162話「笑い声の中心」
朝食を終えた一行は、一度それぞれの部屋へ戻った。
荷物をまとめ、チェックアウトの準備を済ませる。
青柳が鞄を持ってロビーへ降りると、凛がソファに座って待っていた。
足元には、すでに荷物が置かれている。
「支度は終わりましたか」
「はい。忘れ物がないか、何度も確認しました」
「僕も確認しました。部屋には何も残っていないはずです」
「青柳さんなら、忘れ物はしなさそうですね」
「凛さんと話している間に置いたものがないか、念のため見直しました」
凛の頬に、わずかな赤みが差す。
昨夜、部屋で交わした口づけ。
2週間後に東京で会うという約束。
朝食の席で皆にからかわれても、決めた日付は変わらない。
「2週間後、本当に来られますか」
「はい。金曜日の仕事を終えてから向かいます」
「無理はしないでくださいね」
「無理ではありません。僕が凛さんに会いたいので行きます」
「……はい」
「その次は、凛さんが名古屋へ来てくれるんですよね」
「もちろんです」
「そのときに案内する場所を考えておきます」
「今日行けなかったところがいいです」
「候補をまとめて、LINEで送ります」
「多すぎないようにしてくださいね」
「何件までならいいですか」
「そうやって、すぐに正確な数字を求めないでください」
「申し訳ありません」
凛は呆れながらも、嬉しそうに笑った。
次に会える日が決まっている。
それだけで、これから訪れる別れは、昨日まで想像していたものとは違っていた。
エレベーターの扉が開く。
零と柚希が、並んで降りてきた。
柚希の足元へ置かれた鞄を、零が持ち上げる。
「自分が持ちます」
「でも、零ちゃんも荷物があるでしょ」
「これくらい平気っす」
「ありがとう」
零は柚希の鞄を、自分の肩へ掛けた。
昨夜から恋人になったからといって、振る舞いが急に変わったわけではない。
以前から、零はこうして柚希へ手を差し伸べていた。
違うのは、その手を受け取った柚希の表情だった。
零に大切にされることを、もう友情の中だけで受け止めなくていい。
「凛ちゃん、青柳さん。早いですね」
「私たちも、今来たところです」
「全員が揃うまで、もう少しかかりそうっすね」
零がロビーを見回す。
「櫻井さんは、また日高さんに何か言っているんでしょうか」
「朝食のあとも、ずっと懲りていない様子でしたからね」
青柳が答える。
その予想は、すぐに正しかったと証明された。
再びエレベーターが開く。
『日高先輩。ホテルを出たら、もう旅行中の暴力は無効だからね』
『そのような決まりはありません』
『じゃあ、ここからは平和にいこう。ね?』
『櫻井さんが余計なことをしなければ、何も起きません』
『その条件、厳しくない?』
「普通にしていればいいだけです」
『中井くんまで、日高先輩の味方をするの?』
「僕は、陽菜さんがこれ以上殴られないように言っています」
『本当に?』
「本当です」
両頬へ冷却シートを貼った陽菜が、エレベーターから降りてくる。
中井は自分の鞄だけでなく、陽菜の荷物まで持っていた。
その後ろから、樹里と神谷が続く。
2人の間には、相変わらず不自然なほどの距離があった。
『荷物くらい、自分で持てます』
「わかっています。ですが、こちらの方が運びやすいので」
『それは私の鞄です』
「部屋を出るときに、まとめて持っただけです」
『では、返してください』
「下へ着いてからでいいでしょう」
『もう着いています』
「……そうですね」
神谷が樹里へ鞄を返す。
持ち手を受け取る際、2人の指先が触れそうになった。
樹里が咄嗟に手を引く。
神谷も同時に動きを止めた。
『すみません』
「申し訳ありません」
短い謝罪まで重なる。
陽菜が、冷却シートを貼ったまま2人を見比べる。
『やっぱり、何かあったでしょ』
『櫻井さん』
『何でもないです』
陽菜は即座に中井の背後へ隠れた。
「僕を盾にしないでください」
『だって、もう殴られたくない』
「それなら、黙っていてください」
『あたしから喋ることを取ったら、何が残るの?』
「元気と行動力と、人の話を聞かないところです」
『最後のはいらない』
神谷が咳払いをする。
「先にチェックアウトを済ませませんか」
『そうですね』
樹里は神谷の顔を見ないまま答えた。
『神谷さん、お願いします』
陽菜がカードキーを差し出す。
「なぜ、僕に渡すんですか」
『神谷さんがいちばん、手続き得意そうだから』
「今回の旅行を企画したのは櫻井さんでしょう」
『あたし、怪我人だよ?』
『誰のせいですか』
『日高先輩』
樹里が無言で拳を握る。
陽菜は中井の背中へ、さらに身体を隠した。
『冗談。自業自得です』
「最初から、そう言ってください」
樹里が陽菜からカードキーを取り上げる。
『私も確認します。神谷さん、行きましょう』
「はい」
並んでフロントへ向かう。
肩が触れないよう、互いにわずかな距離を取っている。
朝食の席から続く気まずさは、まだ消えていなかった。
昨夜の話には触れない。
何もなかったことにもしない。
その間で、2人とも普段どおりの振る舞い方を見失っていた。
『見た?』
陽菜が、小声で中井へ尋ねる。
「見ています」
『絶対、何かあったよね』
「本人たちが話すまで、放っておきましょう」
『中井くんは気にならないの?』
「気にはなります」
『じゃあ聞こうよ』
「それと、聞いていいかどうかは別です」
『真面目だなあ』
「陽菜さんが自由すぎるんです」
手続きを終えた一行は、ホテルを出て名古屋駅へ向かった。
新幹線の発車時刻までは、まだ余裕がある。
駅へ着くと、陽菜は土産物店の前で足を止めた。
『会社のみんなに、何がいいと思う?』
「ホテルでも買っていましたよね」
中井が尋ねる。
『あれは自分用』
「同じ箱を3つ買っていました」
『好きなんだから仕方ないじゃん』
「食べすぎないでください」
『中井くんにも1個あげるよ』
「1箱ですか?」
『1個』
「箱ではなく、中身を1つですか」
『欲張りだなあ』
「僕が欲張りなんですか?」
陽菜は中井の疑問を聞き流し、店内へ入っていった。
『これは黒澤部長。こっちは彩花さんたちにしようかな。高村さんたちは量が多い方が喜びそう』
『高村さんたちだけ、扱いが雑ではありませんか』
樹里が土産物の箱を見る。
『量だけでなく、味も確認してください』
『日高先輩、試食あるよ』
『そういう意味ではありません』
『食べないの?』
『食べません』
陽菜は爪楊枝に刺さった菓子を1つ取り、樹里の口元へ差し出した。
『美味しいよ』
『自分で食べてください』
『せっかく取ったのに』
『私はいりません』
陽菜が悲しそうな顔をする。
数秒耐えたあと、樹里が小さく口を開いた。
陽菜は嬉しそうに、菓子をその口へ入れる。
『どう?』
『……悪くありません』
『じゃあ、これにしよ』
陽菜が箱を手に取る。
『櫻井さん。いくつ買うつもりですか』
『来られなかった人もいるし、たくさん』
『費用は私も出します』
『いいよ。あたしが勝手に企画した旅行だもん』
『会社への土産まで、1人で負担する必要はありません』
『じゃあ、半分お願い』
『最初からそのつもりです』
陽菜はあっさりと頷き、さらに別の棚へ向かった。
そのあとを、樹里が追う。
中井は増えていく箱を受け取りながら、2人の背中を見ていた。
少し離れた場所に立つ青柳も、同じ光景を眺めていた。
騒がしい。
朝から樹里に制裁を受けたにもかかわらず、少しも懲りていない。
勝手に旅行を企画し、本人たちへ確認もせず部屋を決める。
他人の恋愛へ遠慮なく踏み込み、隠しておきたいことまで平然と尋ねる。
陽菜の行動だけを並べれば、褒められたものではない。
実際、樹里が怒るのも当然だった。
それでも青柳は、陽菜が島川不動産へ入社してから、周囲が少しずつ変わっていったことを知っている。
陽菜が入社する前の営業部も、決して雰囲気が悪かったわけではない。
社員同士で必要な会話を交わし、仕事が終わればそれぞれの生活へ戻る。
大きな衝突が起きることもなければ、互いの内側へ深く踏み込むこともなかった。
樹里は、仕事が終われば1人で帰った。
困っている人間を黙って助けても、自分が抱えているものを誰かへ明かそうとはしない。
周囲も樹里を頼りにしていたが、彼女が何を考えているのかまで知ろうとはしなかった。
中井は優しい男だった。
だが、自分の気持ちを押し出し、誰かの前へ立つことは少なかった。
柚希はいつも明るく振る舞っていた。
傷ついているときほど、周囲に心配をかけまいと笑った。
凛は人の気持ちをよく見ていた。
その代わり、自分の気持ちを伝えることには臆病だった。
それぞれが近くにいながら、それぞれの場所で生きていた。
そこへ、陽菜が入社してきた。
相手が引いた境界線など、最初から見えていないように踏み越えた。
昼食へ誘い。
仕事が終われば声をかけ。
誰かが落ち込んでいれば、本人が断っても放っておかなかった。
陽菜に、誰かの傷を治す特別な力があるわけではない。
正しい答えを与えられるわけでもない。
余計なことをして、怒られることもある。
相手のためだと思って動き、間違えることもある。
それでも、寂しさを隠している人間を、1人のままにはしておかなかった。
陽菜が騒ぎを起こすたび、離れていた人間同士が同じ場所へ集められた。
そこで互いの顔を見て、初めて気づく。
自分だけが悩んでいたわけではないことに。
手を伸ばせば、握り返してくれる人がいることに。
「青柳さん」
隣へ来た中井が、声をかける。
「どうしました?」
「いえ」
青柳は、土産物の箱を抱えて笑う陽菜を見る。
「櫻井さんが入社してから、随分変わったと思いまして」
「陽菜さんが、ですか?」
「櫻井さん本人もですが、周りがです」
中井も陽菜を見る。
陽菜は零と柚希を呼び寄せ、2人で食べる土産を勝手に選んでいる。
柚希は赤くなり、零は困りながらも、それを棚へ戻そうとはしなかった。
次に凛と青柳を交互に見て、名古屋限定と書かれた菓子を凛へ押しつけている。
「ふざけてばかりに見えますけどね」
「はい。実際、ふざけてばかりです」
「そこは、少しくらい否定してあげてください」
「ですが、櫻井さんがいなければ、この旅行はありませんでした」
青柳は続ける。
「僕は、凛さんと会えなかった。東雲さんと早川さんも、気持ちを伝える機会がなかったかもしれません。日高さんと神谷も――」
「そこは、やはり何かあったと思いますか」
「僕にはわかりません。ただ、朝から一度もまともに目を合わせていません」
「僕も、気になっていました」
「おそらく、本人たち以外は全員気づいています」
中井が小さく笑う。
「陽菜さんは、誰かを変えようと思って動いているわけではないと思います」
「僕も、そう思います」
「自分がみんなと一緒にいたいから、勝手に巻き込んでいるだけです」
「ですが、巻き込まれた人は、以前より楽しそうです」
「はい」
中井の目が柔らかく細められる。
「僕も、その1人です」
青柳は静かに頷いた。
陽菜は、人を導こうとはしない。
立派な言葉で、背中を押すわけでもない。
ふざけて。
からかって。
怒られて。
それでも笑いながら、誰かの手を取り、別の誰かがいる場所まで連れていく。
その騒がしさの中で、いつの間にか人と人が繋がっていた。
陽菜が入社してから、樹里の周りには人が集まるようになった。
中井は、自分の意見を口にするようになった。
凛は、待っているだけだった場所から一歩を踏み出した。
柚希は、傷ついても誰かを信じることを諦めなかった。
陽菜自身は、きっとそのことに気づいていない。
自分が誰かを幸せにしているなどと知れば、照れるより先に調子へ乗るだろう。
『青柳くーん!』
噂をしていた陽菜が、大きく手を振る。
『そこで中井くんと何話してるの? 青柳くんも、会社に持っていく分を選んでよ』
「僕は名古屋の支店ですが」
『2週間後に東京へ来るんでしょ? そのとき持ってきて』
「日持ちするものを選ぶ必要がありますね」
『そこから考えるの?』
「必要なことです」
『凛ちゃん。青柳くん、真面目すぎない?』
「そこが青柳さんの良いところです」
凛が自然に答える。
言ってから気づいたのか、その頬が赤くなった。
「ありがとうございます」
青柳は、素直に礼を告げる。
『朝から見せつけてくれるねえ』
「陽菜さん!」
『痛っ』
陽菜は笑った拍子に頬を押さえた。
それを見て、全員が笑う。
樹里まで、呆れたように口元を緩めていた。
陽菜は笑い声の中心で、痛む頬を押さえながら不満そうにしている。
けれど、誰よりも楽しそうだった。
新幹線の発車時刻が近づき、一行は改札へ向かった。
青柳が見送れるのは、ここまでだった。
「青柳さん」
凛が足を止める。
「はい」
「2週間後に」
「必ず行きます」
「連絡、待っています」
「毎日します」
「毎日でなくても大丈夫です」
「僕がしたいんです」
凛は驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「では、私もします」
人目があるため、抱きしめることも、口づけることもしない。
代わりに凛は、青柳の手を取った。
青柳も握り返す。
短い時間だった。
それでも、次へ繋げるには十分だった。
「また、2週間後に」
「はい。また東京で」
凛が手を離し、改札を通る。
何度か振り返りながら、陽菜たちのもとへ戻っていった。
『青柳くん!』
最後に、陽菜が振り返る。
『名古屋で無理しすぎないでね! 寂しくなったら、いつでも帰ってきていいから!』
「帰る場所は、東京ではありません」
『細かいことはいいの!』
「それと櫻井さん。次から部屋割りは、本人たちへ確認してください」
『青柳くんまで日高先輩みたいなこと言う!』
「当然です」
『でも、楽しかったでしょ?』
青柳は答えに迷った。
凛が、陽菜の隣でこちらを見ている。
「……はい。楽しかったです」
『なら、よし!』
陽菜は満足そうに笑い、大きく手を振った。
『またね、青柳くん!』
「はい。また」
一行の姿が、改札の向こうへ消えていく。
最後まで、陽菜の声だけはよく聞こえた。
静かになった構内で、青柳は手元のスマートフォンを見る。
予定表には、2週間後の日付が記されている。
名古屋を選んだことに、後悔はない。
離れていることを、我慢だけで乗り越える必要もない。
陽菜が起こした騒ぎの中で、青柳と凛は次の約束を手に入れた。
きっと、ほかの者たちも同じだった。
何かを得て。
何かを伝え。
昨日までとは少しだけ違う関係になって、東京へ帰っていく。
陽菜は、誰かを幸せにしたつもりなどないのだろう。
ただ、好きな人たちと一緒に笑いたくて、その全員を巻き込んだだけだ。
けれど、その無遠慮な優しさに救われた人間は、確かにいる。
青柳も、その1人だった。
青柳は改札へ背を向け、名古屋での自分の日常へ戻り始める。
離れていても、もう1人ではない。
そう思えたのは、ふざけてばかりいる1人の女が、遠く離れた人間まで同じ笑い声の中へ連れ戻してくれたからだった。




