしれません」


『だから、2つ返事で受けたんですか』


「はい」


 信号が青へ変わる。


 神谷は前を向いたまま、車を発進させた。


「この案件を、島川不動産へ持ち帰りたいんです」


『私も同じです』


「なら、やらせてください」


『やらせてくださいではありません。2人でやるんです』


「日高さんには、もちろん協力をお願いします」


『協力ではない』


 神谷が一瞬、樹里を見る。


『私は補助として選ばれたわけではありません。神谷さんと一緒に、この案件を担当しています』


「……はい」


『必要な作業を分けます。どちらか1人へ負担が偏る組み方は認めません』


「分かりました」


 返事は素直だった。


 それでも樹里の表情は変わらない。


『本当に分かっていますか』


「分かっています」


『高槻社長の前で、私の言葉を遮った人の返事です。信用できません』


「申し訳ありません」


『謝ってほしいわけではありません』


 樹里は窓の外へ視線を移した。


『もう一度、高槻社長へ期限の相談をするべきです』


「それはできません」


『なぜですか』


「私が、やると答えました」


『その結果、間に合わなければ意味がない』


「間に合わせます」


『神谷さん』


「やります」


 声は荒くない。


 意地を張っているようにも聞こえない。


 ただ、決めていた。


 その静かな決意が、今の樹里には何より危うく見えた。


『……必ず、仕事を分けてください』


「はい」


『1人で抱えないと、約束してください』


 わずかな間があった。


「約束します」


 樹里は、その返事を聞いても安心できなかった。


 同じ車に乗っている。


 同じ目的地へ向かっている。


 それなのに、神谷だけが、自分の足で先へ走ろうとしている。


 その背中に手が届かなくなるような感覚が、樹里の胸へ残った。


     ◇


 島川不動産へ戻ると、神谷はまっすぐ黒澤の席へ向かった。


「黒澤部長、高槻興産から北側区画の再編計画を提示されました」


「規模は?」


「既存テナントの移転、再募集、管理体制の再編、改修工事の調整まで含まれます」


 黒澤の表情が変わる。


「期限は?」


「9日です」


「断れ」


 間を置かない返答だった。


「もう引き受けました」


「バカか、お前は」


 黒澤が低い声を出す。


「9日で何を出せと言われた」


「概算の見積もりと、工期案です」


「無茶に決まってるだろ」


「承知しています」


「承知して受ける方が悪い」


 黒澤は立ち上がり、神谷が持つファイルを開いた。


 数ページめくっただけで、眉間の皺が深くなる。


「日高さん」


『はい』


「止めなかったのか」


『止める前に、神谷さんが引き受けました』


「こいつより先にしゃべらないと駄目だぞ」


『今後はそうします』


「今後があればいいけどな」


 冗談に聞こえる言葉だったが、黒澤の顔は笑っていない。


「受けた以上、やるしかない。必要な人間は使え。ほかの案件も回す」


「ありがとうございます」


「礼は完成してから言え。日高さんと作業を分けろ。全部自分で見ようとするなよ」


「はい」


 神谷は、はっきり答えた。


 樹里は、その横顔を見ていた。


 先ほど車内で聞いたものと、同じ返事だった。


     ◇


 その日のうちに、必要な作業が洗い出された。


 契約状況の整理。


 入れ替え順序の検討。


 工事業者への概算確認。


 既存テナントへの影響調査。


 管理体制の再構築。


 費用の算出。


 想定される問題と、その対策。


 会議室のホワイトボードが、文字で埋まっていく。


 樹里が項目を分ける。


『こちらは私が担当します。神谷さんは、高槻興産との窓口と工期案の骨組みをお願いします』


「分かりました」


『工事業者への確認は、私から連絡します』


「先方との関係があります。最初だけ私から説明します」


『説明したあとは、私へ渡してください』


「はい」


『契約状況の整理は分けます』


「一度、私が全体を見ます。そのあと半分をお願いします」


『最初から分けてください』


「重複や漏れがあると困るので、最初の確認だけです」


 樹里の手が止まる。


『神谷さん』


「大丈夫です。整理が済んだら、すぐにお渡しします」


 また、その言葉だった。


 大丈夫。


 樹里は、神谷の机へ積まれていく資料を見る。


 神谷は仕事を渡すと言っている。


 拒んでいるわけではない。


 ただ、人へ渡せる状態にするまでを、自分の仕事だと思っている。


 その小さな判断の積み重ねが、最初から負担を偏らせ始めていた。


 会議室の外で、萌が立ち止まる。


 樹里へ提出する資料を持ってきたものの、中へ入るタイミングを失っていた。


 ホワイトボードの前に立つ樹里。


 机いっぱいに資料を広げる神谷。


 2人の間を行き交う、聞いたことのない会社名と数字。


 萌が取り組んでいた課題とは、比べものにならない。


「川原さん?」


 後ろから陸に呼ばれ、萌が振り向く。


「何してるんですか」


「日高先輩に、資料を提出しようと思って」


「忙しそうですね」


「見れば分かる」


「あとにした方がいいんじゃないですか」


 萌は手元の資料を見る。


 樹里にとっては、高槻興産の方が重要に決まっている。


 自分の課題を見ている時間など、今はない。


 そう考えたとき、会議室の中から声がした。


『川原さん』


 萌が顔を上げる。


 樹里は、ホワイトボードの前からこちらを見ていた。


『資料ができたんですか』


「はい。でも、お忙しそうなので」


『受け取ります』


 樹里が萌の方へ歩いてくる。


 差し出された資料を受け取り、表紙だけではなく、中のページも確かめた。


『明日の午前中までに確認します』


「高槻興産の仕事があるのにですか」


『川原さんの教育も、私の仕事です』


「……そうですか」


『ただ、返却が遅れる可能性はあります。その場合は、先に連絡します』


「分かりました」


 樹里は資料を持って、会議室へ戻っていく。


 萌は、その背中を見つめた。


 見ている。


 そう言われても信じられなかった。


 しかし樹里は、これほど大きな仕事を抱えている最中でも、自分の資料を受け取った。


(無理してまで、見なくてもいいのに)


 そう思った。


 同時に、自分の資料を後回しにされなかったことへ、わずかに安堵している自分にも気づいた。


 陸が会議室の中を覗く。


「大変そうですね」


「そうだね」


「俺たちに、できることはないんでしょうか」


「今は邪魔しないことじゃない?」


「それもそうですね」


『2人とも、そこで何してるの?』


 陽菜が背後から顔を出す。


「櫻井先輩」


『覗き見? 趣味悪いよ』


「違います。何か手伝えないかと思って」


『だったら、聞けばいいじゃん』


「でも、忙しそうです」


『忙しい人が何に困ってるか、勝手に決めないの』


 陽菜は会議室の扉を軽く叩いた。


『日高先輩。陸と萌にできること、ありますか』


 陸と萌が同時に陽菜を見る。


 自分たちから言ったわけではない。


 それでも樹里は、少し考えてから答えた。


『今はありません。必要になったらお願いします』


『だって』


 陽菜が2人へ振り返る。


『今はないって分かったでしょ。じゃあ、自分たちの仕事を終わらせよう』


「はい」


「分かりました」


 2人は、それぞれの席へ戻る。


 今はまだ、この案件の中へ入れない。


 だが9日という時間は、神谷と樹里だけの中では収まらなくなっていく。


 やがて営業部全体を巻き込み、新人である2人にも、それぞれにしかできない役目を与えることになる。


     ◇


 午後9時。


 営業部に残っている社員は、少なくなっていた。


 樹里が自分の机で資料を確認している。


 神谷も、向かいの席でキーボードを打ち続けていた。


『神谷さん』


「はい」


『契約状況の資料をください。半分確認します』


「あと少しで整理が終わります」


『その言葉は、1時間前にも聞きました』


「すみません。想定より、契約更新時期にばらつきがありまして」


『整理前で構いません』


「もう少しだけ待ってください。日高さんが見やすい状態にします」


 樹里は、何も言わず神谷を見た。


 善意だった。


 樹里の負担を減らしたい。


 間違いのない状態で渡したい。


 自分が窓口として、最初にすべて把握しておきたい。


 どれも、仕事へ真剣に向き合っているからこその判断だった。


 だから、止めにくい。


『30分です』


「はい」


『30分経ったら、途中でも受け取ります』


「分かりました」


 神谷は、また画面へ向かった。


 机の端に置かれた弁当は、蓋も開けられていない。


 樹里はそれを見た。


『先に食べてください』


「この整理が終わってからにします」


『30分後には資料を渡すんですよね』


「はい」


『でしたら、今食べてください』


「大丈夫です」


 神谷は笑った。


「まだ、初日ですから」


 樹里は笑わなかった。


 約束の日まで、あと8日。


 まだ初日。


 その言葉が、これから何度繰り返されるのか。


 神谷自身だけが、まだ知らなかった。

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