163話「選んだ理由」
163話「選んだ理由」
名古屋から戻った翌営業日。
島川不動産の営業部には、朝から土産物の箱が積み上がっていた。
『高村さん、これどうぞ。名古屋のお土産です』
「ありがとうございます。随分たくさん買ってきたんですね」
『来られなかった人にも、旅行した気分を味わってほしくて』
「櫻井さんが配っていると、出張帰りみたいですね」
『遊びに行っただけだけどね』
陽菜は箱を抱え、次の席へ向かう。
両頬の腫れはかなり引いていたが、化粧だけでは完全に隠し切れていない。
それに気づいた彩花が、陽菜の顔を見つめる。
「櫻井さん。その顔、どうしたの?」
『名古屋で、ちょっと』
「転んだの?」
『友情の形を、身体で教えてもらいました』
「何、それ」
彩花の視線が、少し離れた席にいる樹里へ向く。
樹里は何も聞こえていないような顔で、パソコンの画面を見ていた。
「日高」
『何』
「あんたがやったの?」
『知る必要はない』
「やったんだ」
『本人が納得しているなら、問題ないでしょ』
『納得はしてないよ』
陽菜が即座に口を挟む。
『いきなり両方の頬を殴られたんだから』
『説明する時間は与えました』
『遺言を聞かれただけじゃん』
『あれだけ好き勝手して、無傷で帰れると思っていたんですか』
『でも、結果的にみんな幸せになったよ?』
『結果がよければ、何をしても許されるわけではありません』
『日高先輩も?』
『私は関係ありません』
樹里の返事が、わずかに早くなる。
陽菜は口元を緩めた。
『ふうん』
『何ですか』
『別に』
『その顔をやめてください』
『どの顔?』
『殴られ足りない人の顔です』
樹里が椅子から立ち上がりかける。
陽菜は土産物の箱を抱えたまま、中井の席へ逃げた。
『中井くん、守って』
「会社で追いかけっこを始めないでください」
『恋人が危ないんだよ?』
「日高先輩。社内ですので、ここまでにしていただけませんか」
『中井さんに免じて、やめておきます』
『あたしに免じてよ』
『嫌です』
「櫻井さん。仕事を始める時間だ」
黒澤の声が飛ぶ。
『すみません、黒澤部長。すぐに始めます』
「土産を配るのは昼休みでもできるだろ。残りは置いておけ」
『はい』
「日高さんも座って」
『申し訳ありません』
樹里が静かに席へ戻る。
陽菜も中井の机へ土産を1箱置き、自分の席へ向かった。
『中井くんの分』
「ありがとうございます」
『中身、1個ちょうだい』
「もう狙っているんですか」
『あたしが選んだんだから、味を確認しないと』
「昨日、何度も試食していましたよね」
『過去の味と今の味は、違うかもしれないじゃん』
「1日では変わりません」
周囲から、小さな笑いが起きる。
「いいから、仕事を始めろ」
黒澤に再び注意され、陽菜はようやくパソコンを立ち上げた。
旅行が終われば、日常へ戻る。
机の位置も。
抱えている業務も。
朝から鳴り続ける電話も変わらない。
それでも、名古屋へ出発する前と、何もかも同じではなかった。
昼休み。
凛は社員食堂の席で、スマートフォンの画面を見つめていた。
青柳から届いたLINEには、次に名古屋へ来たときの候補地が並んでいる。
観光名所。
食事のできる店。
落ち着いて話せる喫茶店。
それぞれの移動時間と、予想される混雑まで添えられていた。
『凛ちゃん、さっきからずっと笑ってるよ』
「笑っていません」
『笑ってるって』
「普通の顔です」
『じゃあ、何を見てるの?』
陽菜が横から画面を覗こうとする。
凛は素早くスマートフォンを胸元へ隠した。
「陽菜さんには見せません」
『どうして?』
「青柳さんからのLINEだからです」
『だったら、もっと見たい』
「絶対に見せません」
『次のデートの話?』
「まだ決めている途中です」
『デートなんだ』
「……誘導しましたね」
『凛ちゃんが素直に答えたんだよ』
陽菜は楽しそうに笑う。
『2週間後だっけ?』
「はい。まずは青柳さんが、東京へ来てくれます」
『どこに行くの?』
「それは、これから決めます」
『ホテルは?』
「陽菜さん!」
凛が顔を赤くする。
『聞いただけじゃん』
「青柳さんと相談します。陽菜さんには決めさせません」
『あたし、いいホテル知ってるよ?』
「知っていても、教えなくて結構です」
『朝食が美味しいのに』
「朝食の問題ではありません」
向かいに座る柚希が、2人の会話を聞きながら笑っていた。
その手元で、スマートフォンが震える。
画面を確認した柚希の表情が、柔らかくなる。
『零から?』
陽菜が尋ねる。
「……はい」
『何だって?』
「仕事が終わったら、少し会えないかって」
『行くの?』
「行きます」
『初デート?』
「旅行から帰る前にも会っていますから、初めてではないです」
『でも、付き合ってからは初めてでしょ?』
「そうなりますね」
柚希が照れたように画面を見つめる。
『何するんだろうね』
「駅の近くで、食事をするだけです」
『本当に?』
「本当です」
『零、ちゃんと誘えたんだ』
「昨日から、何度も文章を書き直していたみたいです」
『見てたの?』
「送信中と入力中が、何度も切り替わっていたので」
『可愛いじゃん』
「はい。可愛いです」
柚希の口から自然に零れた言葉に、今度は陽菜が目を丸くする。
『柚希ちゃん、変わったね』
「そうですか?」
『前なら、自分の気持ちを言ったあと、すぐ恥ずかしがってた』
「今も恥ずかしいですよ」
『でも、取り消さないじゃん』
「……零ちゃんに聞かれて、困る言葉ではありませんから」
柚希はそう言って、零へ返信を送った。
陽菜は満足そうに頷く。
『いいねえ。旅行の効果が出てる』
「陽菜さん。次も勝手に部屋を決めようとしたら、事前に日高先輩へ伝えますからね」
『裏切られた』
「最初から、陽菜さんの味方になった覚えはありません」
『凛ちゃんまで冷たい』
「当然です」
会話の輪から少し離れた席で、樹里は黙って昼食を取っていた。
そこへ、神谷が書類を持ってくる。
「日高さん。午前中に確認をお願いした資料ですが」
『確認しました。修正箇所には付箋を貼っています』
「ありがとうございます」
『いえ。こちらこそ、ご対応いただきありがとうございます』
「とんでもありません。お忙しい中、恐れ入ります」
『神谷さんにお手数をおかけして、申し訳ありませんでした』
「いえ。こちらの説明が不足していましたので」
『そのようなことはありません』
「お前たち、さっきから何をやってるんだ」
黒澤が、呆れたように口を挟む。
樹里と神谷が、同時に彼を見る。
「資料を確認してもらっていました」
『修正点をお伝えしていただけです』
「それは見ればわかる」
黒澤は2人を交互に見た。
「どうして、いつも以上に堅苦しく話してるんだ」
「そのようなつもりはありません」
『普段どおりです』
返事まで重なった。
神谷が口を閉じる。
樹里も神谷から目を逸らす。
黒澤の眉が上がった。
「旅行先で、何かあったのか?」
『ありません』
「何もありません」
再び、同時だった。
「……そうか」
黒澤は明らかに納得していない顔をしながらも、それ以上は尋ねなかった。
「資料の話が終わったなら、神谷は席に戻れ」
「はい」
『神谷さん』
樹里が呼び止める。
神谷が振り返った。
『昨日は――』
昨夜は、ご迷惑をおかけしました。
朝にも一度、そう伝えた。
もう一度言えば、不自然になる。
それでも、何も言わずに離れることもできなかった。
『……資料、ありがとうございました』
「はい。こちらこそ、ありがとうございます」
神谷が席へ戻る。
樹里は、手元の箸を持ったまま俯いた。
「日高」
彩花が、隣の席へ座る。
『何』
「あんた、神谷さんと何かあったでしょ」
『何もない』
「私、何があったとは聞いてないけど」
『……言い方の問題でしょ』
「今のあんた、わかりやすすぎるよ」
『彩花に言われたくない』
「私の話はしてない」
『だったら、放っておいて』
「別に、聞き出すつもりはない」
彩花は、自分の飲み物をテーブルへ置く。
「ただ、仕事中まで気まずそうにするのはやめなよ。見てる方が落ち着かない」
『仕事には持ち込んでいない』
「持ち込んでるから、黒澤部長にまで気づかれたんでしょ」
樹里は反論できなかった。
「日高が神谷さんを意識しようが、振ろうが、付き合おうが、私はどうでもいい」
『まだ何も言ってない』
「でも、今までどおりではないんでしょ」
樹里の指が止まる。
「だったら、自分で整理しなよ。仕事でまで遠慮し合ってたら、そのうちどっちかがミスする」
『……わかってる』
「ならいい」
彩花はそれだけ言い、自分の昼食へ手をつけた。
簡単に樹里へ寄り添うことはしない。
恋愛の相談に乗るつもりもない。
けれど、樹里が普段の自分を失っている姿を、放っておくこともできなかった。
『彩花』
「何?」
『ありがとう』
「気持ち悪いからやめて」
『お前、本当に可愛くないな』
「そっちこそ」
2人は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
午後。
樹里は彩花に言われたことを意識し、仕事へ集中した。
神谷から確認を求められれば、必要なことだけを返す。
過剰に丁寧な言葉を選ばない。
神谷も、樹里が普段へ戻ろうとしていることに気づいたのか、余計な遠慮をしなくなった。
それでも、ときおり視線が重なる。
そのたびに、昨夜の記憶が蘇った。
抱きしめられた腕の温度。
好きだと告げた神谷の声。
醒めてから言え。
自分から口にした言葉。
神谷は、まだ言い直していない。
樹里も、それを求めてはいない。
今は、これでいい。
すぐに答えを出さなくても、なかったことにはならない。
午後の朝礼が終わったあと、黒澤が自席から顔を上げた。
「神谷。少し、別室へ来てくれ」
「私ですか」
「そうだ。引き継いでもらいたいものがある」
「承知しました」
神谷は手元の作業を保存し、黒澤のあとを追った。
小会議室へ入る。
机の上には、分厚いファイルが3冊並べられていた。
長く使われてきたものらしく、背表紙の端は擦れ、何人もの筆跡で日付と項目が書き加えられている。
表紙に記されている企業名を見て、神谷の表情が変わった。
高槻興産。
「高槻興産ですか」
「ああ」
黒澤は、3冊のファイルを神谷の前へ押し出した。
「これまで担当していた先輩が、今月末で定年退職する。後任として、お前に引き継いでもらう」
「私が、ですか」
「そうだ。高槻興産の主担当に、神谷を指名する」
神谷は、すぐにはファイルへ手を伸ばさなかった。
高槻興産は、島川不動産と古くから付き合いのある取引先だ。
取引の年数だけでなく、動く数字も大きい。
営業部の中でも、誰にでも任される顧客ではなかった。
「私より経験のある方もいます」
「いるな」
「なぜ、私なのでしょうか」
「これまでのお前の仕事を見て、任せられると判断した」
黒澤は、短く答えた。
「大きな取引先だから、経験年数だけで担当を決めるつもりはない。これから先、お前にもっと大きな仕事を任せるためにも、ここで一度、古い顧客を背負ってもらう」
「……はい」
「ただし、先方は簡単な相手じゃない」
黒澤は、ファイルの1冊を開く。
「高槻興産は、こちらとの付き合いが長い。その分、過去の取引も、担当者の仕事もよく見ている」
「引き継ぎの資料だけでは足りない、ということでしょうか」
「そのとおりだ。数字だけ覚えて行っても、すぐに見抜かれる」
黒澤の指が、過去の取引記録をなぞる。
「高槻社長は、特に人を見る。機嫌も難しいが、ただ機嫌を取ればいい相手じゃない」
「どのような距離が必要ですか」
「媚びれば嫌われる。必要以上に引けば、覚悟がないと思われる。正論だけで押しても、面白くないと切られる可能性がある」
「難しいですね」
「ああ。近づきすぎても駄目だ。遠慮しすぎても駄目。数字だけでなく、先方との距離の取り方が必要になる」
神谷は、ファイルを開く。
過去の契約。
条件の変更。
更新時の記録。
担当者が残した短いメモ。
一度目を通しただけでは、全体を把握できないほどの情報が詰まっていた。
「今後、私の仕事は高槻興産が中心になりますか」
「そう思っておけ」
黒澤は迷わず答えた。
「ほかの案件も完全になくなるわけじゃない。ただ、しばらくは高槻興産を主軸に動いてもらう」
「承知しました」
「それと、もう1つ」
神谷が顔を上げる。
「先方は1人じゃ動かない。うちも、この取引を1人では回せない」
黒澤は神谷をまっすぐに見る。
「共に動ける人間を、営業部から1人立てろ」
「同行する担当者を、ですか」
「そうだ。先方との打ち合わせだけじゃない。資料の精査、社内の調整、何か起きたときの判断も必要になる」
「どなたを立てるか、決まっていますか」
「決めるのはお前だ」
神谷の目が、わずかに見開かれる。
「私が選んでもよろしいのですか」
「主担当はお前だ。誰となら、この取引を最後まで動かせるのか、自分で考えろ」
「……わかりました」
「気を遣わずに使える人間を選べ、という意味じゃない」
黒澤の声が、少し低くなる。
「お前が見落としたものを拾える人間。必要なときに意見を言える人間を選べ」
「はい」
「神谷」
「はい」
「自分で仕事を取ってくる力だけなら、もう見ている」
黒澤は、机の上のファイルを指で叩く。
「ここから先は、誰を選び、どう仕事を分け、どう全体を動かすかだ」
神谷は、その言葉を黙って受け止める。
「大きな取引先を持つというのは、全部を1人で抱えることじゃない。一緒に動く人間へ、必要なものを渡せるかどうかも仕事のうちだ」
「承知しました」
「相手を決めたら、自分で話を通せ。了承を得たあとで、俺に報告しろ」
「はい」
小会議室を出た神谷は、3冊のファイルを抱えて自分の席へ戻った。
営業部を見渡す。
候補は、何人もいる。
経験の豊富な者。
話術に長けた者。
数字に強い者。
自分と仕事を進めやすい者。
だが、高槻興産の記録を読み、黒澤から先方の性格を聞いた時点で、神谷の中には1人の名前が残っていた。
視線の先で、樹里が書類を確認している。
無駄のない手つき。
小さな数字の違いも見逃さず、誰かの意見へ安易に流されることもない。
相手へ合わせるべき場所は見極める。
それでも、譲ってはいけない場面では退かない。
高槻社長の機嫌を取る人間ではなく、機嫌の変化を読んだうえで、必要な言葉を選べる人間。
神谷には、樹里が最も適任に思えた。
同時に、名古屋での夜が頭をよぎる。
好きだと伝えた。
醒めてから言えと返された。
その直後に仕事へ誘えば、私情で選んだと思われても仕方がない。
だからこそ、曖昧な頼み方はできなかった。
神谷はファイルを一通り確認し、樹里の席へ向かった。
「日高さん。少し、お時間をいただけますか」
『はい。仕事の話ですか』
「そうです」
『わかりました』
2人は、空いている小会議室へ移動した。
神谷は、3冊のファイルを机へ置く。
「黒澤部長から、高槻興産を引き継ぐように言われました」
『高槻興産を、神谷さんが?』
「はい。今月末で定年退職される方から、主担当を引き継ぎます」
樹里の表情が引き締まる。
『大きな取引先ですね』
「今後、私の仕事は高槻興産が中心になると言われました。先方は古くから島川不動産と付き合いがあり、取引の数字も大きい。一方で、機嫌や距離の取り方が難しいそうです」
『それで、この資料を?』
「1人では回らないため、一緒に動く人間を1人立てるように言われました」
神谷は、樹里をまっすぐに見る。
「日高さんに、お願いしたいです」
樹里は、すぐには答えなかった。
ファイルの表紙へ目を落とし、再び神谷を見る。
『理由を、聞かせてもらえますか』
「日高さんの仕事の精度です」
神谷は、一度息を吸う。
「資料の確認が正確で、現場でも状況を見て判断できます。それに、相手の言葉だけでなく、表情や声の置き方まで見ています」
『ほかにも、適任の方はいると思います』
「先方は、数字だけで動く相手ではないと聞いています。媚びれば見抜かれ、距離を置きすぎれば覚悟がないと判断される」
神谷は、言葉を濁さなかった。
「営業部の中で、その距離を最も正確に見極められるのは、日高さんだと思いました」
『神谷さんとは、意見がぶつかるかもしれません』
「それも、日高さんを選んだ理由です」
樹里の目が、わずかに見開かれる。
「私の考えに従うだけの方では、意味がありません。私が見落としているものがあれば、止めてくれる人が必要です」
『止められることを、嫌だとは思わないんですか』
「仕事が正しい方向へ進むなら、聞くべきだと思います」
神谷の目に、迷いはない。
樹里はファイルの端へ指を置いた。
『名古屋でのことは、この判断に入っていませんか』
今度は、神谷がわずかに息を止める。
何を指しているのか、確かめる必要はなかった。
「入っていません」
神谷は、はっきり答えた。
「日高さんを好きだという気持ちと、今回の人選は分けています」
樹里の指に、わずかに力が入る。
「むしろ、名古屋でのことがあったからこそ、ほかの方を選ぶべきかとも考えました」
『では、なぜ私を?』
「それでも、日高さんより適任だと思える方がいませんでした」
神谷は目を逸らさない。
「私情を疑われることを避けるために、必要な人を外す方が、仕事へ私情を持ち込むことになると思いました」
樹里は、しばらく何も言わなかった。
昨夜、神谷は好きだと告げた。
今、目の前にいる神谷は、その感情を仕事の口実にしていない。
距離を縮めるためではなく。
特別扱いするためでもなく。
高槻興産を引き継ぎ、主担当として責任を果たすために、樹里の能力を求めている。
『私にも、条件があります』
「聞かせてください」
『必要な情報は、すべて共有してください』
「はい」
『自分だけで判断し、あとから結果だけを伝えることはしないでください』
「わかりました」
『私が違うと思ったときは、遠慮なく意見を言います』
「そのために、日高さんへお願いしています」
『私の意見を聞いたうえで、神谷さんが別の判断をする場合は、理由を説明してください』
「約束します」
樹里は、3冊のファイルを自分の方へ引き寄せた。
『わかりました。お引き受けします』
神谷の表情から、わずかに緊張が抜ける。
「ありがとうございます」
『まだ、何も始まっていません』
「それでも、日高さんに受けていただけて安心しました」
『安心するのは、先方から担当として認めてもらってからにしてください』
「はい」
樹里は、一番上のファイルを開く。
『初回の訪問日は、決まっていますか』
「これから先方と調整します」
『決まり次第、共有してください。それまでに、過去の取引には一通り目を通します』
「私も確認します。分担は、改めて相談させてください」
『承知しました』
神谷がファイルを持ち直す。
樹里は、その手元を見ながら口を開いた。
『神谷さん』
「はい」
『仕事の上で選んでいただいたことは、素直に嬉しく思います』
「……はい」
『ですが、それ以外の話は別です』
「わかっています」
神谷は、それ以上何も言わなかった。
酔いが醒めてから言えと告げられた言葉を、仕事の始まりへ重ねるつもりはない。
今は、仕事の相棒として樹里を選んだ。
その事実だけでよかった。
樹里の了承を得た神谷は、3冊のファイルを抱えて黒澤の席へ向かった。
「黒澤部長。同行する担当者の件ですが」
「決めたか」
「はい。日高さんにお願いしました。ご本人からも了承をいただいています」
「日高さんか」
黒澤は、少し離れた席でファイルを開いている樹里を見る。
「悪くない。先方は人を見る。日高さんなら、変に媚びることもないだろう」
「私も、そう判断しました」
「選んだ理由は、それだけか」
「資料の精度と、現場での判断力です。それに、私が間違えたときに、遠慮なく止めてもらえると思いました」
黒澤の目が、わずかに細くなる。
「止められたとき、ちゃんと聞けるのか?」
「そのつもりです」
「そのつもり、で終わるなよ」
神谷の表情が引き締まる。
「日高さんを選んだなら、情報も仕事もきちんと渡せ。自分が主担当だからといって、全部を1人で抱えるな」
「承知しました」
「それと、変な気負いはするな」
「……はい」
「高槻興産をお前に任せたのは、倒れるまで働けという意味じゃない。主担当として、最後まで動かせると判断したからだ」
「必ず、期待に応えます」
「その言い方が、もう気負ってるんだよ」
黒澤が呆れたように息を吐く。
「最初から結果を出そうとするな。まずは顔を覚えてもらえ。先方に、お前が次の担当だと認めさせるところから始めろ」
「はい」
「頼んだぞ、神谷」
「はい。ありがとうございます」
神谷は深く頭を下げた。
古くから島川不動産を支えてきた大口顧客。
その主担当として、黒澤が選んだのは神谷だった。
そして神谷が、自分の隣に立つ人間として選んだのは樹里だった。
この時点では、まだ誰も知らない。
引き継いだ取引先から、やがて島川不動産の将来を左右するほどの大型案件を任されることも。
黒澤から託された期待が、神谷の背中を押すだけでなく、少しずつ肩へ重く積み重なっていくことも。
今はただ、擦れた3冊のファイルが、2人の間に置かれている。
恋人としてではない。
仕事の相棒として。
神谷と樹里は、高槻興産へ向き合い始めた。




