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169話「向いている場所」

総務部長との面談は、翌日の午後に決まった。


 彩花は指定された時刻の5分前に営業部を出た。


 手には、昨日の社用車使用申請書と、朝の混乱を整理した予定表の写しを持っている。


 呼ばれた理由は、メールに書かれていた。


 昨日の対応について話を聞きたい。


 それだけだ。


 叱責ではない。


 何か大きな問題が起きたわけでもない。


 それでも、営業とは直接関係のない部長から個別に呼ばれることなど、これまでほとんどなかった。


 総務部の前へ着き、彩花は一度だけ足を止める。


 営業部とは空気が違う。


 電話の数も、人の出入りも少ない。


 その代わり、社内のあらゆる部署から書類と依頼が集まってくる。


 設備の管理。


 社用車や備品の手配。


 社員の勤務環境。


 来客への対応。


 会社全体を支える仕事が、表からは見えないところで動いていた。


「失礼します」


 総務部長の席へ向かうと、すぐに奥の小さな会議スペースへ通された。


「急に呼んで申し訳ありません、森下さん」


「いえ。昨日の件と伺っています」


「そうです。まずは、こちらの都合へ合わせて社用車を調整していただき、ありがとうございました」


「総務部に管理していただいているものを、お借りしただけです」


「借りる側が全員、森下さんのように動いてくれれば、私たちも苦労しないのですが」


 総務部長は、昨日提出された申請書を机へ置いた。


「急いでいる部署ほど、自分たちの事情しか見えなくなるものです。車が必要だ、会議室が必要だ、備品が足りない。困っているのだから、すぐに用意してほしい、と」


「営業部も、急いでいたことに変わりはありません」


「それでも、森下さんはほかの部署が使用する時刻を確認した」


「空いている時間があるなら、調整できると思ったので」


「返却が遅れた場合の連絡先まで、最初から記載していましたね」


「口頭だけでは、あとで確認に時間がかかります」


「使用する社員の免許登録も?」


「総務部から聞かれると思いました」


 彩花は、特別なことをしたつもりはなかった。


 申請するなら、相手が判断するために必要な情報を揃える。


 足りなければ確認が返ってくる。


 その分、車を借りられるまでに時間がかかる。


 急いでいるからこそ、最初に出すべきものを減らしてはいけない。


「昨日の朝、営業部の予定を組み直したのも森下さんですか」


「私一人ではありません。遠藤さんに遅れている社員の現在地を確認してもらい、早川さんには必要な資料を準備してもらいました。黒澤部長の許可も受けています」


「自分一人で処理したとは言わないんですね」


「事実ではありませんから」


 総務部長が小さく笑う。


「黒澤部長から、森下さんは扱いにくいと聞いたことがあります」


「……黒澤部長が、そのようなことを?」


「褒め言葉として言っていました」


「聞こえません」


「本人にも、そう言っていましたか」


「似たようなことは」


 総務部長はまた笑った。


 だが、すぐに表情を戻す。


「昨日のような混乱は、今後も起こります」


「はい」


「交通機関だけではありません。天候、災害、設備の不具合。多数の社員が通常どおり動けなくなったとき、会社全体の予定をどう組み直すのか。総務部でも、対応手順を見直すことになりました」


「昨日の対応に問題があったのでしょうか」


「問題が起きなかったからこそ、です」


 彩花は黙った。


「昨日は、森下さんがその場で予定を整理しました。しかし、次も森下さんがいるとは限らない。別の部署で同じことが起きたとき、同じように判断できる人間がいるとも限りません」


「手順書を作るのですか」


「それだけでは足りません。状況が変わるたびに、手順書どおりでは対応できなくなります」


「では、判断の優先順位を決める必要があります」


 彩花は考えながら答えた。


「必ず守る予定と、変更できる予定を先に分ける。代わりの人間を立てられる条件も、業務ごとに違います。社員の現在地だけでなく、必要な権限や保有している資格も分からなければ、単純に近くにいる人へ任せることはできません」


「昨日も、そこまで考えたのですか」


「すべてではありません。営業部の範囲しか見ていませんから」


「それでも、総務部の使用予定は確認した」


「社用車を使う以上、必要です」


「森下さん」


 総務部長は、机の上で指を組んだ。


「手順の見直しに、協力していただけませんか」


 彩花は、すぐに返事をしなかった。


「総務部の仕事に、という意味ですか」


「所属を変えてほしいという話ではありません。まずは、営業部側の意見を聞かせていただきたい。各部署から数名ずつ集め、短期間の検討を行う予定です」


「私である必要がありますか」


「昨日、実際に判断した人だからです」


「黒澤部長の許可は」


「これから正式に依頼します」


「営業の仕事に支障が出るようであれば、お断りします」


「構いません。営業部の人間に協力を求めて、本来の業務を止めてしまっては意味がありませんから」


 総務部長の返答には、無理に引き込もうとする響きがなかった。


 それでも、彩花の胸には小さな引っかかりが残る。


「昨日、黒澤部長からも言われました」


「何をですか」


「誰かが動きやすくなる仕事が、得意だと」


「私も、そう思います」


 即答だった。


 彩花の表情が硬くなる。


「私は営業です」


「存じています」


「営業として、評価されたいと思っています」


「総務部の人間が評価したからといって、営業としての評価が消えるわけではありません」


「ですが、今おっしゃっているのは、契約や提案についてではありません」


「はい」


 総務部長は、彩花の言葉を否定しなかった。


「森下さんは、自分が前へ出て結果を残す力をお持ちです。それと同時に、人と仕事の配置を見て、全体を滞らせない力も持っている」


「営業には必要ない力だと?」


「逆です。営業だけで使うには、惜しい力だと思いました」


 彩花の視線が、総務部長へ向く。


「それは、どういう意味ですか」


「今すぐ何かを決めていただく話ではありません」


 総務部長は、あえて答えを濁した。


「今回の検討に参加していただければ、森下さんにも、会社を営業部の外から見る機会になります」


「私は、外から見たいとは言っていません」


「そうですね」


「営業部を離れたいとも思っていません」


「それも承知しています」


「でしたら」


「ですから、異動の話はしていません」


 総務部長の声は穏やかだった。


「自分の能力をどこで使うかは、本人が考えるべきです。周囲が勝手に決めることではありません」


 その言葉に、彩花は続きを止めた。


「ただ、自分が得意だと思っていなかったことを、ほかの人間が見つける場合はあります」


 総務部長は、昨日の申請書を彩花の前へ戻した。


「話を聞くだけで、今いる場所を捨てることにはなりません」


 面談を終え、彩花は総務部を出た。


 廊下を歩きながら、手にした申請書を見る。


 昨日、自分が作ったもの。


 今まで何度も書いてきた社内書類と、大きく違うわけではない。


 それが、総務部長の目に留まった。


 営業だけで使うには惜しい。


 褒められたはずなのに、彩花は素直に受け取れなかった。


 営業部へ戻ると、樹里が電話をしていた。


『はい。現状では、こちらの条件でお受けすることはできません』


 声は静かだ。


 冷たく突き放しているわけではない。


 相手の話を聞いた上で、できないものを明確に断っている。


『ただし、開始時期を変更していただけるのであれば、別の案をご提示できます。内容をまとめ、本日中にお送りします』


 電話を切る。


 すぐに書類を開き、先方へ送る案を作り始める。


 迷いがない。


 入社した頃から、樹里はそうだった。


 言葉も、感情も多くない。


 誰かへ自分を売り込むこともしない。


 それでも仕事を積み重ね、気づけば周囲には人が集まっている。


 彩花は、それが嫌いだった。


 自分より前を歩いているように見えた。


 負けたくなかった。


 勝手に樹里を競争相手にして、勝手に焦り、勝手に傷ついた。


 今は違う。


 樹里が何もせずに評価されているわけではないと知っている。


 見えないところで確認し、考え、責任を引き受けている。


 だからこそ、以前よりも負けたくなかった。


『何』


 視線に気づいた樹里が、彩花を見る。


「別に」


『総務部長との話は終わったのか』


「終わった」


『何だった』


「昨日の対応について、話を聞かれただけ」


『それだけか』


「それだけ」


 彩花は自分の席へ座った。


 樹里はそれ以上、聞かなかった。


 その態度が、今は少し腹立たしい。


「日高」


『何』


「もし、今と違う仕事に向いてるって言われたら、どうする?」


 質問してから、彩花は後悔した。


 何を聞いているのか。


 樹里に相談したつもりはない。


 自分の進路について意見を求めたわけでもない。


 樹里は、すぐには答えなかった。


『誰に言われた』


「仮定の話」


『そうか』


「それで?」


『興味があるなら、見る』


「向いてると言われただけで?」


『人に決めてもらうつもりはない。だが、知らないまま否定する必要もない』


「ずいぶん簡単に言うのね」


『お前が簡単に聞いたからだろ』


「聞く相手を間違えた」


『そうか』


 樹里は、再びパソコンへ向き直った。


 彩花も自分の仕事へ戻ろうとする。


『彩花』


「何」


『異動するのか』


「しない。そういう話じゃない」


『なら、今は営業だ』


「分かってる」


『今日の分が遅れてるぞ』


「誰のせいだと思ってるの」


『私ではない』


「分かってるわよ」


 彩花は乱暴に書類を開いた。


 それで話は終わった。


 頑張れとも、向いているとも言われない。


 営業に残れとも、別の仕事を試せとも言われない。


 今は営業なのだから、営業の仕事をしろ。


 樹里が言ったのは、それだけだった。


 だが、彩花にはその程度がちょうどよかった。


 午後の営業部では、高槻興産へ提出する資料の最終確認が続いていた。


 神谷が作成した説明文へ、樹里が修正を入れる。


『この部分ですが、確定事項のように読めます』


「予定と明記していますが、不十分ですか」


『本文だけを読めば、実施すると受け取られる可能性があります。条件が整った場合に限ることを、先に書いた方がいいと思います』


「分かりました。修正します」


 神谷は指摘を受け入れ、すぐに文章を直した。


 机の上には、高槻興産の資料とは別のファイルが置かれている。


 通常の顧客対応。


 新しい物件の確認。


 今週中に作成しなければならない報告書。


 樹里が、それらへ視線を向ける。


『神谷さん。昨日の書類は終わりましたか』


「はい。昨夜、処理しました」


『何時まで残っていたんですか』


「それほど遅くありません」


『何時ですか』


「11時前です」


 樹里の手が止まる。


『9時には帰るよう、黒澤部長から言われていませんでしたか』


「一昨日の話です」


『昨日はいいという意味ではないと思います』


「分かっています。ただ、昨日中に終わらせておきたかったので」


『今日でも間に合うものでは』


「高槻興産の資料に集中したかったんです」


『そのために、ほかの仕事を残業で処理したんですか』


「今のところ、問題はありません」


 神谷の顔に疲労は見えなかった。


 声にも余裕がある。


 実際、提出物に遅れはない。


 顧客への対応も疎かになっていない。


「日高さんにご心配いただくほどではありません」


『心配というより、確認です』


「では、問題ありません」


 笑って答える。


 樹里は、そこで言葉を止めた。


 神谷は高槻興産の資料へ戻る。


 頼まれたことを断らない。


 自分の担当を、ほかの誰かへ渡さない。


 必要なら、残る時間を増やして処理する。


 今はまだ、それですべてが回っていた。


 結果も出ている。


 だから、周囲も強く止められない。


 少し離れた席で、彩花は二人の会話を聞いていた。


「日高」


『何』


「気になるなら、もっとはっきり言えば」


『聞いてたのか』


「聞こえたの」


『本人が問題ないと言ってる』


「それで引くんだ」


『神谷さんの仕事だ。私が勝手に取り上げるものではない』


「ふうん」


『何が言いたい』


「別に」


 彩花は画面へ向き直る。


 朝、空いた席を埋めるために、彩花は仕事を別の人間へ振り分けた。


 誰か一人がすべてを引き受けなくても、営業部は動いた。


 むしろ、その方が滞りなく進んだ。


 だが、自分の仕事を誰かへ渡すことを、神谷は避けている。


 責任感。


 顧客への誠実さ。


 主担当としての自覚。


 どれも間違ってはいない。


 間違っていないものは、止める理由を見つけにくい。


 終業時刻が近づいた頃、黒澤が彩花の席へ来た。


「総務部長から聞いた」


「早いですね」


「対応手順の見直しに、森下さんを借りたいそうだ」


「まだ受けるとは言っていません」


「断るのか」


「営業に支障が出るなら断ります」


「出ないように、こっちで調整する」


「黒澤部長は、私を出したいんですか」


「逆だ」


 黒澤は即答した。


「営業部に必要だから、出したくない」


「なら」


「だが、お前にできる仕事を、俺の都合だけでここに閉じ込めるのも違う」


 彩花は黙った。


「短期間だ。見てこい」


「命令ですか」


「嫌なら断っていい」


「どちらなんですか」


「自分で決めろって言ってる」


 黒澤は彩花の机を指先で軽く叩いた。


「ただ、昨日のお前はよくやった。営業成績とは別のところでも、お前を見てる人間がいた。それを、勝手に低い評価へ置き換えるな」


「低いとは言っていません」


「顔に書いてある」


「読まないでください」


「分かりやすいんだよ、森下さんは」


 黒澤はそれだけ言って、自分の席へ戻った。


 彩花はパソコンの画面を見つめる。


 総務部長から届いた、検討会の日程。


 営業部の仕事を捨てるわけではない。


 異動を受け入れるわけでもない。


 ただ、知らない仕事を見る。


 樹里にも、総務部長にも、黒澤にも、同じことを言われた気がした。


 見る前から否定する必要はない。


 彩花は参加者の回答欄を開いた。


 出席。


 その2文字を選び、送信する。


 決めたのは、そこまでだった。


 営業部から離れるつもりはない。


 日高との勝負をやめるつもりもない。


 ただ、自分が何に向いているのかを、他人の言葉だけで決めつけることもしない。


 彩花は営業資料を開き直す。


 隣では樹里が仕事を続けている。


 少し離れた席では、神谷の机だけに、まだいくつもの書類が積まれていた。


 それぞれが、自分の仕事へ向き合っている。


 今いる場所で勝とうとする人間。


 別の場所から、可能性を見つけられた人間。


 すべてを自分の場所から動かそうとしない人間。


 すべてを自分の場所へ抱え込もうとする人間。


 同じ営業部の中で、それぞれの働き方が、少しずつ未来を分け始めていた。

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