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177話「見ていた場所」

歓迎会の翌週。


 山本陸は、これまで以上に櫻井陽菜を目で追うようになっていた。


 指導を受けているのだから、教育担当の動きを見るのは当然だ。


 電話の取り方。


 資料を確認する速さ。


 来客へ向ける笑顔。


 相手によって声の高さや言葉の柔らかさを変えながら、それでも誰に対しても壁を作らない。


 陽菜のそばには、いつも誰かがいた。


 仕事の質問をする者。


 くだらない話を持ちかける者。


 陽菜にからかわれ、困った顔をしながらも離れていかない者。


 その中心にいるのが、陽菜だった。


『陸、聞いてる?』


「えっ」


 陸が顔を上げると、陽菜が机の向こうから覗き込んでいた。


『今、完全に違うところ見てたでしょ』


「すみません」


『あたしの顔ばっかり見てても、仕事は覚えられないよ』


「顔ばっかり見てたわけじゃありません」


『じゃあ、どこ見てたの?』


「それは……」


 言葉に詰まった陸を見て、陽菜が楽しそうに笑う。


『赤くなってる。分かりやすいね、陸は』


「からかわないでください」


『からかってないよ。半分くらいしか』


「半分はからかってるじゃないですか」


『残り半分は、ちゃんと教えてる』


 陽菜はそう言って、陸の手元にある資料を指で叩いた。


『ここの数字、昨日と変わってる。更新したのは中井くんだから、理由は中井くんに聞いて』


「櫻井先輩は分からないんですか」


『分かるよ。でも、更新した本人に確認する癖をつけた方がいいでしょ』


 陸は資料を持って、中井の席へ向かった。


「中井先輩、少しいいですか」


「どうしたの、山本」


「ここの数字が、昨日の資料から変わっているんですが」


「ああ、そこだね。今朝、管理会社から条件変更の連絡が入ったんだ」


 中井は自分の画面に資料を表示し、変更の理由を順に説明していく。


 陽菜の教え方とは違った。


 陽菜は、まず陸に考えさせる。


 中井は、理由を整理して順序立てて伝える。


 どちらが優れているというものではない。


 ただ、違うからこそ分かりやすかった。


「ありがとうございます」


「うん。櫻井さんに提出する前に、変更履歴もつけておいてね」


「分かりました」


 陸が自席へ戻ろうとしたとき、中井が陽菜へ声をかけた。


「櫻井さん、今朝の管理会社の件、山本にも共有しておきました」


『ありがと、中井くん』


「いえ」


 それだけのやり取りだった。


 けれど、中井の表情はほんの少しだけ柔らかくなった。


 陽菜も、ほかの社員へ向けるものとはわずかに違う笑顔を返している。


 歓迎会の席でも感じていた。


 隣に座る距離。


 目が合う回数。


 陽菜が何かを取ろうとするより先に、中井が手を伸ばす。


 中井が黙っていると、陽菜が当然のように話を振る。


 特別なことは何もしていない。


 それなのに、2人の間だけには、ほかの誰かが簡単には入れない空気があった。


(付き合ってる……よな)


 聞かなくても分かる。


 それでも陸は、誰かの口から答えを聞くことを避けていた。


 答えを知らなければ、まだ確定していないことにできる気がした。


 陸は自席へ戻り、資料の修正を始めた。


 だが、さきほど教わったばかりの説明が、頭の中を素通りしていく。


『陸』


「はい」


『そこ、また前の数字入れてる』


 陽菜に指摘され、陸は慌てて画面を見直した。


「すみません」


『今日、変だよ』


「そんなことありません」


『ある。朝から3回目』


 陽菜の声から、からかう調子が消える。


『体調悪い?』


「大丈夫です」


『本当に?』


「はい」


 陸がそう答えると、陽菜はしばらく顔を見ていた。


 無理に聞き出そうとはしなかった。


『じゃあ、1回休憩してきて。頭冷やしてから戻っておいで』


「でも」


『そのまま続けて間違い増やす方が困る』


「……分かりました」


 陸は席を立った。


 給湯室へ行くと、遠藤凛がコーヒーを淹れていた。


「お疲れさまです」


「お疲れさま、陸くん」


 凛は陸の顔を見ると、すぐに何かを察したようだった。


「どうかしましたか?」


「いえ。少し休憩してこいと言われただけです」


「陽菜さんに?」


「はい」


「では、休んだ方がいいですね。陽菜さんは、そういうところをよく見ていますから」


 凛は自分のコーヒーを持って、給湯室を出ようとする。


 その背中へ、陸は思わず声をかけた。


「あの、遠藤さん」


「はい」


「櫻井先輩と中井先輩って……付き合ってるんですか」


 凛の足が止まった。


 驚いたというより、どう答えるべきかを考えている顔だった。


「陽菜さん本人から聞いていないんですか?」


「聞いてません。でも、見ていれば何となく」


「そうですね。お付き合いしています」


 凛はごまかさなかった。


 陸の胸の奥に、鈍い痛みが走る。


 予想していた答えだった。


 それでも、誰かの口から明確な言葉として聞くと、重さが違った。


「……そうですか」


「陸くん」


「大丈夫です」


 反射的に答えた。


 凛は何も言わず、陸を見つめている。


 その静かな視線に耐えられず、陸は紙コップへ水を注いだ。


「別に、櫻井先輩のことが好きだったわけじゃありません」


「私は、何も聞いていませんよ」


「……そうですね」


 自分から否定したことで、かえって認めてしまった気がした。


 好きだったのか。


 憧れていただけなのか。


 優しくされ、名前を呼ばれ、認められたことが嬉しかっただけなのか。


 陸自身にも分からない。


「中井先輩って、どんな人なんですか」


「デスクの近い陸くんの方が、よく知っているのでは?」


「仕事のことしか知りません」


「では、仕事をしている中井さんを見ればいいと思います」


「仕事を?」


「陽菜さんが、どんな人を好きになったのか知りたいのでしょう?」


 凛の言葉に、陸は答えられなかった。


「誰かに聞いた印象より、自分で見つけた方が納得できると思います」


「……遠藤さんは、いつもそんなに人を見ているんですか」


「見るようにしています。見えていないことの方が多いですけれど」


 凛はわずかに微笑んだ。


「陸くんも、きっと見つけられますよ」


 凛が給湯室を出ていく。


 残された陸は、水の入った紙コップを見つめた。


 これまで陸が見ていたのは、陽菜ばかりだった。


 陽菜が誰に声をかけたか。


 誰を褒めたか。


 自分に笑ってくれたか。


 その隣にいる中井を、まともに見ようとしたことはなかった。


 陸は水を飲み干し、執務室へ戻った。


 陽菜は別の社員に呼ばれ、席を離れていた。


 中井は電話をしながら、陸の机に置かれた資料へ目を落とす。


 通話を終えると、黙って付箋を1枚貼った。


「山本。管理会社から追加の連絡があったよ。この項目も変わるみたいだ」


「はい」


「櫻井さんには俺から伝えておくから、山本は先に修正を終わらせよう」


「中井先輩」


「どうしたの?」


「櫻井先輩の仕事も、いつも確認してるんですか」


 中井が不思議そうな顔をする。


「山本の教育担当は櫻井さんだろ。山本のことで何かあれば、俺もできる範囲で手伝おうと思ってるよ」


「どうしてですか」


「どうしてって……」


 中井は少し考えてから答えた。


「櫻井さんは、人のことになると限界まで動くからね。放っておくと、自分の仕事まで後回しにするんだ」


 その言葉には、自分が支えているという誇示がなかった。


 陽菜に頼まれたからでも、陸に恩を売るためでもない。


 ただ、陽菜が困らないように。


 陽菜が誰かのために動けるように、自分にできることをしている。


「ほかに分からないところはある?」


「……今は大丈夫です」


「それなら、終わったら一度見せて。俺も確認するよ」


「はい。お願いします」


「うん」


 中井が自分の席へ戻っていく。


 少しして、陽菜も戻ってきた。


『中井くんから聞いた。追加の修正、できそう?』


「はい。今度は間違えません」


『うん。その顔なら大丈夫そう』


 陽菜は笑って、自分の仕事へ戻る。


 陸は画面に向き直った。


 胸の痛みは消えていない。


 けれど、その痛みだけを見ていたくはなかった。


 陽菜が選んだ人を知りたいと思った。


 そして、自分が陽菜から何を教わり、どんな人間になりたいのか。


 まだ、答えは出ない。


 それでも陸は、初めて陽菜以外の人間へ意識を向けた。


     ◇


 同じ頃。


 川原萌は、日高樹里から返却された資料を見つめていた。


 赤字は、わずか2か所。


 余白には、短い言葉が添えられている。


『修正後、もう一度提出してください』


 それだけだった。


 何が良かったのか。


 前回より進歩しているのか。


 自分の考え方が合っているのか。


 何も書かれていない。


 萌は赤字の部分を見直す。


 どちらも、数字そのものを間違えたわけではなかった。


 1つは、顧客がその条件を求める理由の分析不足。


 もう1つは、競合が同じ提案をした場合の想定不足。


 指摘は正しい。


 だからこそ、腹が立った。


(これだけ?)


 歓迎会で聞いた、神谷の言葉が蘇る。


 日高先輩は、スルメなんだよ。


 噛めば噛むほど味が出る。


 けれど、自分はその味を知るところまで近づけていない。


 噛む以前に、硬い表面へ歯を立てることさえ許されていない気がした。


 萌は樹里の席を見る。


 今日も空いている。


 朝から神谷と高槻興産へ出ていた。


「また、いない……」


 小さく漏らした声に、隣を通った彩花が足を止める。


「日高に聞きたいことがあるの?」


「森下先輩」


「その資料、返されたんでしょ」


「はい。でも、何を考えているのか分からなくて」


「昔からよ」


 彩花は迷いなく言った。


「説明が足りない。愛想もない。分かっていることを言葉にしない。自分ができるからって、相手も同じようにできると思ってるところもある」


 予想外の言葉に、萌は瞬いた。


 神谷とは違う。


 彩花は樹里を褒めなかった。


「森下先輩も、日高先輩のことが苦手なんですか」


「嫌いだった」


 過去形ではあった。


 けれど彩花は、それ以上を語ろうとしない。


「今は違うんですか」


「川原さん」


 彩花の視線が、萌の資料へ落ちる。


「日高が嫌いなのと、あいつの指摘が正しいかどうかは別の話よ」


「……はい」


「納得できないなら、帰ってきたときに聞けばいい。察してもらえるのを待っていたら、日高相手には何も進まないから」


「聞いて、答えてくれるでしょうか」


「答えさせるの」


 彩花はそう言い切った。


「教育担当なんでしょ。なら、川原さんには聞く権利がある。日高には説明する責任がある」


 同期だからこそ言える、遠慮のない言葉だった。


 彩花は自分の席へ戻っていく。


 萌は、もう一度赤字を見る。


 正しい指摘を受け入れることと、樹里への不満を飲み込むことは違う。


 分からないなら、聞けばいい。


 それでも答えてくれなければ、そのときは正面から不満を伝えればいい。


 萌は資料を開き、修正を始めた。


 樹里が戻ってきたら、提出する。


 そして、今度こそ聞く。


 自分を見ているのか。


 何を求めて、この課題を与えているのか。


 歓迎会で聞いた言葉を、素直に信じる気にはなれなかった。


 スルメなら、噛まなければ味は分からない。


 だが、噛みつくことならできる。


 萌の指が、キーボードの上を動き始めた。


 陽菜だけを見ていた陸は、隣にいる人間へ目を向けた。


 樹里に見られていないと思う萌は、樹里を見ようとし始めた。


 2人の新人は、まだ何も成し遂げていない。


 それでも、見ている場所は、少しずつ変わり始めていた。

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