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176話「スルメ」

川原と山本の歓迎会は、金曜日の終業後に開かれた。


 一次会の会場は、会社から歩いて数分の居酒屋だった。


 営業部の若手を中心に、黒澤、樹里、彩花も参加している。


 座敷へ通されると、陽菜が当然のように席を決め始めた。


『陸は、こっち』


「はい」


『萌は、神谷さんと佐藤くんの間ね』


「どうして陽菜さんが仕切ってるんですか」


 凛が尋ねる。


『幹事だから』


「いつ決まったんです?」


『今』


「今なんですね」


『細かいこと気にしない』


 陽菜は席を指していく。


 山本を自分の横へ座らせ、反対側には中井。


 川原の両隣には神谷と佐藤。


 凛と柚希は向かい側。


 樹里と彩花は、少し離れた席へ並んだ。


「何で日高の隣が私なの」


『同期だから』


「理由になってない」


『仲よし席』


『やめろ』


「やめて」


 樹里と彩花の声が重なった。


 陽菜が満足そうに笑う。


『ほら、仲よし』


『櫻井さん』


『怒らないで。今日は歓迎会だよ』


「お前が怒らせてるんだろ」


 黒澤が上座から言う。


『あたしは空気を温めてるんです』


「熱くしすぎだ」


 全員が席へ着く。


 飲み物が揃うと、黒澤がグラスを持った。


「長い話をするつもりはない」


『本当に?』


「櫻井さん。お前は少し黙れ」


『はーい』


「川原さん、山本」


 2人の表情が引き締まる。


「正式配属から1週間。まだ、できないことの方が多いと思う」


「はい」


「はい」


「当たり前だ。できないことを隠すな。分からないなら聞け。失敗したら、次に同じことをしない方法を考えろ」


 黒澤は、営業部の社員たちを見渡す。


「教える側も同じだ。自分の仕事を見せるだけで、教育したつもりになるなよ」


 樹里の視線が、わずかに動いた。


 黒澤は誰か一人へ言ったわけではない。


 だが、その言葉が自分にも向けられていることを、樹里は理解していた。


「2人が営業部へ来てよかったと、こっちにも思わせてくれ」


 黒澤がグラスを上げる。


「歓迎する。乾杯」


「乾杯!」


 グラスが重なる。


 張り詰めていた川原と山本の表情が、少しだけ緩んだ。


 料理が運ばれ、仕事の話から始まった会話は、少しずつ別の方向へ広がっていく。


「山本、電話には慣れたか」


 黒澤が尋ねる。


「少しずつです。今日は4本取りました」


『目標達成したんですよ』


 陽菜が、山本より先に答える。


「櫻井さんに聞いてない」


『教育担当なので』


「本人に話させろ」


『はい。陸、どうぞ』


「もう答えました」


『そうだった』


「ちゃんと聞いてください」


 山本の言葉に、陽菜が笑う。


『言うようになったじゃん』


「この1週間で、少し慣れました」


「櫻井さんの扱いにか」


 黒澤が言う。


「いえ、そういう意味では」


『部長、変なこと教えないでください』


「何も教えてない」


 山本は困りながらも笑っていた。


 会社にいるときより、陽菜との距離が近い。


 教育担当と新人という関係は変わらない。


 それでも、仕事の指示が飛んでこない席では、陽菜の表情も少し違って見えた。


『陸、ちゃんと食べてる?』


「食べています」


『それ、ずっと皿に残ってるじゃん』


「あとで食べます」


『好き嫌い?』


「違います。話を聞いていて」


『冷めるよ。先に食べな』


「はい」


 陽菜は、山本の姉のように世話を焼く。


 山本には、それが嬉しかった。


 その横で、中井が陽菜の空いたグラスへ水を注いだ。


「陽菜さん。飲むのが早いです」


『まだ1杯目だよ』


「空腹のまま飲んでいたでしょう」


『料理来るの遅かったから』


「さっき、つまみを食べておくように言いましたよね」


『食べたよ。枝豆』


「3粒だけです」


『見てたの?』


「見ています」


 中井は小皿から料理を取り分け、陽菜の前へ置いた。


「先に、これを食べてください」


『はーい』


 陽菜は、抵抗せず箸を取った。


 山本は、そのやり取りを横で見ている。


 中井は、陽菜へ命令しているわけではない。


 陽菜も、後輩から注意されて不機嫌になる様子はない。


 ごく自然に世話を焼き、ごく自然に受け入れている。


 仕事中にも、2人が近いと感じることはあった。


 だが、会社の外で見ると、その距離はさらに明確だった。


『中井くん、これおいしい』


「どれですか」


『これ。食べる?』


「いただきます」


 陽菜が自分の皿を、中井の方へ寄せる。


 同じ箸を使ったことなど、気にしていない。


 中井も当然のように口へ運ぶ。


 山本の胸の奥が、また少しだけ狭くなった。


 自分へ向けられる陽菜の笑顔と、中井へ向けられる笑顔。


 似ている。


 それでも同じではない。


「陸?」


 陽菜が顔を覗き込む。


『どうしたの』


「いえ。何でもありません」


『疲れた?』


「大丈夫です」


『無理しないでね。まだ1週間なんだから』


「はい」


 陽菜は、山本の変化を新人の疲労だと思った。


 中井も、特別な意味には気づかない。


 山本自身も、胸の狭さへまだ名前をつけられずにいた。


 一方、川原は神谷と佐藤の間で、小さくグラスを持っていた。


「川原さんは、日高さんの指導に慣れましたか」


 佐藤が尋ねる。


「慣れた、というほどではありません」


「日高さんは、説明が短いですからね」


「佐藤くん」


 少し離れた席から、樹里の声が飛ぶ。


『聞こえています』


「すみません。悪い意味ではありません」


『そうですか』


「本当です」


 佐藤は慌てて頭を下げる。


 川原は樹里を見る。


 怒った様子はない。


 ただ、表情から本心を読み取ることはできなかった。


「日高さんから、毎日どんなことを教わっているんですか」


 神谷が尋ねる。


「過去の案件を比較したり、提案書を作ったりしています」


「もう提案書を?」


「練習用です。実際にお客様へ出すものではありません」


「それでも、配属1週間で任されるのは早いと思います」


「そうなんですか」


「はい」


 神谷は樹里を見る。


「日高さん、期待されていますね」


『必要だと思ったことをお願いしているだけです』


「その必要だと思った理由を、川原さんへ伝えていますか」


 樹里が黙る。


 川原も、思わず神谷を見た。


『……説明は、課題が終わってからしています』


「川原さん。説明されていますか」


 突然尋ねられ、川原は言葉に詰まった。


「理由は教えていただいています。でも」


「でも?」


「私が何をできるようになったのかは、あまり」


 そこまで答えてから、川原は後悔した。


 歓迎会の席で、本人を前に言うことではなかった。


「すみません」


『謝る必要はありません』


 樹里は川原を見る。


『言っていなかったのは事実です』


「日高」


 隣から彩花が口を挟む。


「見れば分かると思ってるでしょ」


『何が』


「最初より難しい課題を渡してるんだから、期待してることくらい伝わるって」


 樹里は何も答えなかった。


「伝わるわけないでしょ」


『……そうか』


「本当に、人へ教えるの下手ね」


『お前に言われたくない』


「私は少なくとも、考えてることを言う」


『言いすぎる』


「日高が言わなさすぎるの」


 同期同士の言葉が、静かにぶつかる。


 険悪な雰囲気ではない。


 互いの性格を知っているからこそ、遠慮がない。


 川原は、2人のやり取りを見ていた。


 樹里は、自分が伝えていなかったことを否定しなかった。


 では、本当に期待しているのか。


 聞いてみたい。


 だが、この場で尋ねる勇気はなかった。


『川原さん』


「はい」


 樹里から声をかけられる。


『明日、高槻興産との打ち合わせがあるため、午前中は不在にします』


「分かりました」


『金曜日までとお伝えした課題は、急がなくて構いません』


「はい」


『来週、一緒に確認します』


 一緒に。


 川原は、その言葉を初めて聞いた気がした。


「分かりました」


『それから』


 樹里は、わずかに言葉を探した。


『この1週間、よく取り組んでいると思います』


 褒めたというより、評価を報告するような口調だった。


 それでも、川原はすぐに返事ができなかった。


「……ありがとうございます」


『はい』


 会話は、それで終わった。


 温かい言葉ではない。


 笑顔もない。


 だが、見ていないわけではないのかもしれない。


 川原の中で、樹里の印象が変わるところまではいかなかった。


 ただ、冷たいという一枚だけだった像に、小さな亀裂が入った。


 一次会が終わる頃。


 黒澤が立ち上がった。


「俺は帰る」


『早くないですか』


 陽菜が不満そうに言う。


「最初だけ顔を出すと言っただろ」


『まだ二次会がありますよ』


「だから帰るんだ」


『部長もRoseへ来ればいいのに』


「若いやつの歓迎会に、いつまでも部長が残ると邪魔になる」


『あたしたちは気にしませんよ』


「俺が気にする」


 黒澤は川原と山本へ向いた。


「明日は休みだからって、無茶な飲み方をするなよ」


「はい」


「はい」


「特に櫻井さんに合わせるな」


『どういう意味ですか』


「そのままの意味だ」


『あたし、ちゃんと加減できます』


「信用がない」


『ひどい』


 黒澤は会計の一部を置き、先に店を出た。


 樹里も鞄を手に取る。


『私も、ここで失礼します』


「日高先輩、二次会には行かれないんですか」


 川原が尋ねた。


『明日の朝、高槻興産へ伺います』


「土曜日にですか」


『先方の都合です』


「そうですか」


『歓迎会なのに、最後までいられずすみません』


「いえ。来ていただけただけで」


『来週からも、よろしくお願いします』


「よろしくお願いいたします」


 樹里が頭を下げる。


 川原も、それに応じた。


 教育担当は、やはり仕事を優先して帰る。


 高槻興産が大きな案件であることは理解している。


 自分の歓迎会を軽く見ているわけでもない。


 分かっていても、山本の隣には陽菜が残る。


 自分の隣からは、樹里がいなくなる。


 その違いが目に入った。


「私も帰る」


 彩花も席を立つ。


『彩花さんまで?』


「総務部の検討会資料を、明日までに確認することになってるの」


『休みの日まで仕事するの?』


「家で少し見るだけ」


『真面目だね』


「誰かと違ってね」


『誰のこと?』


「自覚がないならいい」


 彩花は樹里の横へ並ぶ。


「日高、駅まで一緒でしょ」


『ああ』


「途中で明日の資料、見せて」


『なぜ』


「高槻興産の方じゃない。川原さんに渡してる課題」


 川原が顔を上げる。


「教育担当として、何を見てるのか興味がある」


『お前の仕事ではない』


「分かってる。でも、総務部の検討会にも新人教育の項目があるから」


『……歩きながらなら』


「十分」


 樹里と彩花が、店を出ていく。


 川原は、閉まった扉を見ていた。


 自分に渡されている課題について、樹里は資料を持ち歩いている。


 ただ余った仕事を渡していたわけではない。


 そう分かる材料が、初めて見えた。


『さあ』


 陽菜が立ち上がる。


『二次会はRoseね。行きたい人だけでいいよ』


「全員来る前提の顔をしていますよ」


 中井が言う。


『来ない人いる?』


 陽菜が見回す。


 誰も手を上げなかった。


『決まり。萌、陸、置いていかれないでね』


「はい」


「分かりました」


 一行は居酒屋を出て、Roseへ向かった。


 夜の街を歩きながら、山本は陽菜と中井の背中を見る。


 2人は並んでいる。


 陽菜が何かを話し、中井が笑う。


 歩幅も、距離も自然だった。


 川原は、神谷の近くを歩いていた。


 先ほど、神谷は樹里が川原へ提案書を任せたことを「期待されている」と言った。


 なぜ、そう分かるのか。


 自分には見えない樹里の何を、神谷は知っているのか。


 聞いてみたい気持ちはある。


 だが、まだ質問にはできなかった。


 Roseの扉が開く。


『いらっしゃい』


 カウンターの中から、美園が顔を上げた。


 陽菜たちの後ろにいる2人を見て、すぐに笑う。


『その子たちが、新しく入った子?』


『そう。萌と陸』


 陽菜が2人を前へ出す。


「川原萌です。よろしくお願いいたします」


「山本陸です。よろしくお願いします」


『美園です。そんなに緊張しなくていいよ』


 美園はカウンターの席を示した。


『こういうお店は初めて?』


「はい。初めてです」


 川原が答える。


「僕もです」


『じゃあ、今日は無理に飲ませないから安心して』


『美園さん、あたしは?』


『陽菜は自分で加減して』


『部長と同じこと言われた』


『信用がないんじゃない?』


『美園さんまでひどい』


 美園が笑いながら、水を2人の前へ置く。


『あなたたちも、これからはいつでも大歓迎だよ』


「ありがとうございます」


 川原と山本が、同時に頭を下げた。


 店内には、会社とは違う時間が流れていた。


 照明は低い。


 カウンターの木目には、長い年月を重ねた艶がある。


 グラスへ氷が落ちる音。


 美園が酒を作る手。


 先輩たちも会社にいるときより、表情が柔らかい。


 神谷は自然にカウンターの一席へ座る。


「ここは、島川不動産のみんなの憩いの場なんだよ」


『勝手に会社の休憩所にしないでよ』


 美園が言う。


「すみません。でも、間違ってはいないですよね」


『まあ、売り上げになるからいいけど』


「僕はいつものをお願いします」


『はい』


 佐藤も、少し離れた席へ座った。


 美園が彼の前へグラスを置く。


『佐藤くんも、いつものでいい?』


「はい。お願いします」


『今日は飲みすぎないでね』


「分かっています」


『明日も仕事?』


「休みです。でも、美園さんに迷惑をかけたくないので」


『いい子』


 美園が微笑む。


 佐藤の耳が、分かりやすく赤くなった。


 川原は2人を見た。


 店のママと常連客。


 そう見えなくもない。


 だが、美園が佐藤へ向ける目は、ほかの客へ向けるものより少し近かった。


 陽菜と中井も、並んで座っている。


 陽菜が自分の注文をしたあと、中井の分まで勝手に決める。


『中井くんは、今日あんまり飲ませないで』


「僕は最初から、それほど飲みません」


『あたしを連れて帰らないといけないからね』


「酔い潰れる前提ですか」


『念のため』


「自分で歩いてください」


『冷たい』


 口ではそう言いながら、陽菜は嬉しそうだった。


 山本は、また2人を見る。


 会社の中では、先輩と後輩。


 それだけでは説明できない距離が、Roseでは隠されていない。


 凛が山本の視線に気づいた。


 だが、この場では何も言わなかった。


 席が落ち着き、飲み物が行き渡る。


 話題は、再び新人2人のことになった。


「川原さん、営業部はどうですか」


 凛が尋ねる。


「まだ、分からないことばかりです」


「日高先輩は、優しいですか」


 酒が少し入っていたせいか。


 あるいは、樹里本人がもういないからか。


 川原の返事は、会社にいるときより正直だった。


「優しい……かどうかは、まだ分かりません」


『やっぱり、そう見えるよね』


 陽菜が笑う。


『日高先輩、最初は怖いもん』


「陽菜さんが言うんですか」


 柚希が驚く。


『あたしは慣れてるから』


「私は、怖いとは思っていません」


 川原は自分のグラスを見る。


「指示は正確です。間違ったことも言いません。でも、淡々としていて」


「うん」


 凛が続きを待つ。


「私のことを見てくれているのか、分からないです」


 その場の誰も、すぐには否定しなかった。


 見ている。


 日高先輩は、そんな人ではない。


 簡単にそう言えば、川原の感じたものを間違いにしてしまう。


「今日、初めて褒めてもらいました」


 川原は続ける。


「でも、神谷先輩に聞かれたから、言ってくれただけかもしれません」


「それは違います」


 神谷が言った。


 返事が早かった。


 川原が顔を上げる。


「どうして、そう思うんですか」


「日高先輩は、思っていないことを言わないからです」


「でも、普段は何も言ってくれません」


「そうですね」


 神谷は苦笑する。


「あの人は、言わなさすぎます」


『神谷さんまで言う?』


 陽菜が笑う。


「事実です」


『じゃあ、萌の言ってることも合ってるじゃん』


「川原さんが、そう感じたことは間違っていません」


 神谷は、自分のグラスへ視線を落とした。


「ただ、日高先輩は、スルメなんだよ」


 川原が不思議そうな顔をする。


「スルメ、ですか」


「そう」


 神谷は真面目な表情のまま、続けた。


「最初は硬くて、味が分かりにくい。でも、噛めば噛むほど、少しずつ味が出るだろう?」


「はい」


「日高先輩もそう。言葉は少ないし、分かりやすく優しい人でもない。でも、あの人を知れば知るほど、良さが分かってくる」


 川原は、神谷を見た。


 冗談を言っている顔ではない。


 本当に樹里を、そういう人間だと思っている。


『最初から惚れてた人が、よく言えるね』


 陽菜が、すかさず口を挟んだ。


 神谷の表情が固まる。


「櫻井さん、それは言わない約束じゃないですか」


『そんな約束したっけ?』


「しました」


『いつ?』


「何度もしています」


『じゃあ、あたしが忘れた』


「一番信用できない忘れ方ですね」


『でも本当じゃん。最初から日高先輩のこと、ずっと見てたでしょ』


「それは……」


 神谷は言葉に詰まる。


 佐藤が笑いを堪え、中井は巻き込まれないようにグラスへ口をつけた。


 美園はカウンターの中で、面白そうに神谷を見る。


『樹里をスルメ扱いしたって、本人には言わない方がいいよ』


「美園さんまで」


『私は止めてあげてるの』


「もう遅い気がします」


『大丈夫。私と陽菜が黙ってれば、樹里には伝わらないから』


『美園さん、あたしは喋るよ』


『知ってる』


「駄目じゃないですか」


 店内に笑いが広がる。


 川原も、小さく笑った。


 樹里をスルメと呼ぶ神谷。


 それをからかう陽菜。


 当然のように樹里の名前を呼ぶ美園。


 自分には、冷たく見える。


 感情がないようにさえ感じる。


 だが、その人を知れば知るほどいいと言う人がいる。


 樹里がいない場所でも、その良さを語る人がいる。


「神谷先輩は、日高先輩のどこが好きなんですか」


 川原は、酒の勢いで尋ねた。


 神谷が完全に黙る。


『萌、いい質問』


 陽菜が身を乗り出す。


「櫻井さんは静かにしてください」


『だって、あたしも聞きたい』


「知っているでしょう」


『本人の口から聞くのは違うじゃん』


「歓迎会で話すことではありません」


『じゃあ、どこなら話すの?』


「話しません」


『照れてる』


「違います」


 神谷は困り果てた顔でグラスを持ち上げた。


 少し考えたあと、川原へ向き直る。


「全部を説明すると、長くなります」


『長くていいよ』


「櫻井さんには聞いていません」


「すみません。変なことを聞きました」


 川原が謝る。


「いえ」


 神谷は首を横に振った。


「一つだけ挙げるなら、誰かが見ていないところでも、同じ仕事をするところです」


 川原は、神谷の言葉を待つ。


「評価されるためではなく、必要だからやる。本人は、それを特別なことだと思っていません」


「見ていないところでも」


「はい」


「それを、神谷先輩は見ていたんですか」


「見てしまいました」


 神谷は、少しだけ笑った。


「だから、好きになったんだと思います」


 今度は、陽菜もすぐにはからかわなかった。


 美園が静かにグラスを磨いている。


 川原は、樹里のことを思い出す。


 高槻興産へ向かう前、自分の机に課題が置かれていた。


 歓迎会へ来る前にも、樹里は川原の資料を確認していた。


 一次会で帰ったあと、彩花へ自分に渡している課題を見せると言っていた。


 自分の前では、何も語らない。


 それでも見えない場所で、何かをしているのかもしれない。


 スルメ。


 その言葉だけが、妙に頭に残った。


 すぐに樹里を好きになったわけではない。


 冷たいという印象が消えたわけでもない。


 むしろ、余計に分からなくなった。


 川原の中で先に変わったのは、樹里の像ではない。


 樹里を見る、神谷の像だった。


 この人は、本当に日高先輩を見ている。


 その事実だけが、歓迎会の夜に残った。


 反対側の席では、陽菜が中井の肩へ少し寄りかかっていた。


『眠くなってきた』


「飲みすぎです」


『そんなに飲んでないよ』


「帰りますか」


『まだ帰らない』


「でしたら、水を飲んでください」


『中井くんが飲ませて』


「自分で飲んでください」


『ケチ』


「そういう問題ではありません」


 山本は、2人のやり取りを見ていた。


 ただの先輩と後輩ではない。


 ほとんど答えは出ている。


 それでも、自分から確かめることはできなかった。


 その視線に気づいた凛が、山本の前へ水を置く。


「山本くんも、飲みすぎないでくださいね」


「ありがとうございます」


「何か、気になりますか」


「いえ」


 山本は一度、陽菜と中井を見る。


「今は、大丈夫です」


 その言葉の意味を、凛は追及しなかった。


 歓迎会は、それ以上深くならなかった。


 陽菜が新人2人へ次々と質問し、佐藤が翌日の予定を聞き、柚希が仕事で困ったときは声をかけてほしいと伝える。


 美園は、川原と山本のグラスが空く前に水を足した。


 会社の延長に見えて、会社ではない。


 肩書きも、教育担当も、先輩と後輩も、完全には消えない。


 その隙間から、普段は見えない人間関係が覗いている。


 店を出る頃。


 美園が2人へ声をかけた。


『またおいで』


「はい。ありがとうございます」


 川原が頭を下げる。


「今度は、もう少し緊張しないで来ます」


 山本も答えた。


『その方がいいね』


 美園は笑う。


『でも、最初は誰でもそんなものだよ。店も、人も、何度か来ないと分からないから』


 川原は、その言葉を聞いて神谷を見る。


 店も、人も。


 何度か触れなければ分からない。


 スルメという表現より、少しだけ美園らしい言い方だった。


 店の外で、それぞれが帰る方向へ分かれる。


 中井は陽菜の鞄を持ち、彼女の歩幅へ合わせる。


 佐藤は閉店作業が残る美園へ一度振り返った。


 凛と柚希は同じ駅へ向かう。


 神谷は、樹里のいない方向を一度だけ見た。


 川原と山本が持ち帰ったのは、仕事の話ではなかった。


 店の明かり。


 氷の音。


 先輩たちが、誰の隣へ立つのか。


 誰が、いない人のことを語るのか。


 山本は、陽菜と中井の間にあるものを考え始めた。


 川原は、樹里と神谷の間にあるものを知りたくなった。


 配属から1週間。


 仕事だけを見ていた2人の前で、営業部の人間たちは、少しずつ会社の外の顔を持ち始めていた。

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