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153話「会いに行く」

旅行前日の金曜日。


 終業時刻を迎えた島川不動産で、陽菜は自分のパソコンを閉じると、全員へ確認するように声を上げた。


『明日、東京駅に8時集合だからね。遅刻した人は置いていきます』


「櫻井さん。まだ仕事中の人もいる」


 黒澤が書類から顔を上げる。


『もう終業時間ですよ』


「俺は仕事の話をしてるんじゃない。私用の連絡をフロア全体に聞かせるなと言ってる」


『みんな知ってるから大丈夫です』


「知らない人間もいる」


『じゃあ、黒澤部長も来ます?』


「行かない」


『名古屋、美味しいものいっぱいありますよ』


「旅行の誘いで仕事の邪魔をするな」


『はーい』


 反省した様子のない返事だった。


 陽菜は今度こそ声を落とし、中井の席へ近づく。


『中井くん、切符持った?』


「持っています」


『着替えは?』


「鞄に入れました」


『充電器』


「入れました」


『あたしを楽しませる気持ち』


「それが一番入っています」


 迷いのない返答に、今度は陽菜が一瞬黙った。


『……そういう恥ずかしいこと、会社で言うんだ』


「聞かれたので」


『中井くん、最近強くなったよね』


「陽菜さんのおかげです」


『それも恥ずかしい』


「櫻井さん」


 黒澤の声が、もう一度飛ぶ。


「声が戻ってるぞ」


『すみませーん』


 陽菜は笑いながら自分の鞄を持ち上げた。


 その少し先では、凛が予定表を確認している。


 明日の欄に、名古屋と入力されていた。


 文字を見るだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。


 楽しみだった。


 それと同じくらい、緊張していた。


「遠藤さん」


 声をかけたのは樹里だった。


「はい」


『明日は、青柳さんと2人で話す時間もあるんですよね』


「その予定です」


『なら、私たちのことは気にしないでください』


「ですが、皆さんにも名古屋を楽しんでいただきたいので」


『案内は青柳さんに任せればいいです。今回、一番会いたかったのは遠藤さんでしょう』


 凛は少しだけ俯く。


「……はい」


『素直でいいですね』


「からかわないでください」


『からかっていません』


 樹里は本当に、からかっていなかった。


 凛が自分の気持ちを隠さず、会いに行くと決めたことを、静かに肯定している。


『日高先輩』


 陽菜が背後から現れる。


『凛ちゃんには優しいよね』


『櫻井さんも、仕事中でなければ優しくします』


『今、終業後だよ』


『では、静かにしてください』


『優しくない』


 凛が小さく笑った。


 ほんの数日前まで、樹里と陽菜の間には、誰にも見せられない緊張があった。


 今はもう、いつものやり取りが戻っている。


 それを見られることも、凛には嬉しかった。


     ◇


 土曜日の朝。


 東京駅の待ち合わせ場所へ最初に着いたのは、凛だった。


 集合時刻の30分前。


 自分でも早すぎると思ったが、家にいても落ち着かなかった。


 青柳からは、すでにLINEが届いている。


「こちらは晴れています。気をつけて来てください」


 凛は、東京駅の構内を撮った写真を送った。


「もう着きました」


 すぐに返信が来る。


「集合は8時では?」


「少し早く着いただけです」


「楽しみにしてくれていると思ってもいいですか」


 凛の指が止まる。


「はい。とても楽しみです」


 送信したあと、頬が熱くなった。


 以前なら、そこまで書けなかった。


 会いたいと言うことも、楽しみだと伝えることも、相手の負担になるのではないかと迷っていた。


 今は、言葉にしなければ届かないことを少しずつ知っている。


「僕もです。早く会いたいです」


 届いた返信を読み、凛は口元を緩めた。


「凛ちゃん、おはよう」


 声に振り返る。


 柚希が、小さな旅行鞄を持って立っていた。


「おはようございます、柚希ちゃん」


「早いね」


「柚希ちゃんもです」


「私も、家にいても落ち着かなくて」


 柚希はそう言いながら、周囲へ目を向ける。


 誰かを探していることは明らかだった。


「零ちゃんを待っていますか」


「え?」


「違いましたか」


「違わなくはないけど……」


 柚希の頬が、少しだけ赤くなる。


「凛ちゃん、前より言うようになったね」


「陽菜さんの影響かもしれません」


「それは少し心配」


 2人が笑ったところへ、聞き覚えのある声が届く。


「おはようございます」


 零が、肩へ鞄を掛けて歩いてきた。


 普段の仕事着とは違う、落ち着いた私服姿だった。


「零ちゃん、おはよう」


「おはようございます、柚希さん。凛さん」


「おはようございます」


 零は2人の前で足を止める。


「自分、電車で旅行するの、あまり慣れてないっす」


「私も名古屋は初めてだよ」


「なら、一緒に迷えるっすね」


「迷わないようにしようよ」


「柚希さんが一緒なら、迷っても楽しそうっす」


 零は深い意味を込めずに言ったらしい。


 だが、柚希は返事に困り、視線を逸らした。


 凛は何も言わず、その様子を見ている。


 そこへ、中井が大きめの鞄を持って現れた。


「おはようございます」


『中井くん、遅い』


 その後ろから陽菜が顔を出す。


「まだ集合の15分前です」


『あたしより後に着いた』


「陽菜さんが、集合の1時間前に来ると言ったので」


『旅行だからね』


「それに合わせて来ました」


『偉い』


 陽菜は満足そうに中井の腕へ自分の腕を絡めた。


 人目を気にする様子はない。


 中井は少し照れているが、離れようともしなかった。


「鞄、大きいですね」


 柚希が尋ねる。


『あたしの荷物も入ってるから』


「陽菜さんが、途中で入らないと言って渡してきました」


『だって入らなかったんだもん』


「何を持ってきたんですか」


『内緒』


「僕も中身を知りません」


『中井くんが喜ぶもの』


 中井の足が止まる。


 柚希と凛は揃って視線を逸らし、零だけが不思議そうに鞄を見た。


「食べ物っすか」


『零、素直で可愛いね』


「違うんすか」


『後で柚希ちゃんに聞いて』


「どうして私に聞くの?」


 陽菜は楽しそうに笑っている。


 その声に呼ばれるように、樹里と神谷も姿を現した。


『朝から騒ぐな』


『総——』


 陽菜が口を止める。


 すぐ近くには神谷だけでなく、一般の通行人もいる。


『……日高先輩、おはようございます』


『おはようございます』


「皆さん、おはようございます」


 神谷が頭を下げる。


 その手には、2つのコーヒーがあった。


「日高先輩。よろしければ」


『私にですか』


「はい。甘くないものです」


『ありがとうございます』


 樹里が受け取る。


 陽菜は、その一連の動きをじっと見ていた。


『神谷さん』


「何ですか」


『あたしのは?』


「中井に買ってもらってください」


『冷たい』


「陽菜さん。僕が買ってきます」


『大丈夫。中井くんの愛は、もうもらってるから』


「朝から何を言ってるんですか」


『昨日の夜も——』


『櫻井さん』


 樹里の低い声が、陽菜の続きを止めた。


『全員揃ったなら行きますよ』


『まだ5分前だよ』


『あなたを自由にしておく時間を減らします』


『旅行なのに管理されてる』


 陽菜は不満を口にしながらも、先頭に立って歩き始めた。


     ◇


 新幹線へ乗り込むと、陽菜が人数分の切符を配った。


 樹里は自分の席を確認し、隣を見る。


 神谷が座っていた。


『神谷さん』


「はい」


『席が隣ですね』


「そうですね」


 神谷は、それ以上何も言わない。


 少し離れた席では、陽菜が窓側へ座り、中井を隣へ呼んでいる。


 柚希と零も近い。


 凛だけは通路を挟んだ席で、スマートフォンを見ていた。


『櫻井さん』


 樹里が呼ぶ。


『何?』


『この座席は、誰が決めたんですか』


『駅員さんじゃない?』


『予約した人間を聞いています』


『あたし』


『偶然ですか』


『何が?』


『私と神谷さんが隣なのは』


『偶然だよ』


 陽菜の答えは早かった。


『席が勝手にそうなった』


『座席は勝手に決まりません』


『細かいこと気にすると、旅行楽しめないよ』


 陽菜は話を終わらせるように、中井の肩へ頭を預けた。


 樹里は小さく息を吐く。


「ご迷惑でしたら、席を替わります」


 神谷が申し出る。


『いいえ。神谷さんが嫌なわけではありません』


「では、このままで」


『はい』


 樹里は窓の外へ視線を向けた。


 神谷も無理に話しかけてこない。


 隣へいることを押しつけず、かといって過度に遠慮して離れようともしない。


 しばらくして、樹里がコーヒーへ口をつける。


 好みの苦さだった。


『美味しいです』


「よかったです」


 神谷が笑う。


 樹里は、その横顔を一度だけ見て、再び窓へ目を向けた。


 陽菜は座席の隙間から、その様子を覗いていた。


『何を見ている』


『富士山』


『反対側だ』


『じゃあ、日高先輩』


『前を向け』


『はーい』


 新幹線が速度を上げる。


 東京の景色が遠ざかっていった。


     ◇


 名古屋駅へ到着する少し前から、凛は何度も時刻を確認していた。


「緊張していますか」


 隣から柚希に聞かれる。


「少し」


「毎日LINEしてるんだよね?」


「はい。でも、会うのは久しぶりなので」


「きっと、青柳さんも緊張してるよ」


「そうでしょうか」


「凛ちゃんに会いたいって、言ってくれてるんでしょ?」


「はい」


「なら大丈夫」


 柚希の言葉に、凛はうなずいた。


 新幹線が名古屋駅へ入る。


 速度が落ち、ホームの景色が見え始める。


 凛の胸の鼓動は、東京を出るときよりも速くなっていた。


 改札を抜ける。


 休日の名古屋駅は、人で溢れている。


 待ち合わせ場所へ向かうと、少し離れたところに青柳の姿が見えた。


 東京にいた頃と同じ、穏やかな立ち方。


 だが、顔を見た瞬間、離れていた時間が急に現実になる。


 青柳も凛を見つけた。


 表情が、はっきりと緩む。


「凛さん」


 凛の足が速くなる。


 駆け寄るほどではない。


 それでも、ほかの誰より先に青柳の前へ立った。


「青柳さん」


「お久しぶりです」


「はい」


 言いたいことは、いくつも考えていた。


 仕事はどうですか。


 名古屋には慣れましたか。


 身体に気をつけていますか。


 だが、顔を見た瞬間に出てきたのは、もっと短い言葉だった。


「会いたかったです」


 青柳の目が、わずかに見開かれる。


「僕もです」


 凛は笑った。


 青柳も笑う。


 すぐ後ろには、陽菜たちがいる。


 人目もある。


 それでも青柳は、凛へ片手を差し出した。


 凛は迷わず、その手を取る。


 強く握るわけではない。


 離れていた時間を埋めるように、指先を重ねる。


『はい。感動の再会はそこまで』


 陽菜の声が飛んだ。


 凛が慌てて手を離そうとする。


 青柳は無理に引き止めなかったが、指先だけが少し名残惜しそうに離れた。


『続きは2人きりのときにしてね』


「陽菜さん」


『邪魔してないよ。続きの許可を出しただけ』


「誰の許可ですか」


『企画者』


「企画者が一番邪魔をしています」


 凛の返しに、青柳が小さく笑った。


「皆さん、遠いところをありがとうございます」


『青柳くん、元気そうじゃん』


「はい。皆さんもお元気そうで安心しました」


「青柳、久しぶりだな」


 神谷が手を差し出す。


「お久しぶりです、神谷さん」


 2人が握手を交わす。


 樹里も青柳へ軽く頭を下げた。


『青柳さん、お元気そうで何よりです』


「日高先輩も。来ていただけるとは思っていませんでした」


『私は、半分ほど巻き込まれただけです』


『半分は自分で来たんだ』


『櫻井さん』


『ごめんなさい』


 謝りながら、陽菜は笑っている。


 中井、柚希、零も順に挨拶をする。


 青柳は全員の顔を見て、改めて頭を下げた。


「名古屋へ来てくださって、本当にありがとうございます。今日は僕が案内します」


『任せた。まず、ご飯』


「まだ昼前です」


『旅行中は、食べられるときに食べるの』


「朝、新幹線で駅弁を食べていましたよね」


『あれは朝ご飯』


 陽菜は当然のように答えた。


『名古屋に着いたから、次は名古屋のご飯』


「わかりました。候補はいくつか考えています」


『さすが青柳くん』


 陽菜が先頭へ出ようとする。


 だが、名古屋の道を知らないことに気づき、すぐ青柳の横へ戻った。


『案内して』


「そのために来ました」


 青柳が歩き始める。


 凛は自然と、その隣へ並んだ。


 陽菜たちは、少し後ろからついていく。


 会えなかった時間は消えない。


 離れている距離も、これから先なくなるわけではない。


 それでも凛は今日、自分の足で青柳のいる街まで来た。


 待つだけではなく、会いに来ることができた。


 名古屋での一日が、2人の並んだ足元から始まった。

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