159話「私の前に立つ人」
同じ頃、東京のRoseでは、最後の客がなかなか帰ろうとしなかった。
カウンターの端に座る、50代ほどの男。
初めて来店したときは気前よく酒を振る舞い、話も上手かった。だが何度か通ううちに、酒が入ったあとの態度が目立つようになっていた。
今夜は特にひどい。
「美園ちゃん、もう1杯作ってよ」
『先ほどのも、まだ残っていますよ』
「いいじゃない。俺が金を払うんだから」
『そういう問題じゃないの。もう飲みすぎ』
美園は男の前からボトルを下げた。
すでに閉店時刻を過ぎている。
ほかの客は帰り、店内に残っているのは男と美園、そしてカウンターの中央に座る佐藤だけだった。
佐藤は酒をほとんど口にせず、男の様子を見ている。
「ママは客に説教するのかよ」
『酔い潰れて帰れなくなるよりいいでしょ。今日はここまでにして、帰って寝なさい』
「相変わらず固いなあ」
男は財布から紙幣を取り出し、カウンターへ置いた。
「これだけ払えば、閉店後も付き合ってくれる?」
『お釣りを出すから待っていて』
「そういう意味じゃないって」
男が笑う。
美園は表情を変えなかった。
酒に酔った客の軽口など、数え切れないほど聞いてきた。
まともに取り合わず、必要なら笑顔で躱し、それでも引かなければ店から出す。
いつもなら、それだけで済む。
「なあ。店を閉めたあと、2人で飲み直そうよ」
『行かない』
「いいじゃん。どうせ暇だろ」
『暇でも行かないよ』
男の目が、カウンター越しに美園の身体をなぞった。
「そんな格好して男を誘っておいて、随分もったいぶるんだな」
佐藤の指が、グラスから離れた。
美園は静かに伝票を置く。
『お会計です』
「怒った?」
『いいえ。ただ、もうあなたに出すお酒はないから』
「冗談も通じないのかよ」
『冗談は、言った側ではなく聞いた側が笑えて初めて成立するの』
男の顔から、笑みが消えた。
「客に向かって、その言い方はないだろ」
『お客様だから、今まで丁寧にお話ししていました』
「俺はこの店にいくら使ったと思ってるんだ」
『使った金額で、私に触れる権利は買えないよ』
「触ってねえだろ」
『今はね』
男が舌打ちをする。
美園は退かない。
これ以上続くようなら、腕を掴んででも店の外へ出すつもりだった。
男が椅子から立ち上がる。
帰るのかと思った次の瞬間、カウンターの内側へ腕を伸ばし、美園の手首を掴んだ。
「だったら、少しくらいサービスしろよ」
美園の目が冷たくなる。
手首を返し、男の腕を外そうとした。
その前に、佐藤が立ち上がった。
「その手を離してください」
低い声だった。
大声ではない。
怒鳴ってもいない。
だが、普段の穏やかな佐藤からは想像できないほど、強い声だった。
男が佐藤を睨む。
「何だ、お前」
「聞こえませんでしたか。その手を離してください」
「こいつの男か?」
「そうです」
佐藤は迷わなかった。
「ですが、今はそれ以前の話をしています。美園さんが嫌がっている。離してください」
「客と店の人間の話だろ。関係ないやつは引っ込んでろ」
「嫌がる人に無理やり触れている人間を見て、関係ないとは思いません」
佐藤は男の正面へ回った。
美園を背中へ隠すように立つ。
「今すぐ手を離して、会計を済ませて帰ってください」
「何だ、その態度は」
「これ以上、美園さんを侮辱するなら、客として扱う必要もありません」
男の手に力が入る。
その瞬間、佐藤は男の手首を掴んだ。
乱暴に捻り上げることはしない。
だが、美園から引き離すまで絶対に離さないという意思が、その手にはあった。
「離せよ」
「先に離すのは、あなたです」
2人の視線がぶつかる。
美園は佐藤の背中を見つめていた。
身体が大きいわけではない。
喧嘩に慣れているわけでもない。
男の拳が飛んでくれば、綺麗に避けられるとも思えない。
それでも佐藤は、一歩も退かなかった。
やがて男が、美園の手首から指を離した。
佐藤も手を離す。
「こんな店、二度と来るか」
『ええ。二度と来ないで』
美園は伝票と釣り銭をカウンターへ置いた。
『今夜のお会計です。受け取った分以外は返します』
「最後まで可愛げのない女だな」
男が吐き捨てる。
佐藤が、再びその前へ立った。
「帰ってください」
男は何か言い返そうとしたが、佐藤の目を見て口を閉じた。
乱暴に扉を開け、そのまま店を出ていく。
店内に、重い静寂が戻った。
美園は扉へ歩み寄り、鍵をかける。
外へ出ていく男の足音が聞こえなくなるまで待ってから、店の照明を少し落とした。
「美園さん、手首を見せてください」
『平気だよ』
「赤くなっています」
『このくらい、何ともない』
「僕にとっては、何ともなくありません」
美園が振り返る。
佐藤は怒っていた。
先ほどの男に対してだけではない。
美園が傷ついたこと自体に、腹を立てている。
美園は黙って右手を差し出した。
佐藤は彼女の手首を両手で包み、痕を確かめる。
「痛みますか」
『少しだけ』
「冷やすものはありますか」
『奥の冷凍庫に保冷剤がある』
「取ってきます」
佐藤がバックヤードへ向かおうとする。
美園は、そのシャツの裾を掴んだ。
「美園さん?」
『ちょっと待って』
佐藤が足を止める。
『さっきのことだけど』
「はい」
『私は、1人でも追い返せたよ』
「わかっています」
即答だった。
美園は少しだけ目を見開く。
「美園さんが、あの人より強いことも知っています。僕が立たなくても、自分でどうにかできたと思います」
『なら、どうして割って入ったの?』
「嫌だったからです」
『私が触られたことが?』
「それもです」
佐藤の手が握られる。
「美園さんなら何をされても平気だと、あの人が勝手に決めていることが嫌でした」
美園は何も言わない。
「強い人なら、誰かに守られなくてもいいわけではありません。自分でどうにかできる人なら、助けなくてもいい理由にもならないと思います」
『私を守りたかった?』
「はい」
『格好つけたかったんじゃなくて?』
「それも、少しはありました」
佐藤が正直に認める。
「好きな人の前では、格好いい男でいたいです」
『正直だね』
「ですが、それだけではありません」
佐藤は美園の手首に残る赤い痕へ目を落とした。
「美園さんが何でも1人で片づけられるからといって、僕まで何もしないでいるのは嫌なんです」
『危ないとは思わなかったの?』
「思いました」
『殴られるかもしれなかったよ』
「怖かったです」
『それでも前に出たの?』
「怖くても、あの場で座ったままの自分にはなりたくありませんでした」
美園は、佐藤の顔を見つめた。
怖くなかったからではない。
勝てると思ったからでもない。
怖いまま立ち上がった。
美園の前に立ち、彼女が軽んじられることを拒んだ。
『佐藤くん』
「はい」
『少し、屈んで』
「手首を見たいので、先に保冷剤を――」
『いいから』
佐藤が戸惑いながら、少しだけ腰を屈める。
美園は彼の襟元を掴み、引き寄せた。
唇を重ねる。
短く触れるだけのつもりだった。
けれど、離れようとした美園の腰へ、佐藤の腕が回った。
もう一度、唇が重なる。
先ほどまで張り詰めていたものが、互いの熱へ形を変えていく。
美園は佐藤の胸へ手を置き、ゆっくりと身体を離した。
「……美園さん」
『何?』
「さっきのことで、僕は何かを返してほしいわけではありません」
『知ってる』
「なら――」
『守ってくれたお礼でもないよ』
美園は佐藤の頬へ触れた。
『あなたが欲しくなったの』
佐藤の息が止まる。
『怖いのに、私の前へ立った。私が何でもできる女だからって、放っておかなかった』
指先が、佐藤の頬から耳元へ滑る。
『そんな佐藤くんに、触れてほしいと思っただけ』
「……僕も、美園さんに触れたいです」
『うん』
「ですが、手首を冷やしてからです」
美園が目を瞬く。
やがて、堪えきれずに笑った。
『今、その話に戻るの?』
「戻ります。痕が残ったら困ります」
『本当に真面目』
「駄目ですか」
『ううん。そういうところも好き』
その一言で、今度は佐藤が動けなくなった。
『保冷剤、取ってきてくれるんでしょ?』
「……はい」
『早くしないと、閉店してからも働かせる悪いママになるよ』
「もう閉店しています」
『そうだったね』
佐藤が奥から保冷剤を持ってくる。
タオルで包み、美園の手首へそっと当てた。
冷たさに、美園がわずかに肩を揺らす。
「痛いですか」
『冷たいだけ』
「しばらく、このままでいてください」
『佐藤くんが持っていてくれる?』
「もちろんです」
美園はカウンター席へ座り、その前に立つ佐藤へ身体を預けた。
佐藤は片手で保冷剤を支え、もう一方の腕で美園を抱き寄せる。
店内には、時計の針が進む音だけが響いていた。
美園は目を閉じる。
誰かに守られることと、弱くなることは違う。
自分で立てることと、誰の手も必要としないことも違う。
そのことを、佐藤の腕の中で少しずつ覚えていく。
赤みが引いた頃、美園は保冷剤をカウンターへ置いた。
佐藤の手を取り、店の奥へ向かう。
「美園さん」
『今度は何?』
「本当に、いいんですか」
『それ、今夜は何回聞くつもり?』
「大切なことなので」
美園は足を止めた。
向き直り、佐藤の胸元へ手を添える。
『いいよ』
その声に、迷いはなかった。
『今日は私が、佐藤くんに抱いてほしい』
佐藤の目が熱を帯びる。
それでも、彼はすぐには触れなかった。
「美園さんが強いからではなくて」
『うん』
「守ったからでもなくて」
『わかってる』
「僕が、美園さんを愛しているから抱きます」
美園の表情から、からかうような笑みが消えた。
『……そういうことを、急に言えるようになったんだね』
「駄目でしたか」
『駄目じゃない』
美園は佐藤の首へ腕を回した。
『もう一度言って』
「愛しています」
『私も愛してる』
今度は佐藤から口づけた。
背中に回った腕が、美園を強く引き寄せる。
互いの息が近づき、重ねた唇の間から名前が零れた。
奥の部屋へ入ると、美園は自分から佐藤のシャツへ指をかけた。
触れられるだけではなく、自分も触れる。
求められるだけではなく、自分から求める。
佐藤の手が腰へ触れたところで、一度止まった。
美園はその手を取り、迷いをなくすように自分の身体へ導いた。
『触って』
「はい」
『今日は、遠慮しないで』
服越しに伝わっていた熱が、少しずつ直接的なものへ変わっていく。
佐藤の指が触れるたび、美園は小さく息を零した。
初めてこの店で身体を重ねた夜は、大雨から逃げ込んだ夜だった。
帰れない理由を雨に預け、互いを求めた。
けれど、今夜は違う。
雨は降っていない。
帰ろうと思えば帰れる。
それでも美園は佐藤の手を離さず、自分からその胸へ戻ってきた。
逃げ道も、言い訳も必要なかった。
佐藤に抱かれながら、美園は何度もその名を呼んだ。
誰かに身を任せることを、怖いとは思わなかった。
佐藤の腕は美園を閉じ込めるものではない。
明日になれば、また自分の足で立てるように、今だけ身体を預けられる場所だった。
すべてが静まったあと、美園は佐藤の胸へ頬を寄せた。
佐藤の指が、彼女の髪をゆっくりと梳いている。
「手首、まだ痛みますか」
『今それを聞く?』
「気になっていたので」
『少しも痛くない』
「本当ですか」
『本当』
美園は顔を上げ、佐藤の唇へ軽く触れた。
『でも、明日になって痕が残っていたら、責任を取ってね』
「もちろんです。病院へ行くなら付き添います」
『そういう責任じゃないんだけどな』
「ほかに何があるんですか」
『考えておいて』
佐藤は真剣な顔で考え始める。
美園はその胸へ戻り、声を殺して笑った。
自分の前に立ってくれる人がいる。
自分の隣にいたいと言ってくれる人がいる。
それは、美園の強さを奪うことではなかった。
1人で立ち続けてきた女が、誰かと並んで立つことを覚えていく。
その夜、美園は佐藤の腕の中で、安心したように目を閉じた。




