175話「一週間」
正式配属から1週間が経っても、山本の立つ位置は大きく変わらなかった。
朝は陽菜の席の近く。
外出するときは、その半歩後ろ。
電話が鳴れば、陽菜がどのタイミングで受話器を取るのかを見る。
来客があれば、陽菜が最初に何を確認するのかを聞く。
メモの量は、日に日に増えていた。
「はい、島川不動産営業部、山本がお受けいたします」
配属初日は上ずっていた声も、少しずつ落ち着いてきた。
「いつもお世話になっております。恐れ入りますが、お名前をもう一度伺ってもよろしいでしょうか」
聞き取れなかったものを、聞こえたふりはしない。
用件を確認し、担当者へ繋ぐ。
電話を切ったところで、陽菜が椅子を回した。
『陸、今の電話はよかったよ』
「ありがとうございます」
『名前も復唱できてたし、保留にする前に相手へ伝えられてた』
「はい」
『でも、担当を探してる間、あたしのこと見てたでしょ』
山本の表情が固まる。
「……見ていました」
『あたしが答えを教えると思った?』
「少しだけ」
『ダメ』
陽菜は、人差し指で山本の机を軽く叩いた。
『まず、自分で探す。それでも分からなかったら聞く。あたしの顔を見るだけじゃ、担当者は見つからないよ』
「はい。すみません」
『謝らなくていいから、次は自分で探して』
「分かりました」
『それから』
陽菜の口元が緩む。
『電話、3本目。今日の目標達成』
注意した直後でも、できたことは見落とさない。
山本は嬉しそうにうなずいた。
「明日は、4本取ります」
『数を増やすことだけ考えないでね』
「はい」
『取れそうな電話を選んでたら怒るから』
「そんなことしません」
『本当?』
「本当です」
『じゃあ、期待しとく』
陽菜が笑う。
山本も、つられるように笑った。
一方、川原の席には、配属初日よりも多くの資料が積まれていた。
過去の営業記録。
顧客へ提出する前の提案書。
契約に至らなかった案件の報告書。
樹里から渡される課題は、日を追うごとに少しずつ形を変えている。
初日は、3件の営業記録を比較した。
翌日は、同じ顧客へ出された2つの提案書から、変更点とその理由を抜き出した。
3日目には、顧客から寄せられた要望を基に、どの情報を追加で確認するべきかをまとめた。
そして今日は、実際に使われる提案書の下書きを任されている。
『川原さん』
「はい」
『こちらの条件ですが、誰が決めたものですか』
「お客様から伺った内容です」
『直接ですか』
「いえ。以前の面談記録に書かれていました」
『いつの記録ですか』
「2か月前です」
『今も同じ条件とは限りません』
樹里は、川原が作った提案書の一箇所を指す。
『確認できていない条件を、現在の希望として書かないでください』
「ですが、何も書かなければ提案を作れません」
『現在も変わっていない可能性が高いものと、確認が必要なものを分けてください』
「分ける?」
『すべてを確定するまで仕事を止める必要はありません。ですが、確定していないものを事実として扱ってもいけません』
高槻興産の資料でも、樹里が繰り返し確認していたことだった。
分かっていること。
推測できること。
まだ分からないこと。
それらを混ぜない。
「分かりました。書き直します」
『お願いします』
樹里は、それ以上説明しなかった。
川原が、どこまで理解したのか。
何に迷ったのか。
初めて提案書を作ったことを、どう感じたのか。
そうしたことを聞こうとはしない。
修正するべき場所を伝えると、自分の席へ戻った。
陽菜は山本の横で、電話の内容を一緒に振り返っている。
樹里は川原へ課題を渡し、間違いを指摘し、次の仕事へ戻る。
同じ教育担当でも、向き合い方はまるで違った。
「川原さん」
柚希が声をかける。
「このあと、休憩に行きませんか」
「まだ、修正が終わっていなくて」
「締め切りはいつですか」
「今日中です」
「なら、少しくらい大丈夫ですよ。ずっと画面を見ていると、余計に分からなくなります」
川原は時計を見る。
昼休みに入ってから、すでに10分ほど経っていた。
「分かりました」
川原は作りかけの資料を保存し、席を立った。
休憩スペースには凛もいた。
3人で同じテーブルを囲む。
「営業部には慣れました?」
凛が尋ねる。
「仕事の流れは、少しずつ」
「日高先輩の指導は?」
川原は、すぐに答えなかった。
食事の蓋を開けながら、言葉を選ぶ。
「指示は、はっきりしています」
「そうですよね」
「何を直せばいいのかも分かります。間違ったことを言われたとは思いません」
「でも?」
柚希が、川原の言葉の続きを拾った。
「……私のことを見ているのかは、まだ分かりません」
凛と柚希が顔を見合わせる。
「どういう意味ですか」
「提出したものは見てくれます。でも、それだけというか」
川原は、箸を持ったまま視線を落とす。
「できているのか、期待されているのか。次に何をできるようになればいいのか。そういうことは、あまり言われません」
「日高先輩は、言葉が少ない人ですから」
「分かっています」
「冷たいように見えますけど、ちゃんと考えてくれていると思います」
柚希の言葉に、川原は曖昧に笑った。
「柚希さんは、日高先輩と長いんですか」
「長いというほどではないです。でも、助けてもらったことがあります」
「私もです」
凛が続ける。
「日高先輩は、何も考えていない人ではありません」
「そうなんですね」
川原は答えた。
疑っているわけではない。
凛と柚希が嘘をついているとも思わない。
だが、2人は樹里との間に、すでに積み重ねた時間がある。
川原には、それがない。
人から優しいと聞かされても、自分へ向けられたものが見えなければ信じられない。
「山本くんは、楽しそうですね」
川原が言う。
「陽菜さんのこと、ずっと見ていますからね」
凛の返事に、柚希が少し困ったように笑う。
「仕事を見ているんだと思うけど」
「それだけでしょうか」
凛は、陽菜の席へ視線を向けた。
山本は自分の昼食を机に置いたまま、陽菜から何かを教わっている。
距離は近い。
山本の顔には、先輩から仕事を学ぶ緊張だけではないものが見え始めていた。
「本人も、まだ分かっていないと思います」
凛は、それ以上踏み込まなかった。
午後。
陽菜は山本を連れ、顧客への書類を届けに出ることになった。
『陸、準備できた?』
「はい」
『持ち物は』
「提出する書類、先方からいただく確認書、名刺、筆記用具です」
『場所は?』
「確認しました」
『先方の担当者は?』
「高橋さんです」
『よし。行こう』
山本は鞄を持ち、陽菜のあとに続く。
営業部を出る直前、中井が声をかけた。
「陽菜さん」
『何?』
「先方からいただく確認書ですが、こちらの欄にも記入が必要です」
中井が書類の一箇所を示す。
『本当だ。ありがとう』
「いえ」
『陸、今のところも覚えといて』
「はい。中井先輩、ありがとうございます」
「気をつけて行ってきてください」
中井は陽菜へ向け、自然に笑う。
陽菜も同じように笑い返した。
『行ってきます』
「いってらっしゃい」
山本は、二人の間で交わされた声を聞いていた。
仕事上の確認。
それだけだった。
肩が触れたわけでもない。
特別な言葉を使ったわけでもない。
それでも、陽菜が中井へ向ける笑顔は、自分へ向けられるものとは少し違って見えた。
自分には、教育担当として笑いかけている。
中井には、もっと自然に。
笑おうとする前から、笑顔がそこにある。
「陸?」
陽菜が振り返る。
『行くよ』
「あ、はい」
山本は慌てて追いかけた。
胸の奥が、少しだけ狭くなる。
理由は、まだ自分でも分からなかった。
同じ頃。
樹里のもとへ、神谷が高槻興産の資料を持ってきた。
「日高さん。森山さんから、追加の連絡がありました」
『内容は』
「次回までに、管理体制を縮小する場合の優先順位を出してほしいそうです」
『分かりました。先日の区分を使えそうですね』
「はい。ただ、現在の契約内容だけでは判断できない箇所があります」
『関係部署へ確認します』
「お願いします。僕は、現在の費用を整理します」
神谷と樹里が、資料を机の間に広げる。
川原は、修正した提案書を持ったまま、その様子を見ていた。
提出したい。
だが、2人は高槻興産の話をしている。
声をかけていいのか分からない。
高槻興産は、会社にとって大きな案件だ。
自分が作った練習用の提案書とは、重要さが違う。
川原は少し待った。
神谷が自分の席へ戻る。
樹里は、すぐに電話をかけようとしている。
「日高先輩」
川原が声をかけた。
樹里の手が止まる。
『はい』
「先ほどの提案書を修正しました。今、よろしいでしょうか」
『見せてください』
樹里は電話を置き、川原から資料を受け取った。
急かす様子はない。
最初のページから、順に目を通す。
確認できている条件。
推測に基づくもの。
顧客へ改めて聞く必要があるもの。
川原は、それぞれを分けて記載していた。
『この書き方で問題ありません』
「ありがとうございます」
『こちらの条件は、なぜ確認が必要だと思いましたか』
「2か月前の面談では、顧客の勤務先が変わる可能性に触れています。現在も同じ場所へ通うとは限らないので、希望する地域そのものが変わっているかもしれません」
『そうですね』
樹里は、資料の端へ小さく印をつける。
『では次に、確認する順番を決めてください』
「順番ですか」
『すべてを一度に聞けば、相手の負担になります。提案を変える可能性が高いものから確認してください』
「分かりました」
『明日の午後までで構いません』
「今日中ではなくていいんですか」
『急いで雑になるより、考えてください』
樹里は資料を川原へ返す。
そのまま、関係部署へ電話をかけ始めた。
できていた。
問題ないと言われた。
それでも、川原の胸に残ったのは、次の課題だった。
山本なら、陽菜から「よかった」と言われる。
自分には「問題ありません」。
同じ意味なのかもしれない。
だが、同じようには聞こえなかった。
夕方。
陽菜と山本が外出から戻る。
『ただいま戻りました』
「ただいま戻りました!」
黒澤が顔を上げる。
「山本。1週間たっても声は変わらないな」
「すみません」
『元気でいいじゃん』
「櫻井さんが甘やかすからだ」
『今日はちゃんと仕事できてましたよ』
「ほう」
黒澤が山本を見る。
「何をした」
「書類をお渡しして、確認書を受け取りました」
「それだけか」
「先方が書かれている間、入口に別のお客様が来たので、担当の方へお伝えしました」
『あたしより先に気づいたんですよ』
陽菜が付け加える。
『前は、あたししか見てなかったのに』
「櫻井先輩、その言い方は」
『本当じゃん』
「そうですけど」
「少しは周りを見るようになったか」
黒澤が言う。
「はい」
「まだ1週間だ。できたつもりになるなよ」
「分かっています」
『でも、できたことはできたことでいいですよね』
「ああ。そこは否定してない」
山本は、嬉しそうに頭を下げた。
川原は、その声を聞きながら、自分の提案書を閉じた。
日高先輩からも、問題ないと言われた。
自分も、昨日より先へ進んでいる。
それなのに、山本の方が成長を認められているように感じる。
比較しても仕方がない。
分かっていても、目に入る。
配属から1週間。
山本の位置は、まだ陽菜の近くにあった。
川原の位置も、樹里から渡された資料の前から動いていない。
ただ、山本の手元には陽菜から書かれた短いメモが増えている。
川原の資料には、樹里がつけた小さな印と、次の課題だけが残っていく。
終業後。
山本と川原は、駅まで同じ道を歩いた。
「1週間、どうだった?」
山本が尋ねる。
「まだ分からない」
「日高先輩、やっぱり厳しい?」
「厳しいというより、淡々としてる」
「怒られた?」
「怒られてはいない。直すところを言われてるだけ」
「なら、いい先輩なんじゃない?」
「陸は楽しい?」
「うん」
山本の返事は早かった。
「櫻井先輩、すごいんだ。今日も僕より先に全部見てると思ったけど、1つだけ僕の方が早く気づけた」
「褒められた?」
「うん」
「そう」
川原は前を向く。
声に出した「そう」は、思ったより平らだった。
「川原は、日高先輩に褒められないの?」
「問題ない、とは言われた」
「それ、褒められてるんじゃない?」
「多分ね」
「多分?」
「日高先輩が何を考えてるか、まだ分からないから」
山本は、少し考える。
「櫻井先輩は、分かりやすいよ」
「知ってる」
「日高先輩も、慣れたら分かるんじゃない?」
「陸には言われたくない」
「何で?」
「自分の担当が分かりやすいからって、簡単に言わないで」
川原の声が、少しだけ強くなる。
山本が黙った。
「……ごめん」
「私も、ごめん。陸に言っても仕方ない」
川原は小さく息を吐く。
「指示は正確だし、できていないところも分かる。でも、それだけ」
「それだけ?」
「私を育てようと思ってるのか、高槻興産で忙しい間、適当に課題を渡してるだけなのか。分からない」
改札の前で、2人は立ち止まる。
山本は何も答えられなかった。
自分は陽菜から、次に何をするのかを毎日言葉でもらっている。
川原にも同じものがあると思っていた。
「明日は、聞いてみたら?」
「何を」
「期待されてるのか」
「そんなこと、聞けない」
「どうして」
「期待してないって分かったら、嫌だから」
川原は苦笑した。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
二人は別々の改札へ向かった。
翌朝。
川原が出社すると、自分の机に新しいファイルが置かれていた。
表紙には、付箋が1枚貼られている。
『昨日まとめた確認事項を使い、この案件の聞き取り項目を作成してください。急ぎません。金曜日まで』
樹里の字だった。
近くに本人はいない。
「日高先輩なら、神谷さんと会議室です」
柚希が教える。
「朝から高槻興産の確認みたいです」
「そうですか」
川原は席へ座り、ファイルを開いた。
昨日より、また少し難しい内容だった。
自分が何をできるようになったのか、樹里は言わない。
その代わり、次の課題だけが難しくなる。
それを期待と呼んでいいのか、川原には分からなかった。
午前の朝礼が終わる頃。
黒澤が、営業部全体へ声をかけた。
「明日の夜、川原さんと山本の歓迎会をやる」
山本の顔が明るくなる。
川原も驚いて顔を上げた。
「予定があるやつは、無理に出なくていい。俺は最初だけ顔を出す」
『そのあとは若い人だけで楽しめってことですか』
陽菜が尋ねる。
「俺がいると、お前が大人しくなるからな」
『なりませんよ』
「なら、なおさら帰る」
『二次会はRoseでいい?』
「もう決めてるのか」
『美園さんには、今から聞きます』
「店に迷惑はかけるなよ」
『大丈夫。あたしたち常連だから』
「常連が一番迷惑な場合もある」
『ひどい』
営業部に笑いが起きる。
山本と川原も、その中で笑った。
配属から1週間。
まだ、仕事のことしか知らない。
教育担当のことも、同じ部署の先輩たちのことも、見えているのは会社の中の顔だけだった。
明日の夜。
二人は初めて、仕事から離れた場所で先輩たちと向き合う。
そして川原は、自分には味がしないと思っていた教育担当を、まるで違う言葉で語る人間に出会うことになる。




