166話「自分の言葉で」
高槻興産から戻った神谷は、自分の席へ着くより先に黒澤のもとへ向かった。
「黒澤部長、ただいま戻りました」
「どうだった」
「3日後までに、条件変更を想定した対応案を提出することになりました」
「そうか」
黒澤は手元の書類から顔を上げた。
「それだけか」
神谷は、ほんのわずかに黙った。
「過去の取引について、高槻社長から質問を受けました。僕は答えられませんでした」
「日高さんは?」
「資料から判断して、回答してくれました。高槻社長にも納得していただけたと思います」
黒澤は神谷の顔を見た。
失敗を報告しに来た人間の顔ではない。
悔しさはある。
しかし、それを誰かのせいにする様子も、樹里に助けられたことを恥じて隠そうとする様子もなかった。
「それで?」
「次回は、僕が答えます」
「なら、さっさと取りかかれ」
「はい」
「神谷」
戻りかけた神谷を、黒澤が呼び止める。
「日高さんに助けられたことを、借りだと思うなよ」
「……はい」
「一緒に動いてるんだ。どっちかが拾うのは当たり前だ。ただし、拾ってもらうことを当たり前にはするな」
「分かっています」
「ならいい」
黒澤は再び書類へ視線を落とした。
神谷は一礼し、自分の席へ戻る。
樹里はすでに、今回求められた対応案に必要な資料を整理していた。
高槻社長から出された条件。
その条件が変更された場合に影響を受ける部署。
確認が必要な項目。
何も言わずとも、打ち合わせで交わされた内容が順序立てて並べられている。
「早いですね」
『忘れないうちに形にした方がいいので』
「ありがとうございます」
『神谷さん』
「はい」
『過去の取引については、どうしますか』
「まず、僕一人で調べます」
『分かりました』
樹里はすぐに引いた。
それ以上の助言も、資料を見る場所の指示もしない。
神谷が自分で辿り着こうとしていることを理解していた。
だが、放っておくわけでもなかった。
『こちらの対応案は、私が叩き台を作ります。ただし、最終的な組み立ては一緒に行いましょう』
「日高さんだけで作った方が、早いのではありませんか」
『早さだけを求めるなら、そうかもしれません』
樹里は神谷を見る。
『ですが、高槻社長へ説明するのは神谷さんです。私が作ったものを覚えて話すだけでは、質問されたときに止まります』
「……その通りです」
『高槻社長が求めているのは、資料を読む人ではありません。判断できる人です』
初訪問で、樹里はそれを見抜いていた。
高槻は、用意された答えの正しさだけを見ているわけではない。
なぜそう考えたのか。
条件が変わったとき、それでも同じ答えを出すのか。
その場で判断を変えるなら、何を根拠に変えるのか。
相手の思考そのものを見ている。
「分かりました。一度、別々に考えましょう」
『はい。明日の午後に持ち寄る形でどうでしょうか』
「お願いします」
二人の会話を、少し離れた席から陽菜が聞いていた。
書類で口元を隠し、隣にいる中井へ小声で話しかける。
『なんか、あの2人だけ空気違わない?』
「大きな案件らしいですからね」
『そういう意味じゃなくて』
「ほかに何かありますか」
『息が合ってる』
陽菜は目を細めた。
『前はもっと、日高先輩が勝手に全部終わらせてたじゃん』
「櫻井さん」
神谷の声が飛んできた。
「聞こえていますよ」
陽菜は書類から顔を出す。
『すみません。褒めてました』
「仕事に戻ってください」
『はーい』
反省の見えない返事をして、陽菜はパソコンへ向き直った。
その隣で、中井が小さく笑っている。
『何がおかしいの』
「いえ。櫻井さんらしいと思って」
『あたしらしいって、どういう意味?』
「人の変化をよく見ているという意味です」
陽菜は一瞬だけ黙った。
からかわれたわけではない。
まっすぐ褒められると、返し方に困る。
『……中井くんも、仕事して』
「はい」
少し赤くなった陽菜の耳を、中井は見ないふりをした。
神谷は過去の記録を探した。
当時の契約書や議事録だけでは足りない。
社内に残っていたメール。
関係部署へ提出された確認書。
担当者が作成した報告書。
同じ案件に関する記録でも、保管されている場所は1つではなかった。
最初に見つけたのは、条件変更を拒否した事実だけが記された文書だった。
理由は簡潔にしか書かれていない。
責任範囲が不明確であるため、現状では受諾できない。
それだけだった。
樹里が答えた内容と一致している。
しかし、高槻が求めたのは、その文言ではない。
なぜ、それが問題だったのか。
受け入れれば、誰にどのような影響が出たのか。
そして、なぜ代替案なら成立したのか。
神谷は資料を並べ、条件が変わる前と後を比較した。
時間だけが過ぎていく。
通常業務も止められない。
顧客からの電話に対応し、後輩からの確認を受け、別の案件の書類を作成する。
その合間に、過去の記録へ戻る。
午後6時を過ぎた頃、営業部の席は少しずつ空き始めていた。
陽菜も帰り支度をしながら、まだ机に向かっている神谷を見た。
『神谷さん、帰らないんですか』
「もう少し調べたいことがあるので」
『無理したらダメですよ』
「今日は大丈夫です」
『“今日は”って言い方、すでにちょっと怖いけど』
「区切りのいいところまで進めたら帰ります」
『日高先輩は?』
「先ほど、関係部署への確認に行きました」
『2人とも真面目だなあ』
陽菜は鞄を肩にかける。
『じゃあ、お先に失礼します。日高先輩にも伝えておいてください』
「お疲れさまでした」
陽菜と中井が営業部を出ていく。
それから数分後、樹里が戻ってきた。
『櫻井さんたちは帰りましたか』
「はい。日高さんによろしくと言っていました」
『そうですか』
樹里は自分の席へ座り、持ち帰った資料を机へ置いた。
『対応可能な範囲について、確認が取れました。ただ、1つだけ当初の想定と違う部分があります』
「見せていただけますか」
『はい』
二人は会議用の机へ移動した。
樹里が作った案は、1つではなかった。
条件が軽微に変わった場合。
大幅な変更があった場合。
期限を優先する場合。
安全性と確実性を優先する場合。
それぞれの利点と問題点が、簡潔に整理されている。
「ここまで作ったんですか」
『叩き台です』
「十分、提出できるように見えます」
『できません』
樹里は即答した。
『数字の根拠が足りません。それに、これは私が考えた選択肢です。神谷さんの判断が入っていません』
「僕の判断」
『この中から選ぶ必要はありません。別の案を足しても構いません。ただ、主担当として、何を最も優先すべきだと思うのかは教えてください』
神谷は資料へ目を落とした。
どの案にも長所がある。
同時に、何かを諦めなければならない。
すべてを満たすと書けば、聞こえはいい。
だが、実現できなければ約束ではなく嘘になる。
「高槻興産が最初に求めていたのは、期限です」
『はい』
「ですが、期限だけを守るために条件を曖昧にすれば、過去に島川不動産が断った判断と矛盾します」
『そうですね』
「まず責任範囲を明確にする。その上で、工程を分けるのはどうでしょうか」
神谷は樹里の資料のうち、2つを並べた。
「すべてを同時に完成させるのではなく、先行できる部分から動かします。変更の影響を受けない部分を止めなければ、全体の遅れを抑えられます」
『その場合、途中で計画が再変更されたときの調整が増えます』
「はい。ですから、先行する範囲は限定します。後から戻せないところには手をつけない」
『費用は』
「一時的には増えます。ただ、全工程が止まった場合の損失よりは小さいはずです」
『“はず”では、緒方さんに通りません』
「数字を出します」
神谷の返事は早かった。
樹里は、しばらく神谷を見つめる。
『分かりました。その案で組みましょう』
「いいんですか」
『神谷さんの案が、最も今回の目的に合っています』
「日高さんの案から外れますが」
『私の案を通すことが目的ではありません』
樹里は資料を神谷の方へ寄せた。
『より良いものにするために、違う視点が必要だとおっしゃったのは神谷さんです』
高槻の前で、神谷が樹里を選んだ理由として語った言葉だった。
神谷は小さく息を吐く。
「自分で言ったことを、もう試されるとは思いませんでした」
『私もです』
「日高さんでも、そういうことを思うんですね」
『どういう意味ですか』
「もっと平然としているのかと」
『平然とはしています』
「では、今の言葉は忘れます」
『そうしてください』
神谷は、わずかに笑った。
樹里も、ほんの少しだけ目元を緩める。
しかし、すぐに二人とも資料へ戻った。
そこからは、数字を詰める作業になった。
先行可能な範囲。
必要な人員。
追加で発生する費用。
条件変更の確定を待った場合に生じる損失。
神谷が全体を組み立て、樹里が不足している根拠を指摘する。
樹里が数字を整理し、神谷が先方へ伝える順番を考える。
片方が答えを作り、もう片方がそれを覚えるのではない。
互いの案を壊し、直し、もう一度組み直していく。
時計の針が午後8時を回った頃、黒澤が二人のところへ来た。
「まだやるのか」
「あと少しです」
「日高さんは?」
『私も同じです』
「そうか」
黒澤は完成に近づいた資料を一度だけ見る。
「明日も仕事だ。今日中に全部終わらせようとするなよ」
「分かっています」
「神谷」
「はい」
「区切りを決めろ。9時になったら帰れ」
「ですが」
「3日あるんだろ」
「はい」
「なら、3日を使え。初日で全部抱えるな」
神谷は返事をするまで、わずかに間が空いた。
「……分かりました」
黒澤はその間を見逃さなかった。
だが、何も言わずに自分の席へ戻った。
その日の神谷は、言われた通り9時に仕事を切り上げた。
翌日。
過去の案件に関わった部署へ話を聞きに行き、当時の判断を知る社員を探した。
契約書だけでは分からなかったことが、少しずつ見えてくる。
高槻興産が条件変更を求めた背景。
島川不動産がすぐに応じなかった理由。
対立したのではなく、互いが負うべき責任を明確にするために、一度立ち止まったこと。
そして、その結果として長い取引が続いてきたこと。
神谷は、それらをノートへ書き写さなかった。
一度読んで閉じ、自分ならどう説明するかを考えた。
3日後。
神谷と樹里は、再び高槻興産の応接室に座っていた。
前回と同じ席。
正面には高槻。
その隣に森山と緒方がいる。
「持ってきたか」
「はい」
神谷は資料を差し出した。
「条件変更の内容に応じて、3つの対応案を作成しました。ただし、僕たちが第一案として提案したいものは、そのうちの1つです」
「全部できますと並べるだけじゃないんだな」
「選択肢を示すことと、判断を先方へ委ねることは違うと考えています」
「では、お前の判断を聞こう」
神谷は資料を開いた。
前回よりも落ち着いていた。
緊張がなくなったわけではない。
高槻の一言によって、用意してきた説明が崩される可能性もある。
それでも、自分がなぜこの案を選んだのかは分かっていた。
「今回、最も優先すべきなのは、期限だけではありません。変更が発生しても、責任の所在を曖昧にしないことです」
神谷は、工程を分ける案を説明した。
先行可能な部分だけを動かす。
変更の影響を受ける部分は、条件が確定するまで着手しない。
追加費用は発生する。
しかし、全体を止めた場合と比較すれば、損失を抑えられる。
緒方が資料を見ながら、数字を確かめる。
「この追加費用ですが、算出根拠は」
「次のページに記載しています。人員を増やす費用ではなく、工程を分けることで増加する管理費が中心です」
「想定より変更の確定が遅れた場合は?」
「こちらの数字になります。ただし、この期間を超える場合は、同じ方法を続けるべきではありません。一度全体を停止し、計画自体を見直す必要があります」
「止める判断も入れているんですね」
「続けることだけが、損失を減らすとは限りませんので」
緒方は小さくうなずいた。
森山が別の箇所を指す。
「先行する範囲を、ここまでに限定した理由は何ですか」
「後から計画が変わった場合でも、やり直しが発生しない範囲だからです。それ以上進めれば、一時的には早く見えますが、変更内容によっては作業そのものが無駄になります」
「高槻興産から、もっと進めてほしいと言われても?」
「理由を説明した上で、お断りします」
「断るのか」
高槻が口を挟んだ。
「はい」
「初めての取引で、こちらの要求を断れると?」
「ご希望を実現するための方法は探します。しかし、できない可能性が高いことを、できるとは申し上げられません」
「日高」
突然、樹里へ問いが向けられる。
『はい』
「お前も同じ意見か」
『基本的には同じです』
「基本的には?」
『変更の内容によっては、先行できる範囲を広げられる可能性があります。ですから、最初から一律に断るとは決めません』
「神谷と意見が違うな」
『いいえ』
樹里は静かに答える。
『神谷さんも、理由なく断るとは言っていません。実現する方法を探した上で、根拠を示せない約束はしないという意味です』
「代わりに説明してやるのか」
『確認です。神谷さん、認識は合っていますか』
「はい。日高さんの説明の通りです」
高槻は二人を見る。
「打ち合わせの前に、答えを揃えてきたようにも見えるが」
「案については、何度も話し合いました」
神谷が答えた。
「ですが、今の質問への答えを事前に決めていたわけではありません」
「では、なぜ同じことを言える」
「同じ資料を覚えてきたからではなく、何を守るべきかを二人で決めてきたからです」
応接室が静かになる。
高槻は資料を閉じなかった。
「そうか」
短く答え、次のページをめくる。
それからしばらく、対応案についての質疑が続いた。
前回よりも質問は多い。
数字にも、判断にも、容赦なく穴を探される。
神谷が答え、樹里が補足する。
樹里が示した数字を、神谷が言葉にする。
一度だけ、樹里と神谷の見解が分かれた。
神谷は先方の判断を待ってから動くべきだと考え、樹里は準備だけは先行させるべきだと考えた。
その場で互いの理由を説明し、準備にかかる費用が一定額を超えない範囲で先行するという答えを出した。
高槻は、そのやり取りを止めなかった。
むしろ、二人が結論へ辿り着くまで黙って見ていた。
すべての確認が終わったあと、高槻が神谷へ顔を向ける。
「前回の宿題は」
「調べてきました」
「聞こう」
神谷は資料を見なかった。
「当時、島川不動産が御社の要求を一度断ったのは、責任を負いたくなかったからではありません。責任を負う相手が定まっていない状態で引き受ければ、問題が起きた際、対応が遅れると判断したからです」
高槻の表情は変わらない。
「記録には、そう書いてあったのか」
「同じ意味の記述はありました。ただ、今の言葉がそのまま書かれていたわけではありません」
「では、誰に聞いた」
「当時の資料と社内の記録を確認し、関係部署にも話を聞きました。その上で、僕はそう考えました」
「お前は、その判断が正しかったと思うか」
「はい」
「取引先の要求を断っても?」
「はい」
神谷は迷わなかった。
「できない約束を受け入れることは、相手を大切にすることではありません。ただ、断って終わるのも違います」
高槻の目を、正面から見る。
「当時の担当者は、御社の要求を拒絶したのではなく、成立させるために別の形を提案しました。僕も、同じようにすべきだと思います」
「昨日覚えた言葉には聞こえないな」
「覚えるのではなく、考えてこいと言われましたので」
高槻が口元をわずかに上げた。
「言うようになったな」
それが評価なのか、ただの感想なのかは分からない。
高槻は再び資料を開いた。
「この第一案を基に、もう少し詰めろ」
「では」
「採用すると言ったわけじゃない」
「はい」
「森山と緒方から、追加の条件を出す。次はそれも入れて持ってこい」
「承知しました」
「神谷」
「はい」
「今度は、隣に答えてもらわずに済んだな」
神谷は一瞬だけ樹里を見る。
樹里は何も言わない。
ただ、その目には前回になかったものが浮かんでいた。
『はい』と答える代わりの、静かな肯定だった。
「日高さんに教えていただいたからです」
「教えてもらった答えを話したのか」
「いいえ」
神谷は答える。
「日高さんから教わったのは、答えではありません。資料のどこを見るべきかです」
高槻は樹里へ視線を移した。
「いい相方を選んだな」
「はい」
今度は、神谷も迷わなかった。
「そう思っています」
樹里は正面を向いたままだった。
しかし、机の下で握っていた指から、少しだけ力が抜けた。
打ち合わせを終え、高槻興産を出る。
建物の外へ出たところで、神谷が大きく息を吐いた。
「緊張しました」
『そうは見えませんでした』
「日高さんも、そうは見えません」
『私は平然としていますので』
「昨日も聞きました」
『では、覚えておいてください』
神谷は笑った。
樹里も、今回は否定しなかった。
「日高さん」
『はい』
「ありがとうございました」
『今日は、私はほとんど答えていません』
「隣にいてくれました」
樹里が神谷を見る。
「一人なら、答えられなかったという焦りだけで資料を読んでいたと思います。ですが、日高さんが次は答えてくださいと言ってくれたので、何を調べるべきか考えられました」
『答えたのは、神谷さんです』
「はい」
神谷は、静かにうなずいた。
「だから、今度は素直に受け取ります」
二人は駐車場へ向かって歩き出す。
最初の訪問で持ち帰った、答えられなかった問い。
神谷は、それに答えた。
だが、高槻興産との仕事は、1つの正解を出せば終わるものではない。
次の条件。
次の判断。
次の責任。
乗り越えるたびに、さらに重いものが待っている。
この日、高槻が二人へ預けたのは、まだ小さな仕事だった。
信頼と呼ぶには早い。
期待と呼ぶにも足りない。
それでも、最初の訪問にはなかったものが、確かに1つだけ生まれていた。
次も、この二人が来る。
高槻は、それを当然のこととして口にした。
神谷と樹里が得た最初の成果は、契約でも、利益でもない。
次の席だった。




