158話「欲しいと言える夜」
部屋へ入るなり、陽菜は扉を閉め、そのまま内側から鍵をかけた。
さらにドアガードまで掛ける。
「……そこまでします?」
『するよ。総長なら扉くらい壊しかねないもん』
「日高先輩を何だと思っているんですか」
『あたしを殴ると決めたときだけ、人間をやめる人』
「明日の朝が心配になってきました」
『中井くんが守ってよ』
「僕が日高先輩に勝てると思います?」
『思わない』
「即答ですね……」
陽菜は笑いながら、扉へ耳を当てた。
廊下から樹里の声は聞こえない。
ひとまず追ってきてはいないらしい。
『よし。逃げ切った』
「明日の朝には、必ず会いますけどね」
『朝のあたしに任せる』
「それ、何も解決していません」
宴会場ではあれほど楽しそうに全員を振り回していた陽菜だったが、部屋の中へ入ると、急に落ち着きをなくした。
並んだ2つのベッド。
閉ざされた扉。
中井と2人きり。
これまでにも、何度も身体を重ねている。
それなのに、今夜はいつもと違っていた。
陽菜が望み、陽菜が部屋を決めた。
誰かの気持ちを面白がっただけではない。
自分もまた、中井と2人きりになりたかった。
それを認めた瞬間から、胸の奥が騒がしい。
「陽菜さん」
『ん?』
「水、飲みますか」
『飲む』
中井が冷蔵庫からペットボトルを取り出し、陽菜へ渡す。
陽菜はベッドへ腰を下ろし、半分ほど水を飲んだ。
中井は少し離れた場所に立ったまま、こちらへ近づこうとしない。
『座らないの?』
「座ります」
そう答えながら、中井が選んだのは、もう一方のベッドだった。
陽菜は眉を上げる。
『遠くない?』
「……近いと、困るので」
『何が?』
「いろいろです」
『いろいろって何?』
「陽菜さん、本当にわかっていて聞いていますよね」
『うん』
「やっぱりそうですか」
中井が困ったように顔を伏せる。
普段であれば、その反応を見て陽菜はさらにからかっただろう。
けれど、今夜は続けられなかった。
中井が距離を取っている理由を、陽菜はわかっている。
宴会では酒も飲んだ。
部屋割りも、陽菜が勝手に決めたものだ。
流されるような形で触れたくないのだろう。
『中井くん』
「はい」
『あたし、酔ってないよ』
中井が顔を上げた。
『お酒は飲んだけど、何してるかわからなくなるほど飲んでない。部屋を間違えたわけでもないし、中井くんと2人になったのも偶然じゃない』
「……はい」
『だから、そんなに離れなくてもいいじゃん』
陽菜が、自分の隣を軽く叩く。
中井は迷った末に立ち上がり、隣へ腰を下ろした。
それでも、2人の間にはわずかな隙間がある。
陽菜は、その隙間を自分から埋めた。
肩が触れる。
中井の身体が、わかりやすく強張った。
『緊張してる?』
「しています」
『何回もしたのに?』
「回数の問題ではありません」
『じゃあ、何の問題?』
「今日の陽菜さんが、いつもと違うからです」
陽菜の笑みが、わずかに止まった。
『違う?』
「宴会のときは、いつもの陽菜さんでした。みんなをからかって、勝手に部屋を決めて、日高先輩から逃げて」
『最後のは余計』
「でも、部屋に入ってからは違います」
中井は膝の上で手を組んだまま、陽菜を見る。
「何かを言おうとしているように見えます」
見透かされていた。
中井は、陽菜の過去を知った。
傷も、罪も、逃げたことも、残してきたものも。
知ったうえで、隣にいる。
何も知らなかった頃と同じ顔で笑い、以前よりも深く陽菜を見ている。
それが嬉しい。
嬉しいのに、怖くなることもある。
この男を失ったら、自分は以前のように笑えるのだろうか。
いつからか、中井は「愛してくれる人」だけではなくなっていた。
失いたくない人になっていた。
『中井くんはさ』
「はい」
『あたしのこと、好き?』
「好きです」
迷いのない返事だった。
『どれくらい?』
「それを言葉にするのは難しいです」
『そこは、世界でいちばんとか言うところじゃない?』
「世界中の人と比べたことがないので、正確には言えません」
『もう。そういうところだよ』
「ですが、僕の人生にいる誰よりも大切です」
陽菜が黙る。
派手な言葉ではなかった。
けれど、中井が口にすると、冗談の入り込む余地がない。
「陽菜さんが笑っていると嬉しいです。苦しんでいたら、そばにいたいです。危ないことをしたら腹が立ちますし、僕に何も話してくれなければ傷つきます」
沙月の件で傷だらけになった陽菜を見たとき、中井は怒った。
過去を知らされ、感情をぶつけた。
何もかも受け入れるだけの優しい男ではなかった。
陽菜が傷つけば、中井も傷つく。
陽菜が遠ざければ、中井も苦しむ。
それでも、離れなかった。
「僕は、陽菜さんに必要とされたいです」
『……必要だよ』
「はい」
『何、その“知ってます”みたいな返事』
「今、教えてもらいましたから」
『そうじゃなくて』
陽菜は、自分の膝へ視線を落とした。
言葉にしようとすると、喉の奥が狭くなる。
恥ずかしいことなら、いくらでも平気で口にできる。
誰が誰を好きだとか。
何回キスしたとか。
昨夜どこまでしたとか。
周囲が赤面するような話ほど、陽菜は笑って言える。
けれど、自分の心のいちばん柔らかい場所だけは、うまく晒せなかった。
『あたしね』
「はい」
『今まで、中井くんに愛してもらってた』
「……はい」
『付き合ったときも、いい人だと思った。あたしのこと、本気で好きなんだなって。だから付き合ってみようと思った』
中井は黙って聞いている。
『最初にしたときも、中井くんの気持ちを受け止めたいって思った。こんなにあたしを好きでいてくれる人を、ちゃんと受け入れたいって』
「覚えています」
『でも、今日は違う』
陽菜は中井の手へ、自分の手を重ねた。
指を絡める。
逃げられないようにするためではない。
自分が逃げないためだった。
『今日は、受け止めてあげたいんじゃない』
陽菜が顔を上げる。
『あたしが、中井くんを欲しい』
中井の目が見開かれた。
陽菜の頬も熱くなる。
それでも、笑って誤魔化さなかった。
『中井くんに抱いてほしい』
「陽菜さん……」
『優しいからでも、あたしを好きでいてくれるからでもない。あたしが中井くんを好きだから』
絡めた指へ、力を込める。
『自分でも困るくらい、好きになっちゃった』
中井の唇が、わずかに震えた。
『何か言ってよ』
「……すみません」
『どうして謝るの?』
「嬉しくて、何を言えばいいのかわからなくなりました」
『じゃあ、何も言わなくていい』
陽菜は空いている手で、中井の頬に触れた。
『その代わり、キスして』
中井が顔を寄せる。
唇が触れる直前で、陽菜は目を閉じた。
重なった口づけは、いつもより静かだった。
中井は急がない。
陽菜が本当に望んでいるのか、一つずつ確かめるように触れる。
それが少しだけ、もどかしい。
陽菜は中井の服を掴み、自分から距離をなくした。
深くなった口づけに、息が混ざる。
唇が離れると、中井は額を寄せたまま尋ねた。
「本当に、いいんですか」
『さっきから、何回確認するの』
「何回でも確認します」
『いいよ』
「お酒も入っています」
『酔ってない』
「明日、後悔しませんか」
『しない』
「僕で、いいんですか」
陽菜は中井の頬を両手で挟んだ。
『中井くんがいいって、さっきから言ってるじゃん』
「……はい」
『あたしが欲しいのは、中井くんだけ』
その言葉で、ようやく中井の迷いが消えた。
強く抱き寄せられる。
胸へ伝わる鼓動は、陽菜のものか中井のものか、わからないほど速かった。
これまでも、同じ腕に抱かれた。
けれど今夜は、意味が違う。
与えられる愛を受け止めるだけではない。
陽菜自身が、この腕を求めている。
中井の首へ腕を回し、その胸へ身体を預けた。
『ねえ、中井くん』
「はい」
『好き』
「僕も好きです」
『もっとちゃんと言って』
「愛しています」
陽菜は、目を細めて笑った。
『うん。あたしも』
灯りが消える。
衣擦れの音と、互いの名を呼ぶ声だけが、暗い部屋に残った。
中井が触れるたび、陽菜は自分からその手を受け入れた。
恥ずかしいから笑うのでもない。
相手を安心させるために微笑むのでもない。
欲しいものを欲しいと伝え、そのすべてを返していく。
抱きしめられれば、同じ強さで抱きしめた。
口づけられれば、自分から追いかけた。
今まで中井が注ぎ続けてきたものを、陽菜は初めて、同じ熱で返していた。
長い時間をかけて、2人は互いの愛を確かめ合った。
やがて陽菜は、中井の胸へ頬を寄せた。
中井の腕が、彼女の肩を包んでいる。
「陽菜さん」
『ん?』
「今日は、一生忘れないと思います」
『大袈裟』
「大袈裟ではありません」
『じゃあ、忘れないようにもう1回する?』
「……え?」
陽菜が顔を上げる。
先ほどまで潤んでいた目には、すでにいつもの悪戯っぽい光が戻っていた。
『何、その顔。もう終わりだと思ってたの?』
「いえ、ですが……少し休んだ方が」
『あたし、まだ足りない』
「陽菜さん」
『欲しいって言ったでしょ』
中井の顔が再び赤くなる。
陽菜は楽しそうに笑い、その胸へ口づけた。
2人の夜は、それで終わらなかった。
2度目は、先ほどよりも素直に。
3度目は、互いに笑いながら。
夜が深くなるまで、陽菜は何度も中井の名を呼んだ。
そしてそのたびに、自分がどれほどこの男を愛してしまったのかを、身体だけではなく、言葉でも伝え続けた。
愛される喜びを知った女が、初めて自分から愛を求めた夜だった。




