151話「知らないところで」
翌朝。
黒木は、編集長と法務部の社員が見守る前で、私物のスマートフォンを開いた。
島川不動産の取材に関係するデータを、一つずつ確認していく。
樹里と陽菜を撮影した写真。
取材時の録音。
記事の草稿。
湯浅とのLINE。
榊から送られてきた、Rose girlsの写真。
会社のパソコンに保存していたものは、すでに回収されている。
私物の端末とオンラインストレージに残っている複製も、この場ですべて提出し、削除するよう求められていた。
「榊という人物が、写真の提供者か」
編集長に問われ、黒木は小さくうなずいた。
「はい」
「金を払って買ったんだな」
「……はい」
「いくら払った」
黒木は金額を答えた。
写真そのものの代金。
追加の写真を得るために支払った残金。
3人との面会へ榊を向かわせるため、さらに渡した金。
すべてを合わせると、個人の取材費として見過ごせる額ではなかった。
「会社へ申請せず、これだけの金を使ったのか」
「記事が成立すれば、それ以上の価値があると判断しました」
「その判断が間違っていたから、今ここにいる」
黒木は言い返さなかった。
スマートフォンの画面には、昨夜、榊から届いたLINEが残っている。
「話は終わりだ。写真はもう使うな。渡した画像も全部消せ」
それまで、いくら催促しても金の話しか返さなかった榊。
写真には価値があると言い続けていた榊。
その人間が、突然すべてから手を引いた。
黒木は理由を尋ねた。
何があった。
誰かに何かを言われたのか。
支払った金はどうなる。
何度送っても、返事はなかった。
やがて既読すらつかなくなった。
「提供者自身も、使用を認めないと言っているな」
法務部の社員が画面を確認する。
「この記事を続ける根拠は、もうありません。画像を削除してください」
黒木の指が、写真の上で止まる。
特攻服をまとった樹里。
隣に立つ陽菜。
少し離れたところから2人を見ている美園。
記事にできると思った。
人の目を引く。
読まれる。
自分の名前が残る。
だから、金を払った。
だから、取材先との約束を越えた。
画面に並ぶ3人を、人間ではなく材料として見た。
「黒木」
編集長が呼ぶ。
「削除しろ」
黒木は、写真を消した。
削除済みのフォルダも空にする。
オンラインストレージに残していた複製も、一つずつ消していく。
最後に残った記事の草稿を開く。
過去を捨て、社会人として生き直した元暴走族。
黒木が勝手につけた物語だった。
樹里たちは過去を捨てていない。
なかったことにもしていない。
ただ、誰に、いつ、どのように話すのかを、自分たちで選ぼうとしていた。
黒木は、その選択を金で奪おうとした。
記事の草稿を削除する。
画面から、3人の名前が消えた。
「担当している仕事は、今日中にすべて引き継げ。処分が決まるまでは自宅待機だ」
「……わかりました」
「この件に関係する人間へ、今後一切連絡するな」
「はい」
黒木はスマートフォンを伏せた。
湯浅へ払った金も、榊へ払った金も戻らない。
記事も残らない。
編集者として積み上げた信用まで失おうとしている。
金で繋いだ相手は、誰一人として黒木を守らなかった。
黒木もまた、誰かを守ろうとはしなかった。
それだけの関係だった。
◇
同じ日の夕方。
開店前のRoseに、電話がかかってきた。
『はい、Roseです』
「中村?」
美園は、その声に聞き覚えがあった。
『榊くん』
「昨日の話だけど」
『うん』
「もういい」
短い言葉だった。
『何が?』
「写真は売らない。黒木にも使うなって言った」
美園の手が止まる。
『どうして』
「面倒になった」
『手元にある写真は?』
「消した」
『全部?』
「全部だよ」
『複製も?』
「ない」
昨日の榊なら、絶対に言わなかった言葉だった。
写真には価値がある。
別の買い手を探す。
金を払えば考える。
そう言っていた人間が、一晩で態度を変えている。
『信じろってこと?』
「好きにすればいい」
『次の買い手を見つけたんじゃなかったの』
「断った」
『どうして』
「何度も言わせるな。面倒になったんだよ」
声には苛立ちがある。
だが、昨日のような余裕はなかった。
『榊くん』
「何だよ」
『誰かに、何か言われた?』
電話の向こうが静かになる。
ほんのわずかな沈黙。
それだけで、美園の疑念は強くなった。
「関係ないだろ」
『あるよ。私たちの写真だから』
「もう売らない。消した。それでいいだろ」
『理由を教えて』
「言う必要はない」
『誰だったの』
「しつこいな」
『榊くん』
「もう、俺に連絡するな。黒木にも同じことを言ってある」
『待って』
通話が切れた。
美園は、スマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。
榊は自分から考えを変えるような人間ではない。
少なくとも昨日は、金を手に入れることしか見ていなかった。
誰かに止められた。
その可能性しか考えられない。
だが、誰が。
美園の脳裏へ、前日に凛から聞いた名前が浮かんだ。
鈴原まどか。
美園は連絡先を開いた。
長い間、使っていない番号。
今も繋がる保証はない。
少し迷ってから、発信する。
数回の呼び出し音のあと、相手が出た。
「何だよ」
聞き間違えるはずのない声だった。
『久しぶり』
「昨日、顔見に行ってやったのに、買い出しなんか行ってんじゃねえよ」
『悪かったね。来るなら連絡して』
「気が向いたから行っただけだ」
『凛ちゃんから聞いた。黒木と会ったんだって?』
「いたな、変な男が」
『昔のことを聞かれた?』
「知らねえって言った」
『本当に?』
「何であたしが、あいつに昔話してやらなきゃいけねえんだよ」
いつものまどかだった。
他人へ興味があるのかないのか、言葉だけではわからない。
『榊くんって、知ってる?』
「誰だ、それ」
答えは早かった。
『昔、私たちの周りで写真を撮ってた人』
「そんな男、いちいち覚えてねえよ」
『その人が、私たちの写真を黒木に売った』
「へえ」
『昨日まで、ほかにも売るつもりだった』
「そうかよ」
『でも、今日になって突然やめた』
「よかったじゃねえか」
声は何も変わらない。
驚いてもいない。
喜んでもいない。
美園は目を閉じる。
『まどか』
「何だ」
『あなたが、何かした?』
電話の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
「あたしが?」
『うん』
「お前らのために?」
『そう』
「冗談言うな」
まどかは、笑ったまま答えた。
「あたしがお前らを助けて、何の得があるんだよ」
『得がなければ、何もしない?』
「しねえな」
『そう』
「用はそれだけか」
『うん。ごめん』
「次に行ったときは、ちゃんと店にいろよ」
『来る前に連絡して』
「考えとく」
通話が切れた。
美園は、しばらく画面を見つめていた。
まどかの言葉に、不自然なところはない。
あの女なら、本当に榊の名前を覚えていなくてもおかしくない。
黒木へ何も話さなかったのも、美園たちを守るためではなく、単に黒木が気に入らなかっただけかもしれない。
それでも、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
◇
その夜。
Roseには、樹里と陽菜が来ていた。
『榊くんから、連絡があった』
美園が伝える。
『写真はもう売らない。手元のものも全部消したって』
陽菜が目を見開く。
『なんで?』
『面倒になったって』
『そんなわけないじゃん』
『私もそう思う』
樹里はすぐには口を開かなかった。
『黒木さんからも同じ連絡が入っています』
『会社に?』
『出版社から黒澤部長へ報告がありました。榊さん本人が使用を拒否したため、写真も記事もすべて削除したそうです』
『本当に、終わったの?』
『少なくとも、黒木さんの記事は終わりました』
『榊は?』
『信用するしかない』
『昨日まで、あんなだったのに』
陽菜は納得できないまま、美園を見る。
『誰かに止められたんじゃないの』
『私もそう思って、1人だけ確認した』
『誰に?』
『まどか』
陽菜の表情が変わる。
『絶対まどかじゃん』
『決めつけるな』
樹里が制する。
『だって、黒木さんと会った直後でしょ。その次の日に榊がやめたんだよ?』
『まどかは榊さんのことを知らないと言ったんだろう』
『言うわけないじゃん。あのまどかだよ?』
『陽菜』
『総長だって、少しは思ってるでしょ』
樹里は答えなかった。
思わないわけではない。
まどかは昔から、他人に考えを読ませない女だった。
Roseへ突然現れたこと。
黒木の名刺を見たこと。
榊が、その翌日に態度を変えたこと。
点を繋げれば、まどかの姿が浮かぶ。
だが、それを証明するものは何もない。
『まどかは否定した』
美園が言う。
『私たちを助ける理由がないって』
『それも、まどからしい』
『うん。だから、わからない』
『もう一度聞けば?』
『同じ答えしか返ってこないよ』
『じゃあ、誰かもわからないまま?』
『そうなるね』
陽菜は腕を組み、納得できない顔で水を飲んだ。
『お礼も言えないじゃん』
『誰に言うんだ』
『だから困ってるの』
樹里の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
『笑った?』
『笑っていない』
『今、絶対笑った』
『気のせいです』
『会社の話し方で誤魔化さないでよ』
美園が、2人を見ながら小さく笑う。
張りつめていた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
『あたしたちがやったこと、意味あったのかな』
陽菜が、ぽつりと尋ねた。
『結局、榊を止めたのは別の誰かなんでしょ』
『無駄ではありません』
樹里が答える。
『黒木さんを止めたのは、私たちです』
『でも』
『会社へ話した。湯浅さんにも、自分から事実を話してもらった。美園は出版社へ連絡した。私たちは誰も殴らず、脅さず、記事を止めました』
『榊には届かなかった』
『ああ』
樹里は、そこを否定しなかった。
『私たちだけでは、止められなかった』
陽菜が目を伏せる。
『ですが、それで私たちのしたことがなくなるわけではありません』
美園がうなずく。
『できなかったことと、できたことは別だよ』
『……そっか』
『それに、誰が止めたのかわからないなら、勝手に借りを作る必要もない』
美園が少し意地の悪い笑みを浮かべる。
『助けたって名乗らない人に、お礼はできないからね』
『もし、まどかだったら?』
『次に店へ来たとき、少しだけいい酒を出す』
『お礼じゃん』
『たまたま』
『絶対お礼じゃん』
『本人が違うって言ってるんだから、違うんでしょ』
美園はそう言って、3人のグラスへ水を足した。
結局、誰が榊を止めたのかはわからなかった。
まどかなのか。
榊が別の誰かに止められたのか。
本当に自分から考えを変えたのか。
確かめる方法はない。
ただ、写真は売られなかった。
黒木の記事も世に出なかった。
樹里たちの過去は、誰かの金儲けのために勝手な物語へ変えられることなく、もう一度3人の手元へ戻ってきた。
過去を消すことはできない。
消す必要もない。
誰に話すのか。
いつ話すのか。
どんな言葉で渡すのか。
それを選ぶ権利だけは、守ることができた。
『帰ろうか』
美園が言う。
樹里と陽菜が立ち上がる。
店の灯りを消し、3人で外へ出る。
夜の通りには、もう誰もいなかった。
自分たちの知らないところで、誰かが立っていたことも。
その誰かが、過去の続きを守ったことも。
3人は最後まで知らないまま、並んで今の道を歩いていった。




