157話「次の約束」
扉が閉まった途端、廊下の賑やかな声が遠ざかった。
部屋には、綺麗に整えられた2つのベッドが並んでいる。
凛は手にした鍵を見つめたあと、深く息を吐いた。
「……すみません。櫻井さんが、勝手なことを」
青柳は荷物を置きながら、わずかに笑った。
「凛さんが謝ることではありません」
「でも、青柳さんは困っていますよね」
「困ってはいます」
正直な返事に、凛の肩がわずかに落ちる。
それを見て、青柳はすぐに言葉を続けた。
「凛さんと同じ部屋だからではありません。どう振る舞えば、凛さんを不安にさせずに済むのか。それがわからなくて困っています」
「……それなら、私も同じです」
凛は鞄をベッドの脇へ置いた。
恋人になった。
離れていても、気持ちは変わらないと伝え合った。
それでも、2人きりの部屋に入っただけで、何を話せばいいのかわからなくなる。
「何か飲みますか」
「はい」
青柳は備えつけの冷蔵庫から水を取り出し、凛へ渡した。
互いに違うベッドへ腰を下ろす。
向かい合っているのに、その間には手を伸ばしても届かないほどの距離があった。
「今日、どうでしたか」
「楽しかったです」
「それは良かったです」
「青柳さんは?」
「僕も楽しかったです」
会話が途切れる。
どちらも嘘は言っていない。
それなのに、口にしている言葉は、いちばん話したいことの周りを回っているだけだった。
凛は膝の上で、両手を握り合わせた。
「青柳さん」
「はい」
「名古屋へ来て、良かったですか」
青柳はすぐには答えなかった。
凛が何を確かめようとしているのか、慎重に考えているようだった。
「良かったと思っています」
「……そうですか」
「後悔もしていません」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
聞きたかった答えのはずだった。
青柳が昔から望んでいた場所で働き、夢へ近づいている。それを喜びたくて、凛はここまで来た。
それでも、寂しさまで消えるわけではない。
「凛さん」
「はい」
「今の返事だけでは、足りませんでした」
凛が顔を上げる。
「名古屋へ来たことは、正しい選択だったと思っています。仕事にも手応えがあります。こちらで学びたいことも、まだたくさんあります」
青柳はまっすぐに凛を見る。
「ですが、凛さんに会えなくても平気だという意味ではありません」
「……会いたかったですか」
「会いたかったです」
迷いのない言葉だった。
「毎日ではありません。でも、仕事が終わったときや、食事をしているときに、凛さんがいたらと思うことがあります」
「毎日ではないんですね」
「正確に伝えた方がいいと思いました」
凛は思わず笑った。
青柳らしい。
喜ばせるためだけに、綺麗な嘘をつかない。
夢を選んだことも、離れて寂しいことも、どちらか一方へ塗り替えたりしない。
「私は、毎日でした」
「……毎日ですか」
「はい。少しだけですけど」
「少しだけ」
「そこは正確に伝えておこうと思いまして」
今度は青柳が笑った。
わずかにあった部屋の緊張が、ようやくほどけていく。
「本当は、寂しいと言わない方がいいと思っていました」
「どうしてですか」
「青柳さんが、名古屋へ来たことを気にしてしまうかもしれないからです。夢を追いかける青柳さんを応援すると決めたのに、寂しいなんて言ったら、足を引っ張るような気がして」
「僕も同じことを考えていました」
「青柳さんも?」
「会いたいと言えば、凛さんを待たせている事実を強調してしまう気がしました。だから、仕事の話ばかりしていました」
離れたくないと言えば、相手の夢を縛ってしまう。
寂しくないと言えば、相手を必要としていないように聞こえてしまう。
互いを大切にしようとした結果、2人とも本当の気持ちを少しずつ隠していた。
「応援するって、何も言わずに待つことじゃないんですね」
「僕も、そう思います」
「なら、これからは言います。会いたいときは、会いたい。寂しいときは、寂しいって」
「はい。僕も言います」
「それと――」
凛は一度言葉を止めた。
「私は、待っているだけにはなりません」
青柳の目が、わずかに見開かれる。
「青柳さんが来られないなら、私が名古屋へ来ます。会いたいと思った方が、会いに行けばいいんです」
「ですが、凛さんにばかり負担をかけるわけには」
「だから、交代にしましょう」
「交代ですか」
「次は青柳さんが東京。その次は私が名古屋です」
凛はスマートフォンを取り出し、予定表を開いた。
「いつ空いていますか」
「今、決めるんですか」
「今、決めます。また連絡すると言って別れたら、私は毎日予定表を見てしまいますから」
青柳もスマートフォンを取り出した。
2人で予定を照らし合わせる。
「2週間後の土曜日なら、東京へ行けます」
「本当ですか」
「はい。金曜日の仕事が終わってから向かえば、夜には着けます」
「無理はしないでください」
「無理ではありません。僕が会いたいので行きます」
凛の指が、画面の上で止まった。
青柳は予定表へ新しい予定を入力する。
2週間後の土曜日。
東京。
凛と会う。
曖昧な約束ではない。
次に会える日が、そこに記された。
「その次は、私が来ます」
「日程は、そのときに決めましょう」
「はい」
予定を入れ終えても、凛はスマートフォンの画面を見つめていた。
2週間。
離れている時間が短くなるわけではない。
それでも、終わりの見えない時間ではなくなった。
「櫻井さんに、少しだけ感謝しないといけないかもしれません」
「少しだけですか」
「勝手に部屋を決められたことまで許すつもりはありません」
「そこは僕も同感です」
「明日の朝、日高先輩に怒られると思います」
「止めた方がいいでしょうか」
「おそらく、止めても無駄です」
2人は顔を見合わせ、静かに笑った。
この部屋を用意したのは陽菜だった。
だが、ここで本音を口にしたのも、次の約束を決めたのも、2人自身の意思だった。
青柳が立ち上がる。
テーブルへ空になったペットボトルを置き、そのまま凛の前で足を止めた。
近い。
凛が顔を上げると、青柳は緊張を隠せない表情で立っていた。
「凛さん」
「はい」
「もう1つ、正直に言ってもいいですか」
「どうぞ」
「今、凛さんにキスをしたいと思っています」
凛の心臓が、大きく鳴った。
不意に唇を奪うこともできたはずだ。
それでも青柳は、凛の答えを待っている。
「……そういうことも、正確に伝えるんですね」
「言わずにしてはいけないと思いました」
「恋人なのに?」
「恋人だからです」
青柳は、差し出した手さえ凛に触れさせなかった。
逃げる時間も、断る自由も、すべて凛へ残している。
凛は、その手へ自分の指を重ねた。
「私も、したいです」
青柳の指が、凛の手を包む。
ゆっくりと身体を屈め、確かめるように顔を近づける。
唇が重なった。
触れるだけの、短い口づけ。
それでも、離れてからも息の仕方がわからなかった。
凛が目を開けると、青柳もすぐ近くで彼女を見つめている。
「……もう一度、してもいいですか」
「はい」
2度目は、先ほどより長かった。
握られた手に、少しだけ力がこもる。
凛もその手を握り返した。
激しくはない。
急いでもいない。
離れていた時間を一度に埋めるのではなく、これから何度でも会えると確かめ合うような口づけだった。
唇が離れる。
凛は赤くなった顔を伏せたまま、青柳の手を離さなかった。
「2週間後ですね」
「はい」
「忘れないでください」
「予定表に入れました」
「予定表に入れないと、忘れるんですか」
「忘れないためではありません。待ち遠しい日を、すぐに確認できるようにするためです」
凛はますます顔を上げられなくなった。
「青柳さんも、そういうことを言えるんですね」
「僕も驚いています」
「誰の影響ですか」
「凛さんだと思います」
窓の外では、名古屋の灯りが静かに瞬いている。
その夜、2人が同じベッドへ入ることはなかった。
部屋へ用意された2つのベッドで、それぞれ眠りにつく。
けれど、消灯する直前まで、2人は途切れることなく話していた。
名古屋での仕事。
東京での日常。
次に会ったら、どこへ行きたいか。
離れているからこそ隠していたものを、少しずつ言葉に変えていく。
「おやすみなさい、凛さん」
「おやすみなさい、青柳さん」
暗闇の中、凛は枕元のスマートフォンへ目を向けた。
予定表には、次に会える日が残っている。
ただ待つだけの恋ではない。
互いの夢を諦めさせる恋でもない。
離れていても、2人で次の距離を決めていく。
その最初の約束が、2週間後に待っていた。




