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170話「先に見るもの」

高槻興産から新たな条件が届いたのは、3回目の訪問を翌日に控えた午後だった。


 送られてきた資料を、神谷と樹里が会議室の机へ並べる。


 前回、二人が提出した3つの対応案。


 高槻興産は、その中から神谷が第一案として示したものを軸に、検討を進めていた。


 すべての工程を同時に動かさない。


 条件変更の影響を受けない部分だけを先行させ、後戻りのできない部分は確定まで待つ。


 その骨組み自体は否定されていない。


 しかし、森山と緒方から追加された条件によって、別の問題が生まれていた。


「来期の稼働率ですか」


 神谷が、資料の一箇所を指す。


『はい。これを前提に含めるよう求められています』


「現在の更新案とは、分けて考えた方がいいと思います」


『私は、先に確認すべきだと思います』


 神谷が顔を上げる。


 二人の意見が、初めて分かれた。


 神谷は、今回求められた更新案を先にまとめたいと考えていた。


 高槻興産から明確に出されている要望へ、まず回答する。


 稼働率については、その次に必要となる資料として別に提示する。


 一方、樹里は、稼働率の見通しを確認しないまま更新案を確定させることに反対していた。


 今後の利用状況が変われば、必要な管理体制も、負担できる費用も変わる。


 前提が定まっていない状態で更新案だけを先に進めれば、あとから再度組み直すことになる。


「高槻興産から求められたのは、更新案の具体化です」


『分かっています』


「そこへ別の要素まで入れると、回答が遅れます」


『ですが、来期の稼働率によって費用の見方が変わります』


「予測値です。確定した数字ではありません」


『確定していないからこそ、幅を持たせる必要があります』


「それを待っていたら、いつまで経っても案を決められません」


『待つとは言っていません』


「では、どうするんですか」


 神谷の口調が、少しだけ強くなる。


 怒っているわけではない。


 相手に求められた仕事を、期限どおりに返したい。


 その思いが声に出ていた。


 樹里も、声を荒らげない。


『更新案を出す前に、稼働率が想定を下回った場合、どこまでなら同じ条件を維持できるのかを確認します』


「その確認には、関係部署の回答が必要です」


『はい』


「明日の訪問には間に合いません」


『ですから、明日は確定案として出すべきではないと言っています』


「前回、次は詰めたものを持ってこいと言われました」


『詰めることと、決めたように見せることは違います』


 会議室に沈黙が落ちる。


 神谷は資料へ視線を戻した。


 樹里の言っていることは分かる。


 数字の前提が変われば、計画も変わる。


 だが、高槻から宿題を出されるたびに、確認が足りないという理由で結論を先送りしていれば、決断できない担当者だと思われる。


「日高さんは、何を最優先に考えていますか」


『あとから守れなくなる約束をしないことです』


「僕は、先方から求められた時期に答えを出すことです」


『どちらも必要です』


「そうですね」


 どちらかが間違っているなら、話は簡単だった。


 間違っている方を直せばいい。


 しかし、今回は違う。


 期限を守ることも必要。


 根拠の不十分な約束をしないことも必要。


 片方を優先すれば、もう片方が損なわれる。


 神谷は資料の余白へ、2つの言葉を書いた。


 期限。


 確実性。


 その間に、線を引く。


「明日は、更新案の本筋を説明します」


 神谷が言った。


『はい』


「ただし、確定案とは言いません。現時点での推奨案として出します」


 樹里は神谷の言葉を待つ。


「稼働率が想定の範囲内なら、この案で進められる。下回る場合は、費用と管理体制を再調整する。その境目になる数字だけ、今日中に出せませんか」


『上限と下限を置くということですか』


「はい。正確な予測値を待つのではなく、この範囲なら維持できるという数字を先に示します」


『その数字なら、関係部署への確認を絞れます』


「明日の朝までに間に合いますか」


『今すぐ依頼すれば』


「では、お願いします」


『神谷さん』


「はい」


『この案なら、私も賛成です』


 神谷は、書いた2つの言葉の間へ、もう1本の線を加えた。


 どちらかを消すのではない。


 両方を残したまま、出せる答えを探す。


「僕も、日高さんの懸念を無視せずに済みます」


『無視するつもりだったんですか』


「そう聞こえましたか」


『少し』


「すみません」


『謝る必要はありません。意見が違っただけです』


「日高さんは、もっと強く反対するかと思いました」


『理由が分かれば反対しません』


「分からないうちは?」


『納得するまで聞きます』


「高槻社長より厳しいですね」


『本人の前で言ってください』


「言いません」


 神谷は小さく笑った。


 樹里も、それ以上は言わなかった。


 会議室を出る。


 神谷は更新案の説明を組み直し、樹里は関係部署へ必要な確認を依頼した。


 回答を待つ間にも、通常業務は続く。


 電話が鳴る。


 来客がある。


 顧客から、予定変更の連絡が入る。


 神谷は高槻興産の資料を開いたまま、別の案件の電話に対応していた。


「はい。明日の午前中であれば伺えます」


 樹里の手が止まる。


 電話を終えた神谷へ顔を向けた。


『明日の午前中は、高槻興産ではありませんか』


「訪問前に寄れる場所です」


『何時ですか』


「8時半です。30分ほどで終わります」


『先方で長引いた場合は』


「高槻興産への到着時刻には余裕を持たせています」


『資料の最終確認は』


「今夜、終わらせます」


 神谷は、すでに次の書類を開いている。


『ほかの方へお願いできないんですか』


「以前から僕が担当しているお客様です。今回の相談も、僕に直接いただきました」


『そうですか』


「ご心配なく。高槻興産の方を遅らせることはありません」


 神谷の言葉に嘘はなかった。


 実際、移動時間を計算すれば間に合う。


 顧客からの相談を断る理由もない。


 まだ、無理と呼ぶほどの予定ではなかった。


 樹里は何も言わず、関係部署から届いた回答へ目を通した。


 夕方までに、必要な数字が揃った。


 想定される稼働率を、3つの段階へ分ける。


 現在の案を維持できる範囲。


 一部を見直す必要がある範囲。


 計画そのものを組み直すべき範囲。


 樹里が数字をまとめ、神谷が説明文へ落とし込む。


 前提条件は隠さない。


 ただし、できない理由から先には書かない。


 最初に、島川不動産が推奨する更新案を示す。


 そのあとで、成立させるために必要な条件を説明する。


 期限を守りたい神谷の考えと、守れない約束を避けたい樹里の考え。


 どちらも資料の中に残った。


 午後8時。


 樹里が書類を閉じる。


『今日は、ここまででいいと思います』


「僕は、もう少し確認していきます」


『明日は8時半から別のお客様のところへ行くんですよね』


「はい」


『でしたら、帰った方がいいのでは』


「あと30分だけです」


『昨日も、そう言いませんでしたか』


「昨日は言っていません」


『そういう話ではありません』


 神谷は手を止め、樹里を見る。


「日高さん」


『はい』


「本当に大丈夫です。無理をしているつもりはありません」


 穏やかな声だった。


 心配を拒絶しているわけではない。


 ただ、自分の仕事量を自分で判断している。


 今の神谷から仕事を取り上げる理由を、樹里は持っていなかった。


『分かりました。ですが、遅くなりすぎないでください』


「はい」


『お先に失礼します』


「お疲れさまでした」


 樹里は会議室を出た。


 営業部を離れる前に、一度だけ神谷の席を見る。


 机の上には、明日の高槻興産の資料と、朝一番で訪問する顧客のファイルが並んでいた。


 どちらも、神谷が自分で引き受けた仕事だった。


 翌朝。


 神谷は予定どおり、先に別の顧客のもとへ向かった。


 相談そのものは、30分もかからずに終わった。


 しかし、帰り際に新しい要望が出た。


 その場で確認できる範囲を説明し、残りは持ち帰る。


 予定より15分遅れて、神谷は社用車へ戻った。


 高槻興産へ向かう途中で樹里を乗せる。


『おはようございます』


「おはようございます。すみません、少しお待たせしました」


『5分です。問題ありません』


 樹里が助手席へ乗り込む。


 神谷は時刻を確認し、車を発進させた。


『先ほどのお客様は』


「無事に終わりました。追加の確認事項が出ましたが、今日中に回答できます」


『今日中ですか』


「はい」


『高槻興産から戻ったあとに?』


「そのつもりです」


 樹里は前を向く。


 神谷も運転に集中している。


 会話はそこで途切れた。


 高槻興産への到着は、予定時刻の10分前だった。


 遅れてはいない。


 資料にも不足はない。


 神谷の顔にも、目立った疲労は見えなかった。


 受付では、緒方が二人を待っていた。


「おはようございます。本日は高槻と森山が対応します」


「よろしくお願いします」


『よろしくお願いいたします』


 案内された応接室には、高槻正彦と森山蓮が座っていた。


 神谷と樹里が頭を下げる。


「本日は、更新案の本筋から確認させてください」


 資料を開こうとした神谷へ、高槻が先に口を開いた。


「その前に聞く」


 神谷の手が止まる。


「2年前の件だ。途中で、こちらが条件を1つ加えた。理由は何だ」


 前回と同じだった。


 高槻は、用意された説明を聞く前に、過去の取引について問いを投げてくる。


 神谷は樹里を見ない。


 資料も開かなかった。


「近隣から寄せられた意見を受け、同じ問題を繰り返さないためです」


「うちの都合で加えた条件ではないのか」


「直接の要望は、御社から出ています。ただし、理由は管理上の問題を防ぐためです。御社が一方的に条件を増やしたのではなく、管理側から出た要望を契約へ反映したものと認識しています」


「今回の更新にも必要か」


「同じ形で入れる必要はないと考えています」


 高槻の指が、机の上で止まる。


「なぜだ」


「現在は、当時と管理体制が変わっています。過去と同じ条文を残すより、現在の責任範囲に合わせて書き直すべきです」


「前にあったものを削って、問題が起きたらどうする」


「目的を削るわけではありません」


 神谷は答える。


「再発を防ぐための条件は残します。ただ、過去の対応をそのまま保存するのではなく、今の管理体制で誰が何を行うのかを明確にします」


「覚えてきたな」


「覚えるだけでは足りないと、前回教えていただきましたので」


 高槻は、神谷の顔をしばらく見た。


「続けろ」


「はい」


 神谷は、ようやく資料を開いた。


 今回の更新案。


 先行できる部分。


 条件変更が発生した場合の対応。


 前回から追加した、稼働率ごとの判断基準。


 まず、神谷が更新案の本筋を説明する。


 樹里は、隣で聞いていた。


 神谷の言葉に詰まりはない。


 資料を読んでいるのではなく、何を優先して組み立てたのかを自分の言葉で話している。


「来期の稼働率は、まだ確定していません」


 神谷は、不確定な部分も隠さなかった。


「そのため、1つの数字だけを前提にするのではなく、3つの段階へ分けました」


 森山が資料を見る。


「想定を下回った場合、すぐに計画を変更するわけではないんですね」


「はい。この範囲であれば、現在の更新案を維持できます。ただし、こちらの数字を下回る場合は、費用と管理体制の見直しが必要です」


「その判断は、いつ行いますか」


「更新後、一定期間の実績を確認してからです。ただし、急激な変化があった場合は、その時点で再協議をお願いします」


「再協議、か」


 高槻が口を挟む。


「最初から全部決めておくことはできないのか」


「できません」


 神谷は、はっきり答えた。


「不確定な数字を確定したものとして扱えば、形だけは整います。しかし、それは御社にも弊社にも責任の持てない約束になります」


 高槻の視線が、神谷から樹里へ移る。


「日高。お前も同じ意見か」


『結論は同じです』


「結論は?」


『確認する順番については、神谷さんと意見が分かれました』


 神谷が、わずかに樹里を見る。


 事前に隠すと決めたことではない。


 だが、自分たちの意見が分かれたことまで話すとは思っていなかった。


「どんな意見だ」


『神谷さんは、先に更新案の本筋を示すべきだと考えました。私は、稼働率の見通しを確認してから提示すべきだと考えました』


「では、この資料はどちらの案だ」


『両方です』


 樹里は答える。


『更新案は期限どおりに提示する。ただし、稼働率によって維持できなくなる境目も同時に示す。その形であれば、神谷さんが重視した回答の速さと、私が必要だと考えた確実性の両方を残せます』


「都合よくまとめたな」


『まとめるために話し合いました』


「意見が合わなかったのにか」


『最初から同じ意見なら、二人で考える意味がありません』


 森山が資料から顔を上げた。


 高槻は、今度は神谷を見る。


「お前は、自分の案を曲げたのか」


「いいえ」


「では、日高の案を曲げさせた?」


「それも違います」


「なら、何をした」


「僕が守りたかったものと、日高さんが守ろうとしたものを確認しました」


 神谷は、樹里がまとめた数字の表へ手を置く。


「僕は、御社から求められた時期に答えを出したかった。日高さんは、あとから守れなくなる約束を避けたかった。どちらかを捨てる必要があると思っていましたが、捨てずに済む範囲を探しました」


「それで、この数字か」


「はい」


「数字を出したのは日高だろ」


「確認と整理は日高さんです。ただ、この形で提示すると決めたのは二人です」


 神谷は、樹里の仕事を自分のものにしなかった。


 同時に、自分は横で見ていただけだとも言わなかった。


 高槻は資料を閉じないまま、森山へ顔を向ける。


「どう思う」


「現段階では、この形が妥当だと思います」


「曖昧ではないか」


「不確定な数字を1つに固定する方が、危険です。判断の境目が示されているのであれば、こちらでも準備できます」


「そうか」


 高槻は、再び数字の表へ目を落とす。


「更新案は、これを基に進めろ」


 神谷の背筋が、わずかに伸びた。


「ありがとうございます」


「ただし、まだ決定ではない」


「承知しています」


「次は、実際の稼働率が下限へ近づいた場合、何を減らして何を残すのかを持ってこい」


「はい」


「全部必要です、は答えにならないからな」


「優先順位をつけます」


「分かっているならいい」


 高槻が資料を森山へ渡す。


 打ち合わせは、そこで終わらなかった。


 森山からは、数字の算出方法について質問が続く。


 樹里が答える場面もあった。


 しかし、説明の中心は神谷から動かなかった。


 樹里が補足したあとも、森山は次の質問を神谷へ戻す。


 窓口が、少しずつ神谷へ寄り始めていた。


 打ち合わせを終え、二人が立ち上がる。


 高槻は、神谷へ言った。


「次も二人で来い」


「はい」


「ただし、次は意見が分かれたなら、最初からそれも持ってこい」


 神谷が目を瞬かせる。


「よろしいのですか」


「客の前でだけ同じ顔をする人間よりはましだ」


 高槻は立ち上がった。


「喧嘩を見せろと言ってるんじゃない。何を捨てて、何を残したか分かる資料にしろ」


「承知しました」


「日高」


『はい』


「こいつが間違っていたら、止めろ」


『止めます』


「即答か」


『そのために来ていますので』


「神谷。選ぶ相手を間違えたかもしれないな」


「いいえ」


 神谷も即答した。


「日高さんでよかったと思っています」


 樹里は何も言わなかった。


 ただ、机の上の資料を揃える手が、一瞬だけ止まった。


 高槻は、その小さな変化には触れず、応接室を出ていった。


 帰り際。


 森山が二人をエレベーターまで見送った。


「先ほどのお話ですが」


「はい」


「意見が分かれたことを、高槻の前で話す会社はあまりありません」


『伏せた方がよかったでしょうか』


「いいえ」


 森山は首を横に振る。


「最終的に何を出すかより、そこへ至るまでに何を考えたのかを、高槻は見ています」


「では、今日の説明は」


「私から評価を申し上げることではありません」


 森山は答えを濁した。


 それでも、前回までより声は柔らかかった。


「ただ、次も二人で来いと言われたのであれば、少なくとも終わってはいません」


「はい」


「次の資料も、お待ちしています」


 エレベーターの扉が閉まる。


 神谷と樹里は、並んで1階へ降りた。


 社用車へ戻ると、神谷が運転席で息を吐く。


「意見が分かれたと話すとは思いませんでした」


『隠す必要がないと思いました』


「高槻社長に、不安を持たれる可能性もありました」


『意見が違うことより、理由もなく結論を合わせる方が不安ではありませんか』


「日高さんは、怖くないんですか」


『何がですか』


「正直に話して、評価を落とすことが」


 樹里は、すぐには答えなかった。


『怖くないわけではありません』


 神谷が樹里を見る。


『ですが、隠して得た評価は、あとで邪魔になります』


「邪魔に?」


『いつも意見の合う二人だと思われれば、次に違う意見を出したとき、関係が崩れたように見えます』


「最初から、違うものは違うと見せておく」


『はい。その上で、仕事として1つにできると示した方がいいと思います』


 神谷は、ハンドルへ手を置く。


「やはり、日高さんを選んでよかったです」


『先ほども言っていましたね』


「何度言っても構わないと思っています」


『一度で十分です』


「では、今日はこれで終わりにします」


『今日は?』


「次に思ったら、また言います」


 樹里が神谷を見る。


 仕事の話だ。


 自分を相手に選んだ判断について話している。


 それなのに、神谷の言葉は別の意味まで含んでいるように聞こえる。


『会社へ戻りましょう』


「はい」


 神谷は、それ以上続けなかった。


 車を発進させる。


 高槻興産を出てしばらくしたところで、神谷のスマートフォンが鳴った。


 朝、訪問した顧客からだった。


 運転中のため、通話には出られない。


 信号で止まった際、画面だけを確認する。


『先ほどのお客様ですか』


「はい。追加の確認についてだと思います」


『会社へ戻ってから折り返せばいいのでは』


「そうします」


 答えながらも、神谷は着信が切れるまで画面を気にしていた。


 数分後、今度は会社から連絡が入る。


 別の担当案件について、確認が必要だという内容だった。


「戻ったら、先にそちらを処理します」


『今日中に回答するものが、また増えましたね』


「どれも、それほど時間はかかりません」


『1つずつは、そうでしょうね』


 樹里の言葉に、神谷が一瞬だけ黙る。


「日高さん」


『はい』


「高槻興産の件は、必ず優先します」


『それは分かっています』


「では、何が気になりますか」


『優先されなかった仕事を、すべて残った時間で処理しようとしていることです』


 神谷は前を向いたまま、ハンドルを握る。


「まだ、処理できています」


『はい』


「遅れも出していません」


『そうですね』


「なら、今は任せていただけませんか」


 樹里は神谷の横顔を見た。


 自信を失っている顔ではない。


 無理を隠して苦しんでいる顔でもない。


 今の神谷は、本当にできると思っている。


 そして実際、できている。


『分かりました』


 樹里は、それ以上言わなかった。


 社用車は、島川不動産へ向かって走る。


 高槻興産との打ち合わせでは、神谷と樹里は違う意見を1つの答えへ変えた。


 互いが守ろうとしたものを知り、片方だけを捨てずに済む方法を探した。


 だが、神谷自身の働き方については、まだ同じことができていない。


 顧客への責任。


 高槻興産への責任。


 黒澤から任された役目。


 樹里を相手に選んだ自分の判断。


 どれも捨てられず、どれも誰かへ渡そうとしない。


 すべてを残すために、神谷が使っているのは自分の時間だった。


 今はまだ、足りている。


 誰にも迷惑をかけていない。


 結果も出ている。


 それだけに、止める言葉はどこにもなかった。

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