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161話「それぞれの朝」

翌朝。


 陽菜が部屋の扉を開けると、廊下の壁に背を預けた樹里が立っていた。


 腕を組み、静かにこちらを見ている。


 陽菜は無言で扉を閉めようとした。


 樹里の手が、その扉を止める。


『おはようございます、櫻井さん』


『……おはようございます、日高先輩』


『よく眠れましたか』


『おかげさまで』


『それはよかったです』


 樹里は笑っていない。


 声は穏やかなのに、目だけが恐ろしく冷たかった。


 陽菜は扉の隙間から顔だけを出し、廊下の左右を確認する。


『神谷さんは?』


『先に朝食会場へ行きました』


『そうなんだ。じゃあ、日高先輩も早く行った方がいいんじゃない?』


『その前に、昨夜の部屋割りについてお話があります』


『もう終わったことじゃん』


『私の中では、まだ終わっていません』


『みんな喜んでたよ?』


『私が、いつ喜びましたか』


『心の中で』


『勝手に人の心を捏造しないでください』


 陽菜は扉の向こうにいる中井へ振り返った。


『中井くん』


「はい」


『助けて』


 中井が陽菜の隣へ立つ。


 樹里を前にしても退かなかったが、その表情は明らかに強張っている。


「日高先輩。部屋を勝手に決めたことは、陽菜さんも反省しています」


『していません』


「これから反省します」


『しないよ?』


「陽菜さん、少し黙っていてください」


『中井くんまで冷たい』


「僕は、これ以上事態を悪化させないようにしています」


 樹里が中井を見る。


『中井さんには、何の恨みもありません。そこを退いてください』


「ですが――」


『中井くん』


 陽菜が、中井の袖を引いた。


『大丈夫』


「大丈夫には見えません」


『これは、あたしと日高先輩の問題だから』


「陽菜さん」


『女には、逃げちゃいけないときがあるの』


 陽菜は中井の前へ出た。


 扉を完全に開け、樹里と向かい合う。


『日高先輩』


『何ですか』


『あたしは、間違ったことをしたとは思ってない』


『そうですか』


『みんな、好きな人と大事な時間を過ごせた。あたしは、そのために少し背中を押しただけ』


『他人の部屋を勝手に決めることを、背中を押すとは言いません』


『でも、日高先輩だって――』


 陽菜は、樹里の顔をじっと見る。


 視線が、わずかに泳いだ。


『……何かあったでしょ』


 樹里の眉が動く。


『ありません』


『その間、絶対あったじゃん』


『ありません』


『神谷さんと何したの?』


『櫻井さん』


 樹里が一歩、前へ出た。


 陽菜は両腕で顔を守る。


『待って。暴力反対』


『言い残すことは、それだけですか』


『中井くん、愛してる!』


「遺言みたいに言わないでください!」


 その直後、廊下に陽菜の悲鳴が響いた。


 数分後。


 朝食会場へ現れた陽菜の両頬は、見事に赤く腫れていた。


 右の頬には、中井から渡された小さな保冷剤を当てている。


「陽菜さん……大丈夫ですか?」


 柚希が心配そうに尋ねる。


『ひどいと思わない? 朝起きたら、いきなり暴漢が待ち伏せしてたの』


『誰が暴漢ですか』


 陽菜の後ろから入ってきた樹里が、冷たく言う。


『酔った人間を、勝手に男性と同じ部屋へ押し込む方が悪いでしょう』


『でも、何もなかったなら、ここまで怒らなくていいじゃん』


『何もありません』


 樹里の返事は早かった。


 早すぎた。


 先に席へ着いていた神谷が、手元の湯呑みへ視線を落とす。


 その耳が、わずかに赤い。


 陽菜は見逃さなかった。


『ふうん』


『何ですか』


『別に』


 口元を緩めた瞬間、腫れた頬が痛んだのか、陽菜は顔を顰めた。


『痛い……』


「ですから、黙っていてください」


『中井くん。恋人が殴られたんだよ? もっと怒って』


「止めようとはしました」


『途中で諦めたじゃん』


「日高先輩が、怒る理由も理解できたので」


『裏切り者』


「昨夜、何の相談もなく僕まで連れて逃げた人に言われたくありません」


 中井はそう言いながらも、陽菜の手から保冷剤を受け取った。


 冷えている面を確かめ、もう一度頬へ優しく当てる。


「強く押さえないでください」


『はーい』


「反対側も痛みますか」


『痛い』


「あとで、もう1つ借りましょう」


 陽菜は不満そうにしながらも、中井が保冷剤を持つ手へ、自分の手を重ねた。


 向かいに座る柚希が、その様子を見て笑う。


「でも、陽菜さん。少し嬉しそうです」


『柚希ちゃんまで、あたしをいじめるの?』


「そうではありません。ただ、中井さんに大切にされているなと思って」


『それはそう。中井くん、あたしのこと大好きだから』


「自分で言うんですね」


『本当のことだもん』


「はい。大好きです」


 中井が真顔で肯定する。


 陽菜は一瞬だけ目を丸くしたあと、照れることもなく満足そうに頷いた。


『よろしい』


「どうして上からなんですか」


 そのやり取りを聞きながら、樹里は空いている席へ向かった。


 神谷の隣だけが空いている。


 樹里の足が止まる。


 陽菜が席順まで細工したわけではない。


 到着した順に座った結果、そこしか残っていなかった。


「日高さん」


 神谷が声をかける。


 昨夜と同じ声。


 けれど、その声を聞いただけで、樹里の脳裏に記憶が蘇った。


 神谷の肩へ預けた額。


 背中に回された腕。


 自分の指が掴んでいた、シャツの感触。


 そして――好きです、という言葉。


『……おはようございます』


「おはようございます」


 樹里は神谷の隣へ座った。


 互いに正面を向いたまま、それ以上の言葉が続かない。


 昨夜のことを忘れてはいない。


 樹里も。


 神谷も。


 忘れたふりをすれば、普段どおりに戻れるのかもしれない。


 だが、どちらもその言葉を口にできなかった。


「体調は、いかがですか」


『問題ありません』


「頭痛は?」


『ありません』


「吐き気は?」


『ありません』


「そうですか」


『昨夜は、ご迷惑をおかけしました』


「迷惑ではありません」


『ですが――』


「迷惑ではありませんでした」


 神谷は、はっきりと言い直した。


 樹里は横目で彼を見る。


 神谷も、樹里を見ていた。


 視線が重なった瞬間、2人とも同時に前を向く。


 その様子を、陽菜がじっと観察していた。


『やっぱり、何かあったじゃん』


『櫻井さん。反対側の頬も同じ形に腫らしてほしいんですか』


『もう腫れてるよ!』


 樹里が味噌汁へ手を伸ばす。


 同時に、神谷もその隣に置かれた湯呑みへ手を伸ばした。


 指先が、わずかに触れる。


『……すみません』


「申し訳ありません」


 2人は同時に手を引いた。


 再び沈黙する。


 陽菜の目が、ますます楽しそうに細められた。


 樹里が無言で拳を握る。


 陽菜は慌てて中井の背中へ隠れた。


『まだ何も言ってないじゃん』


『顔がうるさいです』


『顔で怒られた』


 朝食が並び始めたところで、零が柚希と顔を見合わせた。


 柚希が小さく頷く。


 零は一度深呼吸をしてから、箸を置いた。


「皆さんに、話しておきたいことがあるっす」


 全員の視線が、零へ集まる。


 零の隣では、柚希が緊張したように背筋を伸ばしていた。


『どうしたの?』


 陽菜が尋ねる。


 零はテーブルの下へ手を伸ばした。


 柚希の手を取る。


「自分と柚希さん、昨日から付き合うことになったっす」


 一瞬、部屋が静まり返った。


『……本当に?』


 陽菜が目を見開く。


「はい」


 零が頷く。


「自分から、付き合ってほしいと言ったっす」


「私が、先に好きだと伝えました」


 柚希も続ける。


 繋いだ手は、まだ少しぎこちない。


 それでも、どちらからも離そうとはしなかった。


『やったじゃん!』


 陽菜が勢いよく立ち上がる。


 直後、頬の痛みに顔を押さえた。


『痛っ……でも、おめでとう!』


「ありがとうございます」


「ありがとうございますっす」


『柚希ちゃん、よかったね』


「はい」


 柚希の目に、薄く涙が浮かんだ。


 傷ついた恋を終わらせるために始めた旅行があった。


 そのとき隣にいてくれた零へ、少しずつ惹かれていった。


 慰めてくれたから好きになったのではない。


 零と過ごす時間の中で、その不器用さも、優しさも、自分と同じように迷う姿も知った。


 だから今、柚希は心から笑えている。


『零』


「はい」


『柚希ちゃんを泣かせたら、あたしが許さないからね』


「泣かせないとは約束できないっす」


 陽菜が意外そうに瞬きをする。


「自分が間違えて、柚希さんを傷つけることはあるかもしれないっす。柚希さんも、自分に怒ることがあると思います」


 零は繋いだ手へ視線を落とした。


「でも、傷つけたまま逃げないことは約束するっす」


「私もです」


 柚希が、その手を握り返す。


「何かあったら、ちゃんと零ちゃんと話します」


『そっか』


 陽菜は優しく笑った。


『なら、大丈夫だね』


 樹里も箸を置き、2人を見る。


『おめでとうございます』


「ありがとうございます、樹里先輩」


「ありがとうございますっす、樹里さん」


『正解がわからなくても、2人で決めていけばいいと思います』


「はい」


 零と柚希は、揃って頷いた。


「おめでとうございます」


 神谷と中井も祝いの言葉を続ける。


 青柳も静かに微笑んだ。


「おめでとうございます。次に東京へ戻った際には、改めてお祝いさせてください」


「次に東京へ?」


 柚希が聞き返す。


 青柳は隣の凛を見る。


 凛も青柳を見ていた。


 宴会のときまで、2人の間にはどこか遠慮が残っていた。


 だが今朝は、肩が触れそうなほど近くに座っている。


「2週間後に、僕が東京へ行くことになりました」


「決まったんですか?」


「はい。昨夜、凛さんと予定を確認しました」


「その次は、私が名古屋へ来ます」


 凛が続ける。


「どちらか一方が待つのではなく、交代で会いに行こうと決めました」


『いいじゃん』


 陽菜が身を乗り出す。


『それだけ?』


「それだけとは?」


『ほかに進展は?』


「進展……」


 凛の頬が、見る見る赤くなっていく。


 それだけで、陽菜には十分だった。


『あ、したんだ』


「何を、とは言っていません」


『キス』


「陽菜さん!」


『当たり?』


「答えません」


 凛は湯呑みを持ち、顔の下半分を隠した。


 青柳は表情こそ崩さなかったが、その耳が赤い。


『青柳くんは?』


「凛さんが答えないと決めたことを、僕から話すつもりはありません」


『否定はしないんだ』


「……朝食が冷めます」


『みんな、わかりやすいなあ』


 陽菜が楽しそうに笑う。


 樹里と神谷の身体が、同時にわずかに強張った。


『ということは、部屋割りは大成功だったね』


『櫻井さん』


『待って。今のは零と柚希ちゃんと、凛ちゃんと青柳くんの話だから』


『私たちまで含めようとしましたね』


『してない、してない』


 陽菜は両手を振って否定する。


 そのたびに頬が痛むらしく、途中から動きが小さくなった。


「陽菜さん。もう少し静かに食べてください」


『だって、嬉しいんだもん』


 陽菜は零と柚希を見て、次に凛と青柳を見る。


 誰かの気持ちが届いたことを、自分のことのように喜んでいる。


『勝手なことしたのは謝る。でも、みんなが少し幸せになれたなら、あたしは後悔してないよ』


 樹里は呆れたように息を吐いた。


 だが、それ以上は怒らなかった。


『次からは、先に本人へ確認してください』


『次もあるの?』


『そういう意味ではありません』


『日高先輩、意外と乗り気――』


 樹里が拳を持ち上げる。


 陽菜は即座に口を閉じ、中井の肩へ身を寄せた。


『もう殴らないで。あたしの可愛い顔が戻らなくなる』


『しばらく静かになって、ちょうどいいです』


『美園さんがいたら守ってくれるのに』


『美園なら、私と一緒に殴ると思います』


『……それはありそう』


 陽菜は反論できず、味噌汁を啜った。


 賑やかな朝食が続く。


 新しく恋人になった零と柚希。


 次に会う日を決めた凛と青柳。


 これまで以上に自然な距離で寄り添う陽菜と中井。


 そして、隣に座っているのに、互いの顔をまともに見られない樹里と神谷。


 同じ夜を過ごしても、進んだ距離はそれぞれ違う。


 手を繋いだ2人。


 口づけを交わした2人。


 愛を確かめ合った2人。


 答えを出さず、言葉だけを胸へ残した2人。


 朝食を終え、全員が席を立つ。


 樹里も立ち上がろうとしたとき、神谷の声がした。


「日高さん」


『はい』


「昨夜のことですが――」


 樹里の肩が、わずかに強張る。


 神谷も、その先をすぐには続けられなかった。


 周囲には、まだ陽菜たちがいる。


 ここで話すことではない。


「……水は、十分に飲んでおいてください」


『あ……はい』


「帰りの移動中に、具合が悪くなるかもしれませんから」


『お気遣い、ありがとうございます』


 それだけだった。


 2人は揃って目を逸らす。


 少し離れた場所で、陽菜がその様子を見ていた。


 何かを言おうと口を開く。


 だが、樹里が無言で拳を見せたため、陽菜は頬の保冷剤を押さえながら中井の後ろへ隠れた。


 答えは、まだ出ない。


 昨夜交わされた言葉も、抱きしめられた腕の温度も、消えてはいない。


 酔いが醒めた朝。


 樹里と神谷の間には、それまで存在しなかった気まずさが残った。


 それは距離が離れた証ではない。


 もう、何もなかった頃と同じ場所には戻れないという証だった。

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