155話「部屋割り」
ホテルの食事処には、8人が入れる個室が用意されていた。
中央のテーブルには名古屋の料理が並び、飲み物のメニューも置かれている。
陽菜は上座も下座も気にせず、全員の顔が見える中央の席へ座った。
『それでは、青柳くんとの再会と、凛ちゃんの遠距離恋愛が無事に続いていることを祝って』
「陽菜さん。それを全員の前で言う必要はありますか」
『あるよ。今日の主役だもん』
「主役は青柳さんでは?」
『2人で主役』
凛の隣で、青柳が小さく笑う。
「僕は嬉しいです」
「青柳さんまで」
『ほら、凛ちゃん。諦めて』
陽菜がグラスを持ち上げる。
『乾杯!』
「乾杯」
全員の声が重なり、グラスが触れ合った。
旅行の夜が始まった。
◇
最初は、昼間の観光について話していた。
陽菜が注文した料理の多さ。
凛と青柳が神社で引いたおみくじ。
柚希と零が買った色違いの飾り。
橋の上で撮った集合写真。
会話が途切れることはなく、料理も次々に減っていく。
『零、それ着けてみてよ』
陽菜が、零の持つ小さな袋を指さす。
「ここでっすか」
『柚希ちゃんとお揃いなんでしょ?』
「色違いです」
柚希が答える。
『なおさら見たい』
「自分には、少し可愛すぎると思うっす」
「そんなことないよ」
柚希がすぐに否定した。
「零ちゃんに似合うと思って選んだんだから」
零が黙る。
頬が少しずつ赤くなっていく。
「……じゃあ、着けるっす」
袋から飾りを取り出し、不慣れな手つきで身につける。
柚希も、自分のものを着けた。
同じ形。
少しだけ違う色。
『可愛い』
陽菜が満足そうにうなずく。
「ありがとうございます」
「どうもっす」
『付き合いたてのカップルみたい』
「陽菜さん」
柚希が困ったように呼ぶ。
「まだ、私たちは……」
『まだ?』
「……何でもありません」
柚希は俯き、零も黙って水へ口をつけた。
その様子を見た陽菜の目が、楽しそうに細くなる。
中井は隣から釘を刺した。
「陽菜さん。何もしない約束では」
『何もしてないよ。感想を言っただけ』
「その顔で言っても信用できません」
『あたしの彼氏、疑い深くなった』
「経験から学びました」
『成長したね』
「誰のせいでしょう」
陽菜は答えず、中井の皿から料理を一つ取った。
「それは僕のです」
『恋人なんだからいいじゃん』
「一言聞いてください」
『食べていい?』
「もう食べています」
『美味しい』
「そうですか」
中井は呆れながらも、自分の皿を陽菜の方へ少し寄せた。
拒む気がないことを、陽菜もわかっている。
◇
凛と青柳は、宴会の賑やかさの中で、時折2人だけの会話をしていた。
「名古屋での仕事には、もう慣れましたか」
「少しずつです。まだ東京へ確認することも多いですが」
「無理はしていませんか」
「していません。凛さんとLINEをする時間も、きちんと取れています」
「忙しい日は、無理に返さなくても大丈夫です」
「返したいから返しています」
青柳の答えに、凛の表情が柔らかくなる。
「凛さんは、どうですか。東京の仕事は」
「青柳さんが担当していた分を、皆さんで分けています。大変ですが、以前よりできることが増えました」
「凛さんなら大丈夫です」
「そう言っていただけると、頑張れます」
『あまーい』
陽菜の声が割って入る。
凛が顔を上げる。
「聞いていたんですか」
『同じ部屋にいるんだから聞こえるよ』
「聞こえても、反応しないでください」
『凛ちゃん、本当に強くなった』
「陽菜さんへの対処だけです」
青柳が声を抑えて笑う。
凛は恥ずかしそうにしながらも、以前のように黙り込まなかった。
陽菜に言い返し、再び青柳との会話へ戻る。
それもまた、青柳が東京を離れてからの変化だった。
◇
宴会が進むにつれ、酒を飲む者のグラスも空いていった。
樹里も、最初は自分の速度を守っていた。
だが、その日はいつもより酒が進んだ。
黒木と榊の件が終わった安堵。
久しぶりに仕事から離れた時間。
朝から歩き続けた疲れ。
いくつものものが重なり、酔いが普段より早く回っていた。
『日高先輩、空いてる』
陽菜が樹里のグラスへ手を伸ばす。
『自分で注ぎます』
『今日はあたしがやる』
『お前、さっきから私にだけ多く注いでないか』
『気のせいだよ』
『陽菜』
『旅行なんだから、少しくらい酔ってもいいじゃん』
樹里は陽菜を睨んだ。
だが、その目にも普段の鋭さがない。
陽菜が酒を注ぐ前に、神谷が樹里の前へ水を置いた。
「日高先輩。こちらも飲んでください」
『まだ大丈夫です』
「そう言う方ほど、大丈夫ではないことがあります」
『神谷さんまで、私を酔っ払い扱いするんですか』
「扱ってはいません。心配しているだけです」
『……そうですか』
樹里は素直に水を飲んだ。
陽菜が面白そうに、その様子を眺めている。
『日高先輩、神谷さんの言うことは聞くんだ』
『水を飲んだだけです』
『あたしが言っても飲んだ?』
『お前が飲ませたんだろ』
『怒ってる?』
『明日、覚えておけ』
『覚えてたらね』
『私は覚えている』
『今のうちに録音しておこうかな』
『殴るぞ』
『暴力反対』
陽菜は笑いながら、自分の席へ戻った。
「陽菜さん」
中井が小声で呼ぶ。
「日高先輩へ飲ませすぎではありませんか」
『無理には飲ませてないよ』
「ですが」
『総長……じゃなくて、日高先輩が、自分で飲んでる』
「今、何と言いかけました?」
『日高先輩』
「その前です」
『聞き間違い』
陽菜は笑顔のまま、樹里を見る。
その目には悪戯だけでなく、少しの安心があった。
樹里が、自分の前で酔える。
神谷が隣にいる状況で、警戒を緩められる。
少し前の樹里なら、考えられなかったことだ。
◇
食事が終わる頃には、樹里は完全に酔っていた。
背筋は伸びている。
目も開いている。
だが、視線の焦点がいつもより少し曖昧だった。
神谷が、樹里の空いたグラスをそっと遠ざける。
「日高先輩。もう水だけにしましょう」
『命令ですか』
「お願いです」
『……なら、聞きます』
神谷は安堵したように息を吐いた。
『素直』
陽菜が呟く。
『黙れ』
言葉は鋭い。
しかし、声に力がない。
全員の食事が終わったことを確認すると、陽菜が突然立ち上がった。
『はい、注目!』
手を叩く。
その音に、全員が陽菜を見る。
『そろそろ部屋に戻ります』
「部屋割りを、まだ聞いていません」
凛が即座に言った。
『今から発表します』
陽菜は鞄を開き、4枚の封筒を取り出した。
樹里が、酔った目でそれを見る。
『お前……まだ隠してたのか』
『楽しいことは最後に取っておくタイプだから』
『嫌な予感しかしません』
柚希が呟く。
零も姿勢を正していた。
「普通に女性と男性で分かれるんじゃないんすか」
『普通って、つまらないよね』
「聞かなかったことにしたいっす」
『もう遅い』
陽菜は最初の封筒を持ち上げる。
『まず、あたしと中井くん』
「はい」
中井は予想していたのか、驚かなかった。
『次。柚希ちゃんと零』
「えっ」
柚希の声が漏れる。
零の身体が固まった。
「じ、自分と柚希さんっすか」
『嫌?』
「嫌じゃないっす。でも」
「零ちゃんが嫌でなければ、私は……」
柚希はそれ以上言えず、俯いた。
陽菜は満足そうに、2枚目の封筒をテーブルへ置く。
『次。凛ちゃんと青柳くん』
凛の耳が、一気に赤くなった。
「陽菜さん」
『何?』
「どうして、そうなるんですか」
『会いに来たんでしょ?』
「そうですが、部屋まで同じにする必要はありません」
青柳が凛へ顔を向ける。
「凛さんが嫌なら、僕は別の場所を探します」
「嫌というわけでは……」
「無理はしなくて大丈夫です」
「無理ではありません」
凛は小さく息を吸う。
「驚いただけです」
「では、一緒でも構いませんか」
凛は俯いたまま、うなずいた。
「はい」
青柳の顔にも、照れと嬉しさが同時に浮かんだ。
陽菜が最後の封筒を掲げる。
『そして、日高先輩と神谷さん』
神谷の顔が、目に見えて赤くなった。
「僕と、日高先輩が?」
『うん』
『却下』
樹里が即座に答える。
しかし、立ち上がろうとして身体が揺れた。
神谷が咄嗟に支える。
「日高先輩、大丈夫ですか」
『大丈夫です。放してください』
「立てていません」
『立っています』
『神谷さんに半分持たれてるよ』
『陽菜』
樹里は陽菜を睨もうとした。
だが、首の動きまで少し遅い。
『全室ツインだからね。嫌なら何もしなくていいし、ベッドも別』
陽菜は全員の顔を見渡す。
柚希と零。
凛と青柳。
樹里と神谷。
そして、自分の隣にいる中井。
誰かが一方的に何かをするための部屋ではない。
言えずにいたことを言う。
近づきたい相手へ、近づいてもいいのかを確かめる。
そのための夜だった。
陽菜は4枚の封筒を、それぞれの組へ配る。
『お酒も飲んだし、お腹も膨れた。そんで好きな人と2人きりの部屋。
みんな、この機会逃しちゃダメだよー』
全員の動きが止まった。
『じゃ、行こ。中井くん』
「もう行くんですか」
『今ここにいたら、あたしが怒られる』
『待て、陽菜』
樹里が呼び止める。
陽菜は中井の腕を掴み、素早く立ち上がった。
『明日の朝、ちゃんと謝るから!』
『今謝れ』
『今は嫌!』
『陽菜!』
『おやすみなさーい!』
陽菜は中井を引き連れ、個室から逃げ出した。
「すみません。お先に失礼します」
中井は残された全員へ頭を下げながら、陽菜に連れていかれる。
廊下から、2人の声が聞こえた。
「陽菜さん、走ると危ないです」
『捕まった方が危ないの!』
足音が遠ざかっていく。
残された6人の間へ、気まずい沈黙が落ちた。
柚希と零は、互いの顔を見られずにいる。
凛は封筒を両手で持ち、その隣では青柳が何と声をかけるべきか迷っていた。
神谷は、身体を預けかけている樹里を支えている。
『……陽菜』
樹里が、低く呟く。
『明日、顔の形が変わるまで殴る』
「日高先輩。今は歩くことだけ考えてください」
『歩けます』
「では、ゆっくり立ちましょう」
『子ども扱いしないでください』
「していません」
『しています』
「すみません」
『謝らないでください』
「はい」
神谷は樹里を急かさず、ゆっくりと立たせた。
凛が青柳を見る。
「すみません。陽菜さんが、勝手に」
「勝手でも、僕は嬉しいです」
青柳は正直に答えた。
「ですが、凛さんの嫌がることはしません」
「……はい」
柚希も、零へ声をかける。
「零ちゃん。行こうか」
「はい」
返事はできた。
だが、零の歩き方は普段より明らかに硬かった。
6人は、それぞれの部屋へ向かう。
同じ廊下。
違う扉。
封筒に書かれた部屋番号を確かめ、2人ずつ足を止める。
中で何を話すのか。
どこまで近づくのか。
何も起こらないのか。
それを決めるのは、陽菜ではない。
扉の前に立った2人だった。
やがて、4つの扉が順番に閉まった。
名古屋の夜に、昼間よりも近い距離が残された。




