178話「見えない評価」
午後6時を過ぎても、日高樹里の席は空いたままだった。
川原萌は、修正を終えた資料を机の端に置いている。
提出するだけなら、樹里の机へ置いて帰ればいい。
しかし、今日はそれでは終わらせたくなかった。
何を考えて、この課題を与えているのか。
自分の仕事を、どこまで見ているのか。
それを直接聞くと決めていた。
萌が時計を見たとき、営業部の扉が開いた。
「戻りました」
『戻りました』
神谷と樹里が、揃って営業部へ入ってくる。
2人とも朝と変わらない格好をしていたが、抱えている書類は増えていた。
神谷は黒澤の席へ向かい、樹里は自分の机へ鞄を置く。
「神谷、どうだった」
「次の段階へ進めます。ただ、追加で確認する項目が出ました」
「量は?」
「今週中に整理できます」
神谷は迷わず答えた。
黒澤が、その手にある書類の束を見る。
「日高さんと分けろよ」
「はい。そのつもりです」
そう答えながら、神谷は書類の半分以上を自分の机へ置いた。
樹里の視線が、その背中へ向けられる。
『神谷さん』
「はい」
『その資料は、すべて神谷さんが確認するんですか』
「最終確認は私がします。先方と直接やり取りした内容も含まれているので」
『私にも共有してください』
「もちろんです。ただ、今日中に私が一度整理します。そのあと日高さんにお願いします」
『量が多すぎませんか』
「予定の範囲内です」
神谷は穏やかに答え、自分の席へ座った。
会話だけを聞けば、何も問題はない。
しかし樹里は、すぐには自分の仕事へ戻らなかった。
神谷の机に積まれた書類を見つめている。
「日高先輩」
萌が声をかけると、樹里が振り向いた。
『川原さん。お疲れさまです』
「お疲れさまです。先日返していただいた資料を修正しました」
『確認します』
萌は資料を差し出した。
樹里は立ったまま、ページをめくる。
赤字を入れた2か所だけではない。
萌が新しく加えた分析にも、順番に目を通していく。
時間にすれば、1分にも満たなかった。
『競合が同条件を提示した場合の比較が加わっていますね』
「はい」
『顧客が価格以外に求めている要素も、前回より具体的になっています』
「はい」
『これなら問題ありません』
樹里は資料を閉じた。
それで話を終えようとする。
「あの」
『何ですか』
「それだけですか」
樹里の眉が、わずかに動いた。
『まだ確認したい項目がありますか』
「そうではありません」
萌は自分の指先を握った。
ここで引けば、また同じことになる。
「どうして、私にこの課題を出したんですか」
『実際の案件を担当する前に、提案の組み立て方を覚えてもらうためです』
「それは分かっています」
萌の声が、思ったより強くなった。
近くの席にいた数人が、一瞬だけ顔を上げる。
萌は視線を気にしながらも、言葉を止めなかった。
「どうして、私なんですか」
『川原さんの教育担当が私だからです』
「それだけですか」
樹里が黙る。
その沈黙が、萌の胸に溜まっていたものを押し上げた。
「日高先輩は、ほとんど会社にいません。戻ってきても、私が提出したものに少しだけ赤字を入れて、次の課題を渡すだけです」
『はい』
「何ができるようになったのかも、何が足りないのかも、ほとんど説明してくれません」
『不足している箇所は、資料に記載しています』
「資料の話だけじゃありません」
萌は、樹里の目をまっすぐに見た。
「私のことを、ちゃんと見ていますか」
営業部の音が、遠くなったように感じた。
電話の声も、キーボードを叩く音も消えてはいない。
それでも、萌には樹里の返事しか聞こえなかった。
『見ています』
短い答えだった。
「どこをですか」
樹里はすぐには答えなかった。
萌がどこまで理解しているのか。
どう伝えればいいのか。
言葉を選んでいるようにも見える。
だが、待たされている萌に、その迷いまでは伝わらない。
『提出された資料は、すべて確認しています』
「また、資料ですか」
『仕事では、成果物を確認することも重要です』
「私じゃなくてもいいですよね」
『川原さん』
「誰が提出しても、日高先輩は同じところに赤字を入れたんじゃないですか」
樹里は否定しなかった。
その沈黙を、萌は肯定として受け取った。
「分かりました」
『待ってください』
「修正は終わりました。ほかに課題があれば、机に置いておいてください」
萌は頭を下げ、自分の席へ戻った。
鞄を手にすると、周囲へ挨拶をして営業部を出ていく。
樹里は呼び止めなかった。
萌の背中が扉の向こうへ消える。
しばらくして、森下彩花が椅子を回した。
「今のが、日高の答え?」
樹里が彩花を見る。
『嘘は言っていない』
「そういう話じゃない」
『分かっている』
「本当に分かってるなら、もう少し言い方があるでしょ」
彩花は立ち上がり、樹里の手から資料を取った。
数ページめくったあと、修正前の資料も机から拾い上げる。
「前より良くなってるじゃない」
『良くなっている』
「じゃあ、どうしてそう言わないの」
『本人も分かっていると思った』
「分かるわけないでしょ。教えてる側が何も言わないんだから」
彩花は資料を樹里の胸へ押し返した。
「日高は、できている人に余計なことを言わない。それで信頼を示してるつもりなのかもしれないけどね」
『……違うのか』
「少なくとも、今の川原さんには伝わってない」
樹里は手元の資料へ目を落とした。
萌が最初に提出したものと、今回のもの。
そこには、明確な変化があった。
指摘された箇所を直しただけではない。
関連する条件を自分で洗い出し、提案が失敗する可能性まで考えている。
樹里は、それを見落としていなかった。
だが、見ていることと、見ていると伝えることは違う。
『次は、言葉にする』
「次があればいいけど」
『あります』
「何を根拠に?」
『川原さんは、途中で投げ出す人ではない』
彩花が呆れたように息を吐いた。
「そういうところを、本人に言えばいいのよ」
『まだ評価を決める段階ではない』
「面倒くさいわね、あんた」
『彩花には言われたくない』
「私は、嫌いな相手には嫌いって分かるようにしてたもの」
『それもどうかと思う』
「日高よりは親切よ」
彩花はそう言い残し、自分の仕事へ戻った。
樹里は席に座り、引き出しを開けた。
中には、川原萌の教育記録が入っている。
日付ごとに、細かな文字が並んでいた。
来客の迷いに気づくのが早い。
資料の不自然な数字を見つける。
指摘された内容だけでなく、その周辺まで自分で調べる。
疑問を抱えたままにする傾向がある。
納得できないものに対して、表情へ出やすい。
負けず嫌い。
他者からの評価を求める一方、簡単な賞賛には納得しない。
樹里は、萌が配属されてからの行動を記録していた。
誰より多く言葉を交わしている陽菜とは、やり方が違う。
樹里は、話さない代わりに見ていた。
見たものを忘れないよう、書き残していた。
だが、その記録を萌が目にすることはない。
『……見ているだけでは、足りないか』
樹里が、小さく呟く。
「日高さん」
神谷の声に、樹里は記録を引き出しへ戻した。
『何でしょうか』
「申し訳ありません。この一覧だけ、先に確認をお願いできますか」
差し出された書類を受け取りながら、樹里は神谷の机を見る。
すでに何冊ものファイルが開かれていた。
『先ほどの資料も、半分ください』
「こちらを整理してからお渡しします」
『整理前で構いません』
「ですが、先方との会話を補足しないと分かりにくい部分があります」
『では、説明してください。私が整理します』
「日高さんには、別の確認をお願いしています。それ以上増やすと――」
『神谷さん』
樹里は、静かに遮った。
『これは、2人で担当している案件です』
「分かっています」
『でしたら、2人分の仕事を1人で整理しないでください』
神谷が言葉を止める。
樹里は、責めるのではなく返事を待った。
「……すみません」
『謝る必要はありません。分けてください』
「分かりました」
神谷は机の上の資料を見比べ、そのうち2冊を樹里へ差し出した。
「こちらをお願いしてもいいですか」
『はい』
「不明な点は、すぐに聞いてください」
『そうします』
樹里は資料を受け取り、自分の席へ戻る。
神谷は一度だけ手元を見つめたあと、再び作業を始めた。
今日、樹里が声をかけたから、神谷は仕事を分けた。
しかし、声をかけなければどうしていたのか。
予定の範囲内。
自分が整理した方が早い。
説明する手間をかけるより、先に終わらせる。
その判断は、責任感から生まれていた。
同時に、誰にも気づかれない負担を、少しずつ神谷の内側へ積み上げていた。
◇
翌朝。
萌の机には、新しい課題が置かれていた。
その上に、昨日提出した資料も重ねられている。
付箋には、樹里の字で書かれていた。
『前回より、提案の根拠が明確になっています。競合を想定した追加分析も良かったです』
萌は、その文章を何度も読んだ。
昨日までなら欲しかった言葉だった。
だが、一度ぶつかったあとだからこそ、素直には受け取れない。
(言ったから、書いたんでしょ)
萌は付箋を剥がさず、資料を開いた。
新しい課題には、これまでより多くの条件が設定されている。
簡単になったわけではない。
むしろ、難しくなっていた。
その最初のページにも、短い言葉があった。
『川原さんなら、ここまで考えられると判断しました』
萌の指が止まる。
嬉しいとは、まだ思いたくなかった。
たった2行で、これまでの不満が消えるわけでもない。
樹里が自分を見ているのかどうかも、まだ分からない。
それでも萌は、付箋を剥がさなかった。
捨てることも、引き出しへ隠すこともしない。
見える場所に残したまま、新しい課題へ取りかかった。
言葉にしなければ伝わらない樹里。
言葉だけでは信じられない萌。
2人の間には、まだ大きな距離がある。
けれど、昨日まで何もなかった場所に、初めて細い道が生まれていた。




