152話「次は名古屋」
週明けの島川不動産は、何事もなかったように動いていた。
電話が鳴る。
コピー機が紙を吐き出す。
営業から戻った社員が、書類を抱えて自分の席へ急ぐ。
黒木の記事は世に出なかった。
樹里と陽菜の過去が、社内へ広まることもなかった。
ほとんどの社員は、自分たちの知らないところで何が起きていたのかさえ知らない。
いつもと変わらない朝だった。
樹里にとって、その変わらなさがありがたかった。
「日高さん」
黒澤に呼ばれ、樹里は顔を上げる。
『はい』
「先方から、最終報告が来た」
黒澤が持っていた封筒を、樹里の机へ置く。
「黒木が持っていた取材記録と写真は、すべて削除された。複製を残していないという確認書も提出させたそうだ」
『わかりました』
「処分については先方の社内事項だから、こちらには詳細まで伝えられない。ただ、今回の企画から外され、外部との連絡も禁止されている」
『ありがとうございます』
「湯浅さんについても、社内で処分を進めている」
樹里の表情が、わずかに曇る。
「何だ」
『いえ』
「言いたいことがあるなら言え」
『湯浅さんは、自分から話してくれました』
「それを含めて判断する」
『はい』
「自分から話せば、何もなかったことになるわけじゃない。だが、最後まで隠した人間と同じにもならない」
黒澤は樹里を見下ろす。
「日高さんが背負うことじゃない」
『……承知しました』
「それから」
黒澤が少しだけ声を落とす。
「3人で無事に帰ったんだな」
樹里は、一瞬だけ意味を考えた。
榊との面会前に言われた言葉を思い出す。
『はい。3人で帰りました』
「ならいい」
黒澤は、それ以上何も聞かなかった。
過去についても。
榊が誰なのかも。
なぜ3人で会わなければならなかったのかも。
樹里が話さない部分へ、無理に踏み込もうとはしない。
ただ、今の樹里が無事に仕事へ戻ってきたことだけを確認し、自分の席へ戻っていった。
『日高先輩』
隣から、陽菜が小声で呼ぶ。
『何ですか』
『終わったね』
『ああ』
『あたし、昨日は全然終わった気がしなかったけど』
陽菜は自分のデスクを見渡す。
書類。
筆記用具。
飲みかけのコーヒー。
向かいの席では中井が電話を取り、その隣では凛がパソコンへ数字を入力している。
『こうやって普通に会社に来たら、ちょっと終わった気がする』
『そうですね』
『日高先輩が素直』
『仕事をしてください』
『やっぱり終わってないかも』
『何がですか』
『日高先輩の愛想のなさ』
『終わらせますよ』
『何を? あたしを?』
「櫻井さん。朝から日高さんに絡むな」
黒澤の声が飛んでくる。
『黒澤部長、日高先輩があたしを終わらせるって言いました』
「自業自得だ」
『部下を守ってくれない!』
「仕事をしてる部下なら守る」
周囲から小さな笑いが起きた。
陽菜は不満そうに頬を膨らませながら、ようやくパソコンへ向き直る。
樹里も書類を開いた。
いつもの一日が、もう一度動き始める。
◇
昼休み。
凛は自分の席で、スマートフォンを見つめていた。
青柳から届いたLINE。
「今日から、新しい案件を一つ任されました」
続けて、名古屋支店のデスクを撮った写真が送られている。
机の端には、送別会で贈った紺色のボールペンが置かれていた。
凛は写真を拡大する。
東京を離れても、青柳はあのペンを使っている。
「忙しそうですが、無理しないでください」
返信を送る。
少し考えて、もう一文を加えた。
「会いたいです」
送信した直後、凛の頬が熱くなった。
消そうと思えば、まだ間に合うかもしれない。
指を動かしかけたところで、既読がついた。
「僕も会いたいです」
あまりにも早い返事だった。
凛の口元が、自然と緩む。
『凛ちゃん』
真横から声がした。
凛は驚いてスマートフォンを胸へ抱える。
「陽菜さん」
『顔が彼氏になってる』
「顔が彼氏とは、どういう状態ですか」
『青柳くんとLINEしてる顔』
「どうしてわかったんですか」
『だって、すごく幸せそうだから』
陽菜は悪びれず、凛の隣へ椅子を寄せた。
少し離れたところでは、中井と柚希が昼食を広げている。
樹里は自席で資料を読みながら、陽菜の声だけを聞いていた。
『何て来たの?』
「内緒です」
『凛ちゃんが、あたしに隠し事するようになった』
「陽菜さんが、すぐ皆さんへ言うからです」
『言わないよ』
「青柳さんと付き合ったことを、翌朝には社内へ広めました」
『あれは報告』
「私に許可を取っていません」
『でも、みんな祝ってくれたでしょ?』
「結果の話ではありません」
凛の返しが、少しずつ強くなっている。
柚希が笑いを堪え、中井は自分へ話が飛んでこないよう黙って食事を続けていた。
『ところでさ』
「話を変えましたね」
『青柳くんに会いたくない?』
凛の言葉が止まる。
腕の中に抱えたスマートフォンには、今しがた届いた言葉が残っている。
「……会いたいです」
『じゃあ、行こうよ』
「どこへですか」
『名古屋』
陽菜は、近所の店へ昼食を食べに行くような気軽さで言った。
凛が瞬きを繰り返す。
「名古屋へ?」
『うん。次の土日とか』
「そんな急に」
『新幹線に乗れば着くよ』
「距離の問題ではありません」
『じゃあ何の問題?』
「青柳さんにも予定がありますし、迷惑かもしれません」
『聞けばいいじゃん』
「それに、私1人で名古屋まで——」
『1人じゃないよ』
陽菜が周囲を見渡す。
嫌な予感を覚えたのか、中井が箸を止めた。
『中井くんも行くでしょ?』
「もう決定なんですか」
『あたしが行くのに来ないの?』
「行きます」
答えは早かった。
柚希が思わず笑う。
「中井くん、即答でしたね」
「陽菜さんだけで遠出させる方が心配なので」
『どういう意味?』
「そのままの意味です」
『じゃあ、柚希ちゃんも行こう』
「私もですか?」
『旅行、嫌い?』
「嫌いではないですけど」
『じゃあ決まり』
「まだ行くとは言っていません」
『零も誘おうよ』
柚希の頬が、わずかに赤くなる。
「どうしてそこで零ちゃんが出てくるんですか」
『柚希ちゃんと旅行するなら、零もいた方が楽しいでしょ』
「それは……そうですけど」
陽菜は満足そうにうなずき、今度は樹里を見る。
『日高先輩も』
『行きません』
『まだ日程も聞いてないじゃん』
『聞く前から断っています』
『凛ちゃんが、遠距離の彼氏に会いに行くんだよ?』
『2人で会えばいいでしょう』
「私も、そのつもりだったのですが」
凛が控えめに同意する。
『駄目だよ。凛ちゃん1人で行ったら、青柳くんの前で緊張して何も言えなくなる』
「そこまでではありません」
『ホテルの部屋に入った瞬間、直立したまま朝になるかもしれない』
「同じ部屋に泊まる前提で話さないでください」
『違うの?』
「違います」
『今は?』
「ずっと違います」
凛の顔が赤くなっていく。
陽菜は楽しそうだった。
黒木と榊のことで張りつめていた数日間、周囲をからかう余裕すら失っていた。
今はもう、いつもの陽菜へ戻っている。
樹里は資料から目を上げ、凛を見る。
困ってはいる。
だが、本気で嫌がっているわけではない。
『遠藤さん』
「はい」
『本当に、1人で行きたいなら私は行きません』
陽菜が振り返る。
『総——』
樹里の目が向く。
『……日高先輩』
陽菜は、危うく出しかけた呼び方を飲み込んだ。
周囲は誰も気づいていない。
樹里は何も言わず、凛の返事を待つ。
「1人で会う時間は、欲しいです」
『はい』
「ですが……皆さんと名古屋へ行けるなら、それも楽しそうだと思います」
『だって』
陽菜が勝ち誇ったように樹里を見る。
『まだ行くとは言っていません』
『凛ちゃんが楽しみにしてる』
「そこまでは」
『してるよね?』
「……少しだけ」
凛が答える。
樹里は小さく息を吐いた。
『日程と費用を確認してからです』
『やった』
『行くとは言っていません』
『神谷さんも誘おう』
樹里の顔が上がる。
『なぜ神谷さんが出てくるんですか』
『みんなで行くなら、多い方が楽しいじゃん』
『理由になっていません』
「何の話ですか」
ちょうど会議室から戻ってきた神谷が、足を止めた。
陽菜が椅子から身を乗り出す。
『神谷さん、次の土日空いてます?』
「今のところ予定はありません」
『名古屋行きましょう』
「名古屋ですか」
『青柳くんに会いに行く旅行。日高先輩も行きます』
『まだ決めていません』
「日高先輩が行かれるなら、僕も参加したいです」
神谷は迷わなかった。
樹里が眉を寄せる。
『青柳さんに会うためではないんですか』
「もちろん、青柳にも会いたいです」
『今、付け足しましたよね』
「気のせいです」
陽菜が声を上げて笑う。
黒澤が再び顔を上げた。
「楽しそうだな」
『黒澤部長も行きます?』
「行かない」
『即答』
「旅行の相談は、昼休みのうちに終わらせろ。それと、青柳本人の都合を先に聞け」
『はーい』
「返事が軽い」
陽菜はすぐに凛へ向き直る。
『凛ちゃん。青柳くんに聞いて』
「私がですか」
『彼女から聞かれた方が嬉しいでしょ』
凛は少し迷ってから、青柳とのLINEを開いた。
「来週の土日に、皆さんと名古屋へ行く話が出ています。青柳さんのご予定はいかがですか」
送信する。
既読は、すぐについた。
「皆さんというのは、どなたですか」
凛が顔を上げる。
「参加者を聞かれました」
『今のところ、凛ちゃん、あたし、中井くん、柚希ちゃん、日高先輩、神谷さん』
「僕は確定なんですね」
『中井くんは確定』
「そうだと思いました」
『零にも今から聞く』
陽菜が零へLINEを送る。
「今度の土日、名古屋行かない?」
数分後。
「急っすね」
「柚希ちゃんも行くよ」
「行くっす」
返信は、それだけだった。
陽菜が柚希へ画面を見せる。
『即答だね』
「陽菜さんが、私の名前を使ったからです」
『嫌だった?』
「……嫌ではありません」
柚希は、赤くなりながら答えた。
凛は参加者の名前を青柳へ送る。
しばらくして、返信が届いた。
「土曜日は休みです。皆さんに会えるなら嬉しいです。名古屋をご案内します」
さらにもう一文。
「凛さんと2人で話す時間も、少しだけもらえますか」
凛は画面を見つめ、静かに笑った。
「はい。私も、そのつもりです」
今度は消そうとしなかった。
◇
その夜。
陽菜はRoseへ来るなり、旅行の話を始めた。
『というわけで、今度みんなで名古屋に行くことになった』
『昼に話が出て、もう決まったの?』
美園は呆れながらも笑っている。
『善は急げって言うじゃん』
『誰が行くの』
『あたし、中井くん、凛ちゃん、柚希ちゃん、零、総長、神谷さん。向こうで青柳くんと合流』
『神谷さんも行くんだ』
『総長が行くから』
『違う』
樹里が即座に否定する。
『神谷さんは、青柳さんに会うためです』
『本人は?』
『そう言っていました』
『最初に?』
美園に尋ねられ、樹里が黙る。
陽菜は楽しそうに笑った。
『最初は総長が行くならって言ってた』
『陽菜』
『事実じゃん』
美園は樹里の前へ水を置く。
『よかったね、総長』
『何がだ』
『旅行』
『まだ行くと決めたわけではない』
『参加者に入ってたよ』
『勝手に入れられただけです』
『本当に嫌なら、総長はとっくに断ってるでしょ』
美園に言われ、樹里は反論できなかった。
『美園さんも行こうよ』
『私は無理。土曜は店があるから』
『休めばいいじゃん』
『先月も休んだばかり。それに、今度は私が留守番する』
『留守番?』
『みんなで楽しんできて。帰ってきたら、話を聞かせて』
陽菜は少しだけ残念そうな顔をした。
『本当に来ない?』
『うん』
『佐藤くんと2人でいたいから?』
『それもあるかもね』
美園は平然と答えた。
陽菜が目を丸くする。
『否定しないんだ』
『陽菜が中井くんと旅行先で何をするのかよりは、大人しくしてるよ』
『あたし、まだ何も言ってないじゃん』
『顔に書いてある』
『中井くんとホテルに泊まるんだよ? 何もしない方が失礼じゃない?』
『誰に対しての礼儀だ』
樹里が低い声で割って入る。
『中井くん』
『迷惑な礼儀だな』
『絶対喜ぶって』
『本人の前で言うなよ』
『言うよ?』
『言うのか』
『だって中井くんだよ?』
数日前まで、自分たちの過去が売られようとしていた。
誰かの悪意に、今の生活を壊されかけていた。
それでも夜が明ければ仕事があり、恋人からLINEが届き、次の旅行の予定が生まれる。
過去を守った先にあるのは、特別な何かではない。
こうして誰かをからかい、呆れられ、次の休日を楽しみにする日常だった。
『凛ちゃんと青柳くんの邪魔はしないでよ』
美園が念を押す。
『しないよ』
『本当に?』
『ちょっとしか』
『するんじゃない』
陽菜が笑う。
美園も笑い、樹里は呆れたように水へ口をつけた。
陽菜が作ったLINEグループには、次々にメッセージが増えていた。
新幹線の時間。
泊まるホテル。
名古屋で食べたいもの。
青柳が考え始めた観光先。
その中で凛は、青柳と2人だけのLINEを開く。
「皆さんと行くのも楽しみです。でも、青柳さんに会えることが一番楽しみです」
返信は、すぐに届いた。
「僕も、凛さんに会えることが一番楽しみです」
離れている時間を嘆くのではなく、会える日を待つ。
凛の予定表に、新しい約束が入った。
次の行き先は、名古屋だった。




