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160話「醒めてから言え」

神谷は、樹里の右腕を自分の肩へ回したまま、ホテルの廊下をゆっくり歩いていた。


「日高さん。部屋は、もう少し先です」


『……歩いています』


「ほとんど僕が運んでいます」


『歩いている気持ちはあります』


「気持ちだけでは、前には進みません」


『神谷さん、細かいです』


「転ばれるよりはいいです」


 樹里の足取りは、普段の彼女からは考えられないほど覚束なかった。


 宴会の途中までは、いつもと変わらなかった。


 静かに酒を飲み、ときどき陽菜たちの会話へ短く言葉を挟む。顔色にも、ほとんど変化はなかった。


 だから誰も、樹里がこれほど酔っているとは思わなかった。


 立ち上がった瞬間、身体が傾くまでは。


 神谷が支えなければ、その場に座り込んでいただろう。


『自分で歩けます』


「先ほども聞きました」


『手を離してください』


「離した瞬間に転びそうなので、できません」


『転びません』


「では、一度止まります」


 神谷が足を止める。


 支えていた腕を、ほんの少しだけ緩めた。


 途端に樹里の身体が傾き、肩へ額がぶつかる。


『……床が動きました』


「ホテルの床に、そのような機能はありません」


『このホテルは、変です』


「変なのは、今の日高さんです」


『失礼ですね』


「申し訳ありません。ですが、事実です」


 神谷は樹里を支え直し、再び歩き始めた。


 ようやく指定された部屋の前へ着く。


 神谷は片手で樹里を支えたまま、陽菜から押しつけられたカードキーを取り出した。


 扉を開け、照明をつける。


 室内には、2つのベッドが並んでいた。


 その光景を見た樹里が、眉間に深い皺を寄せる。


『櫻井さんは、何を考えているんですか』


「それを本人へ聞くのは、明日にしてください」


『今から聞きます』


「部屋へ乗り込むつもりですか」


『はい』


「櫻井さんは中井と一緒です」


 樹里の足が止まった。


 酔いの中でも、その意味だけは理解したらしい。


 数秒の沈黙のあと、低い声で呟く。


『……明日にします』


「それがいいと思います」


『逃げられないよう、朝一番に捕まえます』


「ほどほどにしてください」


『保証はできません』


 神谷は扉を閉め、樹里を手前のベッドまで連れていった。


「座れますか」


『そのくらいは』


 樹里はベッドへ腰を下ろした。


 神谷が腕を離すと、そのまま後ろへ倒れそうになる。


 慌てて肩を支え、枕へ背中を預けさせた。


『大丈夫です』


「まったく大丈夫には見えません」


『私は酒に強いです』


「今日から、その認識は改めてください」


『今日は、少し飲む速度を間違えただけです』


「何杯飲んだか覚えていますか」


『……覚えています』


「何杯ですか」


『聞かないでください』


「覚えていないんですね」


 樹里は答えず、目を閉じた。


 普段なら、言い返す言葉がすぐに返ってくる。


 それがないだけで、神谷には彼女が相当酔っていることがわかった。


「水を持ってきます。ここで待っていてください」


『どこにも行きません』


「それなら安心です」


 神谷は冷蔵庫から水を取り出した。


 キャップを開け、樹里の前へしゃがむ。


「少し飲んでください」


『いりません』


「明日の朝、つらくなります」


『平気です』


「日高さん」


『……神谷さんは、しつこいですね』


「よく言われます」


『誰にですか』


「主に日高さんにです」


 樹里が薄く目を開ける。


 諦めたようにペットボトルを受け取り、一口だけ水を飲んだ。


「もう少しです」


『子どもではありません』


「それなら、自分で飲めますね」


 樹里は神谷を睨みながら、さらに水を飲む。


 半分ほど減ったところで、ペットボトルを差し出した。


『これでいいですか』


「ありがとうございます」


『どうして神谷さんがお礼を言うんですか』


「聞いてもらえたので」


 神谷はペットボトルをテーブルへ置いた。


 洗面所からタオルを持ってきて、水で濡らす。


 固く絞ってから樹里へ渡そうとしたが、彼女はすでに目を閉じていた。


「日高さん。少し失礼します」


 返事はない。


 神谷は濡れたタオルを、樹里の額へそっと乗せた。


 樹里の前髪を避けた指が、わずかに止まる。


 無防備だった。


 仕事中は決して見せない顔。


 怒りも、警戒も、他人を寄せつけない鋭さもない。


 けれど神谷は、それを自分だけに許されたものだとは思わなかった。


 今夜の樹里は、正常な判断ができる状態ではない。


 そこへ自分の願いを重ねてはいけない。


「靴だけ脱がせます」


『……自分でできます』


「起きていたんですか」


『寝ていません』


 樹里は身体を起こそうとした。


 だが、肘へ力を入れた瞬間、顔を顰める。


 神谷は手を伸ばしかけ、止めた。


「触れてもいいですか」


『さっきまで散々、担いでいたじゃないですか』


「それとこれは別です」


 樹里がゆっくり目を開ける。


 神谷は、彼女から許可が出るまで動かなかった。


『……お願いします』


「はい」


 神谷は樹里の背中へ腕を回し、上体を支えた。


 もう一方の手で枕の位置を整える。


 樹里が自分で靴を脱ぐ間も、その身体が傾かないように腕を添えていた。


 両足から靴が離れたあと、ゆっくりとベッドへ横たえる。


「苦しくありませんか」


『平気です』


「吐き気は?」


『ありません』


「何かあれば、すぐに言ってください」


『神谷さん』


「はい」


『もう寝ていいですよ』


「日高さんが眠ったら、向こうのベッドで休みます」


『監視ですか』


「介抱です」


『必要ありません』


「僕が、そうしたいだけです」


 樹里の目が、わずかに動いた。


『……どうして、そこまでしてくれるんですか』


「同じ部屋になったからです」


『ほかの人でも、同じことをしましたか』


 神谷は返事に詰まった。


 樹里の問いが、酔った者の気まぐれなのか。それとも、心のどこかに隠していた疑問なのかはわからない。


「倒れている人がいれば、介抱はします」


『そうですか』


「ですが」


 神谷は一度、言葉を切った。


「ここまで心配するのは、日高さんだからです」


 樹里は何も言わない。


 目を閉じたまま、タオルの下で眉を寄せる。


『私は、そんなに頼りないですか』


「いいえ。僕が知っている中で、誰よりも頼りになる人です」


『なら、放っておいても平気でしょう』


「それは違います」


 神谷の声が、少しだけ強くなる。


「頼りになる人なら、誰にも頼らなくていいわけではありません」


 その言葉に、樹里の指がわずかに動いた。


 遠く離れた東京でも、今夜、同じような言葉が美園へ向けられていたことを、2人は知らない。


「日高さんは、自分でできることまで人へ任せません。誰かが手を伸ばす前に、自分で片づけてしまいます」


『悪いことですか』


「悪いとは言っていません」


『なら、いいでしょう』


「ですが、見ている側が何も感じないと思わないでください」


 樹里が目を開ける。


 神谷はベッドの横に座り、彼女を見ていた。


「無理をしていても平気な顔をする。苦しくても言わない。助けようとすれば、大丈夫だと断る」


『実際に、大丈夫ですから』


「今もですか」


 樹里は答えない。


「今の日高さんは、1人で真っすぐ歩くこともできません」


『酒のせいです』


「理由があれば、頼ってもいいんですか」


『……何が言いたいんですか』


「理由がなくても、僕を頼ってほしいと言っています」


 樹里の目が揺れた。


『どうして』


 先ほどと同じ問いだった。


 けれど今度は、誤魔化すことができなかった。


 神谷は視線を落とす。


「今、答えるべきではありません」


『自分から言ったくせに』


「日高さんは酔っています」


『神谷さんも飲んでいたでしょう』


「僕は覚えています」


『何杯ですか』


「ビールを2杯。そのあと日本酒を1杯です」


『……覚えているんですね』


「はい」


『面白くない』


「何がですか」


『私だけ酔っているみたいで』


「実際、そうです」


 樹里は不満そうに顔を背けた。


 その動きで額のタオルが落ちる。


 神谷は拾い上げ、再び乗せようとする。


 樹里が、その手首を掴んだ。


「日高さん?」


『帰らないでください』


 あまりにも小さな声だった。


 神谷は聞き間違いかと思った。


『……向こうのベッドへ行くのはいいです。でも、部屋からは出ないでください』


「出ません」


『本当に?』


「はい。朝まで、ここにいます」


 樹里の指から、ようやく力が抜ける。


 神谷はタオルを額へ戻した。


「安心して眠ってください」


『神谷さんがいると、安心できません』


「では、出た方がいいですか」


『それは駄目です』


 矛盾した言葉だった。


 神谷は思わず笑う。


『何がおかしいんですか』


「申し訳ありません」


『笑わないでください』


「はい」


『返事をしながら笑っています』


「すみません」


 樹里は起き上がろうとした。


 神谷が慌てて肩へ手を添える。


「動かないでください」


『もう寝ます』


「それなら、横になってください」


『神谷さんが邪魔です』


「僕は何もしていません」


『頭の中にいるから、邪魔です』


 神谷の動きが止まった。


 樹里自身も、自分が何を口にしたのか理解したらしい。


 酔いで赤くなっていた顔が、さらに熱を帯びる。


『……忘れてください』


「難しいです」


『忘れなさい』


「それも難しいです」


『命令です』


「日高さんは僕の上司ではありません」


『先輩です』


「その命令に従う義務はありません」


『本当に、しつこい』


「先ほども聞きました」


 樹里は神谷の胸を押し、離れようとした。


 だが力が入らず、身体が前へ傾く。


「危ない」


 神谷が咄嗟に受け止める。


 樹里の額が、神谷の肩へ触れた。


 背中に回した腕で、その身体を支える。


 すぐにベッドへ戻すつもりだった。


 けれど、樹里の手が神谷のシャツを掴んだ。


『……少しだけ』


「はい」


『このままでいてください』


 神谷は息を止めた。


 今まで、どれほど近くにいても、樹里から距離を縮めることはなかった。


 食事をしても。


 隣を歩いても。


 雨の夜を同じ部屋で過ごしても。


 触れられる一歩手前で、必ず線を引いていた。


 その樹里が今、自分からシャツを掴んでいる。


 神谷は迷った末に、背中へ回していた腕へ、ゆっくり力を込めた。


 壊れやすいものへ触れるように、優しく抱きしめる。


 樹里は拒まなかった。


 押し返しもしない。


 神谷の肩へ顔を預け、目を閉じている。


「日高さん」


『何ですか』


「今から言うことは、忘れてください」


『それなら言わなければいいでしょう』


「言わなければ、僕が後悔します」


『勝手ですね』


「はい」


 酒のせいにするつもりはなかった。


 樹里が酔っているから、返事を求めるつもりもない。


 ただ、腕の中にいる彼女を前にして、これ以上は隠しておけなかった。


「僕は、日高さんが好きです」


 樹里の指が、神谷のシャツを強く掴む。


「仕事に向き合う姿も、誰かのために怒れるところも、何も言わずに人を助けるところも」


 神谷の声が震える。


「強いところも、その強さのせいで1人になろうとするところも。全部、好きです」


『……今、言うことですか』


「今だから、言えたのかもしれません」


『神谷さんも、酔っていますね』


「否定はしません」


『酒の勢いで言われても、困ります』


「返事は求めていません」


『それも、勝手です』


「すみません」


『謝ればいいと思っていますか』


「思っていません」


『なら――』


 樹里は神谷の胸へ額を押しつけた。


 離れようとはしない。


 声だけが、少し震えていた。


『バカ。醒めてから言え』


 叱るような言葉だった。


 けれど、声は驚くほど優しかった。


 拒絶ではない。


 忘れろとも、二度と言うなとも告げていない。


 酔いのない場所で。


 逃げ道のない言葉で。


 もう一度言えと、樹里は言っていた。


「……はい」


 神谷は、それ以上何も言わなかった。


 抱く腕へ力を込めることもしない。


 ただ、樹里が自分から離れるまで、その身体を支え続けた。


 しばらくして、シャツを掴んでいた指から力が抜ける。


「日高さん?」


 返事はない。


 神谷の胸へ顔を預けたまま、樹里は眠っていた。


 神谷は小さく息を吐く。


 腕を背中と膝の下へ入れ、樹里を抱き上げた。


 数歩先のベッドへ運び、静かに横たえる。


 布団を肩まで掛け、乱れた髪を指で避けた。


 触れたくなる。


 その額へ、唇を寄せたくなる。


 けれど神谷は、伸ばしかけた手を止めた。


 今夜、自分に許されたのは、彼女を安全に眠らせるところまでだ。


「おやすみなさい、日高さん」


 神谷は照明を落とし、もう一方のベッドへ腰を下ろした。


 シャツの胸元には、樹里が掴んだ皺が残っている。


 その皺へ触れながら、先ほどの言葉を思い返す。


 醒めてから言え。


 次に伝えるときは、酒にも、偶然にも、弱った彼女にも頼らない。


 自分の足で樹里の前に立ち、返事を求められるだけの言葉で伝える。


 その夜がいつになるのか、神谷にはまだわからなかった。


 ただ一つだけ、わかっている。


 樹里は拒まなかった。


 閉ざされていた扉が開いたわけではない。


 けれど、その向こうから初めて、離れるなと手を伸ばしてくれた。


 神谷はベッドへ横になり、樹里へ背を向けずに目を閉じた。


 2つのベッドの間には、まだ距離がある。


 それでも今夜、その距離は確かに、昨日までより短くなっていた。

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