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150話「先客」

約束の時刻より、20分早かった。


 榊は人気の少ない高架下へ入り、周囲を見渡した。


 頭上を走る電車の音。


 一定の間隔で並ぶ街灯。


 壁際には数台の自転車が停められているが、人の姿は見当たらない。


 待ち合わせ場所に、この高架下を指定したのは相手だった。


 顔を見られたくないのは、向こうも同じらしい。


 榊はポケットからスマートフォンを取り出す。


「着いた」


 短いメッセージを送った。


 既読はつかない。


 まだ20分前だ。


 相手が来ていなくても、おかしくはなかった。


 榊は壁へ背を預け、鞄の中身を確かめる。


 古い写真を保存した記録媒体。


 黒木へ渡していない写真も入っている。


 樹里、美園、陽菜。


 特攻服をまとった3人が、バイクの前に並んでいる写真。


 チームの集会。


 ほかのグループとの睨み合い。


 喧嘩が終わったあとの傷だらけの姿。


 黒木が買ったものより刺激の強い写真を見せれば、値段は上がる。


 榊は記録媒体を鞄へ戻した。


「ずいぶん楽しそうじゃねえか」


 突然、声がした。


 榊の肩が跳ねる。


 高架を支える太い柱。


 その陰から、1人の女が歩み出てきた。


 街灯の光が、長い金髪を照らす。


 黒い服。


 両手はポケットへ入れたまま。


 女は笑っていなかった。


 榊の顔から、余裕が消える。


「……鈴原」


「久しぶりだな、榊」


 鈴原まどかが、榊の正面に立った。


 呼び出した覚えはない。


 連絡先も知らない。


 それ以前に、今日ここへ来ることを知っているはずがなかった。


「何で、お前がここにいる」


「そんなこと、どうでもいいだろ」


「よくない。誰から聞いた」


「お前、自分で思ってるほど賢くねえぞ」


 まどかは、それ以上答えなかった。


 榊が周囲を見渡す。


 ほかに人はいない。


「俺に何の用だよ」


「わかってんだろ」


「わからないから聞いてる」


「その鞄に入ってるもんを売りに来たんじゃねえのか」


 榊の手が、反射的に鞄へ触れた。


 その仕草だけで、まどかの言葉が正しいことを認めていた。


「お前には関係ない」


「そうだな」


 まどかはあっさり認めた。


「俺が撮った写真だ。誰に売ろうが、俺の自由だろ」


「好きにすりゃいい」


「だったら、何しに来た」


「売ったあとも好きにできると思ってんなら、やってみろって言いに来た」


 榊の口が閉じる。


 まどかは怒鳴っていない。


 声も低く、態度も落ち着いている。


 それなのに、榊の身体は過去を思い出していた。


 Rose girlsと敵対していたアネモネ。


 その中心に立ち、樹里と真正面からぶつかっていた女。


 榊は、まどかが本気で怒ったところを何度か見ている。


 自分へ向けられたことはなかった。


 だからこそ今、その視線を受けるだけで喉が渇いた。


「日高たちに頼まれたのか」


「は?」


「昨日、あいつらに会った。写真を消してくれって言われたよ。俺を止められなかったから、お前に泣きついたんだろ」


 まどかの眉が寄る。


 次の瞬間、小さく吹き出した。


「何がおかしい」


「お前、本当に何もわかってねえな」


「何だよ」


「あいつらが、あたしに助けを求めるわけねえだろ」


「じゃあ、何で——」


「偶然、変な男を見ただけだ」


 Roseで会った黒木。


 美園の過去を探り、樹里と陽菜の写真を見せようとした編集者。


 まどかが知っているのは、それだけだった。


 それだけで十分だった。


「黒木か」


「名前は、そんな感じだったな」


「あいつ、俺を売ったのか」


「知らねえよ」


「じゃあ、どうして俺だと」


「さっきも言っただろ。そんなこと、どうでもいい」


 まどかは一歩、榊へ近づいた。


 榊が壁から背を離す。


「写真を売るのをやめろ。黒木にも、今から来るやつにもだ」


「嫌だと言ったら?」


「言ってみろよ」


 まどかは、さらに一歩近づく。


 2人の距離が狭まる。


「俺には俺の生活がある。金が必要なんだ」


「働け」


「簡単に言うな」


「昔の女の写真を売らねえと生きられないほど、何してきたんだよ」


「お前に説教される筋合いはない」


「説教なんかしてねえよ。お前がどれだけ情けない生き方してようが、あたしには関係ねえ」


「だったら放っておけ」


「そのつもりだった」


 まどかの目から、わずかに笑みが消える。


「あの3人の周りを、お前が嗅ぎ回るまではな」


「日高たちは、お前の敵だったんじゃないのか」


「そうだよ」


「なら、困るのを見てればいいだろ」


「それじゃ、つまらねえんだよ」


 榊には、意味がわからなかった。


 まどかは理解させようともしていない。


「あいつらが特攻服を脱いで、今さら普通の顔して生きてる。あれだけ好き勝手やってた3人が、この先どんな人間になるのか」


 まどかの口元に、わずかな笑みが戻る。


「見てると、結構面白い」


「……何だ、それ」


「そのままの意味だよ」


「味方になったつもりか」


「あたしが?」


 まどかは心底おかしそうに笑った。


「冗談言うな。あいつらを応援した覚えも、仲良くするつもりもねえよ」


「じゃあ——」


「ただな」


 まどかの声が、低く落ちる。


「あたしが面白いと思って見てるもんに、勝手な結末をつけるな」


 榊の笑みが消えた。


「お前が写真を売って、日高が会社を追われる。櫻井の周りまで巻き込まれる。美園の店が潰れる」


 まどかの目が、榊を捉えたまま動かない。


「そんなくだらねえ終わり方、面白くも何ともねえ」


「俺がどうしようと、俺の自由だ」


「まだ言うか」


「写真を撮ったのは俺だ。日高たちだって、撮られてることは知ってた」


「だから何だ」


「今になって困るなら、最初から撮らせなきゃよかっただろ」


 まどかの顔から、完全に笑みが消えた。


 榊の襟元へ手を伸ばすことはない。


 殴りもしない。


 ただ、逃げ道を塞ぐように正面へ立つ。


「こっちの世界に、面白半分で首を突っ込むな」


 榊の喉が鳴った。


「それ以上やるなら、あたしを怒らせる覚悟はできてるんだろうな」


 高架の上を電車が通り過ぎる。


 轟音が2人の間を満たし、やがて遠ざかっていく。


 榊は何も言えなかった。


 まどかは、榊が何を失いたくないのか知らない。


 仕事も、店も、肩書もない。


 黒木に通じた方法は、榊には通じない。


 だが、まどかは榊と交渉するために来たのではなかった。


 守るものが見つからないなら、榊自身へ届けばいい。


 写真を出したあと、平穏に暮らせると思わせなければいい。


「脅してるのか」


「今さら気づいたのかよ」


「警察に行くぞ」


「行けばいい」


 まどかは退かなかった。


「写真を金で売ろうとした経緯も、黒木とのやり取りも、今から会う相手のことも、全部説明してこい」


「俺は犯罪なんて——」


「なら、堂々と行ってこいよ」


 榊は歯を食いしばる。


 警察へ行ったところで、まどかが今ここに立っているだけでは何も起こらない。


 暴力を振るわれてもいない。


 金を要求されたわけでもない。


 それでも、このまま写真を売れば何が起きるのか。


 まどかは、何一つ具体的に言わなかった。


 言わないからこそ、榊の頭にはいくつもの可能性が浮かんだ。


「今から来るやつに、断れ」


「もう約束した」


「だから?」


「見本も送ってる」


「消させろ」


「向こうが持ってるものまで、俺には——」


「お前が売ったんだろ。最後まで自分で片づけろ」


 榊のスマートフォンが震えた。


 待ち合わせの相手からだった。


「近くまで来ました」


 短いメッセージ。


 まどかが顎をしゃくる。


「断れ」


「断ったら、別のところへ見本を流されるかもしれない」


「それも止めろ」


「簡単に言うなよ」


「日高たちには、簡単に忘れろって言ったんだろ」


 榊は答えられなかった。


「自分がやる番になったら、急に難しくなるのか」


「……くそ」


 榊は文字を打つ。


「取引は中止します。送った画像も削除してください」


 すぐに返信が来る。


「突然、どうしました?」


「ほかへ売る予定もありません。画像は使用しないでください」


「こちらはもう近くまで来ています」


「すみません。帰ってください」


 しばらく返事はなかった。


 やがて、相手から不満を示す言葉とともに、画像を削除するという返信が届いた。


 確実に消した保証はない。


 それでも、榊はこれ以上取引を進められなかった。


「黒木にも送れ」


 まどかが言う。


「何て」


「もう写真は売らない。使うな。持ってるものも消せ。それくらい自分で考えろ」


 榊は黒木とのLINEを開く。


「話は終わりだ。写真はもう使うな。渡した画像も全部消せ」


 送信する。


 既読は、すぐにはつかなかった。


「これで満足か」


「鞄」


「何だよ」


「中に入ってるもんを出せ」


 榊は動かなかった。


 まどかが片手を差し出す。


「早くしろ」


 榊は鞄から記録媒体を取り出した。


 まどかはそれを受け取り、指先で眺める。


「これだけか」


「家のパソコンにもある」


「全部消せ」


「ここではできない」


「帰ったらやれ」


「消したかどうか、わからないだろ」


 榊は挑発するように言った。


 まどかは怒らなかった。


「残しておきたいなら、好きにしろ」


「は?」


「ただし、一枚でも外に出たら、お前が出したってことになる」


「ほかにも持ってるやつはいる」


「今回、金に換えようとしたのはお前だ」


 まどかは、榊から受け取った記録媒体を地面へ落とした。


 厚い靴底で踏みつける。


 小さな音を立て、記録媒体が割れた。


「次は、こんなもんじゃ済まねえぞ」


 榊の顔が強張る。


「壊したな」


「弁償してほしいか?」


 榊は答えなかった。


 まどかは足元の破片を拾い、榊の手へ握らせる。


「持って帰れ。家のも消せ」


「日高たちには、何て言えばいい」


「知らねえよ」


「お前に止められたって言ってやる」


 まどかの目が、再び冷える。


「余計なこと言ったら、今度は口ごと黙らせるぞ」


「結局、あいつらを助けてるじゃないか」


「違う」


 まどかは即座に否定した。


「お前が気に入らなかっただけだ」


「同じだろ」


「全然違う」


 まどかは榊へ背を向ける。


「日高たちにも、黒木にも、誰にもあたしの名前を出すな。自分で怖くなってやめた。それで終わりだ」


「……わかったよ」


「聞こえねえ」


「わかった」


 榊は破片をポケットへ押し込み、鞄を持ち上げた。


 高架下を出ていく。


 歩調は次第に速くなり、やがて暗がりの向こうへ消えた。


 まどかは追わなかった。


 榊が本当にすべての写真を消すかはわからない。


 それでも、二度と売ろうとはしない。


 その確信だけはあった。


 高架の上を、もう一度電車が通り過ぎる。


 まどかは柱へ背を預け、誰もいなくなった道を眺めた。


 樹里、美園、陽菜。


 正しい場所へ相談して。


 言葉で頼んで。


 殴りもせずに、榊を帰した。


 変わったと言えば、確かに変わった。


 だが、変わった先で昔の人間に足元を掬われているようでは、まだ甘い。


「過去を消したいなら、もう少し上手く立ち回れよ」


 誰に聞かせるでもなく、まどかが呟く。


「得意なのは喧嘩だけか」

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