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173話「待つだけではなく」

金曜日の夜。


 Roseは、開店直後から客足が途切れなかった。


 カウンターはほぼ埋まり、奥の席にも3人組の客がいる。


 美園は注文を受け、酒を作り、客の会話へ適度に相槌を打つ。


 誰かが静かに飲みたい夜には、無理に話しかけない。


 話を聞いてほしい客がいれば、グラスを磨きながら耳を傾ける。


 同じ客であっても、その日に求めている距離は違う。


 美園は、それを言葉にされるより先に読み取っていた。


 午後9時を過ぎた頃、店の扉が開く。


『いらっしゃい』


 反射的に向けた笑顔が、わずかに変わる。


「こんばんは」


 佐藤だった。


『今日は来るって言ってたっけ』


「言っていません。迷惑でしたか」


『そんなことないよ。座って』


 美園は、カウンターの端を示した。


 店の中では、佐藤も客の一人だった。


 恋人だからといって、ほかの客を差し置いて構うことはできない。


 佐藤も、それを理解している。


「いつものをお願いします」


『はい』


 美園は酒を作り、佐藤の前へ置いた。


『今日は忙しいから、あまり話せないかもしれない』


「大丈夫です。仕事をしている美園さんを見に来たので」


『何それ』


「本当です」


『見ても面白くないよ』


「僕は楽しいです」


 美園は困ったように笑い、別の客に呼ばれて離れていった。


 佐藤は一人でグラスを傾ける。


 美園は忙しい。


 それでも、誰かの注文を聞きながら、一度だけ佐藤のグラスへ目を向ける。


 まだ残っている。


 追加は必要ない。


 その確認だけをして、すぐに目の前の客へ戻る。


 佐藤には、それで十分だった。


 以前の自分なら、声をかけてもらえない時間を不安に思ったかもしれない。


 美園は自分を客としか見ていないのではないか。


 好意を向けられても、年下の男を可愛がっているだけではないか。


 そんなことばかりを考えていた。


 今も、不安がなくなったわけではない。


 それでも、花火の夜に気持ちを伝え、恋人になった。


 閉店後の店で体を重ねた。


 美園が誰にも見せない顔も知った。


 だからといって、店で働く彼女を自分だけのものにできるわけではない。


 できなくていい。


 客に笑いかける美園も、佐藤が好きになった人だった。


「ママ、これ見てよ」


 カウンターの中央に座っていた常連客が、スマートフォンを差し出した。


『何?』


「孫。先週生まれたんだ」


 画面には、毛布に包まれた小さな赤ん坊が写っていた。


 隣の客も身を乗り出す。


「可愛いな。女の子?」


「そう。娘に似て美人になるぞ」


『生まれたばっかりで、もう美人かどうか分かるの?』


「分かる。俺の孫だからな」


『それなら、もう少し心配した方がいいんじゃない?』


「どういう意味だよ」


 店内に笑いが起きる。


 美園も笑いながら、スマートフォンの画面をもう一度見る。


『可愛いね。名前は?』


「琴音。娘夫婦がずっと考えてたらしい」


『そっか。いい名前』


「今度、昼間に連れてくるって言ってる。ママも抱いてやってよ」


『泣かせても知らないよ』


「ママなら大丈夫だろ。こういう店やってる女は、面倒見がいいから」


『偏見だよ、それ』


「ママも、そのうち自分の子どもを抱けば分かる」


 常連客は、何気なく言った。


 悪意はない。


 美園の年齢も、過去も、何も知らない。


 酒の席で交わされる、ありふれた言葉だった。


 美園の笑顔は崩れなかった。


『私は、この店の大きな子どもたちだけで手一杯』


「誰が子どもだ」


『酔ったら自分で帰れない人は、だいたい子どもでしょ』


「今夜はまだ酔ってない」


『“まだ”って言ってる時点で、帰りが怪しいんだよ』


 再び笑いが起きる。


 美園はスマートフォンを客へ返し、空いたグラスを下げた。


 新しい酒を作る。


 手つきはいつもと変わらない。


 ただ、氷を入れるトングが、グラスの手前で一度だけ止まった。


 ほんの一瞬。


 誰も気づかないほど短い間だった。


 佐藤は、その動きを見ていた。


 だが、何も聞かなかった。


 今、客の前で尋ねることではない。


 閉店後であっても、美園が話そうとしていないことを、無理に聞き出すべきではない。


 佐藤は黙って、自分のグラスへ口をつけた。


 午前0時を過ぎると、客は少しずつ帰っていった。


「ママ、ごちそうさま」


『うん。気をつけて帰ってね』


「佐藤くん、まだいるのか」


「はい」


「若いなあ。俺はもう眠い」


『年齢じゃなくて、飲みすぎ』


「ママが作るからだろ」


『頼んだのはそっちでしょ』


 最後の常連客を見送り、美園が扉の鍵を閉める。


 店内には、美園と佐藤だけが残った。


『お待たせ』


「お疲れさまでした」


『ずっと一人で退屈だったでしょ』


「そんなことはありません」


『本当に?』


「はい。美園さんが仕事をしているところ、好きです」


『店で口説かないで』


「もう閉店しています」


『そういう問題?』


 美園は笑いながら、カウンターに残ったグラスを集め始める。


 佐藤も席を立った。


「何をすればいいですか」


『何が?』


「片づけです」


『いいよ。座ってて』


「もう客じゃありません」


『閉店しても、店に来た人は客だよ』


「では、帰ります」


 佐藤が鞄へ手を伸ばす。


 美園の動きが止まった。


『帰るの?』


「片づけが終わるまで、まだ時間がかかりますよね」


『かかるけど』


「手伝ってはいけないなら、邪魔になるので帰ります」


『ちょっと待って』


 美園が、佐藤の袖を掴んだ。


 佐藤は鞄から手を離す。


「帰ってほしくないですか」


『そういう言い方、ずるくない?』


「美園さんが、座っていてと言うので」


『それは、佐藤くんに片づけさせるのが悪いから』


「僕は手伝いたいです」


『どうして』


「早く終われば、そのあと美園さんと話せます」


 佐藤は真っすぐ答えた。


「ただ待っているより、一緒に終わらせたいです」


 美園は、佐藤の袖を掴んだまま黙っていた。


 やがて手を離し、店の奥を指す。


『じゃあ、そこの椅子を上げてくれる?』


「はい」


『床に傷つけないようにね』


「気をつけます」


『あと、その前に上着は脱いだ方がいいよ』


「分かりました」


『グラスは触らないで。割られたら困るから』


「信用がありませんね」


『グラスは高いの』


「僕より?」


『比べるものじゃないでしょ』


 佐藤は上着を脱ぎ、店の隅へ丁寧に畳んで置いた。


 椅子を1脚ずつ持ち上げ、テーブルの上へ載せていく。


 美園はグラスを洗い、カウンターを拭く。


 同じ店にいる。


 しかし、客とママとして向き合っていたときとは、立つ場所が違った。


「美園さん」


『何?』


「この椅子も上げますか」


『それはいい。脚が少し不安定だから、端へ寄せるだけで』


「分かりました」


『そこまで丁寧にやらなくても大丈夫だよ』


「傷をつけたら困るので」


『真面目だね』


「美園さんに言われたくありません」


『私、そんなに真面目に見える?』


「見えます」


 佐藤は椅子を端へ寄せる。


「見せないようにしているだけで」


 美園の手が止まる。


『今日は、ずいぶん言うね』


「何か、間違っていますか」


『間違ってないから困ってる』


 洗い終えたグラスを、柔らかな布で拭く。


 佐藤は椅子を片づけ終えると、床へ落ちていた紙片を拾った。


 灰皿を集めようとして、美園に止められる。


『それは私がやる』


「僕でもできます」


『匂いがつくよ』


「美園さんには、毎日ついている匂いですよね」


 佐藤は灰皿を持ち上げる。


「美園さんだけが触るものだとは思いません」


『……そう』


「捨てる場所は、どこですか」


『奥。右側の蓋がついた容器』


 佐藤が店の奥へ向かう。


 その背中を、美園は静かに見ていた。


 優しくされることには慣れていない。


 店へ来て、酒を飲み、閉店まで待ってくれる。


 それだけでも十分だと思っていた。


 それ以上を求めてはいけないとも思っていた。


 だが、佐藤は待つだけではなかった。


 美園の仕事が終わるまでの時間さえ、自分から彼女の側へ入ろうとしている。


 手伝いと呼ぶには小さなことだった。


 椅子を上げる。


 灰皿を片づける。


 床に落ちたものを拾う。


 それでも、美園が一人で終わらせるはずだった夜を、二人の時間に変えていた。


 片づけは、普段より早く終わった。


 美園はカウンターの外へ出る。


『ありがとう。助かった』


「次からも手伝います」


『次も閉店までいるつもり?』


「迷惑ですか」


『そうじゃないけど』


「では、います」


『明日も仕事でしょ』


「毎日は無理です。でも、来られる日は来ます」


『無理しなくていいよ』


「また、それですか」


『何が?』


「無理しなくていい。待たなくていい。来なくてもいい」


 佐藤は、美園の前へ立った。


「美園さんは、僕に何かしてほしいとは言いませんね」


『だって、佐藤くんにも都合があるでしょ』


「あります」


『なら』


「都合があるから、自分で決めます」


 佐藤の言葉は穏やかだった。


 だが、美園の逃げ道を残していない。


「来られない日は来ません。疲れている日は帰ります。明日の仕事に支障が出るようなこともしません」


『うん』


「それでも来たい日は、来ます」


『うん』


「美園さんに会いたいので」


 美園は、視線を少し外した。


『そういうこと、普通に言えるようになったね』


「美園さんが、言わなさすぎるんです」


『私?』


「僕から誘えば、会ってくれます。僕が来れば、店にも入れてくれる。でも、美園さんから会いたいと言われたことは、ほとんどありません」


『そんなこと』


 否定しかけて、美園は言葉を止めた。


 思い返しても、佐藤の言う通りだった。


 佐藤から誘われる。


 断る理由がなければ受ける。


 店へ来れば酒を出す。


 閉店までいれば、少し話す。


 けれど、自分から求めたことは少ない。


 呼んだことがないわけではない。


 しかし、それも気持ちを伝えるためというより、関係を終わらせようとした夜だった。


「僕は、美園さんに頼られたいと言っているわけではありません」


『違うの?』


「頼ってもらえたら嬉しいです。でも、それより」


 佐藤は一度、息を吸った。


「会いたいと言われたいです」


 美園の目が、佐藤へ戻る。


「僕ばかりが会いたいのではないと、知りたいです」


『……付き合ってるんだから、分かるでしょ』


「分かっているつもりです」


『なら』


「でも、言葉でも聞きたいです」


 責めているわけではない。


 美園を疑っているわけでもない。


 佐藤はただ、自分の望んでいることを伝えていた。


「僕から言ってもいいなら、美園さんからも言ってください」


『面倒な男になったね』


「嫌ですか」


『嫌なら、とっくに帰してる』


「それも、今までの美園さんなら言わなかったと思います」


『成長したんじゃない?』


「僕がですか」


『私が』


 美園は、少しだけ笑った。


 だが、すぐに視線を落とす。


 自分から会いたいと言う。


 ただ、それだけのこと。


 佐藤なら喜ぶと分かっている。


 断られる可能性など、ほとんどない。


 それでも、口に出すには勇気が必要だった。


 誰かを必要とする言葉は、その人がいなくなったとき、自分を傷つける。


 ならば最初から求めない方がいい。


 会いたいと言わなければ、会えなくなっても自分の望みを奪われたことにはならない。


 美園は長い間、そうやって自分を守ってきた。


 佐藤は、黙って待っている。


 答えを急かさない。


 代わりに言ってやろうともしない。


『……来週』


 美園が口を開く。


「はい」


『来週の休み、空いてる?』


「空けます」


『今のは、空いてないって意味じゃない?』


「予定があっても調整します」


『無理しないって、今言ったばかりでしょ』


「では、確認してから返事をします」


『うん』


「美園さんは、何がしたいですか」


『まだ決めてない』


「店へ来ればいいですか」


 美園は首を横に振った。


『店じゃなくて』


「はい」


『外で会いたい』


 佐藤の表情が変わる。


 驚いたあと、隠しきれない喜びが浮かんだ。


『そんな顔しないでよ』


「嬉しいので」


『大げさ』


「初めて、美園さんから誘ってもらいました」


『そうだった?』


「忘れません」


『忘れていいよ』


「嫌です」


 佐藤は笑う。


 美園も困ったように笑った。


「僕も、会いたいです」


『うん』


「来週だけではなく、その次も」


『欲張りだね』


「恋人なので」


『そうだね』


 美園は、自分から佐藤へ一歩近づいた。


 胸元へ指をかけ、シャツを軽く引く。


 佐藤が身を屈める。


 重なった唇は、店で客へ見せる笑顔よりも静かだった。


 短く触れ、一度離れる。


 それでも美園の指は、佐藤のシャツを掴んだままだった。


「もう一度、してもいいですか」


『聞かなくても分かるでしょ』


「言葉で聞きたいです」


『仕返し?』


「少しだけ」


 美園は目を細める。


『して』


 今度は佐藤から、美園へ口づけた。


 先ほどより長く、互いの体温を確かめる。


 佐藤の手が美園の腰へ触れる。


 美園は拒まず、その胸へ体を預けた。


 店内には、2人以外誰もいない。


 グラスはすべて片づけられている。


 椅子も上げられ、照明も半分落としてある。


 このまま奥へ行くこともできた。


 だが、美園は佐藤の胸に額をつけたまま、静かに息を整えた。


『今日は、このまま帰ろうか』


「はい」


『残念じゃないの?』


「少しは」


『正直』


「でも、来週も会えます」


『そうだね』


「美園さんから誘ってもらったので」


『何回言うの』


「何回でも言います」


 美園は佐藤の胸を軽く叩いた。


『上着、着て。外は寒いよ』


「美園さんもです」


『私は慣れてる』


「風邪をひくことにですか」


『夜に』


「夜に慣れていても、寒さは同じです」


 佐藤は自分の上着を着たあと、美園がコートへ腕を通すのを待った。


 二人で店を出る。


 美園が扉へ鍵をかける。


 今までは、閉店後も一人で歩き始めることが多かった道。


 今夜は、佐藤が隣にいる。


「駅まで送ります」


『反対方向でしょ』


「途中まででも」


『明日も仕事』


「分かっています」


『無理しない』


「自分で決めます」


『覚えたね、その言葉』


「美園さんも覚えてください」


『何を?』


「会いたいときは、会いたいと言うことです」


 美園は答えず、佐藤の腕へ自分の腕を絡めた。


 言葉の代わりにしたつもりだった。


 だが、佐藤は立ち止まらない。


 急かさないまま、美園の答えを待っている。


『……また会いたい』


 夜道の中で、美園が言った。


 小さな声だった。


「はい」


『来週だけじゃなくて、その次も』


「はい」


『だから、ちゃんと帰って。仕事に遅れないで』


「分かりました」


 佐藤の返事は、どこまでも嬉しそうだった。


 美園は恥ずかしさを隠すように、絡めた腕へ少しだけ力を入れる。


 誰かを必要とすれば、その人を失ったときに傷つく。


 その怖さは、消えていない。


 未来を約束したわけでもない。


 家族の話をしたわけでもない。


 常連客が見せた赤ん坊の写真は、まだ胸の奥に残っている。


 それでも今夜、美園は初めて、佐藤が来るのを待つだけではなくなった。


 自分から、次の時間を求めた。


 店を閉めたあとの道に、美園の足音だけではなく、佐藤の足音も並んでいる。


 いつか片方が消えることを恐れて、最初から一人で歩く必要はない。


 そう信じるには、まだ時間がかかる。


 今はただ、隣にいる人へ、また会いたいと言えた。


 それだけで十分な夜だった。

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