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164話「3冊」

翌朝。


 神谷と樹里は、始業前から小会議室に入っていた。


 机の上には、黒澤から渡された3冊のファイルが並んでいる。


 1冊目は、現在の契約と数字。


 2冊目は、過去の更新や条件変更。


 3冊目は、歴代の担当者が残した打ち合わせ記録だった。


 長く続いてきた取引の重さが、その厚みに表れている。


「まず、現在の契約状況と、次回更新までに必要な作業を整理します」


『過去の条件変更も、同時に確認した方がいいと思います』


「理由まで把握しておくべきでしょうか」


『はい。同じ数字でも、先方が譲った結果なのか、こちらの事情で変更してもらったのかによって、意味が変わります』


 樹里が2冊目のファイルを開く。


 古いページには、何度も書き直された数字が並んでいた。


 変更された日付だけでなく、その横には当時の担当者が書いた短いメモが残っている。


『近隣工事の延期』


『管理側からの要望』


『社長判断。次回更新時に再検討』


 書かれている言葉は少ない。


 事情を知らない人間が見れば、数字が変わったという事実しか読み取れない。


『これを、金額だけで覚えるのは危険ですね』


「はい。なぜ変わったのかまで、確認します」


 神谷は自分のノートへ、変更内容と理由を分けて書き込んだ。


『分担を決めましょう』


「私は現在の契約と、今後の更新日程を整理します。日高さんには、過去の条件変更をお願いしてもよろしいでしょうか」


『構いません。ただ、完全に分けない方がいいと思います』


「と言いますと?」


『神谷さんが現在だけを知り、私が過去だけを知る状態にはしない方がいいということです』


 樹里は、3冊のファイルを見比べる。


『深く調べる場所は分担しても、最終的には2人とも全体へ目を通すべきです。どちらかが不在でも、最低限の対応ができる状態にしておきましょう』


「わかりました。分担して整理したあと、互いに内容を共有します」


『はい』


「日高さん」


『何ですか』


「改めて、引き受けていただいてありがとうございます」


『昨日も聞きました』


「正式に仕事を始める前に、もう一度お伝えしたかったので」


『でしたら、言葉ではなく仕事で返してください』


「はい」


 神谷がファイルへ視線を戻す。


 樹里も、それ以上は何も言わなかった。


 名古屋で交わした言葉は、この会議室には持ち込まない。


 神谷が樹里を選んだ理由も。


 樹里が引き受けた理由も。


 今は、仕事だけで説明できる。


 2人が資料を読み進めていると、小会議室の扉が開いた。


 入ってきたのは黒澤と、今月末で定年を迎える先輩社員だった。


 高槻興産を長年担当してきた人物だ。


「早いな。もう始めてたのか」


「引き継ぐ量が多いため、先に全体を確認しています」


「感心なのはいいが、ファイルだけで高槻興産を知った気になるなよ」


 黒澤が、先輩社員のために椅子を引く。


「長く担当していた人間から、直接話を聞いておけ」


「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


『よろしくお願いします』


 神谷と樹里が、揃って頭を下げる。


 先輩社員は2人を見たあと、机の上に広げられた資料へ目を落とした。


「随分、真面目に読んでいるな」


「今後の取引に必要な情報は、すべて把握しておきたいと思っています」


「それができれば苦労はしない。だが、最初から全部覚えようとすると、今度は本当に大事なものを見落とすぞ」


「本当に大事なもの、ですか」


「数字だけじゃないということだ」


 先輩社員は、打ち合わせ記録のファイルを自分の方へ引き寄せた。


「高槻社長は、気難しいと聞いただろう」


「はい。機嫌と距離の取り方が難しいと、黒澤部長から伺っています」


「間違ってはいない。ただ、機嫌が悪ければ何を言っても通じないような、単純な気分屋ではない」


 神谷のペンが止まる。


 樹里も、先輩社員へ視線を向けた。


「高槻社長が不機嫌になるときには、大抵理由がある」


『どのような理由でしょうか』


「誤魔化されたとき。わからないことを、わかったふりで答えられたとき。できないことを、できると言われたときだ」


 先輩社員は、自分が残した過去の記録を開く。


「機嫌を取ろうとして、何でも承知しましたと言えば喜ぶ相手じゃない。無理なら無理と言え。ただし、なぜ無理なのか。その代わりに何ができるのかは、必ず持っていけ」


「正直に話すことが重要なのですね」


「正直という言葉に甘えるなよ。何も調べずに、わかりませんと答えるのは正直じゃない。ただの準備不足だ」


「はい」


「調べたうえで、わからないことを誤魔化すなという意味だ」


 神谷は、今の言葉をノートへ書き込んだ。


『高槻社長は、過去の取引について細かく確認されますか』


 樹里が尋ねる。


「することがある」


『どの程度まででしょうか』


「こちらが忘れた頃の話を、突然出してくることもある」


「担当者を試しているのでしょうか」


「それもあるだろう。ただ、本人にとっては試しているというより、覚えていて当然という感覚に近い」


 先輩社員は、少し困ったように笑った。


「高槻社長にとっては、2年前も10年前も、自分が決めた仕事だからな。こちらが忘れていると、取引そのものを軽く扱われたように感じるんだろう」


『記録に残っている変更だけでも、理由まで確認しておく必要がありますね』


「そうだ。ただし、初回から全部を披露しようとするな」


『はい』


「最初に見られるのは、知識の量じゃない。お前たちが、どういう人間かだ」


 先輩社員の視線が、神谷へ向く。


「神谷が、次の主担当なんだな」


「はい」


「高槻社長は、まず前任者と比べる。若いと言われるかもしれない。経験不足とも言われるかもしれない」


「覚悟しています」


「そこで、自分を大きく見せようとするな。できることを、できる範囲で見せればいい」


「はい」


「焦って認めさせようとすると、あの人にはすぐ伝わるぞ」


 神谷の表情が、わずかに強張った。


 黒澤から任された。


 期待に応えたい。


 初回から、次の担当者として認められたい。


 口にはしていなくても、すでにその気負いは胸の中にあった。


『神谷さん』


 樹里が隣から声をかける。


「はい」


『初回の目的は、契約を進めることではなく、顔を覚えていただくことだと思います』


「……そうですね」


『無理に結果を出す必要はありません』


「はい」


 神谷は、ペンを持つ手から少しだけ力を抜いた。


 先輩社員は、そのやり取りを黙って見ていた。


「日高さんを選んだ理由が、少しわかった気がするな」


 神谷が顔を上げる。


「先方との距離を見られる方だと思いました。それに、私が間違えたときに止めていただけます」


「そうか」


 先輩社員は、今度は樹里を見る。


「日高さん。神谷が前へ出すぎたら、遠慮なく止めてやってくれ」


『承知しました』


「神谷も、止められたからといって意地になるなよ」


「そのつもりです」


「つもり、か」


 先輩社員が笑う。


「仕事を抱え始める人間は、最初はみんなそう言うんだ」


 黒澤が、腕を組んだまま神谷を見る。


「聞いたか、神谷」


「聞いています」


「なら、忘れるな」


「はい」


 短い返事だった。


 この時点で、神谷自身も本気でそう思っていた。


 樹里と情報を共有する。


 無理をするときは止めてもらう。


 1人で抱え込まない。


 黒澤へ告げた言葉にも、嘘はなかった。


 ただ、人は追い詰められたときほど、自分が最初に何を約束したのかを忘れてしまう。


 そのことを、今の神谷はまだ知らない。


「ほかに、気をつけることはありますか」


 神谷が尋ねる。


「高槻社長だけを見て帰るな」


「どういう意味でしょうか」


「会社は社長1人で動いているわけじゃないということだ」


 先輩社員は、引き継ぎ資料の連絡先一覧を開く。


「現場の窓口は、森山蓮さん。まだ若いが、現場の流れはよく見えている。社長へ直接言いにくいことも、森山さんなら拾ってくれる」


 神谷は、その名前へ印をつける。


「森山蓮さんですね」


「ああ。それから、受付の緒方栞さん」


『受付の方も、ですか』


「来訪者を最初に見るのは受付だ。高槻社長の予定も、社内の空気も、緒方さんが一番早く把握していることがある」


 先輩社員は2人を見る。


「社長にだけ気に入られようとする人間は、ほかの社員への態度が雑になる。高槻社長は、そういうところも見る」


「立場に関係なく、同じ態度で接するべきということですね」


「当然のことだろう」


「はい」


「だが、当然のことほど、大きな取引の前ではできなくなる人間が多い」


 神谷は、森山と緒方の名前をノートへ書き写した。


 樹里はその横で、過去の訪問記録を確認している。


『森山さんが現場の窓口。緒方さんが受付』


「初回の訪問では、お2人にも正式に挨拶します」


「それでいい」


 先輩社員は、3冊のファイルを閉じた。


「最後に1つだけ」


 神谷と樹里が、同時に顔を上げる。


「高槻社長を、攻略しようと思うな」


「攻略、ですか」


「あの人を機嫌よくさせれば仕事が進むとか、こう言えば認めてもらえるとか、そんな答えはない」


 先輩社員の声は、穏やかだった。


「仕事を持っていけ。約束を守れ。間違えたら、誤魔化さずに謝れ。それを続ければ、高槻社長はきちんと見ている」


『厳しい方ではあっても、理不尽な方ではないということですね』


「少なくとも、私はそう思っている」


 長年担当してきた人間の言葉だった。


 社内で語られる、気難しい大口顧客という評判。


 それだけでは見えない高槻正彦という人物が、その言葉の中にあった。


「ありがとうございます」


『参考になりました』


 神谷と樹里が、深く頭を下げる。


 先輩社員は立ち上がり、小会議室を出る前に神谷の肩を軽く叩いた。


「頼んだぞ。長く付き合ってきた、大事な取引先だ」


「はい。必ず、大切に引き継ぎます」


 黒澤も、そのあとに続く。


 扉の前で一度だけ振り返った。


「今日中に全部覚えようとするなよ」


「わかっています」


「日高さん。こいつが残りすぎていたら、先に帰らせてくれ」


『承知しました』


「黒澤部長。私の意思は関係ないのでしょうか」


「関係ない。お前は、任された直後が一番危なそうだからな」


「そのようなことはありません」


「そうだといいけどな」


 黒澤は扉を閉め、先輩社員とともに会議室を離れた。


 残された神谷は、3冊のファイルを見る。


「そこまで、信用がないのでしょうか」


『反対だと思います』


「反対?」


『信用されているからこそ、無理をするところまで見抜かれているんじゃないでしょうか』


「私は、無理をするつもりはありません」


『今は、でしょう』


「日高さんまで」


『私を選んだのは神谷さんです』


 樹里は2冊目のファイルを自分の前へ置く。


『必要なら、止めます』


「お願いします」


『素直ですね』


「そのために、お願いしましたから」


 樹里の目が、わずかに柔らかくなる。


『では、始めましょう』


「はい」


 2人は、改めて資料へ向き合った。


 神谷は現在の契約内容と、次の更新までの予定を整理する。


 樹里は過去の条件変更を追い、その理由を抜き出す。


 一定の時間ごとに、互いの見つけた情報を共有する。


 同じ数字を見ても、神谷は今後の予定から考え、樹里は過去の経緯から考える。


 視点は違う。


 だが、違うからこそ、一方だけでは見えなかったものが浮かび上がった。


「この条件は、現在も残っています」


『ですが、当初は一時的な対応だったようです。次の更新では、先方から確認される可能性があります』


「では、確認項目へ追加します」


『こちらは、森山さんへ先に確認した方がいいかもしれません』


「高槻社長へ持っていく前に、現場との齟齬をなくしておくべきですね」


『はい』


 会話は、完全に仕事のものだった。


 名古屋で抱きしめた夜も。


 醒めてから言えと返された言葉も。


 今は、3冊のファイルの外に置かれている。


 それでも神谷は、樹里を選んだことが間違いではなかったと、すでに感じ始めていた。


 定時を迎える頃、資料の整理は予定していたところまで進んだ。


 神谷が次のファイルへ手を伸ばす。


『神谷さん』


「はい」


『今日は、ここまでにしましょう』


「あと少しだけ、確認したい場所があります」


『黒澤部長からも、残りすぎないよう言われていました』


「まだ定時を過ぎたばかりです」


『初日から約束を破るつもりですか』


 神谷の手が止まる。


「……わかりました」


『続きは明日でも間に合います』


「はい。初回訪問の日程も、明日調整します」


 神谷はファイルを閉じた。


 その様子を確認してから、樹里も資料を揃える。


 初日は、定時から大きく遅れることなく会社を出た。


 止められた神谷も、素直に手を止めた。


 まだ、樹里の言葉は届いている。


 まだ、仕事の重さを2人で分けられている。


 高槻興産との長い仕事は、古びた3冊のファイルから静かに始まった。

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