156話「正解よりも」
部屋の扉が閉まった。
宴会場から聞こえていた声も、廊下を歩く足音も遠ざかる。
残ったのは、空調の音と、柚希と零の呼吸だけだった。
部屋には、少し離して置かれた2つのベッドがある。
陽菜の言ったとおり、同じ部屋ではあっても、同じベッドではない。
何もしたくなければ、何もしなくていい。
それでも、2人きりであることに変わりはなかった。
「……とりあえず、座ろうか」
柚希が先に声を出す。
「はい」
零は背筋を伸ばしたまま、片方のベッドの端へ腰を下ろした。
柚希も向かいのベッドへ座る。
2人の間には、数歩分の距離があった。
「零ちゃん、緊張してる?」
「してないっす」
「本当に?」
「……かなりしてるっす」
零は観念したように答えた。
柚希が小さく笑う。
「私も」
「柚希さんもっすか」
「うん。陽菜さん、本当に勝手だよね」
「自分、部屋割りを聞いた瞬間、頭が真っ白になったっす」
「嫌だった?」
「違うっす」
零の返事は早かった。
「柚希さんと同じ部屋が嫌なんじゃないっす。むしろ、嬉しかったっす。ただ、嬉しいと思った自分に驚いたというか」
「私も嬉しかったよ」
零が顔を上げる。
柚希は照れていたが、目を逸らさなかった。
「びっくりはしたけど。零ちゃんと2人で話せるって思ったら、少しだけ嬉しかった」
「少しだけっすか」
「……かなり」
今度は柚希が言い直した。
零の頬が赤くなる。
会話が途切れた。
けれど、先ほどまでの張りつめた沈黙とは少し違う。
互いに同じような気持ちを抱えている。
そのことが、わずかに空気を柔らかくしていた。
「そうだ」
柚希は鞄を開き、昼間に買った飾りを取り出した。
「さっきは宴会で着けたままだったけど、改めて見せて」
「これっすか」
「うん」
零は自分の飾りへ触れる。
柚希が選んでくれたもの。
可愛すぎると思ったが、身につけているうちに少しずつ馴染んできた。
「やっぱり似合ってる」
「柚希さんの方が似合うっす」
「お揃いにしたかったから。私だけ似合っても意味ないよ」
「どうして、自分とお揃いにしたかったんすか」
零は、思わず尋ねていた。
柚希の指が、自分の飾りの上で止まる。
「零ちゃんは?」
「え?」
「どうして、お揃いにしてくれたの?」
「柚希さんが欲しいって言ったから」
「それだけ?」
零は答えに詰まった。
柚希と同じものを持てることが、嬉しかった。
誰かとお揃いのものを選ぶ経験など、ほとんどない。
それでも柚希が差し出したものなら、自分も持ちたいと思った。
「……柚希さんと同じものを持てるのが、嬉しかったからっす」
「私も」
柚希は、飾りを大切そうに手のひらへ載せた。
「零ちゃんとお揃いにしたかった」
互いの口から、同じ気持ちが出る。
それでも、まだ名前はつかない。
友達だから。
親しくなったから。
旅行へ一緒に来たから。
そう説明することもできる。
だが、そのどれだけを重ねても、胸の内にあるものを言い表すには足りなかった。
「零ちゃん」
「はい」
「私ね。前に好きだった人には、嫌われないことばかり考えてた」
柚希の声が、少しだけ変わった。
零は黙って続きを待つ。
「呼ばれたら会いに行って。相手の都合に合わせて。困ってたら助けて。そうしていれば、いつか私を選んでくれると思ってた」
「柚希さん」
「自分が何をしてほしいのかは、ほとんど言わなかった。言ったら面倒だと思われるかもしれないから」
過去の痛みは、なくなったわけではない。
思い出せば、今でも胸の奥が少し苦しくなる。
「でも、零ちゃんとは違った」
「何がっすか」
「零ちゃんは、私が何かしてあげなくてもLINEをくれる。会いたいって言わなくても、会えたら嬉しそうにしてくれる」
零の顔が、さらに赤くなる。
「それは、柚希さんに会えたら嬉しいからっす」
「うん」
「何かしてもらいたいから、一緒にいるわけじゃないっす」
「うん。わかってる」
柚希が笑う。
「だから、好きになった」
零の呼吸が止まる。
聞き間違えた可能性を探すように、柚希の顔を見つめる。
「……今、何て」
「零ちゃんが好き」
柚希は、今度こそはっきりと告げた。
「友達として大切という意味だけじゃない。零ちゃんに会いたい。もっと近くにいたい。ほかの誰かと仲良くしていたら、たぶん少し妬くと思う」
「柚希さん」
「私は、零ちゃんのことが恋愛として好き」
言い切った瞬間、柚希の指が震えた。
怖くないわけではない。
相手も女性だからではない。
また、自分だけが先に好きになっていたら。
この言葉で、今までの関係まで失ったら。
そう考えると、逃げたくなる。
それでも、今度は待つだけの恋をしたくなかった。
「零ちゃんは、どう思ってる?」
零は俯いた。
膝の上で両手を組む。
すぐに答えは出なかった。
柚希は急かさない。
断られることも覚悟して、零の言葉を待った。
「自分も、柚希さんが好きっす」
小さな声だった。
だが、柚希にははっきり届いた。
「本当に?」
「はい」
零が顔を上げる。
「自分も、柚希さんに会いたいっす。LINEが来ると嬉しいし、返事が遅いと何かあったのか心配になるっす。今日も、柚希さんが旅行へ行くって聞いたから、すぐ行くって決めた」
「陽菜さん、私の名前を使ってたね」
「あれは、ずるいっす」
「嫌だった?」
「嬉しかったっす」
零は、自分の胸へ手を当てる。
「でも、この気持ちをどうしたらいいのか、ずっとわからなかったっす」
「どうして?」
「自分、まともな恋愛をしたことがないっす。それに、女の子同士で付き合うって、どうすればいいのかもわからない」
零の声に、拒絶はなかった。
あるのは、真剣な戸惑いだった。
「男の人と女の人なら、周りにいくらでも見本があるっす。どっちが彼氏で、どっちが彼女で、何をしたら恋人らしいのか。何となく決まってるように見える」
「うん」
「でも、自分たちには、そういうものがないっす」
「決まってないのが、怖い?」
「少し怖いっす」
零は正直に認めた。
「柚希さんを悲しませるかもしれない。自分が知らないことで、傷つけるかもしれない。女の子同士なんて、自分には正解がわからないっす」
柚希は、零から目を逸らさなかった。
「私も、正解はわからないよ」
「柚希さんも?」
「前は男の人を好きだったけど、正解できなかった」
柚希は少し寂しそうに笑う。
「性別が違えば、失敗しないわけじゃない。恋人らしいことをしていれば、幸せになれるわけでもなかった」
零は黙って聞いている。
「だから、最初から正解なんてないんだと思う」
「……はい」
「零ちゃんと一緒に、2人に合う形を探したい」
その言葉が、零の中へ静かに入っていく。
正しくなければ始めてはいけないと思っていた。
失敗する可能性があるなら、友達のままでいた方がいい。
そうすれば、柚希を失わずに済む。
だが、失わないために気持ちを隠し続ければ、柚希が差し出してくれた手を取れない。
零は大きく息を吸った。
そして、ベッドから立ち上がる。
数歩分の距離を進み、柚希の前へ立った。
「自分、女の子同士の恋愛なんて、まだ正解がわからないっす」
「うん」
「何をしたら恋人で、どうしたら柚希さんを幸せにできるのかも、たぶんすぐにはわからない」
「うん」
「でも、柚希さんとなら、上手くいったことも、失敗したことも、一緒に楽しみたいっす」
零の手が、緊張で強く握られている。
「柚希さん」
零は逃げずに、その目を見つめた。
「自分と付き合ってください」
柚希の目に、涙が浮かんだ。
悲しさからではない。
自分の気持ちを伝えた先に、同じ気持ちが待っていた。
そのことが、ただ嬉しかった。
「はい」
柚希は大きくうなずく。
「私でよければ、お願いします」
「柚希さんがいいっす」
零の声が、少しだけ震えた。
「自分は、柚希さんと付き合いたいっす」
「うん。私も、零ちゃんがいい」
零の目にも涙が滲む。
柚希が両手を広げた。
「抱きしめてもいい?」
「自分から、してもいいっすか」
「うん」
零は恐る恐る柚希へ腕を回した。
柚希も、その背中を抱く。
最初は力の入れ方すらわからなかった。
だが、互いの温度を確かめるうちに、腕は少しずつ強くなる。
「零ちゃん」
「はい」
「好き」
「自分も、好きっす」
友達だったときにも、何度も近くにいた。
隣を歩いた。
LINEを送り合った。
傷ついたときには、同じ場所に座った。
それでも今の抱擁は、そのどれとも違う。
好きだと伝え合ったあとで触れる身体は、距離の意味まで変えていた。
しばらくして、2人はゆっくりと離れる。
顔が近い。
柚希は一瞬、零の唇を見た。
零も気づいた。
だが、どちらもその先へは進まなかった。
急がなくていい。
今夜は、気持ちを伝えられた。
付き合いたいと言えた。
それだけで十分だった。
「寝る場所は、別々でいい?」
柚希が尋ねる。
「はい。自分、緊張して眠れなくなると思うっす」
「私も」
2人は笑い合った。
それぞれのベッドへ移り、昼間に買った色違いの飾りを、間にある小さなテーブルへ並べる。
照明を落とす。
暗くなっても、すぐには目を閉じなかった。
「零ちゃん」
「はい」
「もう一回だけ、言ってほしい」
「何をっすか」
「私のこと、好きって」
暗がりの中で、零が小さく息を吸う。
「柚希さんが好きっす」
「私も、零ちゃんが好き」
「……嬉しいっす」
「私も」
同じ部屋。
別々のベッド。
その間には、色違いのお揃いが並んでいる。
正解は、まだわからない。
それでも2人は、正解を知ってから始めるのではなく、一緒に探すことを選んだ。
名古屋の夜に、新しい恋人同士が生まれた。




