174話「二人の担当」
11月最初の月曜日。
島川不動産では、半年間の研修と部署ローテーションを終えた新入社員の正式配属が発表された。
営業部へ配属されたのは、2人。
川原萌。
山本陸。
以前の職場見学で、一度だけ営業部の仕事を経験している。
しかし今日からは、見学ではない。
営業部の一員として、自分の仕事に責任を持つことになる。
朝礼の時間。
黒澤の横に、川原と山本が並んで立っていた。
「本日付で、2人が営業部へ正式に配属された」
営業部の社員たちが、2人へ視線を向ける。
川原の表情は硬い。
山本は緊張を隠そうとしているが、背筋に力が入りすぎていた。
「山本」
「はい!」
「返事が大きすぎる」
「すみません!」
「それも大きい」
営業部に、小さな笑いが起きる。
山本の顔が赤くなった。
「元気があるのは悪くない。ただ、客の前では声の大きさも考えろ」
「はい」
今度の返事は、少しだけ小さくなった。
「川原さん」
「はい」
「緊張してるか」
「少しだけ」
「そのくらいでいい。緊張しない新人の方が、俺は怖い」
黒澤は2人の顔を順に見る。
「半年間、いろんな部署を回ってきたと思う。ここからは広く触る研修じゃない。営業として、1つずつ自分の仕事を持ってもらう」
「はい」
「はい」
「その前に、教育担当をつける」
山本の視線が、わずかに陽菜へ向いた。
職場見学の日から、山本は陽菜を意識していた。
誰より明るく、初対面の客にも自然に声をかける。
周囲から頼られ、人を巻き込みながら仕事を進める。
自分も、陽菜のような営業になりたい。
それが山本の中で、営業部を希望した理由の1つになっていた。
「山本の担当は、櫻井さん」
『はい』
陽菜が立ち上がる。
『陸、よろしくね』
「よろしくお願いします!」
「また声が戻ってるぞ」
「すみません」
『元気でいいじゃん』
「お前が甘やかすな」
『初日くらいいいでしょ』
「初日から甘やかしたら、明日も甘える」
『じゃあ今日の午後から厳しくする』
「午前中は甘やかすのかよ」
また笑いが起きる。
山本も、今度は緊張しながら笑った。
自分が望んでいた相手に教えてもらえる。
それだけで、胸の奥にあった不安が軽くなる。
「川原さんの担当は、日高さん」
川原が、わずかに目を見開いた。
樹里も黒澤を見る。
『私ですか』
「そうだ」
『高槻興産の件で、不在にする日も多くなります』
「分かってる」
『教育担当として、十分な時間を取れるとは限りません』
「一日中、隣に座ってることだけが教育じゃない」
『ですが』
「できないのか」
黒澤の声は、責めるものではなかった。
樹里が自分の仕事量を理由に、安易な返事をしないことも分かっている。
『……引き受けます』
「頼む」
川原は、樹里へ頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。日高さん」
『よろしくお願いします、川原さん』
短い挨拶だった。
陽菜は山本へ笑いかけ、早くも今日の予定について話している。
対して、樹里は川原へ笑顔を見せない。
歓迎していないわけではないのだろう。
もともと、あまり表情を変えない人だということは知っている。
それでも川原の胸に、最初の小さな不安が生まれた。
高槻興産という、大きな取引を担当している。
会社を空ける日も多いと、本人が言っていた。
そんな人が、自分の教育担当になった。
(本当に、教えてもらえるのかな)
朝礼が終わる。
陽菜はすぐに山本を連れ、営業部の中を歩き始めた。
『前にも説明したけど、今日からは自分の席があるからね。まず予定表の見方からやろうか』
「はい」
『その前に、陸の今日の目標を決めよ』
「目標ですか」
『何となく一日終わったら、何ができたか分かんないじゃん』
「では、電話を取ります」
『いきなり?』
「営業部の人間なら、電話に出られないといけないと思うので」
『いいね。でも、最初から全部答えようとしなくていいよ。会社名と名前と用件を聞いて、分からなかったら保留』
「はい」
『あと、あたしだけ見ない』
山本の顔が固まる。
職場見学の日に、樹里から指摘されたことだった。
『今日は、入口と電話と、周りの先輩を見る。あたしを見て覚えるのは、そのあとでいいよ』
「分かりました」
『よし。じゃあ、まず1本取ろう』
陽菜は山本の背中を軽く叩いた。
川原は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
自分にも、同じような説明があると思っていた。
だが、樹里は自分の机から3つのファイルを持ち上げ、川原へ差し出した。
『川原さん』
「はい」
『こちらを読んでください』
受け取ったファイルには、過去の営業記録が入っていた。
1件目は契約に至った案件。
2件目は、途中で顧客から断られた案件。
3件目は、一度断られたあと、別の提案によって契約へ繋がった案件だった。
「何を確認すればよろしいでしょうか」
『担当者が何を聞き、どの時点で提案を変えたのかを、案件ごとにまとめてください』
「提出は、いつまでですか」
『明日の午前中までにお願いします』
「分かりました」
『分からない言葉や資料があれば、先に調べてください。それでも分からなければ、質問してください』
「はい」
樹里はそれだけ伝え、自分の席へ戻ろうとした。
川原が呼び止める。
「あの、日高さん」
『はい』
「この3件を選んだ理由は、何でしょうか」
『まとめたあとで説明します』
「先に伺ってはいけませんか」
『理由を聞いてから読めば、その答えを探すだけになるので』
川原は、手元のファイルを見る。
「自分で違いを見つける、ということですか」
『はい』
「分かりました」
『お願いします』
樹里は席へ戻る。
冷たい言い方ではない。
無理な仕事を押しつけられたわけでもない。
期限も、確認する内容も示されている。
それでも、山本へ話しかけ続けている陽菜と比べると、自分だけ取り残されたように感じた。
川原は自分の席へ座り、最初のファイルを開く。
数分後。
神谷が樹里の席へ来た。
「日高さん、高槻興産へ向かう時間です」
『分かりました』
樹里は準備していた鞄を持ち上げた。
川原が顔を上げる。
配属されてから、まだ30分も経っていない。
『川原さん』
「はい」
『午後には戻る予定です。急ぎの質問があれば、社内チャットへ送ってください』
「分かりました」
『すぐに返せない場合もあります。そのときは、遠藤さんか早川さんへ確認をお願いします』
「はい」
凛と柚希が、川原へ小さく頭を下げる。
「私たちで分かることなら、聞いてください」
「遠慮しなくて大丈夫です」
「ありがとうございます」
『では、行ってきます』
樹里は神谷と営業部を出た。
川原の教育担当になった、その日の朝。
樹里は高槻興産へ向かった。
もちろん、それは前から決まっていた仕事だった。
川原の配属を軽く見ているからではない。
しかし、残された川原に、その違いは分からなかった。
隣の列では、電話が鳴った。
山本が反応する。
「はい、島川不動産営業部、山本がお受けいたします」
声が少し大きい。
陽菜が横から、手のひらを下へ向ける。
もう少し小さく。
山本は合図を見て声量を落とした。
「いつもお世話になっております。恐れ入りますが、もう一度、会社名を伺ってもよろしいでしょうか」
電話を終えると、陽菜がすぐに声をかける。
『ちゃんと聞き直せたじゃん』
「一度で聞き取れませんでした」
『聞こえたふりするよりいいよ。次は、相手の名前も復唱しよう』
「はい」
『1本目、お疲れさま』
山本は、嬉しそうにうなずいた。
川原は、その声を聞きながらファイルを読む。
1件目。
顧客は当初、駅から近い物件を希望していた。
担当者は条件に合う物件を複数提示している。
しかし、会話を重ねるうちに、顧客が本当に気にしていたのは駅までの距離ではなく、夜道の安全性だと分かった。
担当者は提案を変え、駅から少し離れていても、明るい大通りを通って帰れる物件を紹介した。
契約に至っている。
2件目。
顧客が希望した条件に合う物件を、そのまま提示している。
条件は満たしていた。
それでも、内見後に断られた。
記録には、顧客が迷っていた理由が十分に残されていない。
3件目。
顧客から予算を理由に一度断られている。
だが、担当者は値下げ交渉をするのではなく、毎月必要となる費用全体を整理し直した。
結果として、当初とは別の物件で契約に至っていた。
共通しているのは、顧客が最初に口にした条件だけで判断していないこと。
契約に至らなかった2件目だけ、言葉の奥にある理由を確認できていない。
川原は、ノートへ整理していく。
だが、途中で疑問が生まれた。
2件目の担当者は、本当に聞かなかったのか。
記録に残していないだけではないのか。
契約に至らなかったからといって、担当者の対応が悪かったとは限らない。
川原は社内チャットを開いた。
樹里へ質問を送ろうとして、指を止める。
今は高槻興産にいる。
急ぎの質問ではない。
すぐに返せない場合もあると、先に言われている。
「川原さん、何か分からないところがありますか」
柚希が声をかけた。
「この案件なんですが」
川原は2件目のファイルを開く。
「顧客が断った理由が、記録に残っていません。担当者が聞かなかったのか、それとも書かなかっただけなのか分からなくて」
柚希が記録を読む。
「これは、私だけでは判断できないですね」
「そうですよね」
「でも、担当者の名前が書いてあります。その方へ聞いてみますか」
「今も営業部にいらっしゃるんですか」
「はい。今日は外出していますけど、午後には戻ると思います」
「直接、聞いてもいいんでしょうか」
「教育用に日高先輩が選んだ資料なら、大丈夫だと思います」
柚希は、無責任に答えを決めなかった。
「心配なら、日高先輩へ確認だけ送ってみます?」
「そうします」
川原は樹里へ短いメッセージを送った。
「2件目の案件について、当時の担当者へ話を伺ってもよろしいでしょうか」
既読はつかない。
川原は、ほかの2件についてまとめる作業を続けた。
30分ほど経った頃、返信が届く。
『構いません。記録にない理由を、本人へ確認してください』
それだけだった。
質問の仕方も、確認すべき項目も書かれていない。
任されたのだと考えることもできる。
だが川原には、やはり距離を置かれているように感じられた。
昼前。
山本は陽菜と一緒に、近くの管理物件へ出ることになった。
『挨拶と共用部の確認だけだから、今日は見る方が中心ね』
「分かりました」
『メモは持った?』
「はい」
『スマートフォンじゃなくて、すぐ書けるもの』
「持っています」
『じゃあ行こう』
「いってきます!」
山本は営業部全体へ頭を下げ、陽菜のあとを追った。
川原は、その背中を見る。
同じ日に配属された。
同じ教育担当をつけられた。
それなのに、山本は早くも外へ出る。
自分は、過去の資料を読んでいるだけだった。
必要な仕事だとは思う。
営業記録から学べることもある。
しかし、これが教育なのか。
樹里がいない間に、自分一人で時間を潰すための課題ではないのか。
そんな考えが、少しずつ胸の中へ積もっていく。
午後。
2件目を担当した社員が戻ってきた。
川原は声をかけ、当時のことを尋ねた。
「このお客様が断られた理由について、覚えていらっしゃいますか」
「覚えてるよ。条件は合っていたんだけど、内見の途中から反応が悪くなった」
「理由は確認されましたか」
「一応。でも、“少し考えます”としか言われなかった」
「そのあと、連絡は」
「2回した。返事はもらえなかった」
「記録には、そこまで残っていませんでした」
社員の表情が少しだけ変わる。
「そうだったか」
「はい」
「当時は、断られた理由が分からなくて、記録に何を書けばいいか迷ったんだと思う」
「分からなかったこと自体を、残すことはできなかったんでしょうか」
川原の質問に、社員は黙った。
責めるつもりはない。
だが、言葉だけを聞けば、過去の仕事を批判しているようにも聞こえる。
「すみません。失礼な聞き方でした」
「いや」
社員は首を横に振った。
「その通りだよ。理由が分からなかったなら、分からなかったと書くべきだった。そうすれば、次に連絡する人が別の聞き方を考えられたかもしれない」
「ありがとうございます」
「日高さんから、この資料を?」
「はい」
「厳しいものを選ばれたな」
「そうなんですか」
「成功した案件だけを読んでも、営業は分からないからね」
社員は苦笑した。
「自分の失敗が教材になるのは、少し恥ずかしいけど」
「失敗だと、日高さんはおっしゃっていません」
「そうか」
川原は、そこで初めて気づいた。
樹里は3つの案件について、どれが正解で、どれが失敗だとは言わなかった。
担当者が何を聞き、どの時点で提案を変えたのか。
確認するよう言われたのは、それだけだった。
契約になったかどうかだけで、仕事の良し悪しを決めるなということなのかもしれない。
だが、それも川原の推測だった。
樹里本人から説明されたわけではない。
午後4時を過ぎた頃、陽菜と山本が戻ってきた。
『ただいま戻りました』
「戻りました!」
「山本、声」
黒澤に言われ、山本が口を閉じる。
それでも表情は明るかった。
自分の席へ戻る前に、陽菜が声をかける。
『陸、今日見つけたもの、忘れないうちに書いて』
「はい」
『何があったかだけじゃなくて、どうして気になったのかもね』
「分かりました」
山本はすぐに報告書を書き始めた。
陽菜は隣から覗き込み、途中で何度か質問している。
答えを教えるのではなく、山本自身の言葉を引き出していた。
川原は、完成した自分の資料を見た。
3件分。
求められた項目はまとめてある。
当時の担当者から聞いた内容も加えた。
だが、樹里はまだ戻っていない。
終業時刻の少し前。
神谷と樹里が営業部へ戻ってきた。
「ただいま戻りました」
『ただいま戻りました』
神谷はすぐに黒澤へ報告へ向かう。
樹里が自分の席へ鞄を置く。
「日高さん」
川原は資料を持って立ち上がった。
『はい』
「ご指示いただいた3件をまとめました」
『見せてください』
樹里は資料を受け取り、その場で読み始めた。
川原は、目の前に立ったまま待っている。
樹里の表情は変わらない。
ページをめくり、書かれた内容を確認する。
『2件目の担当者には、聞けましたか』
「はい。断られた理由は、当時も分からなかったそうです。ただ、そのこと自体が記録に残されていませんでした」
『川原さんは、どう思いましたか』
「理由が分からなかったことも、残すべきだったと思います」
『なぜですか』
「次に対応する人が、同じ聞き方を繰り返さずに済むからです」
『そうですね』
樹里は、資料の一箇所を指した。
『ここですが、“聞き取りが不十分だった”と断定しています』
「はい」
『担当者は、確認しなかったと言いましたか』
「いいえ。一度は確認したそうです」
『では、断定しないでください』
「ですが、理由を聞き出せなかったことに変わりはありません」
『聞いても、相手が話してくれない場合はあります』
川原は黙った。
『営業が質問すれば、必ず本音を話してもらえるわけではありません。結果から過去の対応を決めつけないでください』
「……はい」
『ただし、分からなかったことを記録に残すべきだったという考えは、そのままでいいと思います』
「分かりました」
『この部分を修正して、明日もう一度提出してください』
「ほかに、何かありますか」
『今のところは、ありません』
川原は、思わず樹里を見る。
3件の資料を読み、担当者へ話を聞き、自分なりに考えた。
返ってきたのは、断定するなという修正。
できていた部分については、短く「そのままでいい」と言われただけだった。
「この3件を選んだ理由を、教えていただけますか」
『修正後に説明します』
「今日ではないんですか」
『まだ、川原さんの結論が完成していません』
樹里は、資料を川原へ返す。
『明日の午前中にお願いします』
「……分かりました」
川原は自分の席へ戻った。
胸の中にあった不満が、少しだけ大きくなる。
樹里は、完成したものしか見ようとしていない。
考えている途中で、何に迷ったのか。
担当者へ話を聞くとき、どれだけ緊張したのか。
そんなことには、関心がないように見えた。
山本の席では、陽菜が報告書を読み終えていた。
『最初より入口を見られてたね』
「はい。前回、日高さんに言われたので」
『あと、管理人さんが荷物を運んでたとき、手伝いに行ったのもよかった』
「仕事と関係ないかと思いました」
『関係あるよ。そこで働いてる人が困ってるのに、物件の壁だけ見ててもしょうがないじゃん』
「はい」
『明日は、電話を2本取ろう』
「頑張ります」
『頑張ろうね』
陽菜は、できたことも、次にすることも、言葉にして渡している。
川原は自分の資料を開いた。
修正するべき一文を見つめる。
教育担当が違う。
教え方も違う。
頭では分かっている。
それでも、同じ日に配属された山本と比べずにはいられなかった。
終業時刻を迎えても、樹里は高槻興産の資料を確認している。
神谷から何かを聞かれ、すぐにそちらへ向いた。
川原の方を見ることはない。
(やっぱり、忙しいんだ)
最初から分かっていた。
樹里自身も、十分な時間を取れないかもしれないと伝えている。
それでも黒澤に言われ、教育担当を引き受けた。
(私のことなんて、見てないんじゃないかな)
川原は、資料の一文を削除した。
代わりに、事実と自分の考えを分けて書き直す。
その作業をしている間にも、樹里は一度も声をかけなかった。
しかし、樹里の机の上には、高槻興産の資料とは別に、1枚の紙が置かれていた。
川原が3件の記録から拾った内容。
顧客が口にした条件。
その奥にあった本当の不安。
契約に至らなかったあと、記録に残されなかったもの。
樹里は、高槻興産へ向かう前に、川原へ渡す次の課題をすでに選んでいた。
川原が今日、どこまで辿り着くかによって、渡す内容を変えるつもりだった。
けれど、そのことを本人へ伝えてはいない。
見ていることを、言葉にしていない。
樹里は、任せることと伝えないことの違いを、まだ理解していなかった。
川原もまた、言葉のない場所にある意図を、信じられるほど樹里を知らなかった。
2人の間に生まれた小さな距離は、どちらか一方だけの間違いではない。
樹里は見ている。
川原には、見られていないようにしか感じられない。
そのすれ違いを抱えたまま、教育担当としての最初の一日が終わった。




