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172話「見る場所」

その年の春に入社した社員たちは、半年ほどをかけて複数の部署を回っていた。


 営業部。


 総務部。


 物件管理部。


 経理部。


 短い期間で実務を経験し、本人の希望と各部署の評価を基に、正式な配属先が決まる。


 秋の配属発表を前に、営業部へ2人の社員が職場見学に来ることになった。


 川原萌

 山本陸


 どちらも営業部への配属を希望している。


「今日1日、通常業務を見てもらう」


 朝礼のあと、黒澤が営業部の社員へ説明した。


「見学とはいっても、座って見てるだけじゃ分からない。できる範囲で仕事にも入ってもらう」


 2人が並んで頭を下げる。


「川原萌です。よろしくお願いいたします」


「山本陸です。よろしくお願いします!」


 萌の声は少し硬い。


 陸は、緊張より期待の方が表情へ出ていた。


「櫻井さん」


『はい』


「今日は2人を見てやってくれ」


『あたしが?』


「不満か」


『全然。むしろ大歓迎』


 陽菜は立ち上がり、2人の前へ行く。


『櫻井陽菜です。分からないことは何でも聞いて。あたしで分からなかったら、分かる人を探すから』


「よろしくお願いします!」


 陸の返事が、先ほどよりも大きくなった。


 萌も、陽菜へ頭を下げる。


「よろしくお願いします」


『そんなに固くならなくていいよ。今日は見学なんだから』


「はい」


『失敗しても怒らないし』


 陽菜は一度、樹里を見る。


『あたし以外は怒るかもしれないけど』


『櫻井さん』


『ほら、もう怒った』


『余計なことを言うな』


 陸が声を押し殺して笑う。


 萌は、樹里を見た。


 感情の読みにくい顔。


 朝礼の間も、必要なこと以外は話していない。


 机の上には、高槻興産の資料が積まれている。


 陽菜と並んでいると、その違いが際立って見えた。


 明るく、初対面の相手にも声をかける陽菜。


 近寄りがたく、誰かを歓迎しているようには見えない樹里。


 萌は、すぐに視線を戻した。


 午前中、2人は陽菜と一緒に営業部の仕事を見て回った。


 顧客情報の扱い。


 電話の受け方。


 訪問前に確認する資料。


 営業部の中でも、それぞれの社員が異なる案件を持っていること。


 陽菜は説明の途中でも、電話が鳴ればすぐに反応する。


 来客があれば、話を止めて立ち上がる。


『営業って、話が上手い人の仕事だと思ってた?』


 陽菜が尋ねる。


「少し思っていました」


 萌が正直に答えた。


『もちろん、それも大事。でも、一番長いのは話してない時間かも』


「話していない時間?」


『調べたり、確認したり、相手が何を困ってるのか考えたり。話すのは、そのあと』


 陸が陽菜の横から顔を出す。


「櫻井さんは、話すの得意そうですね」


『得意だよ』


 陽菜は迷いなく答えた。


『でも、得意だから失敗することもある。喋りすぎたり、相手が考えてる途中で答えを出しちゃったりね』


「そうなんですか」


『そう。だから、黙ってる人もちゃんと見ないとダメ』


 陽菜は、少し離れた席にいる樹里を指した。


『日高先輩なんて、喋ってないときの方が仕事してるから』


『聞こえてるぞ』


『褒めてるって』


 陸は、また笑った。


 萌は笑わなかった。


 陽菜が樹里へ遠慮なく話しかけられることを、不思議に感じていた。


 見た目にも、性格にも、大きな違いがある。


 それなのに、陽菜は樹里を恐れていない。


 樹里も、追い払うように言いながら、本気で拒絶しているようには見えなかった。


 午前10時を過ぎた頃。


 陽菜は2人へ、来客用の資料を揃える仕事を任せた。


『同じものを5部。順番は、この見本どおり』


「はい!」


 陸が先に資料を手に取る。


 萌は見本と必要な枚数を確認し、コピー機へ向かった。


 凛と柚希も、別の資料を整理している。


「分からないことがあったら聞いてください」


 凛が声をかける。


「ありがとうございます」


 萌は頭を下げた。


 陸は、陽菜が電話で顧客と話している様子を見ていた。


 明るい声。


 相手が何かを話せば、すぐに表情が変わる。


 冗談を交えながらも、確認するべきことは聞き逃していない。


 電話を切ると、別の社員から声をかけられる。


 陽菜は歩きながら答え、そのまま別の机へ向かう。


「櫻井さん、すごいですね」


 陸が言った。


「まだ資料、終わってないですよ」


 萌が注意する。


「分かってる」


 そう答えながらも、陸の目は陽菜を追っていた。


 営業部で働く自分を想像すると、その中心には陽菜がいる。


 陽菜のように人と話し、陽菜のように周囲から頼られたい。


 その憧れが、陸の視線を1箇所へ集めていた。


 コピーを終えた萌は、資料を見本どおりに重ねる。


 5部。


 順番にも間違いはない。


 そのとき、営業部の入口に1人の女性が現れた。


 年配の女性だった。


 扉の近くで立ち止まり、室内を見ている。


 誰かと目を合わせようとしているようだが、受付の席は一時的に空いていた。


 萌は、その存在に気づいた。


 だが、自分は見学に来ているだけだ。


 勝手に声をかけていいのか分からない。


 誰を呼べばいいのかも知らない。


 女性と一度目が合う。


 萌は反射的に小さく頭を下げた。


 それだけで、動かなかった。


 陸は気づいていない。


 今も陽菜の方を見ている。


「いらっしゃいませ」


 先に立ち上がったのは、柚希だった。


 女性のもとへ近づき、用件を聞く。


「担当者のお名前は、お分かりになりますか」


「名前を忘れてしまって。以前、こちらで部屋を紹介してもらったんですけど」


「承知しました。お調べしますので、こちらへお掛けになってお待ちください」


 柚希は女性を来客用の席へ案内し、凛へ確認を頼んだ。


「凛ちゃん、以前の契約者の方みたい。検索をお願いしてもいい?」


「分かりました」


 2人の動きに迷いはなかった。


 萌は、手にしていた資料へ視線を落とした。


 気づいていた。


 それでも、動けなかった。


 陽菜が電話を終え、来客へ気づく。


『柚希ちゃん、ありがとう。あとはあたしが聞くよ』


「お願いします」


 柚希が陽菜へ引き継ぐ。


 陽菜は女性の隣へ腰を落とし、同じ高さから話を聞き始めた。


 陸は、その様子へ見入っていた。


『2人とも』


 樹里の声がした。


 萌と陸が振り返る。


 樹里は席に座ったまま、2人を見ていた。


『頼まれた資料は終わったのか』


「はい。できています」


 萌が答える。


『確認は』


「見本と照合しました」


『山本さんは』


「……まだ、自分では確認していません」


『なら、確認してください』


「はい」


 陸は資料を受け取り、見本と照らし合わせる。


 樹里の視線が、今度は営業部の入口へ向いた。


『先ほどのお客様に気づいていましたか』


 萌の心臓が跳ねる。


「はい」


『なぜ声をかけなかったんですか』


「私が勝手に対応していいのか、分からなかったので」


『対応できないなら、できる人を呼んでください』


「……はい」


『山本さんは』


「気づいていませんでした」


『なぜですか』


 陸は答えられなかった。


 陽菜を見ていたからだ。


 仕事のできる先輩の動きを学んでいた、と言えば聞こえはいい。


 だが、実際には1人だけを追い、周囲が見えていなかった。


『人を見る仕事で、見たい人だけ見ていても意味がありません』


 樹里の言葉は静かだった。


 怒鳴ってはいない。


 しかし、逃げられる隙もなかった。


「すみません」


『私に謝ることではありません』


 樹里は萌を見る。


『気づいたこと自体は悪くないです。次は、動いてください』


「はい」


『声をかけていいか迷ったら、近くの社員を呼ぶ。それなら、間違った案内をすることもありません』


「分かりました」


 萌は頭を下げた。


 樹里は、さらに何かを言うことなく仕事へ戻った。


 褒められた気はしない。


 気づいたことは悪くない。


 そう言われても、できなかった事実を指摘されたことの方が強く残る。


 陸も、先ほどまでの明るさを失っていた。


 しばらくして、来客対応を終えた陽菜が戻ってくる。


『2人とも、どうしたの』


「日高さんに、注意されました」


 萌が答えた。


『何を?』


「お客様に気づいたのに、動かなかったことです」


『そっか』


 陽菜は、すぐに慰めなかった。


『日高先輩の言ったこと、分かった?』


「はい」


『なら、大丈夫。次にできればいいよ』


「でも」


『今日できなかったことを知るための見学でしょ』


 陽菜は笑う。


『最初から全部できたら、あたしたちの立場ないじゃん』


 陸が、恐る恐る顔を上げる。


「櫻井さんも、最初はできなかったんですか」


『できなかったよ。今でも失敗するし』


「そうは見えません」


『見せないようにしてるからね』


 陽菜は悪びれずに答えた。


『でも、失敗したときに誰かのせいにしたら、次も同じことになる。萌さんはお客様に気づけた。陸くんは、気づけなかった。それなら、次に見る場所も違うでしょ』


 萌には、動く勇気が必要だった。


 陸には、視野を広げることが必要だった。


 同じ場面にいても、足りなかったものは違う。


『じゃあ、次の資料お願いしてもいい?』


「はい」


「お願いします!」


 陸の声に、少しだけ明るさが戻った。


 午後。


 再び営業部へ来客があった。


 今度は若い夫婦だった。


 扉が開いた瞬間、陸が先に気づく。


「いらっしゃいませ」


 立ち上がりかけ、動きを止める。


 自分だけで案内していいか分からない。


 陸はすぐに陽菜を見た。


『行っていいよ』


「はい」


 陸が入口へ向かう。


「本日は、どのようなご用件でしょうか」


「内見の予約をしているんですが」


「担当者のお名前はお分かりになりますか」


 先ほど柚希がしていた聞き方を思い出している。


 担当者を確認し、近くの席にいた社員へ声をかける。


 完璧ではない。


 声は少し上ずり、来客を座席へ案内することも忘れかけた。


 それでも、今度は入口で待たせなかった。


 萌は、夫婦のうち妻が何度も壁の時計を見ていることに気づいた。


 担当社員は電話中だった。


 待たせる時間が長くなれば、不安にさせる。


 萌は一度迷い、凛へ声をかける。


「遠藤さん」


「はい」


「あちらのお客様、時間を気にされているように見えます。予約の時刻を過ぎていませんか」


 凛が予約表を確認する。


「まだ過ぎていません。でも、担当者の電話が長引きそうですね」


「何か、お伝えした方がいいでしょうか」


「お願いします。担当者がまもなく伺うことだけ、お伝えしてください」


「はい」


 萌は夫婦のもとへ向かった。


「お待たせして申し訳ございません。担当者が別のお電話へ対応しております。まもなく伺いますので、もう少々お待ちいただけますか」


 妻の表情が、わずかに緩む。


「分かりました。予約を間違えたのかと思って」


「ご予約は、こちらで確認できています」


「ありがとうございます」


 萌は頭を下げ、元の場所へ戻った。


 樹里はパソコンへ向かったまま、そのやり取りを聞いていた。


『今のでいいです』


 萌が振り返る。


 樹里は萌を見ていない。


 それでも、その言葉が自分へ向けられたものだと分かった。


「……はい」


 短い返事をする。


 午前中ほど、樹里を冷たいとは感じなかった。


 優しいとも思わない。


 笑顔で緊張を解いてくれる陽菜とは、やはり違う。


 ただ、樹里は失敗だけを見ているわけではなかった。


 見ていないように見えて、できたことにも気づいている。


 その日の職場見学が終わる。


 黒澤の前で、萌と陸が頭を下げた。


「本日は、ありがとうございました」


「ありがとうございました!」


「営業部はどうだった」


「思っていたより、周りを見る必要がある仕事でした」


 陸が答える。


「誰を見てたんだ」


「最初は、櫻井さんだけを……」


 黒澤が陽菜を見る。


「余計なものを見せたな、櫻井さん」


『なんでですか。あたし、ちゃんと働いてましたよ』


「知ってる。だから目立つんだ」


『褒められてる?』


「半分はな」


『残り半分は?』


「調子に乗るなって意味だ」


『ひどい』


 黒澤は萌へ視線を移す。


「川原さんは」


「お客様の様子に気づいても、最初は動けませんでした」


「次は」


「近くの社員へ相談して、声をかけられました」


「そうか」


 黒澤は二人の報告を、それ以上飾らなかった。


「今日だけで、向いてるかどうかは分からない。正式な配属までは、ほかの部署もきちんと見ろ」


「はい」


「はい!」


「ただ」


 黒澤は営業部の席を見渡す。


「ここへ来ることになったら、今日のことは覚えておけ。営業は、自分だけ目立てばいい仕事じゃない」


 二人は、もう一度頭を下げた。


 その日の仕事を終えたあと。


 柚希と凛は、零が働くガソリンスタンドへ向かった。


「柚希ちゃん、私も一緒でよかったの?」


「もちろん。零ちゃんにも、凛ちゃんが来るって伝えてあるよ」


「でも、デートだったんじゃ」


「顔を見に行くだけ。零ちゃん、まだ勤務中だし」


 柚希はそう言ったものの、歩く速度がいつもより少し速い。


 凛は気づいていたが、何も言わなかった。


 ガソリンスタンドへ着くと、作業を終えた零が事務所の方から出てきた。


「柚希さん。凛さんも、お疲れさまっす」


「お疲れさま、零ちゃん」


「お疲れさまです」


 零の作業着には、わずかに油の匂いが残っている。


 髪も仕事の邪魔にならないよう、後ろで簡単にまとめていた。


 柚希は紙袋を差し出す。


「これ、差し入れ」


「ありがとうございます。でも、また買ってきてくれたんすか」


「今日は凛ちゃんと一緒だったから、3人分」


「それなら、休憩室で食べます?」


 零は店長へ声をかけ、短い休憩をもらった。


 3人で事務所の隅にある小さなテーブルを囲む。


「今日、営業部に配属希望の子が見学に来たの」


 柚希が話し始める。


「柚希さんが教えたんすか」


「少しだけ。ほとんどは陽菜さんだけど」


「柚希ちゃん、ちゃんと先輩してたよ」


 凛が言った。


「来客にも一番に気づいたし、案内も自然だった」


「凛ちゃんだって、予約をすぐに調べてくれたでしょ」


「私は、いつもの仕事をしただけ」


「それなら私も同じだよ」


 2人のやり取りを、零が静かに聞いている。


「2人とも、変わったっすね」


「そう?」


「自分が初めて会社へ行った頃は、2人とももっと遠慮してた気がするっす」


 柚希と凛が顔を見合わせる。


 自分たちでは、あまり意識していなかった。


「零ちゃんも変わったよ」


 柚希が言う。


「自分が?」


「うん。前より、表情が分かりやすくなった」


「それ、いいことなんすかね」


「いいことだよ」


「なら、いいっす」


 零は素直に受け取った。


 柚希の右手に、黒い汚れがついていることに気づく。


「柚希さん、手」


「え?」


「ここ、汚れてるっす」


 零はテーブルに置かれていたウェットティッシュを取り、柚希の指を軽く掴んだ。


 指先についた汚れを、丁寧に拭き取る。


 柚希の肩が、わずかに固まった。


「自分が触ったときについたかもしれないっす。すみません」


「ううん。大丈夫」


 零は何気なく手を離した。


 柚希だけが、拭かれた指を膝の上へ隠す。


 凛は、その様子を見ていた。


 見ていたが、何も言わなかった。


 代わりに紙袋から菓子を取り出す。


「零ちゃん。仕事は、あとどれくらい?」


「1時間くらいっす」


「じゃあ、私は先に帰ろうかな」


 柚希が凛を見る。


「一緒に帰らないの?」


「せっかくだから、柚希ちゃんは待っていけば?」


「でも」


「私は明日の準備があるから」


 凛は立ち上がった。


 柚希と零を2人にするためだけではない。


 本当に帰宅後に確認したい仕事がある。


 だが、少しだけ時間を選んだのも事実だった。


「凛さん」


 零が呼び止める。


「青柳さんとのデート、どうだったんすか」


 凛の動きが止まる。


「どうして知ってるの?」


「柚希さんから聞いたっす」


「柚希ちゃん」


「ごめん。楽しみだって話だけ」


「それなら……いいけど」


 零が興味深そうに凛を見る。


「青柳さん、家に来たんすよね」


「そこまで聞いてるじゃない」


「それ以上は聞いてないっす」


「何もなかったから」


 凛は、聞かれてもいないことを答えた。


 柚希と零が同時に黙る。


「……今のは忘れて」


「はい」


「了解っす」


 返事だけが妙に早い。


 凛は赤くなった顔を隠すように、鞄を持った。


「お先に失礼します」


「気をつけてね、凛ちゃん」


「お疲れさまっす」


 凛が事務所を出ていく。


 残された柚希と零の間に、短い沈黙が落ちた。


「柚希さん」


「何?」


「待っててくれるんすか」


「迷惑じゃなければ」


「迷惑なわけないっす」


 零は答える。


「でも、あと1時間ありますよ」


「本を持ってきてるから平気」


「最初から待つつもりだったんすか」


 柚希は鞄から文庫本を出す。


「……少しだけ」


 零の表情が、分かりやすく緩んだ。


「すぐ終わらせてくるっす」


「急がなくていいよ」


「急いで雑にはしないっす。でも、早く終わらせます」


 零は立ち上がり、仕事へ戻っていく。


 柚希は小さなテーブルに残り、本を開いた。


 まだ同じ家へ帰るわけではない。


 毎日会えるわけでもない。


 恋人になったからといって、生活が急に1つになるわけではなかった。


 それでも、相手の仕事が終わるのを待つ時間は、もう以前とは違う。


 凛は、遠くから来る青柳を自分の部屋へ迎えた。


 柚希は、零が仕事を終える場所に残った。


 会える場所も、使える時間も、それぞれ違う。


 だからこそ、自分たちで相手のいる場所へ近づいていく。


 営業部ではその日、萌と陸が人を見る仕事を知った。


 誰か1人だけではなく、入口にいる人も。


 言葉にできずに困っている人も。


 自分を待っている人も。


 見る場所を変えれば、今まで見えなかったものが見える。


 それは、仕事だけの話ではなかった。

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