165話「最初の一問」
高槻興産へ初めて足を運ぶ朝。
神谷は、始業時刻よりも早く自分の席に着いていた。
机の上には、前任者から引き継いだ資料が並んでいる。
会社概要。
過去の取引記録。
今回の案件に関係する土地と建物の資料。
そして、昨日聞いたばかりの言葉をまとめたノート。
高槻社長は、愛想のいい人間を評価するわけではない。
機嫌を取ろうとすれば、すぐに見抜かれる。
分からないことを誤魔化すな。
安易に約束するな。
ただし、できない理由だけを並べる人間も嫌う。
神谷は同じページを、もう一度読み返した。
(分からないことを、分かったふりはしない)
言葉にすれば簡単だった。
しかし、島川不動産にとって極めて大きな取引になる可能性がある。
その相手を前にして、本当に「分かりません」と言えるかどうか。
神谷はネクタイの結び目に触れた。
「早いな、神谷」
声をかけたのは黒澤だった。
「おはようございます」
「眠れたか」
「一応は」
「一応か」
黒澤は神谷の机に並んだ資料を眺めた。
すでに何度も読んだ跡がある。
「日高さんは?」
「もう来ています。会議室で資料の最終確認をしています」
「そうか」
黒澤は神谷の机から、ノートへ視線を移した。
「今日、契約を取ってこいとは言わない」
「はい」
「気に入られてこいとも言わない。そんなことを意識すると、かえって嫌われる相手だ」
神谷は黙って聞いた。
「今日、お前が持って帰るのは結果じゃない。高槻社長が何を見て、何を嫌い、何なら任せられると思う人間なのか。それを見てこい」
「分かりました」
「それと」
黒澤は少しだけ間を置いた。
「日高さんを連れていくと決めたのは、お前だ」
「はい」
「選んだ以上、日高さんの能力に乗っかるだけになるな。お前が前に立て」
神谷の表情が引き締まる。
「そのつもりです」
「ならいい」
黒澤は神谷の肩を軽く叩いた。
「頼むぞ」
その一言を残し、自分の席へ戻っていった。
神谷は返事をしなかった。
できなかったわけではない。
黒澤の言葉を、軽い返事で終わらせたくなかった。
やがて、会議室の扉が開く。
資料を抱えた樹里が出てきた。
『神谷さん。お時間、大丈夫ですか』
「はい。そろそろ出ましょう」
『分かりました』
いつもと変わらない声だった。
緊張している様子もなければ、必要以上に気負っている様子もない。
神谷は立ち上がり、机の上の資料を鞄へ収めた。
最後にノートを閉じる。
その表紙へ手を置いたまま、一度だけ息を吐いた。
「行きましょう、日高さん」
『はい』
二人は並んで、営業部を出た。
高槻興産の本社は、島川不動産から車で40分ほどの場所にあった。
高くそびえるような建物ではない。
しかし、広い敷地に建つ社屋には、古くから積み上げてきた会社特有の重みがあった。
新しさで目を引くのではなく、長い年月を耐えてきたことそのものが信頼になっている。
受付を済ませ、案内された応接室へ向かう。
神谷の半歩後ろを、樹里が歩いていた。
主担当は神谷。
樹里は、その立場を崩さない。
応接室へ通されてから、神谷は資料を机に置いた。
「日高さん」
『はい』
「昨日もお伝えしましたが、今日の説明は僕がします」
『承知しています』
「ただ、僕が見落としていることがあれば、遠慮なく補足してください」
『必要であれば、そうします』
樹里は神谷を見る。
『ですが、神谷さんが話している途中で割って入ることはしません』
「ありがとうございます」
『私を選んだのは、神谷さんです。ですから、神谷さんの判断に従います』
淡々とした言葉だった。
それでも神谷には、その一言が重かった。
樹里は責任を押しつけているのではない。
主担当である自分を立てようとしている。
同時に、必要なときには支えると告げている。
「必ず、日高さんを連れてきてよかったと思わせます」
『先方に、ですか』
「先方にも。黒澤部長にも。それから、日高さんにもです」
樹里はわずかに目を細めた。
『期待しています』
扉が開いた。
最初に入ってきたのは森山だった。
「お待たせしました」
その後ろから緒方が続く。
二人とも昨日までの資料で顔は把握していたが、直接会うのは初めてだった。
神谷と樹里が立ち上がる。
「島川不動産の神谷です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
『日高と申します。よろしくお願いいたします』
「森山です。こちらは緒方です」
「よろしくお願いします」
挨拶を交わして間もなく、もう一度扉が開いた。
部屋の空気が変わる。
高槻興産社長、高槻が入ってきた。
後ろに人を従えて威圧するような男ではない。
歩き方も、表情も静かだった。
だが、神谷たちの前に座るまでのわずかな時間で、視線だけは二人を正確に捉えていた。
「高槻だ」
それだけを告げて、席へ座る。
神谷と樹里も、高槻に促されて腰を下ろした。
「前の担当は辞めるそうだな」
「はい。昨日、正式に引き継ぎを受けました」
「どこまで聞いた」
「過去の取引内容と、今回の案件に至る経緯です。また、御社との打ち合わせで注意すべき点についても伺っています」
「俺の機嫌を損ねるなとでも言われたか」
神谷は一瞬だけ言葉を止めた。
隣の樹里は、表情を変えない。
「いいえ」
神谷は高槻の目を見た。
「機嫌を取ろうとするなと教わりました」
森山の眉が、わずかに動いた。
緒方は神谷を見たあと、高槻へ視線を移す。
高槻は笑わなかった。
「それを本人に言うのか」
「隠す必要はないと判断しました」
「そうか」
短い返事だった。
好意的なのか、不快に思ったのかは分からない。
高槻は今度、樹里へ視線を向けた。
「そっちの人間は」
『営業部の日高です』
「それは聞いた。なぜ、この案件に連れてきた」
尋ねられた樹里は、神谷を見なかった。
自分を選んだ理由を答えるのは、自分ではないと分かっている。
神谷が口を開いた。
「日高さんは、情報の整理と状況判断に優れています。相手の要望をそのまま受け入れるのではなく、実現できるものと、できないものを見極めた上で別の案を提示できます」
「お前にはできないのか」
「できます」
神谷は即答した。
「ですが、僕とは見る角度が違います。僕一人で考えるより、日高さんの視点が加わった方が、御社へ提示できる選択肢の精度が上がると判断しました」
「仲がいいから選んだわけじゃないと」
「仕事ですので、それだけで人を選ぶことはありません」
高槻は、しばらく神谷を見つめた。
やがて、樹里へ問いかける。
「ずいぶん評価されているな」
『過大評価でなければいいのですが』
「謙遜か」
『確認です』
樹里の返答に、森山がわずかに口元を緩めた。
高槻は、まだ笑わない。
「面白くない女だな」
『よく言われます』
「日高さん」
神谷が小さく名前を呼ぶ。
窘めたというより、反射的に出た声だった。
樹里が神谷を見る。
『申し訳ありません』
「俺に謝らないのか」
高槻が言った。
樹里は再び正面へ向き直る。
『事実を申し上げただけですので』
数秒の沈黙が落ちた。
次の瞬間、高槻が初めて小さく笑った。
「なるほど。確かに、こいつ一人とは違うらしい」
神谷は安堵を表情へ出さなかった。
ただ、膝の上に置いた手から、わずかに力を抜いた。
打ち合わせが始まる。
今回の案件で高槻興産が求めているもの。
島川不動産へ期待している役割。
まだ決まっていない条件。
高槻は、まとまった説明をするのではなく、途中で何度も神谷へ問いを投げた。
「この条件が変わった場合、お前たちはどうする」
「現時点で1つに絞ることはできません。想定できる変更を整理し、それぞれに対応案を用意します」
「いつまでに出せる」
「3営業日いただければ」
「2日では無理か」
「形だけを整えるのであれば可能です。ただ、関係部署への確認まで終えたものをお持ちするなら、3営業日必要です」
「分かった。3日で持ってこい」
「承知しました」
できると言えば、約束は取れた。
しかし、その後で内容が伴わなければ意味がない。
神谷は、前任者の言葉を思い出しながら答えていた。
緒方からは、数字について細かい確認が入る。
森山はほとんど口を挟まない。
ただし、神谷と樹里の言葉だけではなく、資料を開く順番や、質問を受けたときの間まで見ているようだった。
打ち合わせが半ばまで進んだところで、高槻が資料を閉じた。
「神谷」
「はい」
「島川不動産とは、以前にも似た条件の案件を扱ったことがある」
「はい。記録は確認しています」
「では聞く」
高槻は指先を、閉じた資料の上へ置いた。
「当時、こちらが途中で条件の変更を求めた。それを、お前たちの会社は一度断っている。最終的には別の方法で成立したが、最初の要求を受けなかった理由は何だ」
神谷の頭に、引き継ぎ資料の内容が浮かぶ。
過去の案件が成立するまでの流れは読んでいた。
先方から条件変更があったことも把握している。
だが、なぜ最初の要求を断ったのか。
そこまでの記録を、神谷は確認できていなかった。
無理に答えようとすれば、推測になる。
神谷は一度だけ息を吸った。
「申し訳ありません。そこまでは確認できていません」
高槻の目が細くなる。
「知らないのか」
「はい」
「過去の取引を確認したと言ったな」
「経緯と最終的な契約内容は確認しました。しかし、最初の要求を断った判断根拠までは把握できていません。僕の確認不足です」
「それで、よくここへ来られたな」
厳しい声だった。
神谷は目を逸らさない。
「ご指摘の通りです。会社へ戻り次第確認し、改めて回答します」
「今は答えられないと」
「はい。推測でお答えするべきではないと判断しました」
高槻は何も言わない。
応接室の空気が、張り詰めていく。
樹里は、神谷の隣で資料に手を置いた。
『高槻社長。発言してもよろしいでしょうか』
「答えを知っているのか」
『記録から読み取れる範囲であれば』
「言ってみろ」
樹里は過去の取引資料を開いた。
神谷が見落としたものではない。
二人とも、同じ資料を読んでいる。
ただ、樹里は契約が成立した箇所だけでなく、その前後で何が変わったのかまで比べていた。
『当初のご要求をそのまま受け入れた場合、島川不動産だけでは判断できない範囲にまで責任が及ぶ可能性がありました』
「可能性、か」
『はい。資料には、断った理由そのものは明記されていません。ですから、ここからは私の推測です』
樹里は、事実と推測を分けた。
『その後に提示された代替案では、各社が負う責任の範囲が明確に分けられています。条件を緩めたのではなく、問題が起きた際、誰がどこまで対応するのかを整理し直している』
緒方が手元の資料へ目を落とす。
森山の表情から、わずかな柔らかさが消えた。
今度は観察ではなく、樹里の答えを真剣に聞いている。
『島川不動産が最初のご要求を断った理由は、実現できなかったからではありません。責任の所在が曖昧なまま約束することを避けたためだと考えます』
「その判断が正しかったと?」
『結果だけを見れば、正しかったと思います』
「こちらの要求を断っているのにか」
『受け入れたあとで守れない方が、御社に対して不誠実です』
樹里は静かに答えた。
『ただし、これは記録から読み取った私の見解です。当時の担当者が、同じ理由で判断したとは断言できません』
高槻は樹里を見たまま、指先で机を一度叩いた。
「森山」
「はい」
「当時、島川不動産から何と言われた」
「日高さんの説明と、ほぼ同じです。責任範囲を明確にしない限り、この条件では引き受けられないと」
「そうだったな」
高槻は再び、神谷へ顔を向けた。
「相方は読めていたぞ」
「はい」
「悔しいか」
「悔しいです」
神谷は、その感情まで誤魔化さなかった。
「ですが、日高さんを選んだ判断が間違っていなかったとも思っています」
「助けてもらえてよかったと?」
「はい。今日の僕には、日高さんの補足が必要でした」
神谷はそこで終わらせなかった。
「ただし、次に同じことを聞かれたときは、僕が答えます」
樹里が横目で神谷を見る。
高槻は、しばらく二人を交互に見ていた。
「片方は、知らないことを知らないと言った」
高槻の指が神谷へ向く。
「片方は、分かっていることと推測を分けて話した」
今度は樹里へ向けられる。
「少なくとも、前任者から俺の好物を聞いて、手土産だけ立派にしてくる連中よりはましだ」
「高槻社長、そういう会社もあったんですか」
緒方が尋ねる。
「先月来ただろう。菓子の説明だけで10分使ったやつが」
「ああ……」
緒方が思い出したように苦笑する。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
しかし、高槻の視線は変わらない。
「神谷」
「はい」
「3日後に、さっきの対応案を持ってこい」
「承知しました」
「それから、今日答えられなかった過去の判断も、自分の言葉で説明できるようにしておけ」
「はい」
「資料を暗記してこいと言ってるんじゃない。なぜ、そうしたのかを考えてこい」
「分かりました」
高槻が立ち上がった。
「今日は以上だ」
神谷と樹里も席を立つ。
「本日は、ありがとうございました」
『ありがとうございました』
高槻は返事をせず、そのまま応接室を出ていった。
森山と緒方も資料をまとめる。
緒方が立ち上がりながら、神谷へ言った。
「最初から随分と細かく聞かれましたね」
「いつも、そうなのですか」
「期待していない相手には、そもそも聞きません」
緒方はそれだけ言うと、先に部屋を出た。
森山は扉の前で一度足を止める。
「3日後の資料、楽しみにしています」
「はい。必ずお持ちします」
「日高さん」
『はい』
「今の回答は、前任の方から聞いていたんですか」
『いいえ。資料を読んで、そう判断しました』
「そうですか」
森山は小さくうなずいた。
「では、次もお二人で」
扉が閉まる。
神谷と樹里だけが、応接室に残された。
神谷は、すぐには動かなかった。
閉じた資料へ視線を落とす。
「……助かりました」
『礼は必要ありません』
「必要です。僕が答えられなかったことを、日高さんが答えてくれました」
『私たちは、同じ案件を担当しています』
樹里は資料を鞄へ収めていく。
『神谷さんが答えられないことを私が答える。私が見落としたことを神谷さんが補う。そのために、二人で来ています』
「それでも、悔しいです」
樹里の手が止まる。
神谷は苦笑しなかった。
自分の不足を、冗談で軽くしようともしなかった。
「僕が主担当です。日高さんを選んだのも僕です。それなのに、最初の訪問から助けられました」
『私に答えさせないために、無理な説明をしなかったことは正しいと思います』
「慰めてくれているんですか」
『評価しています』
樹里は神谷を見る。
『知ったふりをして間違えるより、分からないと認める方が難しい場面でした』
「ですが、それだけでは仕事になりません」
『はい』
樹里は、そこを否定しなかった。
『ですから、次は答えてください』
「必ず」
『期待しています』
先ほどと同じ言葉だった。
しかし、会社を出る前に聞いたときとは、意味が少し違っていた。
神谷は、樹里の横に並ぶ。
「会社へ戻ったら、過去の記録を最初から洗い直します」
『私も手伝います』
「いえ。まずは僕にやらせてください」
樹里が神谷を見る。
「今日、日高さんがどこを見て、あの答えに辿り着いたのか。それを自分で考えたいです」
樹里はしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
『分かりました』
「その上で分からなければ、聞きます」
『いつでもどうぞ』
二人は高槻興産の社屋を出た。
初めての訪問で、契約へ近づいたわけではない。
信頼を得たとも、まだ言えない。
神谷は答えられなかった。
樹里は答えた。
それだけを見れば、二人の間には明確な差があった。
だが神谷は、その差から目を逸らさなかった。
樹里も、先回りして埋めようとはしなかった。
駐車場へ向かう途中、神谷が足を止める。
「日高さん」
『はい』
「3日後は、僕が前に立ちます」
『今日も立っていましたよ』
「まだ足りません」
『そうですか』
「はい」
樹里は神谷の顔を見た。
そこにあったのは落ち込みではない。
次は答えるという、静かな意地だった。
『では、3日後も隣に立ちます』
「お願いします」
神谷が歩き出す。
樹里も、その隣を歩く。
高槻興産との長い仕事は、まだ始まったばかりだった。
最初の日に持ち帰ったのは、成果ではない。
答えられなかった、たった1つの問い。
それがこの先、神谷を変えていく最初の宿題になった。




