154話「今の写真」
名古屋駅を出た一行が、最初に向かったのは青柳が選んだ店だった。
まだ昼前だというのに、店の前には何人か並んでいる。
看板に並ぶ料理の写真を見た陽菜が、目を輝かせた。
『全部食べたい』
「一度に全部は無理です」
中井が冷静に返す。
『旅行中のあたしを甘く見ないで』
「胃袋の問題です」
『中井くんが半分食べてくれればいいじゃん』
「最初から僕へ渡す前提なんですね」
『恋人は助け合いでしょ』
「食べ残しを引き受ける意味ではないと思います」
言いながらも、中井は陽菜が注文しようとしている品を確認していた。
無理そうなら自分が食べるつもりなのだろう。
その様子を見ていた青柳が、凛へ小さく笑う。
「中井、以前より逞しくなりましたね」
「陽菜さんと付き合ってから、特に」
『聞こえてるよ』
「聞こえるように話しました」
凛の返しに、陽菜が振り返る。
『凛ちゃんも強くなったよね。青柳くんの影響?』
「誰かさんの影響です」
『あたし?』
「心当たりがあるなら、そうだと思います」
『いい影響だね』
「反省してください」
凛はそう言いながらも笑っていた。
隣に青柳がいる。
それだけで、いつもより表情が柔らかい。
店へ入ると、陽菜は宣言どおり、気になった料理をいくつも注文した。
中井は止めきれず、途中から諦めたように自分の分を少なめに変更する。
「最初から、僕が食べる量を計算していましたか」
『当然』
「助け合いではなく、計画的犯行ですね」
『中井くん、あーん』
「話を誤魔化そうとしていますね」
『いらないの?』
「いただきます」
差し出された一口を、中井が素直に食べる。
陽菜は満足そうに笑った。
柚希と零は、その向かいに並んで座っている。
「零ちゃん、これ美味しいよ」
柚希が小皿を差し出す。
「ありがとうございます。柚希さんも、こっち食べますか」
「うん、もらう」
互いの料理を交換する。
恋人同士のようにも見えるが、まだ2人はその言葉を持っていない。
近くにいられることが嬉しい。
目が合えば笑う。
それだけで満足しようとしている距離だった。
少し離れた席では、神谷が樹里へ尋ねる。
「日高先輩、お口に合いますか」
『はい。美味しいです』
「よかったです」
『神谷さんが選んだ店ではないですよね』
「青柳が選んだ店ですが、僕も安心しました」
『なぜ神谷さんが安心するんですか』
「先輩が旅行を楽しめているか、少し気になっていました」
樹里の箸が止まる。
『楽しんでいないように見えますか』
「いえ。東京駅にいたときよりは、少し表情が柔らかいです」
『よく見ていますね』
「すみません」
『謝ることではありません』
樹里は料理へ視線を戻す。
神谷も、それ以上は踏み込まなかった。
少し前まで、樹里は自分の過去を誰かに暴かれようとしていた。
会社へ迷惑をかけるかもしれない。
周囲からの見方が変わるかもしれない。
そんな不安を抱えながら、黒木と榊へ向き合っていた。
今日は、そのどちらもない。
目の前にあるものを食べ、誰かの話を聞き、次の行き先を考えるだけでいい。
『来てよかったと思っています』
樹里が小さく言う。
神谷が顔を上げる。
『まだ、着いたばかりですが』
「それでも、嬉しいです」
『そうですか』
樹里は、ほんのわずかに口元を緩めた。
◇
食事を終えたあとは、青柳の案内で市内を歩いた。
最初に訪れたのは、街の中に静かに佇む神社だった。
境内へ入ると、陽菜は真っ先におみくじを見つける。
『みんな引こうよ』
『私はいい』
樹里が断る。
『日高先輩、悪い結果が怖いんですか』
『興味がないだけです』
『大凶だったら結んで帰ればいいじゃん』
『決めつけるな』
『じゃあ引いて』
陽菜に押し切られ、樹里も結局おみくじを手にした。
全員が結果を開く。
『大吉!』
陽菜が真っ先に声を上げる。
「本当ですか」
中井が覗き込む。
『恋愛、思うまま。ほら』
「陽菜さんが、さらに思うままになるんですね」
『嬉しくないの?』
「覚悟を新しくしています」
『今夜、頑張ってね』
「ここで言うことではありません」
中井の耳が赤くなる。
陽菜は楽しそうに笑い、今度は樹里の手元を覗こうとした。
『日高先輩は?』
『見せません』
『恋愛のところだけ』
『嫌です』
『神谷さん、気になりません?』
「僕へ振らないでください」
『気にならないんだ』
「気になりますが、日高先輩が見せたくないものを無理に見るつもりはありません」
神谷が正直に答える。
樹里はおみくじを折り畳み、鞄へしまった。
その紙には、待ち人は焦らずとも来ると書かれていた。
陽菜にも、神谷にも見せなかった。
凛は自分のおみくじを読みながら、青柳へ尋ねる。
「青柳さんは、どうでしたか」
「吉です。仕事は、積み重ねが実ると」
「青柳さんらしいですね」
「恋愛は、離れていても心は近いそうです」
凛が顔を上げる。
「本当に、そう書いてあるんですか」
「見ますか」
青柳が差し出した紙には、確かに似た意味の言葉が書かれている。
凛は自分のおみくじへ目を戻した。
「私も吉です」
「何と書いてありましたか」
「……秘密です」
「気になります」
「いつか、教えます」
凛の恋愛欄には、自ら動けば道が開けるとあった。
今日、名古屋まで会いに来た自分を肯定されたようで、少し嬉しかった。
柚希も、自分のおみくじを読んでいる。
その隣で、零が紙を慌てて折り畳んだ。
「零ちゃん、どうだった?」
「末吉っす」
「何て書いてあったの?」
「普通っす」
「普通?」
「特に面白いことは書いてなかったっす」
零は、紙をポケットへしまう。
その恋愛欄には、迷わず言葉にせよとあった。
柚希へ見せる勇気はなかった。
だが、ポケットの中にある短い言葉が、その後もずっと頭から離れなかった。
◇
神社を出たあとは、昔ながらの店が並ぶ商店街へ向かった。
陽菜は食事をしたばかりにもかかわらず、店先の甘味へ引き寄せられる。
『これ、美園さんへのお土産にしよう』
『自分が食べたいだけだろ』
『両方だよ』
『美園は甘すぎるものを、そこまで食べない』
『じゃあ佐藤くんが食べる』
『美園への土産ではないじゃないか』
『2人へのお土産』
陽菜は迷わず箱を一つ買った。
その隣で、中井も商品を見ている。
『中井くん、誰に買うの?』
「家族と、会社の皆さんです」
『あたしには?』
「陽菜さんは今、一緒に選んでいます」
『恋人だけの特別なお土産が欲しい』
「では、あとで2人で選びましょう」
『やった』
陽菜はすぐに機嫌を直し、中井の腕へ絡みついた。
少し先では、柚希が小さな飾りを手に取っている。
「可愛い」
「似合いそうっすね」
零が隣から覗く。
「私に?」
「はい。柚希さんに」
「零ちゃんは、こういうの着けない?」
「自分には、可愛すぎるっす」
「そうかな」
柚希は別の色を手に取った。
派手すぎない、落ち着いた色だった。
「これなら、零ちゃんにも似合うと思う」
「自分にっすか」
「お揃いで買わない?」
零の目が丸くなる。
「嫌なら、無理には——」
「嫌じゃないっす」
返事が、少し大きくなった。
零は周囲の視線を気にして、声を落とす。
「自分も、欲しいっす」
2人は色違いの飾りを買った。
すぐに身につけるわけではない。
それでも、同じ店の袋をそれぞれ持って歩く姿は、先ほどより少しだけ近く見えた。
その後ろを歩いていた陽菜が、中井へ小声で言う。
『あれ、今日中にいけると思う?』
「何がですか」
『付き合うところまで』
「本人たちの問題です」
『予想くらいしてよ』
「陽菜さんは、何もしないでください」
『応援はする』
「余計なことは?」
『ちょっとする』
「しないでください」
中井は真剣だった。
陽菜は唇を尖らせる。
『中井くん、美園さんみたいになってきた』
「陽菜さんを止める人が増えた方が、皆さんのためです」
『あたしの味方じゃないの?』
「味方だから止めています」
陽菜は一瞬黙り、すぐに嬉しそうな顔へ戻った。
『好き』
「急ですね」
『言いたくなったから』
「僕も好きです」
中井は照れながらも、きちんと返した。
◇
夕方。
青柳が最後に案内したのは、街を見渡せる橋だった。
陽が傾き、空が薄い橙色へ染まり始めている。
水面にも同じ色が揺れていた。
「ここで、一度写真を撮りませんか」
青柳が提案する。
『いいね。全員で撮ろう』
陽菜はすぐに賛成し、通りかかった人へ撮影を頼んだ。
全員が橋の上へ並ぶ。
凛は自然と青柳の隣へ立った。
柚希と零も並ぶ。
陽菜は中井の腕を引き、自分の隣へ立たせた。
樹里は端へ行こうとしたが、陽菜に肩を押される。
『日高先輩は、ここ』
示されたのは神谷の隣だった。
『なぜ』
『身長のバランス』
『それなら、神谷さんが端でもいいでしょう』
「僕は、ここで構いません」
『神谷さんは黙ってて』
「すみません」
『謝らなくていいです』
結局、樹里は神谷の隣へ立った。
肩が触れるほどではない。
だが、少し動けば腕が重なる距離だった。
撮影を頼まれた人が、スマートフォンを構える。
「もう少し、皆さん中央へ寄ってください」
全員の距離が縮まる。
神谷の腕が、樹里の腕へわずかに触れた。
「すみません」
『大丈夫です』
樹里は離れなかった。
『日高先輩、笑って』
『笑っています』
『全然』
『早く撮れ』
『撮る人に怒らないでよ』
「撮りますよ」
声がかかる。
陽菜が大きく笑う。
中井も、その隣で穏やかに笑っている。
凛と青柳。
柚希と零。
樹里と神谷。
全員が同じ景色の中へ収まった。
数枚撮り終え、スマートフォンが陽菜へ返される。
『いい写真』
陽菜が全員へ見せる。
過去の写真とは違う。
誰かの喧嘩の前でも、敵対する相手を睨んでいる瞬間でもない。
誰かに勝手に切り取られたものでもない。
今の自分たちが、自分たちの意思で残した写真だった。
『これ、LINEに送るね』
陽菜が旅行のグループへ写真を投稿する。
少し考えて、美園にも送った。
『楽しんでまーす』
間もなく美園から返信が届く。
『いい写真。みんな、ちゃんと帰ってきてね』
続いて、もう一文。
『特に陽菜。余計なことしないように』
陽菜の笑顔が固まる。
『なんでバレてるの』
『何かするつもりだったんですか』
樹里の目が向く。
『何も』
『今、余計なことをするつもりだと認めましたね』
『美園さんの勘が鋭いだけだよ』
陽菜は慌ててスマートフォンをしまった。
その鞄の中には、全員へまだ見せていないものが入っている。
ホテルの部屋番号が書かれた、4枚の封筒だった。
◇
観光を終えた一行は、青柳とともにホテルへ入った。
宴会の開始時刻までは、まだ少しある。
陽菜は全員の荷物をフロントへ預け、代表者として手続きを済ませた。
受付の係から、4枚の封筒を受け取る。
青柳が不思議そうに尋ねた。
「陽菜さん。僕の宿泊分まで、本当に取っていただいたんですか」
『うん。宴会のあとに青柳くんだけ帰すのも悪いでしょ』
「自宅へ戻れる距離ですが」
『今日は旅行なんだから、青柳くんも泊まるの』
「ですが、部屋は——」
『ちゃんとあるよ』
陽菜は封筒を鞄へしまった。
凛が、その動きを見る。
「部屋は、誰と誰なんですか」
『あとで発表する』
「今、教えてください」
『宴会のあと』
「どうして、そこまで隠す必要があるんですか」
『旅行の楽しみ』
「部屋割りに驚きは必要ありません」
『凛ちゃん。旅行は、何が起きるかわからない方が面白いよ』
「嫌な予感しかしません」
凛の言葉に、柚希と零も少し不安そうな顔をした。
神谷は樹里を見ないようにしている。
中井だけは、何となく察したのか、すでに耳が赤かった。
樹里が陽菜の前へ立つ。
『封筒を見せろ』
『嫌』
『今すぐ見せろ』
『宴会のあと』
『陽菜』
会社ではない。
美園もいない。
樹里の呼び方が変わった。
陽菜は一瞬だけ姿勢を正したが、封筒を渡そうとはしなかった。
『総長。今日は旅行だよ』
『だから何だ』
『細かいことは、お酒飲んでから考えよう』
『お前、私に飲ませるつもりか』
『まさか』
陽菜の笑顔が、怪しい。
樹里はしばらく睨んでいたが、人のいるロビーで鞄を奪うわけにもいかない。
『後悔するぞ』
『しないよ』
『するのはお前だ』
『大丈夫。明日のことは、明日のあたしに任せる』
陽菜は4枚の封筒が入った鞄を抱え、宴会場へ続く廊下を歩き始めた。
明日の陽菜が、どのような顔で朝を迎えるのか。
このときはまだ、誰も知らなかった。




