168話「空いた席を埋める人」
週明けの朝。
島川不動産の営業部は、始業前から落ち着きを失っていた。
都内を走る複数の路線で、信号設備の故障が発生した。
復旧の見込みは立っていない。
営業部の社員も、その影響を受けていた。
午前中に出社できない者。
別の路線へ乗り換え、普段より遅れている者。
駅と駅の間で止まった電車から動けない者。
始業時刻まで、あと15分。
しかし、営業部の半分近くの席が空いている。
電話だけが鳴り続けていた。
「はい、島川不動産営業部です」
柚希が受話器を取る。
「申し訳ございません。担当者の到着が遅れておりまして……確認の上、折り返しいたします」
隣では凛が、社員から届いた遅延報告を一覧にしていた。
「黒澤部長、藤崎さんは到着まで1時間以上かかるそうです」
「藤崎の午前の予定は」
「10時から、お客様と現地で待ち合わせです」
「場所は」
「港区です」
「今いる人間で、代わりに行けるやつは」
誰もすぐには答えられない。
出社できている社員にも、それぞれ予定が入っていた。
神谷と樹里は、高槻興産へ提出する追加資料の確認。
佐藤は午前中に契約手続き。
中井は管理物件の設備確認。
陽菜にも、新規顧客との面談がある。
黒澤がホワイトボードの予定表を見る。
「面倒な日に重なったな」
『黒澤部長、あたしの面談、午後にずらせないか聞いてみます』
陽菜がスマートフォンを手にする。
「待て。先方都合ならともかく、こっちの事情だけで簡単に動かすな」
『じゃあ、港区の方へ誰かを』
「それを今考えてる」
黒澤の声に苛立ちはない。
ただ、限られた時間の中で、何を優先するかを決めようとしている。
その近くで、彩花は営業部の予定表と凛が作った遅延者の一覧を見比べていた。
「遠藤さん。遅れている人の現在地も分かる?」
「確認します」
「到着時間だけじゃなくて、どの駅で止まっているかも」
「はい」
凛はすぐに社内連絡の画面を開いた。
彩花は続けて柚希へ声をかける。
「早川さん。藤崎さんが担当するお客様の資料、共有フォルダに入ってる?」
「確認します」
「紙のファイルがあるなら、それも出して。現地へ行く人が決まったら、すぐ持たせたいから」
「分かりました」
彩花は自分の席へ戻らない。
空席になっている社員の予定を、1つずつ確認していく。
午前中でなければならない予定。
電話で済ませられるもの。
担当者本人でなければ対応できないもの。
別の社員でも引き継げるもの。
すべてを同じ緊急事態として扱えば、誰も動けなくなる。
彩花はホワイトボードの前に立ち、赤と青のマーカーを手にした。
「黒澤部長」
「何だ、森下さん」
「藤崎さんの現地対応は、日高に任せられます」
『私ですか』
樹里が顔を上げる。
「港区なら、高槻興産へ向かう途中から大きく外れない。待ち合わせだけ代わって、現地確認を終えたあと会社へ戻れる」
『高槻興産の資料は』
「今日中に先方へ出すものじゃないでしょ。神谷さんが午前中に確認して、日高が戻ってから2人で詰めれば間に合う」
神谷が資料から顔を上げた。
「僕一人で確認を進めます。日高さん、そちらへ行っていただいて構いません」
樹里はすぐに返事をせず、彩花が書き込んだ予定を見る。
移動時間。
現地で必要になる時間。
戻ってから高槻案件へ使える時間。
無理な組み方ではない。
『分かった。私が行く』
「資料は早川さんが出してる。先方の情報は、私から口頭で引き継ぐ」
『頼む』
彩花は青いマーカーで、藤崎の予定の横に樹里の名前を書いた。
「中井くんの設備確認は、予定どおりでいい。場所が近いから、終わったあと藤崎さんの別の物件へ回れる?」
「確認します。何時までに行けばいいですか」
「正午まで。鍵は総務部にあるはず」
「でしたら、対応できます」
「櫻井さんの面談も動かさなくていい」
『あたしは何すればいい?』
「そのまま面談して。終わったら、遅れて来る社員の顧客へ連絡をお願い」
『了解』
「佐藤くんは契約手続きが終わったら、一度会社へ戻って。午後の予定が重なっている人の資料を持って出てもらうかもしれない」
「分かりました」
彩花の指示を聞きながら、黒澤が腕を組む。
「俺より先に全部決めるなよ」
「なら、早く決めてください」
「言うようになったな、森下さん」
「時間がありませんので」
彩花は黒澤に頭を下げなかった。
謝罪もしない。
黒澤も怒らなかった。
むしろ、彩花が組み直した予定を確認していく。
「日高さんが藤崎の代わり。中井が設備確認を2件。佐藤は一度戻る。ほかは担当どおりか」
「あと、社用車が2台必要です」
「空いてるのか」
「総務部に確認します」
「頼む」
彩花はすぐに内線電話を取った。
「営業部の森下です。今日の社用車の使用状況を確認したいのですが」
返ってきた答えに、彩花の眉が寄る。
「2台とも予約が入っている?」
総務部でも、交通機関の乱れを受けて社用車の希望が集中していた。
役員の送迎。
別部署の社員による取引先への訪問。
営業部だけを優先するわけにはいかない。
「予約している部署と、使用時間を教えてもらえますか」
彩花はメモを取る。
1台目は午前9時半から11時まで。
2台目は午後1時から使用予定。
どちらも、営業部が必要とする時間と完全には重なっていない。
「1台目は、戻り次第こちらで使わせてください。2台目は午前中だけお借りできませんか。正午までには戻します」
電話の向こうから、すぐには返事がない。
「急なお願いなのは分かっています。ただ、使用する社員と行き先、返却予定時刻はこちらで管理します。遅れる可能性が出た時点で、すぐ連絡します」
さらに何かを聞かれ、彩花は予定表へ目を向ける。
「はい。1台目は日高。2台目は中井くんが使用します。運転免許の登録も確認済みです」
彩花は、必要な情報だけを伝える。
困っているから貸してほしいとは言わない。
営業部の方が重要だとも言わない。
相手が判断するために必要な材料を、順番に差し出す。
「ありがとうございます。申請書は今すぐ持っていきます」
受話器を置く。
「車、2台とも使えます」
「早いな」
黒澤が言った。
「空いている時間を使わせてもらうだけです」
「その交渉を、誰でもできると思うなよ」
「普通に確認しただけです」
彩花は、自分が特別なことをしたとは思っていない。
誰が、どこで止まっているのか。
誰なら代わりに動けるのか。
何を先に決めなければならないのか。
必要なものを順番に整理しただけだった。
「申請書を出してきます」
彩花が営業部を出ていく。
その背中を見ながら、陽菜が感心したように息を吐いた。
『彩花さん、すごいね』
『昔から、ああいうところは速い』
樹里が答えた。
褒める口調ではない。
だが、認めている声だった。
『日高先輩、負けたと思ってる?』
『何に』
『仕事の仕切り』
『思ってない』
『即答だ』
『彩花が組んだ予定に問題はない。だから従う。それだけだ』
陽菜が口元を緩める。
『ライバルって面倒くさいね』
『櫻井さんも早く準備しろ』
『はーい』
樹里は、柚希から受け取った資料に目を通す。
担当者ではない以上、知らないことも多い。
移動中に確認できる範囲には限界がある。
それでも、顧客の前で担当者不在を言い訳にはできない。
彩花が営業部へ戻ってきた。
手には社用車の鍵と申請書の控えがある。
「日高」
『何』
「藤崎さんのお客様、前回は共用部の管理状態を気にしてた。物件そのものより、入居後の対応を重視してる」
『記録にないが』
「私が以前、藤崎さんから相談を受けた。細かい人だけど、理由なく文句を言う人ではない。質問に曖昧に答えなければ大丈夫」
『分かった』
「あと、勝手に話を進めないで。今日は現地確認だけ」
『分かってる』
「本当に?」
『お前は私を何だと思ってる』
「隙を見つけたら契約まで持っていく女」
『悪いか』
「今日は悪い」
樹里が彩花を見る。
彩花も目を逸らさない。
数秒、二人の間に火花のような沈黙が走る。
『現地確認だけにする』
「ならいい」
陽菜が離れた場所から、そっと中井へ話しかける。
『あれ、仲いいよね』
「今のやり取りで、ですか」
『本人たちは絶対認めないだろうけど』
樹里と彩花が、同時に陽菜を見る。
『聞こえてる』
「聞こえてる」
『息ぴったりじゃん』
陽菜は嬉しそうに笑い、自分の資料を持って席を離れた。
始業時刻になる。
出社できた社員だけで、営業部は動き始めた。
樹里が藤崎の顧客対応へ向かう。
中井は予定されていた設備確認に加え、もう1件の物件へ回る。
陽菜は面談を終えたあと、遅れている社員の代わりに顧客へ連絡した。
柚希と凛は、変更された予定をほかの部署へ共有する。
空いていた席そのものは、すぐには埋まらない。
それでも、そこで止まるはずだった仕事は、別の誰かへ渡っていった。
午前10時を過ぎた頃。
遅れていた社員が、少しずつ出社し始める。
彩花は謝罪の言葉を受け取る前に、それぞれへ変更後の予定を伝えた。
「藤崎さんの現地対応は、日高が行っています。戻ったら結果を確認してください」
「すみません、森下さん」
「遅延は仕方ないです。午後の予定は変えていませんから、準備してください」
「はい」
「山本さんは、到着したら先に顧客へ連絡を。こちらから一度説明してあります」
「分かりました」
混乱が収まり始めた頃、総務部の社員が営業部へやってきた。
「森下さんはいらっしゃいますか」
「私です」
「社用車の件ですが、1台目は予定より早く戻りました。日高さんが戻られたら、そのまま返却いただいて大丈夫です」
「ありがとうございます。助かりました」
「それと、こちら」
差し出されたのは、彩花が提出した申請書だった。
一度返された理由が分からず、彩花が目を落とす。
「申請内容に不備がありましたか」
「いいえ。逆です」
書類には、使用者、目的、行き先、借用時刻、返却予定時刻だけではなく、予定が変わった場合の連絡先まで記されている。
「急な貸し出しで、ここまで書いてくださる方は珍しいので。総務部長が、誰が作成したのか確認したいと」
「私ですが」
「そうお伝えしておきます」
「何か問題でも?」
「問題はありません。総務部長が、森下さんと一度話してみたいとおっしゃっていました」
「私と?」
「はい。今日のことが落ち着いてからで構わないそうです」
総務部の社員が戻っていく。
彩花は申請書の控えを持ったまま、その背中を見送った。
「総務部長が森下さんに何の用だ」
黒澤が尋ねる。
「分かりません」
「怒られるようなことはしてないだろ」
「当然です」
「なら、褒められるんじゃないか」
「社用車を2台借りただけです」
「借りただけ、ねえ」
黒澤は彩花の作った予定表を見る。
朝には空白と変更だらけだったものが、今は整然と並び直されている。
「森下さん」
「何ですか」
「お前、誰かが動きやすくなる仕事、得意なんだな」
彩花の表情が、わずかに硬くなった。
「私は営業です」
「別に、営業に向いてないとは言ってない」
「なら、妙な言い方をしないでください」
「褒めたつもりなんだけどな」
「聞こえませんでした」
彩花は自分の席へ戻った。
営業成績だけなら、樹里に負けたくない。
顧客との距離の取り方も、提案の正確さも、契約へ辿り着くまでの速さも。
入社した頃から、ずっと樹里を意識してきた。
その自分に向かって、誰かを動きやすくする仕事が得意だと言われても、素直には喜べなかった。
営業として評価されたい。
日高に勝ちたい。
その気持ちは、今も変わっていない。
昼前。
樹里が営業部へ戻ってきた。
資料を彩花の机へ置く。
『問題なく終わった。質問された内容も、ここにまとめてある』
「契約の話は?」
『してない』
「本当に?」
『確認しろ』
彩花は樹里の報告書に目を通す。
現地で確認した内容。
顧客が気にしていた箇所。
担当者へ引き継ぐべき質問。
必要な情報だけが整理されている。
「……問題ない」
『そうか』
「私が言った通りにできるなら、最初から素直に返事すればいいのに」
『お前が疑うからだろ』
「日高だから疑ってるの」
『意味が分からない』
「私には分かる」
樹里は小さく息を吐き、自分の席へ戻った。
その机には、高槻興産の資料が置かれている。
神谷が午前中に確認した箇所には、いくつもの付箋が貼られていた。
「お疲れさまでした、日高さん」
『神谷さんも。資料は進みましたか』
「はい。追加条件を反映した数字を確認しました。あと、先方へ伝える順番も組み直しています」
『通常の案件は大丈夫ですか』
「問題ありません」
神谷の机には、高槻興産とは関係のない書類も積まれていた。
今日出社できなかった社員のものではない。
もともと神谷自身が抱えている案件だった。
『こちらは』
「午後に処理します」
『量が多いように見えますが』
「いつものことです」
神谷は高槻興産の資料を樹里へ差し出した。
「先に、こちらを見ていただけますか」
樹里は書類を受け取った。
神谷が何を抱えているのか、すべてを知っているわけではない。
それでも、机の上にある量は気になった。
『佐藤さんか中井さんへ、引き継げるものはありませんか』
「僕が担当しているお客様です。途中で人を変えない方がいいと思います」
『すべてですか』
「はい」
『高槻興産の案件もあります』
「分かっています」
神谷の返事は穏やかだった。
焦っている様子もない。
疲れを見せているわけでもない。
「どちらも中途半端にはしません」
責任感のある言葉だった。
だからこそ、樹里はそれ以上、強く言えなかった。
『分かりました』
「ありがとうございます」
神谷は、すぐに次の書類へ手を伸ばした。
自分が引き受けた仕事は、自分で終わらせる。
誰かに渡すより、自分で進めた方が早い。
それは、これまで神谷を支えてきた強さだった。
同時に、その強さがどこへ向かうのかを、この時点では誰も知らなかった。
午後。
営業部は、ようやく普段の人数へ戻った。
空いていた席が埋まり、止まりかけた仕事も動き出す。
朝の混乱などなかったように、電話が鳴り、キーボードの音が続いている。
彩花も、自分の営業資料を開いていた。
午前中に後回しにした仕事を取り戻さなければならない。
そこへ、社内メールが届く。
差出人は、総務部長。
件名は短かった。
――本日の対応について。
彩花はメールを開く。
書かれていたのは、感謝と面談の依頼だった。
営業部だけを優先せず、ほかの部署の予定まで確認した上で社用車を調整したこと。
使用者と返却時刻を明確にし、総務部側の負担を増やさなかったこと。
予定変更の全体像を短時間でまとめたこと。
彩花自身が、特別だと思っていなかったことばかりが並んでいる。
最後に、こう記されていた。
――森下さんの仕事の進め方について、一度お話を伺いたいと考えています。
彩花は、しばらくその文章を見つめた。
「どうしたの、彩花さん」
隣を通った陽菜が、画面を覗こうとする。
彩花はすぐにメールを閉じた。
「見ないで」
『見てないよ』
「覗いたでしょ」
『ちょっとだけ』
「それを見たって言うの」
『総務部長から? 怒られるの?』
「どうして、あたしが怒られる前提なの」
『だって彩花さん、朝から部長より部長みたいだったから』
「櫻井さん」
『褒めてるって』
陽菜は笑いながら、自分の席へ戻っていく。
彩花は閉じたメールを、もう一度開いた。
営業として勝ちたい。
その気持ちは変わらない。
誰かの後ろで支える仕事を望んだ覚えもない。
けれど、自分が何気なく行ったことを、営業部の外から見ていた人間がいる。
その事実だけは、無視できなかった。
少し離れた席では、樹里と神谷が高槻興産の資料を挟んで話している。
神谷が全体を説明し、樹里が数字の根拠を確かめる。
その横には、神谷があとで処理すると言った書類が積まれたままだ。
彩花は一度だけ、その光景を見た。
それから、自分の予定表を開く。
空いた席を埋めることができる人間。
誰かの代わりに動ける人間。
仕事が滞らないように、全体を組み直せる人間。
それを評価されても、自分が日高に勝ったことにはならない。
だが、日高と同じものだけを競わなければならない理由もなかった。
彩花は、総務部長への返信画面を開いた。
「承知しました。ご都合のよい日時をお知らせください」
そこまで入力し、指を止める。
まだ、何かを決めたわけではない。
評価を受け入れたわけでも、営業部を離れたいと思ったわけでもない。
ただ、話を聞く。
その程度のことに、迷う必要はない。
彩花は文章の最後に自分の名前を入れ、送信した。
午前中、営業部にはいくつもの空席があった。
彩花は、それを誰かに埋めさせた。
けれど、その働きを見ていた人間は、別のことを考え始めていた。
もし、森下彩花がこの部署を離れたら。
今度は、彼女の空いた席を誰が埋めるのか。
その問いが形になるのは、もう少し先のことだった。




