171話「誰の仕事が先か」
彩花が総務部の検討会へ参加したのは、高槻興産への3回目の訪問から2日後だった。
会議室には、彩花を含めて7人が集まっている。
総務部。
経理部。
人事部。
物件管理部。
そして営業部。
普段の業務では顔を合わせることの少ない社員たちだった。
机の中央には、先日の交通機関の乱れについてまとめた資料が置かれている。
総務部長が会議の目的を説明した。
「先日の対応では、大きな問題は起きませんでした。しかし、各部署が個別に判断した結果、同じ社員へ複数の依頼が集中した事例もありました」
資料には、当日の連絡と対応が時系列で並んでいる。
営業部では、彩花が予定を組み直した。
だが、その裏で総務部は社用車の調整を行い、人事部は社員の出勤状況を確認していた。
経理部では、取引先への支払い手続きに必要な社員が出社できず、承認が遅れかけた。
物件管理部では、設備の不具合が発生したものの、担当者が途中駅で足止めされていた。
どの部署も、自分たちの中では対応している。
しかし、会社全体で見ると、誰がどこで何をしているのかが共有されていなかった。
「昨日と同じ規模であれば、今回の対応でも乗り切れると思います。ただ、影響がさらに広い場合、部署ごとの判断だけでは難しい。そこで、最低限の共通手順を決めたいと考えています」
総務部長が、参加者を見渡す。
「まず、各部署で何を優先したのか教えてください」
営業部を代表する彩花から、説明することになった。
「営業部では、予定を3つに分けました。担当者本人でなければ対応できないもの、別の社員でも対応できるもの、日時を変更できるものです」
「何を最優先にしましたか」
「顧客と時間を約束している予定です」
彩花は迷わず答えた。
「すでに現地へ向かっているお客様もいます。こちらの事情だけで、直前に中止することはできません」
経理部の社員が手を上げる。
「ですが、支払いの期限も変更できません」
「社内で代わりに承認できる人はいないんですか」
「金額によって権限が異なります。誰でも代われるわけではありません」
「それは営業部も同じです。契約内容を知らない社員を、簡単に顧客の前へ出すことはできません」
彩花の返答が少しだけ速くなる。
経理部の社員も引かなかった。
「支払いが遅れれば、取引先全体へ影響します。目の前にいるお客様だけが優先ではありません」
「目の前の顧客だけを考えているわけではありません」
「では、営業の予定と支払い期限が重なった場合、どちらを優先しますか」
「それは」
彩花の言葉が止まる。
営業部の中だけであれば、顧客との約束を優先する。
それで問題はなかった。
しかし、会社から支払いが行われなければ、別の取引先へ迷惑がかかる。
金額や内容によっては、会社の信用そのものに関わる。
物件管理部の社員も口を開く。
「設備の不具合も、後回しにはできません。水漏れや停電であれば、入居者の生活に直接影響します」
「人事部としては、社員の安全確認が先です」
人事部の社員が続ける。
「動ける社員を探す前に、出社できていない社員が安全な場所にいるのか確認する必要があります」
全員が正しいことを言っている。
顧客との約束。
支払いの期限。
入居者の生活。
社員の安全。
どれか1つだけを選ぶことはできない。
総務部長は結論を出さず、参加者の話を聞いていた。
「森下さん」
「はい」
「今の話を聞いて、どう思いますか」
彩花は資料へ視線を落とす。
「部署ごとに優先順位を決めても、会社全体では使えないと思います」
「では、どうしますか」
「業務の種類ではなく、遅れた場合に何が起きるかで分けます」
彩花は、机に置かれていた付箋を取った。
その場で、4つの項目を書く。
人命と安全。
法令と期限。
顧客、取引先との約束。
社内で調整可能な業務。
「最初に守るのは、社員や顧客の安全です。次に、法令や支払いの期限など、遅らせることのできないもの」
書いた付箋を、順番に並べていく。
「ただし、同じ顧客対応でも内容が違います。現地で待ち合わせている人がいる場合と、資料を送る予定だった場合を、同じ緊急度にはできません」
「支払いも同じですね」
経理部の社員が言った。
「今日中でなければならないものと、社内処理だけを今日行う予定だったものは分けられます」
「設備もです」
物件管理部の社員が続ける。
「水漏れと、共用部の電球交換では、同じ不具合でも優先度が違います」
彩花はうなずいた。
「各部署が仕事の名前だけを報告しても、総務部では優先順位を決められません。遅れた場合に起きることまで、一緒に伝える必要があります」
総務部長が、付箋を見る。
「緊急、という言葉だけでは足りないと」
「全部署が緊急と書けば、結局、声の大きいところから処理されます」
「営業部も、緊急と言って社用車を求めたのではありませんか」
「求めました」
彩花は否定しない。
「でも、総務部の予定を確認しました。営業部の仕事が最優先だから貸してほしいとは言っていません」
「確かに」
「必要なのは、どの部署が上かを決めることではありません。今ある人と物を、止められない仕事へ先に回すことだと思います」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
総務部長が付箋を手に取る。
「この4つを基に、もう少し細かく分けてみましょう」
そこから、会議の空気が変わった。
各部署が、自分たちの仕事を優先させるために話すのではない。
どこまでなら待てるのか。
何があれば、別の社員でも対応できるのか。
代わりを立てるには、どの情報を残しておく必要があるのか。
具体的な条件を出し合うようになった。
経理部からは、承認権限を持つ社員の一覧を平時から共有しておく案が出る。
物件管理部からは、設備の不具合を段階別に分ける案が出た。
人事部は、出社を求める前に安全確認を行う手順を整理する。
彩花も、営業部で使用している予定表について説明した。
「担当者しか分からない状態を減らす必要があります。ただし、顧客の情報を誰でも見られるようにはできません」
「必要な人だけが確認できる形にできますか」
「権限を分ければ可能だと思います。詳しい内容まで共有しなくても、代替可能かどうかだけ分かれば、混乱は減ります」
「その表示方法を、次回までに考えていただけますか」
「私がですか」
「営業部の予定を、最も理解しているのは森下さんですから」
総務部長の言葉に、彩花はすぐには返事をしなかった。
「営業部の許可を取ってからであれば」
「もちろんです」
「でしたら、検討します」
引き受けるとは言わない。
断りもしない。
自分の仕事量を確認し、黒澤へ相談してから決める。
以前の彩花であれば、その場でできると答えていたかもしれない。
日高よりも速く。
日高よりも役に立つ。
そう見せることを優先していた。
今は、自分が抱えればいいとは思わなかった。
会議は予定より20分長くなった。
それでも、最初に置かれていた白紙の手順案には、いくつもの項目が加わっていた。
終了後。
彩花が資料をまとめていると、経理部の社員が近づいてきた。
「先ほどは、言い方が強くなってしまい、すみませんでした」
「こちらもです」
「営業部は、顧客の予定しか見ていないと思っていました」
「私も、支払いは社内でどうにかできると思っていました」
「部署が違うと、分からないものですね」
「はい」
彩花は短く答えた。
相手と分かり合えたと感動するほどのことではない。
ただ、自分が知らなかったものを知った。
それだけで、次に同じ状況が起きたときの判断は変わる。
「次回も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
経理部の社員が会議室を出ていく。
最後に残った総務部長が、彩花へ声をかけた。
「参加していただいて、よかったです」
「最初は、まとまりそうにありませんでしたけど」
「まとまらないと分かったことも、成果です」
「それでは、手順になりません」
「ですから、まとめる人が必要になります」
総務部長の視線が、彩花へ向けられる。
「私に、それをやれと言っているんですか」
「今日は、自然とやっていましたね」
「自分の意見を言っただけです」
「森下さんが付箋を並べてから、全員が部署ではなく、仕事の中身について話すようになりました」
「偶然です」
「そうでしょうか」
彩花は答えなかった。
「森下さんは、意見の違う相手を黙らせるのではなく、比べられる形へ置き直しました」
「私は、そんなつもりでは」
「本人が意識しているかどうかと、できているかどうかは別です」
総務部長は、完成途中の手順案をファイルへ収めた。
「次回も参加していただけると助かります」
「営業部の仕事次第です」
「黒澤部長には、私からもお願いします」
「勝手に決めないでください」
「分かっています」
総務部長は、わずかに笑った。
「決めるのは、森下さんです」
営業部へ戻ったのは、昼休みが始まってからだった。
彩花が自分の席へ向かうと、陽菜がすぐに顔を上げる。
『おかえり、彩花さん』
「ただいま戻りました」
『総務部の仕事、どうだった?』
「まだ異動してない」
『でも、会議に出たんでしょ』
「検討会。仕事を変えたわけじゃない」
『似合ってた?』
「何が」
『ほかの部署の人を全員黙らせて、予定表を書き直すの』
「私を何だと思ってるの」
『仕切りたがり』
「櫻井さん」
『褒めてるって』
陽菜が笑う。
隣の凛が、申し訳なさそうに補足した。
「陽菜さん、彩花さんが戻るまでずっと気にしていたんです」
『凛ちゃん、それは言わなくていいじゃん』
「面白がっていただけでしょ」
『半分くらいは心配してたよ』
「残り半分は?」
『面白がってた』
「でしょうね」
彩花は自分の席へ鞄を置いた。
机の上には、昼までに確認する予定だった書類が揃えてある。
「これ、誰が?」
「日高先輩です」
凛が答えた。
「彩花さんが戻ったら、すぐ確認できるようにと」
彩花が樹里を見る。
樹里は神谷と、高槻興産の資料を確認している。
「余計なことを」
『でも助かったでしょ』
陽菜が言う。
「頼んでない」
『そういうとこ、2人ともそっくり』
「日高と一緒にしないで」
『声も同時だったら完璧だったのに』
「仕事に戻って」
『今、昼休みだよ』
陽菜は楽しそうに弁当を開いた。
『彩花さんもご飯行こうよ。会議で何があったか聞きたい』
「話すようなことはない」
『じゃあ、あたしが勝手に想像する』
「やめて」
『総務部長に、“君の力が必要だ”って見つめられた?』
「見つめられてない」
『“営業部だけに置いておくには惜しい”とか』
彩花の動きが止まる。
実際に近いことを言われている。
陽菜の目が光った。
『言われたんだ』
「言われてない」
『今の間は絶対言われてる』
「うるさい」
『彩花さん、照れてる?』
「怒ってるの」
陽菜は、さらに面白そうに笑った。
そこへ、樹里が書類を持って近づいてくる。
『彩花』
「何」
『午前中に届いた資料。確認が必要なところだけ印をつけてある』
「凛から聞いた」
『そうか』
「勝手に人の仕事を触らないで」
『遅れると思ったからだ』
「遅れない」
『なら、次からは置いておく』
「……そこまで言ってない」
樹里が彩花を見る。
『どっちだ』
「確認箇所だけ印をつけて。返事は私がする」
『分かった』
それで話は終わった。
樹里は自分の席へ戻る。
陽菜が二人を交互に見ている。
『やっぱり、そっくり』
「何が」
『自分の仕事を取られるのは嫌だけど、手伝われるのは助かるところ』
「一緒にしないで」
『今度は日高先輩と声を揃えて言ってみて』
「嫌」
『つまんない』
陽菜は頬を膨らませた。
中井が買ってきた飲み物を手に、営業部へ戻ってくる。
「陽菜さん、お待たせしました」
『ありがと、中井くん。ちょうどいいところに来た』
「何かありましたか」
『彩花さんが総務部に狙われてる』
「言い方」
彩花が睨む。
中井は困ったように二人を見る。
「異動されるんですか」
「しない。まだ何も決まってないから」
『まだ、だって』
「櫻井さん」
『分かった、分かった。もう言わない』
陽菜は笑いながら、中井から飲み物を受け取る。
そして、ふと彩花を見る目を柔らかくした。
『でも、彩花さんがどこにいても、頼られるのは変わらなさそう』
からかう声ではなかった。
彩花は少しだけ言葉に詰まる。
「……私は、まだ営業にいるから」
『うん。知ってる』
陽菜はそれ以上、話を広げなかった。
午後。
黒澤は、総務部から届いた正式な協力依頼を読んだ。
「次回も出てほしいそうだ」
「営業の予定と重ならなければ」
「こっちは調整する」
「私の顧客対応を、ほかの人へ渡すつもりですか」
「全部じゃない。検討会の時間だけだ」
「迷惑をかけたくありません」
「誰に」
「営業部にも、顧客にも」
「森下さん」
黒澤は椅子の背へ体を預けた。
「昨日、お前が仕事を振り分けたとき、迷惑をかけたと思ったか」
「それは、緊急時だったので」
「日高さんに任せた仕事は、失敗したか」
「していません」
「中井は?」
「問題ありませんでした」
「櫻井さんも佐藤も、任せた仕事を終わらせた」
「はい」
「なら、必要なときに渡すことは、迷惑じゃない」
彩花は何も言わない。
「自分がやった方が早い。それは、大体そのとおりだ」
黒澤は続ける。
「でも、お前にしかできない状態を増やせば、お前がいない日に全部止まる」
「引き継ぎはしています」
「予定表の見方も?」
「……それは」
「総務部の会議に出るなら、こっちの仕事も残せる形にしろ。それも含めて、お前の仕事だ」
命令ではない。
だが、参加するなら覚悟を持てと告げている。
「分かりました」
「出るのか」
「営業に支障を出さない条件で」
「総務部長に、そう返しておく」
「自分で返します」
「そうか」
黒澤は、満足そうに口元を緩めた。
「なら、頼む」
彩花は席へ戻り、次回の検討会へ出席すると返信した。
そのあと、自分が不在でも動かせるよう、担当している業務の一部を整理する。
顧客の詳しい情報ではない。
次の予定。
必要な書類。
自分が不在の場合、誰へ確認すればいいのか。
書き始めると、自分にしか分からない状態のものが思ったより多い。
彩花は、1つずつ言葉にしていった。
その日の終業後。
陽菜は帰り支度をしながら、まだ資料を確認している樹里と神谷を見る。
『2人とも、今日も高槻?』
「はい。次の条件について確認しています」
『大変だねえ』
陽菜が二人の机へ近づく。
『でもさ、最近ちょっと雰囲気変わったよね』
『何が』
『前より、ちゃんと話し合ってる』
「以前も話していましたよ」
『そうじゃなくて。前は神谷さんが日高先輩に合わせてばっかりだったじゃん』
神谷が返事に困る。
樹里は陽菜を見た。
『櫻井さん、帰るんじゃないのか』
『今帰るところ』
『なら、帰れ』
『あ、追い払った。図星?』
『違う』
『この前は意見も割れたんでしょ』
樹里の目が細くなる。
『なぜ知ってる』
『彩花さんが聞こえたって』
「櫻井さん、私は言ってない」
彩花が離れた席から訂正する。
『え、違った?』
「あなたが勝手に、あの2人の空気が堅いって言ってたの」
『でも、合ってたじゃん』
「知りません」
陽菜は樹里と神谷へ向き直る。
『それで、喧嘩したの?』
「喧嘩ではありません」
『日高先輩、神谷さんに怒った?』
『怒ってない』
『神谷さんは?』
「怒っていません」
『つまんない』
「何を期待しているんですか」
『仕事の方針で言い合いになって、そのまま2人とも熱くなって、最後に“じゃあ、どっちが正しいか朝まで確かめましょう”みたいな』
『帰れ』
樹里の声が低くなる。
陽菜が笑いながら、中井の後ろへ隠れた。
『中井くん、日高先輩が怖い』
「今のは陽菜さんが悪いです」
『彼氏まで敵だった』
中井は苦笑しながら、陽菜の鞄を持つ。
「帰りましょう」
『はーい。日高先輩、神谷さん、夜はほどほどにね』
『何がだ』
『仕事が』
一拍置いて付け足したことで、余計に別の意味が残る。
樹里が席を立つ前に、陽菜は中井を連れて営業部から逃げていった。
静かになった室内で、神谷が資料へ視線を落とす。
「……続けましょうか」
『はい』
二人とも、しばらく相手を見なかった。
その近くで、彩花は自分の業務を引き継ぐための一覧を作っている。
誰かへ渡す。
誰かに任せる。
自分がいなくても動く形を作る。
それは、自分の価値を減らすことではない。
むしろ、自分にしかできないことへ時間を使うために必要な仕事だった。
同じ営業部で、神谷はまだ、自分の仕事を1つも手放していない。
彩花は、自分の知らない仕事を見るために、少しずつ手を開こうとしている。
その違いは、今はまだ小さい。
けれど、働き方を変える最初の一歩は、何かを新しく引き受けることではなかった。
自分が握っているものを、誰かへ渡しても大丈夫だと知ることだった。




