167話「私の部屋」
土曜日の朝。
凛は、普段よりも2時間早く目を覚ました。
目覚ましが鳴るより先に目を開け、枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
画面には、昨夜届いた青柳からのLINEが残っていた。
「明日は予定どおり伺います。駅に着いたら連絡します」
それだけの、普段と変わらない丁寧な文章。
凛は昨夜のうちに、何度も読み返している。
今日は青柳との2回目のデートだった。
名古屋への異動が決まる前に交わした、次に会う約束。
今回は青柳がこちらへ戻り、凛の部屋を訪れる。
自分で招いた。
自分で決めた。
それなのに、約束の日が近づくにつれて、何をしていても部屋の中が気になるようになった。
床に髪の毛は落ちていないか。
洗面所の鏡に水滴の跡はないか。
冷蔵庫の中を見られても恥ずかしくないか。
普段から汚しているわけではない。
それでも、自分以外の誰かが来るとなれば話は違った。
まして、青柳が来る。
凛はベッドから起き上がり、昨日掃除したばかりの床へ、もう一度掃除機をかけ始めた。
テーブルを拭き、カーテンを整え、ソファのクッションの角度まで直す。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
陽菜からのLINEだった。
『おはよー。今日は青柳さんが凛ちゃんちに来る日だよね』
凛の手が止まる。
なぜ朝から覚えているのか。
「そうです」
短く返すと、すぐに既読がついた。
『朝帰り?』
「違います」
『じゃあ青柳さんが泊まる?』
「違います!」
『まだ何も聞いてないのに、返事早すぎない?』
「陽菜さんが変なことを言うからです」
『あたしは可能性を確認してるだけだよ』
どう考えても楽しんでいる。
そこへ、別の通知が重なった。
柚希からだった。
「凛ちゃん、緊張してる?」
「少しだけ」
「嘘。昨日からずっと緊張してたでしょ」
「柚希ちゃんまで、陽菜さんみたいなことを言わないで」
『柚希ちゃん、凛ちゃんの味方みたいな顔して、結構楽しんでるよね』
「陽菜さんは仕事してください。今日は出勤ですよね」
『土曜出勤の人間に冷たくない?』
「私も忙しいので」
『何に?』
凛は返信をやめた。
スマートフォンを伏せ、掃除へ戻る。
しかし、数秒後にはまた画面が震えた。
『下着は上下揃えた?』
凛は無言で陽菜からの通知を切った。
午前11時を少し過ぎた頃、青柳から連絡が届いた。
「駅に着きました」
凛はすぐに返事をする。
「迎えに行きます」
部屋を出る前に、鏡を見る。
派手すぎない服。
部屋の中で過ごしても窮屈ではなく、かといって普段着に見えすぎないもの。
何度も迷って選んだはずなのに、今になると正解が分からない。
凛は髪を整え、鞄を手に取った。
玄関を出たあと、一度だけ戻る。
テーブルの上に置いた2つのマグカップを確認し、再び部屋を出た。
駅の改札前には、青柳が立っていた。
仕事のときよりも柔らかな服装。
片手には、小さな紙袋を提げている。
改札を抜けた青柳が、凛を見つけて笑った。
「お待たせしました」
「いえ。私も今来たところです」
「本当ですか」
「本当です」
凛は答えた。
実際には10分ほど前から待っていた。
青柳は追及しなかった。
「会えてよかったです」
「この前も会ったばかりですよ」
「それでもです」
青柳は、迷いなく言った。
「名古屋へ戻ってから、思っていたより長く感じました」
凛は返事を探し、視線を落とした。
「……私もです」
まだ青柳が名古屋へ移ってから、それほど長い時間が過ぎたわけではない。
連絡は続いている。
電話で声も聞いている。
それでも、目の前にいることとは違った。
「今日は、どこか寄りたいところはありますか」
「先に買い物をしてもいいですか。お昼を作ろうと思っていて」
「凛さんが?」
「はい。大したものではありませんけど」
「楽しみです」
「期待しすぎないでください」
「それは無理です」
青柳は平然と答える。
凛は困ったように眉を下げたが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
二人は駅の近くにある店へ立ち寄った。
凛が買い物かごを持とうとすると、青柳が自然に受け取る。
「持ちます」
「重くないです」
「まだ何も入っていませんからね」
「でしたら、私が持っても同じです」
「では、荷物が増えたら代わってください」
取り合いにはならない。
青柳はかごを持ったまま、凛の横を歩く。
凛が食材を選ぶたびに、それが何に使われるのかを尋ねた。
「昼食は、何を作るんですか」
「煮込みハンバーグです」
「手が込んでいますね」
「昨日のうちに少し準備しています」
「昨日から?」
「今日になって失敗したくなかったので」
凛は食材へ視線を落とした。
「最初から完璧にできるものにしておけばよかったと、途中で後悔しました」
「どうして煮込みハンバーグにしたんですか」
「青柳さんに、好きなものを聞いたので」
以前の電話で、何気なく聞いた。
青柳はその会話を覚えていた。
「僕のために選んでくれたんですね」
「せっかく来ていただくので」
「それなら、失敗しても嬉しいです」
「失敗する前提で話さないでください」
「すみません」
謝りながら、青柳は笑っていた。
買い物を済ませ、二人は凛の住む部屋へ向かった。
建物の前まで来ると、凛の足が少しだけ遅くなる。
ここまでは普通のデートと変わらない。
だが、これから自分の生活の中へ青柳を入れる。
職場でも、Roseでも見せていない場所。
一人で眠り、一人で朝を迎えてきた部屋。
玄関の鍵を開ける。
「どうぞ」
「お邪魔します」
青柳は靴を揃えてから、部屋へ上がった。
広くはない。
しかし、必要なものが決まった場所に置かれ、丁寧に暮らしていることが伝わる部屋だった。
棚には仕事に関する本が並び、その隣にはバイク用品が置かれている。
青柳は部屋を見回したあと、凛へ向き直った。
「凛さんらしい部屋ですね」
「どういう意味ですか」
「綺麗で、落ち着きます」
「朝から掃除しました」
「今日のために?」
「……普段から、これくらいです」
嘘ではない。
ただし、普段はクッションの角度まで揃えてはいなかった。
青柳は持っていた紙袋を差し出す。
「これ、お土産です」
「ありがとうございます」
中には、名古屋の菓子が入っていた。
会社へ持っていくような大きな箱ではない。
二人で食べ切れる程度の、小さなものだった。
「あと、これは迷ったのですが」
青柳が紙袋の奥から、もう1つ包みを取り出す。
「凛さんの部屋へ伺うので、あまり大げさなものはよくないと思って」
凛が包みを開く。
中に入っていたのは、小さな花瓶だった。
華美な装飾はない。
淡い色のガラスで作られた、細身のもの。
「花は、来る途中で一緒に選べばよかったと、買ってから気づきました」
「どうして花瓶を?」
「凛さんの部屋に、花が似合うと思いました」
凛は小さな花瓶を両手で持った。
高価なものではない。
部屋の雰囲気を変えてしまうほど大きくもない。
それでも、青柳が自分の暮らす場所を思い浮かべながら選んだものだった。
「ありがとうございます。大切にします」
「使ってください。しまって大切にされると、少し寂しいので」
「分かりました」
凛はすぐに、花瓶を棚の上へ置いた。
まだ花はない。
それでも、その場所だけが昨日までとは違って見えた。
「昼食を作りますね」
「手伝います」
「青柳さんは座っていてください」
「料理はできます」
「お客様に手伝わせられません」
「今日は、客として来たつもりはありません」
青柳の言葉に、凛が振り返る。
「では、何として来たんですか」
「凛さんに会いに来ました」
あまりにも迷いがなかった。
凛は、手にしていたエプロンを強く握る。
「……それなら、野菜を切ってください」
「はい」
青柳は腕時計を外し、シャツの袖を捲った。
並んで台所に立つ。
決して広くないため、振り向くたびに肩が触れそうになる。
青柳が玉ねぎを切り、凛が肉だねを作る。
凛は何度も青柳の手元を見た。
「本当に料理ができるんですね」
「一人暮らしが長いので、最低限は」
「もっと不器用かと思っていました」
「どうしてですか」
「仕事では、何でもできるように見えるので」
「仕事ができる人間は、料理ができないと思っているんですか」
「そういうわけではありません」
「凛さんは、僕に何か欠点がないと落ち着かないんですね」
図星を突かれ、凛は黙った。
青柳は、切り終えた玉ねぎを容器へ移す。
「ありますよ、欠点」
「何ですか」
「大切なことを話すのが遅いです」
凛の手が止まった。
名古屋への異動。
昔から目指していた場所。
青柳は凛へ気持ちを伝える前に、栄転を決めた。
夢を諦めることはできない。
しかし、凛を失いたくもない。
その両方を抱えたまま、最後まで言葉にできなかった。
「それは……私も同じです」
凛は肉だねへ視線を落とした。
「私も、青柳さんが行ってしまうと分かるまで、自分から何も言えませんでした」
「ですから、次は遅れないようにします」
「次?」
「会いたいと思ったら、会いたいと言います」
青柳は凛を見る。
「凛さんも、言ってください」
「迷惑ではありませんか」
「迷惑なら、名古屋から来ていません」
言葉は穏やかだった。
それでも、凛が逃げ込める曖昧さを残していない。
「……会いたかったです」
凛は、小さな声で言った。
「ずっと、今日を待っていました」
「はい」
「青柳さんが来るだけなのに、昨日から掃除して、料理も準備して。何を着るかも迷いました」
「はい」
「笑わないんですか」
「嬉しいので、笑うかもしれません」
「やっぱり言わなければよかったです」
凛が背を向けようとする。
その手首を、青柳が優しく掴んだ。
強くはない。
振りほどこうと思えば、簡単に離れられる。
凛は動かなかった。
「僕も、会いたかったです」
青柳の声が近い。
「今日だけでは足りないと思いながら、来ました」
凛は振り返る。
互いの距離が、台所で話すには近すぎた。
「まだ、料理の途中です」
「分かっています」
「玉ねぎも、そのままです」
「はい」
「手を、離してもらえますか」
「嫌ですか」
凛は答えなかった。
代わりに、掴まれていない方の手で青柳のシャツへ触れる。
「……嫌ではありません」
青柳が凛の手首から手を離す。
逃がすためではない。
その手を凛の頬へ添える。
「キスをしてもいいですか」
「名古屋では、聞かなかったのに」
「あのときは、凛さんからしてくれましたから」
宴のあと。
二人きりの部屋で、最初に距離を縮めたのは凛だった。
あの夜の勇気を思い出し、凛の頬が熱くなる。
「……今日は、青柳さんからしてください」
青柳が顔を寄せる。
唇が重なった。
名古屋で交わしたものより、ゆっくりとしたキスだった。
触れて終わるのではなく、離れたあと、もう一度重なる。
凛は目を閉じたまま、青柳のシャツを掴んでいた。
離れている時間に積もった寂しさが、言葉より先に指へ表れている。
青柳は急がない。
凛が息を整えるまで待ち、その額へ自分の額を触れさせた。
「これ以上続けると、昼食が遅くなりますね」
「青柳さんが始めたんですよ」
「凛さんに、してほしいと言われたので」
「そうですけど」
凛は青柳の胸を軽く押した。
「玉ねぎを炒めてください」
「はい」
二人は何事もなかったように、再び料理へ戻った。
ただし、さっきまでとは立つ距離が違っていた。
肩が触れるたび、どちらも避けない。
完成した煮込みハンバーグを、二人でテーブルへ運ぶ。
青柳の前には、凛が昨日買った新しいマグカップが置かれた。
凛のものと同じ形で、色だけが違う。
青柳はそれを手に取った。
「これは、以前からありましたか」
「昨日、買いました」
「僕のために?」
「来客用です」
「ほかの人にも使わせるんですか」
凛は目を瞬かせた。
青柳が、そんなことを言うとは思わなかった。
「嫌なんですか」
「できれば」
青柳はマグカップを持ったまま答える。
「僕のものにしてもらえると、嬉しいです」
静かな独占欲だった。
声を荒らげるわけでもなく、冗談にして誤魔化すわけでもない。
凛は自分のマグカップへ視線を落とす。
「分かりました」
「いいんですか」
「青柳さんのために買ったので」
言ってから、凛は顔を上げられなくなった。
青柳は追い打ちをかけなかった。
ただ、大切そうにそのマグカップをテーブルへ戻す。
「いただきます」
「はい。どうぞ」
青柳がハンバーグを一口食べる。
凛は、自分の食事には手をつけず、その反応を見ていた。
「おいしいです」
「本当に?」
「はい」
「気を遣っていませんか」
「凛さん」
「はい」
「僕を、もう少し信用してください」
叱るような言葉ではなかった。
凛は小さく笑い、ようやく自分の箸を手に取った。
食事のあとは、特別なことをしなかった。
並んでソファへ座り、仕事の話をする。
青柳は名古屋で任され始めた業務について話し、凛は本社で起きた出来事を話す。
高槻興産の大きな案件を神谷と樹里が担当し始めたこと。
陽菜が朝から人のデートを面白がっていること。
Roseの手伝いにも、今までどおり入っていること。
「美園さんは、お元気ですか」
「はい。青柳さんのことも、ときどき聞かれます」
「何と答えていますか」
「順調です、と」
「それだけですか」
「何を期待しているんですか」
「もう少し詳しく話していただいても構いません」
「今日のことは言いません」
「なぜですか」
「陽菜さんにまで伝わるからです」
青柳は納得したようにうなずいた。
「それは困りますね」
「でしょう?」
「いえ。僕は構いませんが、凛さんが耐えられないと思います」
「分かっているなら聞かないでください」
二人の声が、凛の部屋に溶けていく。
一人でいるときには聞こえない声。
誰かを招かなければ生まれなかった時間。
窓から差し込む光が、ゆっくりと傾いていった。
夕方。
青柳が腕時計を確認する。
「そろそろ、出ないといけません」
「もうですか」
凛の口から、考えるより先に言葉が出た。
青柳が時計から凛へ視線を戻す。
「もう少しいてもいいですか」
「新幹線に間に合わなくなります」
「次の便でも帰れます」
「そういう意味ではなくて」
凛は、自分の膝の上で指を組む。
引き止めたい。
だが、青柳は明日も名古屋で生活を続ける。
こちらへ来るために使った時間と同じだけ、帰る時間も必要だった。
「……帰ってほしくないと思っただけです」
凛は、正直に言った。
「困らせるつもりはありません」
「困ってはいません」
青柳は凛の隣へ座り直す。
「帰りたくないのは、僕も同じです」
「それなら」
「ですが、今日は帰ります」
青柳は曖昧な期待を持たせなかった。
「次も来たいからです。最初から無理をして、続けられなくなる方が嫌です」
会えない時間を気持ちだけで埋めようとすれば、どちらかが疲れる。
名古屋から毎回こちらへ来ることも、凛が毎回名古屋へ向かうこともできない。
仕事を持つ二人が関係を続けるなら、勢いだけでは足りない。
「次は、凛さんが名古屋へ来てくれませんか」
「私が?」
「僕の暮らしている場所も、見てほしいです」
凛は、青柳の言葉をゆっくり受け取った。
今日、自分の部屋へ青柳を招いた。
今度は、青柳が暮らす場所へ自分が向かう。
遠距離という言葉の中にあった片道が、ようやく往復になる。
「行きます」
「本当ですか」
「はい。日程を確認して、今日中に連絡します」
「ありがとうございます」
「でも、部屋は綺麗にしておいてください」
「普段から綺麗です」
「本当ですか」
「信用がありませんね」
青柳が笑う。
凛も笑った。
駅までの道を、二人で歩いた。
朝よりも歩幅がゆっくりになっている。
改札の前へ着いても、すぐには別れられない。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。遠くから来ていただいて」
「遠くても来ます」
青柳は言った。
「凛さんが、会いたいと言ってくれるなら」
「言わなくても来てください」
凛の声は小さかった。
だが、青柳には届いている。
「はい」
青柳は優しくうなずいた。
「僕からも、会いたいと言います」
人の行き交う改札前で、触れられるのは手だけだった。
青柳の指が、凛の手を包む。
名古屋での別れより、今は少しだけ寂しさが軽かった。
次の約束がある。
どちらか一人が追いかけるのではなく、互いに相手の暮らす場所へ向かう。
「気をつけて帰ってください」
「着いたら連絡します」
「はい」
青柳が改札を通る。
何度か振り返り、最後にもう一度手を上げた。
その姿が見えなくなるまで、凛は同じ場所に立っていた。
部屋へ戻る。
朝と同じように整った室内。
けれど、もう朝と同じ部屋ではなかった。
テーブルには2つのマグカップがある。
棚の上には、まだ花の入っていない小さな花瓶がある。
ソファには、青柳が座っていたわずかな跡が残っている。
凛はテーブルへ近づき、青柳が使ったマグカップを手に取った。
洗えば、元の綺麗な状態に戻る。
それでも、片づける前に少しだけ眺めた。
スマートフォンが震える。
陽菜からだった。
『どうだった?』
凛はしばらく考える。
詳しいことを話せば、明日の会社で何を言われるか分からない。
だが、何も答えないのも違う気がした。
「楽しかったです。次は私が名古屋へ行きます」
送信すると、すぐに既読がつく。
『お泊まり?』
凛は、再び陽菜からの通知を切った。
その直後、今度は青柳からLINEが届く。
「新幹線に乗りました。今日は本当にありがとうございました」
続けて、もう1通。
「帰りたくないと言ってもらえて、嬉しかったです」
凛はマグカップを胸元へ寄せた。
「私も、来てくれて嬉しかったです」
少し迷ってから、もう1文を加える。
「次に会うまで、今度は私が待つだけにしません」
送信する。
凛は青柳のマグカップを洗い、自分のものの隣へ並べた。
来客用ではない。
次に彼が来たとき、もう一度使うためのもの。
一人で暮らしてきた部屋に、初めて誰かの居場所が残った。




